「矢印」(9)
すさまじい雄叫びがとどろいていた。
だれのだろう?
わたしだ。こんなに腹の底から声を振りしぼったことは、いままでない。
天井の闇へのけぞり、両目から涙をあふれさせながら、わたしは力いっぱい叫んだ。
悲しみを。痛みを。絶望を。後悔を。憎悪を。殺意を。
産声を。
「~~~~~~ッッッ!!!」
一方、人にあらざる暗闇の角度から、その一部始終をながめる存在があった。
ハスター。〝名状しがたきもの〟
ほとんどが闇に埋もれているため、その全貌はうかがえない。ただわかるのは、おそろしく巨大で醜悪な影絵が、おそろしく多くの触手を蠢かせていることだけだ。
ハスターは見ていたらしい。
わたしの屍の中に、ナイアルラソテフが入りこむのを。
〝這い寄る混沌〟と一体化し、わたしがよみがえるのを。
あきれ気味に、ハスターはなげいた。
「そこまで俗世に毒されたか、ナイアルラソテフ。人間ふぜいに情けをかけ、みずから憑依して、娘の魂を肉体につなぎ留めるとは。とんだおせっかいだ。娘としても、やすらかに宇宙へ還ることを望んでいなかったかね?」
「亡霊ってのは、未練があるからこそ現世をさまようもんだぜ」
反論したのは、テフの声だった。
声だけで、姿はみえない。その声は、わたしの中から響くようにも、闇のどこからか響くようにも聞こえた。
「甘美で幸福な死と、苦痛にみちた絶望の生。ふたつの別れ道……こいつは選んだ」
「そう、わたしは決めた」
テフに続いて、わたしは告げた。
「ハスター、おまえは、わたしの道連れになってもらう。これは、わたしと……」
「俺の……」
「「悪魔の契約だ!」」
そんなふうに、わたしとテフの叫びは重なった。
ハスターを射抜いたわたしの視線が、別人のように鋭いのは自分でもわかる。全身をみずからの血でかざり、殺気のかげろうを昇らせてたたずむ姿はまさしく悪鬼。
闇の奥、ハスターは高笑いをはなった。
「よかろう! ナイアルラソテフ! 滅するがいい! 小娘の形をした棺の中で!」
刹那、錐のごとく尖ったかがやきが、わたしの額を襲った。
おおきな破裂音……
「ほう?」
感心げにハスターはつぶやいた。
ハスターから放たれた触手の一本を、わたしの片手がすばやく掴んで止めたのだ。飛来するその速度は、常人の目ではとても追いきれるものではない。
そのまま軽く力を入れると、鎧めいた硬質のウロコに覆われた触手は、緑色の汁を吹いてつぶれてしまう。
おびただしい本数の触手が、雨あられと降りそそいだのは次の瞬間だった。
「ナコト! 武器をとれ! 剣か!? 槍か!? 斧か!? とっとと選びな!」
テフの早口の催促を聞き、わたしは考えた。
もっとも扱いやすく、わたしの望みをいま、もっとも正しく表現できる武器……
わたしの脳裏をよぎったのは、テレビで見たあのヤクザ映画のワンシーンだ。
これしかない。
閃光とともに、ハスターの触手はことごとく吹き飛んだ。
胸の前で交叉したわたしの両手を見れば、ふたすじの硝煙があがっている。
つめたい輝きをはなつそれは、拳銃だった。
右手に一挺、左手に一挺。どこからどうやって生えたのかは、いまはどうでもいい。
その間にも、床をこすり、壁をけずって、四方から駆け寄るのは追撃の触手だ。
その場から一歩も動かず、わたしの両腕だけがひるがえった。
一挺で前を狙い、肩越しにもう一挺でうしろを照準して、同時に発砲。両脇の下から左右に銃を向け、撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ。
わたしの周囲三百六十度、互い違いに銃火と轟音が連続し、触手の群れは正確にちぎれ飛んだ。
ぼとぼととわたしの足もとを跳ね、身をうねらせる触手のきれはし。
夢でも見ているような、不思議な気分だった。
ぼんやり濁った感情を入口に、指先から爪先まで、体じゅうの血管を伝ってわたしに流れこむ。幾千もの星々と時間を超えてきたテフの知識が、戦いや狩りに必要な体の動かしかたが……まるで産まれたときから知っているかのように。
これが〝憑依〟
異世界の血の雨が降る中、わたしはいつしか身構えていた。
この鋭い構えも、知っている。テフが、わたしが。右腕は拳銃ごとうしろへ引きしぼり、反対に、左腕の一挺は大きく前へ突き出す。
しゃべりかたまで邪悪な〝這い寄る混沌〟に汚染されながら、わたしはうなった。
