「戸口」(13)
雨に叩かれるホテルの屋上……
その一点が爆発するのは唐突だった。
はでにコンクリートの破片をまきちらし、亀裂から飛びだしたのは二つの光だ。
ひとりは勢いそのままに水たまりを転がり、屋上の縁にぶつかって止まった。
うつぶせに倒れて、彼女は身動きひとつしない。ぼろぼろの制服を、雨と風は容赦なく打ちすえている。
そして、もう片方は……屋上の反対側に浮かんでいた。
無数の触手がたえまなく内側から涌きだすその姿は、まともな人間が見ればきっと正気を失う。狂う。壊れる。
その存在は文字通り〝名状しがたきもの〟……ハスター。
大自然の摂理を、人の世をあざ笑うかのごとく蠢きながら、ハスターは声を発した。
「よくも染夜優葉から追い出してくれた……もはや許さん。あと数分。ほんの数分たらずで、おまえも我が楽園の花の一輪と化していたものを」
ハスターの怨嗟の先、かすかに動いたのは、倒れた彼女の指先だった。
地面をおさえつけたその手を支えに、ゆっくり身を起こす。
横なぐりの風雨にもてあそばれながら、彼女はうつろな瞳でハスターを見上げた。
染夜名琴。
「さて。こんどの〝これ〟は現実か?」
だれにともなく、ナコトはそうたずねた。だらんと肩を落としたまま、続ける。
「きのう、わたしはあの山の遺跡にいたし、ついさっきまでは、天国で両親たちと話していたはずだ。なのに気づけば、こんな暗くて寒い場所に戻されている。頭が痛い。混乱する……いや」
目をつむって、ナコトは小さく首をふった。
「そんなこと、もうどうでもいい。どうせまた、起きても悪夢に決まっている」
下におろした左右の掌を、ナコトはそっと開いた。
開いた両手に渦巻いたのは、たくさんの色が重なりすぎて、むしろ色を失った混沌だ。まばたきひとつで、それは危険な武器へと変化する……二挺の拳銃に。
ナコトはつぶやいた。
「目覚められないなら、見届けるだけ。もう逃げない。もう迷わない。だから……」
雨粒は、いきおいよく弾け散った。
ナコトがかまえたのだ。右手の拳銃は強くうしろへ引きつけ、左手の拳銃はまっすぐ正面へ突き出す。
とめどなく雨のしたたるメガネの向こう、目つきも鋭く、ナコトはハスターへ告げた。
「夢でもいい。おまえの血で化粧をさせてくれ」
すするような笑いをこぼしたのは、ハスターだった。
「じつにわたしは報われている。そこまでの痛みを、呪いを、鬼気を、おまえという人間の中に絶えず燃やせるのだから……わかっているぞ。さきほどまで溶解していた体を、人の形にたもつだけで精一杯なのだろう?」
大きく触手を広げ、ハスターは怒号した。
「いまいちどわたしの養分となれ! 染夜名琴!」
銃火がひらめいた。
忽然とかき消えたかと思いきや、ハスターの眼前に現れたナコトだが、すかさず走った触手につかまれ、銃口は夜空の方向へそらされている。こんどは逆の銃口を照準。そちらは、真上から振り降ろされた触手に弾かれ、地面へ銃弾を吐く。
輝いたハスターの触手が、闇を裂いた。至近距離で放たれた〝黄衣の剣壁〟の刃は、しかし、ナコトの頬を浅くかすめたに過ぎない。跳ね上がったナコトの銃把が、紙一重でハスターの触手を払ったのだ。
撃つ撃つ撃つ。避ける避ける避ける。豪雨のもと、肉薄したふたりの間に、火線と触手の軌跡だけが高速で乱れ舞う。
銃声とともに、ハスターの触手はちぎれた。吐き気をもよおす汁をひいて、地面に落ちる。上下左右から襲う触手を、複雑な軌道を描いて撃ち飛ばしたナコトの銃口は、次の瞬間、ハスターの中心部をとらえた。
とびちる鮮血……
肩から血を吹き、くの字に折れたのはナコトのほうだ。見れば、さきほど切り飛ばした触手の先端が、地面で〝黄衣の剣壁〟の光を発しているではないか。
踏みとどまったナコトだが、ハスターの姿はない。
そのときには、巨大な蛇玉そのものの影が、ナコトの足もとに生じている。
そこから爆発的に噴きあがったのは、おびただしい漆黒の蝶……〝冥河の戸口〟だ。
ナコトの頭上に浮かびながら、ハスターは哄笑した。
「いちど吐瀉したものでも、おまえなら構わん! むしろ愛おしい! 飲み干せる!」
不吉な蝶の群れにまんべんなく覆われ、ナコトはもはや黒い彫像と化していた。
そのまま、なすすべもなくハスターの影に飲みこまれ……いや。
ハスターの笑いは、しりすぼみにやんだ。
なんだこれは。
蝶が一匹、燃えながらハスターの前を通り過ぎたのだ。その羽根よりなお暗い、闇色の炎に包まれて。
おなじ現象は、導火線のごとく他の蝶へも連鎖した。十匹、百匹、千匹……
炎の雨となって吹き飛んだ蝶たちの奥、たたずむのは凶々しい人影だ。
全身に凄まじい呪力の黒炎をまとい、ナコトの瞳は狂気じみた赤色に輝いている。
ハスターは戦慄した。
「きさま、とうとう人を捨てたな!? おお、卑小なナイアルラソテフごときに食いつぶされてゆく。ひとかけらだけ残された染夜名琴の人間性が、心が、体が……やめろ。やめんか! 二度と後戻りできんぞ!?」
「いや、わたしは戻る。戻るべき場所がある。失った過去へ。止まったままの未来へ」
炎で雨を蒸発させながら、ナコトは両手の拳銃を手放した。
空中でふたたび形をなくしたナイアルラソテフの混沌は、長く、長く長く、みるまに夜空へ伸びている。
それだけではない。
なんということか、ナコトの背中に鋭い輝きが広がった。
それは金属質の巨大な〝翼〟。そして、計六枚のそれらと直結し、ナコトの肩にかつがれたこれも巨大な砲身は……
衛星砲。
人知れずナコトが、夜な夜な森の奥で訓練を重ねていた武器がこれだ。
寝ても覚めても、ナコトは繰り返しこんなものをイメージしていた。求めていた。攻防一体の〝黄衣の剣壁〟を突破する速度ある武器を。自分が完全に人を捨てたられとき、いったいどこに〝すべて〟を注ぎ込むのかを。
限界までのけぞって直上を狙うナコトと、空中のハスターは長い砲身でつながった。
翼を思わせる六枚の反射板に駆け巡ったのは、どす黒い光だ。
燃料は、夜気と呪力と殺意と憎悪。
ああ。端から燃え尽きて消えてゆくナコトの体とひきかえに、銃口にはみるみる光が収束してゆく。
ナコトの体は、続けざまに血を吹いた。
ろくな狙いもつけず、ハスターが〝黄衣の剣壁〟の刃を乱射したのだ。
縦横に割れる雨、砕ける地面、切り刻まれる制服……
血まみれになりながら、ナコトは叫んだ。
「わたしの子守唄で眠れッッ!! ハスターああァァッッ!!」
発射……
「~~~~~~ッッッ!!!」
ハスターをまっぷたつに断ち、閃光は夜空へ抜けた。




