遠い日の約束【Bパート】
三時間半後、直実は家から持ってきた花束を墓に添えていた。
「あの‥‥もしかしてナココちゃん?」
背後からの女性の声に直実は振り向いた。
そこには黒い傘を差した大柄な礼装姿の女性が花束を持って立っていた。
「! お、お久しぶりです!」
直実は慌てて立ち上がると深々と頭を下げた。
大柄な女性は女子プロレスラーのマイティネス笠原だった。
「あれから十年か‥‥早いものね。」
笠原は感慨深げにそう言うと直実の脇まで進み花束を添えた。
「花束‥‥毎年少なくなっていきますね‥‥。」
直実は頭を上げると寂しげにつぶやいた。
「恭子が死んで三年ぐらいまでは、お墓が花で埋もれてた感じなのにね‥‥。
それだけ時が経ったという事か‥‥。
あの時の女の子がこんなに大きくなったんだもの‥‥どうりで私がおばさんになるハズだわ。」
笠原はふふっと笑って語った。
「‥‥私は一生忘れません!
だって伊達さんは私の代わりに‥‥」
「あの日の事は今でも鮮明に覚えているわ。
でもね、過去に縛られる必要はないのよ。」
笠原の脳裏に過去の記憶が蘇る。
今からちょうど十年前、東亜女子プロレスが熊谷に巡業に来ていた。
昼下がり、市民体育館の周辺を若手の成長株と評価が高い伊達恭子とマイティネス笠原のマグナム・エンジェルスがロードワークしていた。
「恭子、来週のタイトルマッチ絶対勝ってベルト巻こうね!」
「ああ。私のラリアットと美紀のハイアングルのマイティボムがあれば絶対勝てるぜ!」
二人はスプリング・カーニバル・シリーズ最終戦で国内最高峰と呼び声が高い日本女子タッグの挑戦権を得ていた。
その思いがけない抜擢に同期の二人は周囲から羨望と嫉妬によるいびりを受けていた。
その為、ロードワークは貴重なトレーニング時間となっていた。
「土手の方、行ってみよう!」
「うん!」
伊達の誘いに笠原はうなづいた。
それは二人が土手に向けてコースを変えた矢先の出来事だった。
「危ない!!」
伊達が笠原の脇を矢のように抜けていった。
キキキキキキキキキ―――――――――ッ!!!!
赤いスポーツカーの急ブレーキの音がまるで獣の鳴き声のように響く。
伊達はスポーツカーを目の前にして恐怖に凍りついている幼女を抱えると、ラグビーのパスのような形で笠原に向かって放り投げた。
次の瞬間、伊達の身体に今までどんなレスラーからも食らった事のないほどの衝撃が瞬時に走り抜けた。
大きく弾かれた彼女の肉体はアスファルトをゴロゴロと横転していった。
「き‥‥恭子―――――っ!!」
笠原は信じがたい光景に気が狂わんばかりに叫ぶと、幼女を抱えたまま駆け寄った。
「だ、誰か、救急車―――っ!」
笠原はどこからか集まって来た野次馬に向かって叫んだ。
「うう‥‥効いたぜ‥‥さすがに車にゃ敵わねぇか‥‥。」
伊達が目をうっすらと開けてつぶやいた。
「恭子、もうすぐ救急車が来るから!」
「‥‥美紀‥‥あ‥‥あの女の子は‥‥?」
「無事よ。‥‥もう喋らない方がいいよ!」
恐怖のあまりただひたすら泣きじゃくっている幼女を伊達に見せながら笠原が言った。
「おい‥‥お前、いつまで泣いてんだよ?」
「‥‥ひっく、だ‥‥だってぇ‥‥お姉ちゃんが‥‥」
幼女は伊達の問いに泣きながら精一杯答えた。
「‥‥ったく‥‥これからの女の子ってのはなぁ、強くなんなきゃいけねぇぜ‥‥。」
伊達は弱々しく右手を伸ばし、幼女の手を握った。
間もなく救急車が到着した。
付き添いとして笠原も一度は乗り込んだが『試合が終わってから来いよ』と伊達に叱咤され、救急車からしぶしぶ降りた。
代わりにさっきまで泣きじゃくっていた幼女がささっと乗り込んでしまう。
伊達が何も拒絶しなかったのを見て救急車の乗組員は皆、この幼女は伊達の妹なのだろうと勝手に解釈し、そのまま病院へと向かった。
笠原が試合を終えて数人の関係者と共に病院へ駆けつけた時には既に遅く、伊達の顔には白い布が掛けてあった。
「‥‥恭‥‥子‥‥」
笠原は伊達の名をつぶやくと全身から力が抜け、その場でへたり込んだ。
「‥‥ふ‥‥ふふふ‥‥冗談はやめてよ‥‥。
みんな、私をはめてるんでしょ?
‥‥シャレになんないよ、こんなの。
‥‥起きてよ、恭子!!」
笠原の叫びが霊安室に反響する。
「タッグのベルトを巻くって約束したじゃない!
恭子のラリアットでベルトを巻くって約束したじゃない!」
涙声でそう叫ぶ笠原のもとに伊達に助けられた幼女が駆け寄る。
「わたしがあのお姉ちゃんの代わりに巻くっ!」
「はあっ?」
幼女の台詞に笠原は目を丸くして聞き返した。
「わたしがあのお姉ちゃんの代わりに巻くっ!