「つぎはおまえが歌う番だ、ハスター……せいぜい、いい声で泣き叫べ」
「おもしろい」
ハスターは、ひくい含み笑いを漏らした。触手という触手の断面から、とめどなく体液をしたたらせながら。
なんだろう。残った触手の一本が、闇を一直線になぞったではないか。なぞった軌跡を追って、細くて薄い線状の光がきらめき始める。
刻々とかがやきを強める呪力の光を前に、ハスターは続けた。
「なかばナイアルラソテフに操られているとはいえ、小娘。存外に楽しませる。ならばわたしも、それ相応のもてなしをせねばならんな……やれやれ。まさかここでわたしの〝黄衣の剣壁〟を抜くことになるとは」
「くるぞ! ナコト!」
テフの警告は、ハスターの光の爆発に飲まれた。
そのときには、石畳を砕いてわたしの姿はかき消えている。
かわりに、一瞬前までわたしのいた床に走ったのは、室内を横断する巨大な亀裂だ。
横っ飛びに跳ぶわたしの肩口から、血がしぶいた。たしかに避けたはずなのに。
ハスターは光った。かがやく極薄の刃は、こんどは側方の壁面に深い溝をうがつ。寸前にそこを蹴って宙返りし、ぎりぎりでかわしたかと思いきや、つぎはわたしの脇腹が血を吹いた。
床に落ちるなり、つづけざまにバク転するわたしを追って、ハスターの光の壁は狂ったように遺跡をなで斬りにしてゆく。
これが〝黄衣の剣壁〟!
よけきれない。このままでは、わたしの首がはねられるのも時間の問題だ。
血しぶきをあげて疾走しながら、わたしは怒鳴った。
「もっと! もっとはやく! もっとはやく動けるはずだ!」
「限界だ、ナコト! 人間の体が崩壊する! 燃え尽きる! 耐えきれず、俺の呪力が侵食しちまう! これいじょう俺を受け入れたら、もとのおまえに戻れなくなるぞ!?」
テフの制止を無視して、わたしは、自分を抑えこむなにかを切った。
それは、わたしに残された、人としての最後の正気の砦。
「戻る場所なんて……ない!」
叫んだわたしを、巨大な光は猛スピードで両断した。
いや、ハスターがとらえたのは、わたしの残像だけだ。
全身にナイアルラソテフの黒い炎をまとい、わたしの瞳が真っ赤にかがやく軌跡をひく。
立て続けに飛来する〝黄衣の剣壁〟を瞬間移動するように回避するや、直後、わたしは上下逆さまにハスターの眼前へ現れていた。
「なにィっ!?」
驚愕した触手のかたまりの中心を、二挺の銃口が狙った。
撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ撃つ。
床をこすって靴から煙をあげながら、わたしはハスターの背後へ降り立った。
体じゅうが痛い。心も痛い。痛い痛い痛い。わたしのなにもかもが、すみからすみまで夜のような漆黒に染まって、いまにも砕け散りそうだ。
これが、力を乱用した反動。願望の対価。だがそれでも、家族の仇は討った……
「気に入ったぞ、小娘」
唐突に聞こえたハスターの声に、わたしは目を剥いた。
振り向けば、ああ。おびただしい呪力製の銃弾が、空中で止まってしまっているではないか。
ハスターが前面に展開した光の壁にさえぎられ、銃弾たちはくやしげに螺旋の回転を続けるだけだ。
剣を、盾にした!?
みずからの血の滝で石畳を汚しながら、ハスターはささやいた。
「普通の魔法少女なら、とうに呪力の時間切れで〝星々のもの〟に喰われていよう。それを、ナイアルラソテフの大人しさをいいことに、呪力による加速と再生を重ねがけして限界に挑むとは。ほんの一瞬だが、魔法少女を超える突破力。その違法性、珍妙さ、不安定さ……わたしは、またとない実験の標本を得たようだ。これは、ただ殺して赤務の地を奪うだけではつまらんな。残念だが少々、舞台を整える時間をいただこう」
「逃がさんぞ!」
わたしが拳銃を跳ねあげた瞬間、あたりは閃光につつまれた。
ハスターの光の壁が、でたらめに遺跡の内部を切り裂いたのだ。くずれおちるガレキのむこうへ、わたしは血を巻いて吹き飛んでいる。
「知っているかな、染夜名琴。平穏と希望で肥え太った理性は、手順によっては、ほどよい絶望の色をした腹わたを発するのだ……わたしはそれを見てみたい。ありとあらゆる悪夢の種子をたくわえたわたしの懐、あなどってはならん」
地響きと砂塵が入り乱れる中、ハスターはどす黒い笑いをこぼした。
「いましばらく仮初めの生を楽しませてやりたまえ、ナイアルラソテフ」
〝名状しがたきもの〟の影は、やがて闇にとけて消えた。