「戸口」(10)
どこまでも広がるお花畑。
かぎりなく澄んだ青空、ゆっくり流れる白い雲。
色とりどりの花の上で遊ぶのは、これも美しい無数の蝶だ。
そよ風に髪を揺らしながら、ナコトは花の中にたたずんでいた。
こんなきれいで切ない場所、世界中のどこを探してもあるわけない。わかっている。
でも……
ふと、ナコトは手をのばした。
指が触れかけた寸前、蝶は弾かれたようにどこかへ遠ざかってしまう。まるで、透明な壁がそこにあるかのように。
蝶たちのなまえはきっと〝幸福〟〝希望〟〝命〟……
それに触れてはいけないことを、ナコトは知っている。蝶たちが、ナコト自身の魂と体を欲しがり、消化し尽くそうとしていることも。
蝶とナコトの距離は、刻一刻と狭まっている。ナコトを守る大切な壁が、見覚えのあるだれかの残した〝現実〟が、薄くなっているのだ。
それが完全に取り払われたとき、ナコトは完全に楽園の住人と化すのだろう。
わたしはどうすれば……
ひときわ強い風が吹き、ナコトは美しい花びらの嵐につつまれた。
だれだろう。うつむいて立ち尽くすナコトを、遠く呼ぶ声がある。
「姉さん……ナコト! だめだ! そっちに行っちゃ!」
まさか、スグハ?
こっちに来てはいけない。
おまえまで連れていってしまっては、父さんと母さんはきっと悲しむ。
わたしを起こすな。
目覚めたとき、わたしはおまえを撃たなければならない……