「戸口」(2)
病院の廊下は、静かで暗かった。
窓から見える空は灰色の雲におおわれ、しめった風はたえまなく街路樹をゆらしている。
ひと雨くるかもしれない。
赤務市立・上糸総合病院……
廊下に人はいない。
いや、いた。
あまりに動きがなさすぎて置物かと思われたが、壁際のベンチにたったひとり座るのは、制服姿の女子高生だ。
うなだれた彼女の顔は、前髪に隠れてよく見えない。
メガネのむこうの瞳は固くつむられ、眠っているとも、なにか深く思い悩んでいるともとれる。
「ナコト」
彼女の名を、その声が呼ぶのは唐突だった。
くりかえすが、廊下には彼女いがいの人影はない。その妙にかんだかい声は、ありえないことだが、ベンチにおかれた花束から響くように思われた。
「ナコト。起きろよ。起きろ」
かなり長い間をおいて、染夜名琴はようやく反応した。うっすら目をあけ、つぶやく。
「……夢を、見ていた。昔の夢を」
うわごとのように、ナコトはたずねた。
「こっちは良いほうの夢か? それとも、また悪いほう?」
「採点は、てめえでしな。それより、用心しろよ。わかってるとは思うが」
「罠だ、と言いたいのだろう、テフ?」
「あのとき天辺山の遺跡で、あいつは……ハスターは言ってた。おまえの家族は、おまえいがいは消した、って。ハスターはたしかにサイコ野郎の原典みたいなやつだが、だからこそ殺しに関しちゃ嘘はつかねえ。なのに、言っちゃ悪いが、こうもあっさりおまえの弟は見つかっちまった」
赤務市の井須磨海岸に、ひとりの少年が打ち上げられているのが発見されたのは、けさ早くのことだ。
少年は多量の海水を飲んでおり、すぐにここ上糸病院へ運び込まれた。けんめいな蘇生措置のかいあって、少年はなんとか一命はとりとめ、めだった後遺症もなく、やや記憶の混濁はうかがえるものの、意識もじょじょに回復。
警察と医者からのたびかさなる質問の間、少年はみずからをこう名乗った。
染夜優葉と。
「偽物だろうが本物だろうが、わたしの動きはかわらん」
かたわらの花束をするどく横目にしながら、ナコトは告げた。
「相手に手向けるのが、花か銃かのちがいだ」
「敵なら容赦なし、か。たとえそれが、生き別れた実の弟の顔をしてても」
花束の中で金属的なかがやきを放ちながら、テフと呼ばれた声はうめいた。
「凍ったままで安心したぜ、おまえの心」