‥‥だからもう泣かないで‥‥。」
「な‥‥なに馬鹿な事、言ってんのよっ!?
出来る訳ないでしょっ!!
‥‥第一あんた、ベルトの意味わかってないでしょうがっ!」
笠原は半狂乱の形相で少女を睨みつけて言った。
「じょしぷろれす‥‥って、お母さんが教えてくれた‥‥。」
幼女の答えに笠原の視野が広がった。
そしてこの部屋の中に幼女の両親らしき人物がいる事に初めて気が付いた。
「‥‥あんた‥‥名前は?」
「ナココ!」
少女は元気良く普段呼ばれているニックネームを答えた。
「いくつ?」
「みっつ!」
少女は誇らしげに指を三本立てて答えた。
「‥‥あと十二年か‥‥。
くくく‥‥三十まで現役出来るかな‥‥?」
肩を震わせて嘲笑気味につぶやく笠原の目の前に幼女の右手が現れる。
その右手は小指だけがピンと立っていた。
「大きくなったら絶対、じょしぷろれすになる!」
幼女の真剣な表情に笠原は自分の心臓が締め付けられる思いがした。
(なんて真っ直ぐな目をしてるんだろう‥‥。)
笠原は自分の右手を差し出し幼女と指切りを交わした。
「あの日から約束を守る為に伊達さんの必殺技のラリアット、毎日特訓してきました!」
直実の言葉に笠原の表情が曇った。
「参ったな‥‥十年前の口約束を守ってるなんて馬鹿は私一人だと思ってたのに。」
笠原は目を閉じ、頭を掻きながら複雑な表情でつぶやいた。
「笠原さん?」
「‥‥ナココちゃん、私ね、次のシリーズで引退するの。」
意を決した笠原はゆっくり目を開けるときっぱりとそう告げた。
「え‥‥?」
今、耳にした台詞が信じられなかった。
いや、信じたくはなかった。
「長かったなぁ‥‥。
会社に無理言ってあの日以来、私、シングルしかカードを組んでもらってないの。
何度かタッグの要求もされたけど全部断ってきたわ。
『まるで旦那に死なれた女房みたいだな』なんてイヤミも良く言われた。
キャリア積んで、給料も上がって、それでいて会社の言う事を聞かない‥‥。
気が付いたらただの厄介者になっていた‥‥。
意味不明の金網とか、格闘技戦とか‥‥正直、私を潰す為に組まれたカードも一度や二度じゃなかった‥‥。
それでもひたすらシングルだけをやり続けたのはね、私のパートナーは恭子しかいないっていう意地が半分‥‥。
そしてもう半分はあなたとの遠い日の約束だったのよ。」
「‥‥あと二年‥‥あとたった二年じゃないですか!?」
直実にはどうしても納得いかなかった。
「限界なのよ。
膝も、腰も、首も‥‥ううん、まともに動く所の方が少ないくらい。
正直、筋肉でつないでいる部分さえもある‥‥。
だましだまし試合をしてきたけど、遂にドクターストップが掛けられちゃった‥‥。
次にどこかやったら普通の生活も送れなくなるって脅されたわ。
まあ、今まで現役でやってこれたのが奇跡って感じだけどね。」
寂しそうに語った笠原の台詞に直実は何も言えなくなってしまった。
「ごめんね、約束守れなくって‥‥。」
「‥‥一時休業ってのは駄目なんですか?‥‥」
どうしても諦め切れない直実がたずねた。
涙を見られたくないという無意識の意識が顔を地面に向けさせた。
「プロレスは好きよ。
でも、このまま続けて身体が動かなくなったらプロレスを憎むかもしれない‥‥。
私がプロレスを辞めるのはプロレスを好きでいたいからなの。」
「‥‥私が‥‥私があと何年か早く生まれていたら‥‥。」
直実は拳を握り締め、涙をこらえながらつぶやいた。
「もうあなたは自由。遠い日の約束に縛られる事はもうないのよ。」
笠原は震える直実の肩に手を掛けて優しく語った。
「‥‥‥‥。」
直実は返す言葉が思いつかなかった。
「ねえ、もう一度約束しましょう。」
「え?」
笠原の台詞に直実は顔を上げた。
そこにはリング上では決して見せない笠原の優しい微笑みがあった。
「私は引退してもプロレスをずっと好きでいる。」
キッパリとそう言い切った笠原は直実に向けて小指を差し出した。
「わ、私は‥‥私は‥‥何を約束したらいいか‥‥。」
直実は笠原の小指に素直に応じられない自分にやり場のない苛立ちを感じていた。
プロレスラーになるという幼い頃からの確固としていた夢が初めて揺らいでいるのだ。
「あなたは今でなければ出来ない事、あなたでなければ出来ない事を一生懸命やって。」
「今でなければ‥‥出来ない事?
私でなければ‥‥出来ない事?
‥‥そんなの‥‥そんなの、わかりません!
‥‥わかりません!」
直実は焦燥感でパニックに陥った頭をブンブンと振って叫んだ。
「‥‥あなたを私のようなプロレスマシンにしたくないの‥‥。
人生からプロレスを引いたらゼロになるような人間にはなって欲しくないのよ!」
笠原の目から涙がこぼれ落ちる。
「ごめんなさい‥‥まだ私、約束する自信がありません‥‥ごめんなさい‥‥。」
直実は頭を深く下げると、逃げるようにその場から去っていった。
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