「矢印」(8)
崩れ落ちるわたしから、恐ろしいなにかの抜けだす感覚があった。
数千、数百、数万……ふつうの人間には数えきれない、けっして数えてはいけない触手の気配。
それが、わたしの心と体から、最後の一本まで消え去ったのだ。さすがのハスターも、死にゆく人間の内部にいつまでも留まっている理由はない。
あおむけに倒れたわたしの首の下には、体じゅうから温度を奪いながら、みるみる気味の悪い溜まりが広がっていた。
血だ。視界もぼんやり霞んでゆく……
これでいい。
すこしでもテフの重荷を軽くできたのだ。わたしという重荷を。
とてもさむくて、かなしくて、いろいろと心残りな気もするが、この結論はまちがっていないと思いたい。
家族の記憶、学校の記憶、そして、奇妙でなつかしい遺跡での記憶が、とめどなくわたしの脳裏をよぎった。ぞくにいう走馬灯らしい。
その上映がそっと幕をおろしたとき、家族が、スグハが、さまようわたしを迎えにきてくれることを祈る。
「ったく、無理してるのはどっちのほうだ?」
なんだろう。わたしに語りかけるのはだれだ?
ひょうきんだが、どこか温かみのあるこの声を、わたしはよく知っている。
テフ。
「感心だぜ、自分で自分を殺すとは」
ごめんね、びっくりさせちゃって。もう、どうしても我慢できなかったの。どうすればいいかわからなかったの。
「迷子、か。考えてみりゃ、俺たちがさいしょに会ったときも、暗闇の道案内から始まったな。けっきょく俺は、最後までおまえに、明るい陽の下まで矢印を引いてやることができなかった。ほんとうにすまない」
あやまるだなんて、そんな。わたしは十分、助けてもらったよ。テフといっしょに過ごした時間、とっても楽しかったよ。
ああ、でも……ねむい。ものすごく眠いの。そろそろ行かなきゃ。
「行くって、どこへだ?」
どこ、って……
「残念だけどな、ナコト。あの世には、おまえが思ってるような場所はないんだ。天国も地獄も。ただあるのは、宇宙っていう名の果てしない虚無だけ。魂は煙みたいに跡形もなく溶けて消え、抜け殻になった体は分解されて土に帰る。これはどの時空、どの次元でも同じこった。異世界っちゅう異世界を、ごまんと渡ってきた俺だからこそ言える。それでいいのか、ナコト? あとあと後悔しても手遅れだぜ?」
そりゃ、くやしいよ。あいつが、ハスターがにくい。心の底からここまでなにかを恨んだのは、たぶんこれがはじめて。でも、テフ、もうどうしようも……
「さて、そこで悪魔の取り引きだ」
え?
「〝え〟じゃねえよ。俺をだれだと思ってる? チャンスはいちどだけ。おまえに戦う力をやる。つれねえ現実をかき混ぜ、かき乱す〝這い寄る混沌〟の呪力を。どうだ?」
ほしい。それほしい。手に入れて、なにもかも無茶苦茶にしてやりたい。
けど、お返しに差し出せるものはなさそうだよ?
「かまわねえ。生贄ならとっくにもらってる。そして、生贄を捧げられたからには、イカした報奨を与えるのが悪魔の義務ってもんだ。おっとそれから、条件がもうひとつ」
なに?
「目をつむって、悪夢を駆け抜けろ。どこまでも、全力で、絶対に立ち止まらずな……それだけだ」
なにがあるの、その先に?
「じぶんで確かめな。だが俺も、つきあって見届けてやるくらいはできる……さあ、そろそろ時間だ。楽しい楽しい悪夢の舞踏会の。いっしょに踊ろうぜ、俺と。ドレスの準備はオーケイ?」
……オーケイ!




