「戸口」(7)
ナコトの両手に、魔法のごとく二挺の拳銃があらわれた。
その眼前で交叉した銃口は、即座に階段のスグハを狙っている。
一方のスグハは、歯を剥いて笑ったままだ。
こんな悪魔めいた笑顔の弟は、ナコトの記憶のどこを探してもいない。いない、いない、いない。そのはずだ。
小首をかしげて、スグハはスグハの声でささやいた。
「なんとも便利ではないか、その銃。実の弟をも照準に収めてみせるとは。おお、思い返せば、染夜名琴。親しい間柄の者を撃つのは、これが初めてではなかったな。くく、失敬失敬」
歯をくいしばり、ナコトは糸のように目を細めた。まるで拳銃の標的が、幻であることを見破ろうとするかのようだ。
押し殺した声で、ナコトはたずねた。
「明日には会えると約束したはずだ、スグハ。わたしが嘘をつくように見えるか? おまえは、こんなところにいてはならない。いていいはずがない。いるはずがない」
「もはや終わったのだよ、喜劇の時間は。これからおまえは劇場を出て、現実という名の腐海に産声をあげる。頭の片隅ではとうに察していよう。わたしが、なんであるか」
いやだ、信じたくない、悪い夢であってくれ……ナコトの頬には、冷たい汗がひとすじ線をひいている。
ついにスグハは、階段を降り始めた。一段一段、なぶるように、ゆっくりと。
「ハスター……」
かすかに震えだしたナコトの手もと、うなったのは拳銃に化けたテフだ。スグハに憑依した邪悪……〝名状しがたきもの〟ハスターに対して問う。
「その体にはひとかけらも、おまえの足跡なんざ残ってなかった。おまえが殺った、ナコトの弟をまねた偽物のはずなのに……なんでだ?」
「ナイアルラソテフ。染夜の家族をすべて処分したと、わたしは一言でも言ったか? わたしの麗しき内臓の世界〝冥河の戸口〟から数年ぶりに解き放ったこれは、まさしく真の染夜優葉。なんの細工もほどこしてはいない。つまり、ただの人間だ」
階段を降りきり、スグハ、いや、ハスターは静かにナコトの前に立った。
そのまま、ナコトの拳銃に手をそえたかと思いきや、ああ。
ハスターは、みずからの眉間にその銃口をあてがったではないか。さも楽しげに続ける。
「一点、補足だ。おまえの父と母に関しては、あの時点で、遅滞なく宇宙の果てに放り出した。絶対的なエーテルの満ちる真空に、生身で送り込まれた人間がどうなるかは想像に難くあるまい? くく、案ずるな。もがき苦しんだのは、ほんの十七秒ていどよ」
噛みしめすぎたナコトの唇からは、細く血が流れている。
わずかに揺れるその瞳を、ハスターはじっと覗きこんだ。
「憎かろう? 呪わしかろう? であれば早く撃ちたまえ。ひきがねを引いて、念願の復讐を果たせ。正義を遂行せよ。弟の血と脳漿を味見するのだ。さあ!」
かたかた震えるナコトの手の中で、テフはうめいた。
「ナコト、いったん退け……いまはどうにもならん」
青い顔で、ナコトは首を振った。
「いま逃げれば、スグハは殺される……確実に」
ハスターは笑った。
「目を覚ませッッ!! スグハぁぁぁッッ!!」
ナコトが絶叫した瞬間、すさまじい光景が展開された。
顔に、体に、手足に……猛烈ないきおいでナコトを覆い隠したのは、おびただしい数の蝶だ。
そう。蝶。この世ならざる真っ黒な羽の蝶、蝶、そして蝶。それらはすべて、ハスターの足もとに広がったどす黒い影から吐きだされている。
ばりばりと響いたのは、ナコトの全身が食いちぎられ、骨が噛み砕かれる音に違いない。
そのおぞましいなにかの名を、ハスターはうっとり告げた。
「〝冥河の戸口〟」
あれよあれよのうちに、ナコトの姿は消えた。
かぞえきれぬ呪力の蝶の群れに引っ張られ、穴へ落ちるようにハスターの影に飲みこまれたのだ。
だが、その直前、ナコトの手がなにかを放り投げるのを、ハスターは見た。
ガラスの割れる耳障りな音。最後の力で投じられたナイアルラソテフの拳銃は、廃ホテルの窓を突き破り、闇のどこかへ消えてしまっている。
「子機だけでも外へ逃がしたか……だが、そんな卑小な姿ではどうにもなるまい、ナイアルラソテフ。おまえの本体は、いまだ染夜名琴の中にある。たしかにいただいたぞ、赤務の地を守る結界」
悪夢そのものを凝縮した影……〝冥河の戸口〟から不規則にふきあがるナコトの血を眼下に、ハスターは大きく両手を広げた。
「まえに言ったな。希望と絶望を等しく与えると。後者の番だ。これからは、ずっと」
暗い雲のはざまで、雷鳴がこだましつつあった。




