「矢印」(6)
自宅の扉をあけると、わたしを迎えたのはスグハだった。
だまって靴をぬぐわたしをよそに、玄関にこしかけ、スグハはスパイクの運動靴をみがいている。
かたわらを通り過ぎようとしたとき、スグハは早口につぶやいた。
「目が赤い」
「ほっといて」
「フハハハハ!」
「わらいごとじゃない! この脳筋!」
ぴたりと笑いを止めると、スグハは無表情にリビングをしめした。
「夕食の準備は整っていると聞く。すみやかに着替え、席につくように」
「……なんで、いろいろ聞きたがらないの?」
「聞いてもどうせ、あんたの身に生じた現象など、常人の理解の範疇にはおさまらん。そうだな? 打ち明けるタイミングは、そちらにまかせる」
「ありがとう」
ひとつ鼻をすすると、わたしはリビングの両親に顔をだした。
「ただい……」
ただいまを告げようとして、わたしは固まった。
リビングにはだれもいない。
なにかおかしかった。
まず、あるていど食事のでそろった食卓に、きょうの夕刊が半分ずれ落ちた状態でかかっている。その下から、かすかに漏れだす紫煙……
さっと新聞紙をどかした下、あんのじょう、煙をくゆらせるのは火のついたタバコだ。喫煙者である父が吸ったと思われる長さは、およそまだ二割にも満たない。
手をすべらせて落とした新聞を、父がそのままにした? あの厳格な父が?
かんがえられない。だいたい、そんな火事まがいのこと、母が許さないはずだ。
その母はといえば、これまた忽然と消えてしまっているではないか。火のついたガスコンロに、ぐつぐついう味噌汁の鍋をくべたまま。
無言で床にころがるお玉だけが、事の異常性をものがたっている。
ほかの部屋を見ても、電気は消えて真っ暗だ。
放置された痕跡の数々から、両親はすくなくとも、つい数秒前までここにいた。
では、いまはどこへ?
「スグハ~? お父さんとお母さんは~?」
「なにをほざいている! ちょっとォ! 父さん母さん! 厳罰を! ばか姉が、いよいよ自分の親の顔を忘れて……」
スグハの力強い大音声は、不自然にとだえた。
それに続いたのは、玄関からの妙な物音だ。
急いで行ってみれば、後生大事にみがかれていたスグハのスパイクが、無造作に床へころがっている。
それだけだ。
スグハはどこにもいない。
言いようのない不安感に、わたしは目もとが引きつるのを感じた。
「ちょ、スグハ! 冗談はやめ……」
次の瞬間に起こったことは、わたし自身うまく説明できない。
とてつもなくおぞましい、ということ以外は。
なにか、太くてつるつるしたものが、背後からわたしの首にからみついていた。
それだけではない。その触手じみたものは、わたしの手に、足に、そして体に巻かれ……こう、指の先から、ぼんやり体の感覚がなくなってゆく。
薄れる自我。加速する恐怖。
「まちがいあるまい」
その声は、触手の中心から、わたしの耳にささやきかけた。
「混沌界の迷路を解き明かす銀の鍵とは、おまえのことだな。さあ、わたしを導け。めざわりな結界の主……ナイアルラソテフのもとへ」
さいごの力をふりしぼり、わたしは瞳だけをうしろへ動かした。
嫌だ嫌だ嫌だ! あのおびただしい蠢きはなんだ! 床に! 壁に! 天井に!
「わたしはハスター……〝名状しがたきもの〟」