ラリアットガール【Aパート】
この作品は『エンターブレインえんため大賞(ファミ通文庫部門)』の最終選考まで残ったものを20余年の時を経てリライトしたものです。
「ナココ――っ!」
薄暗い体育館の地下室に少女の丸い声が響き渡った。
呼び声のするドアに向かって奥の方から小柄なシルエットが一つ、その姿を鮮明にしながら小走りで近づいて来る。
「なぁにぃ?」
シルエットの主はシェイクハンドのラケットを右手に持った細身の小柄な少女だった。艶のある黒髪をショートカットにしている彼女に、強くボーイッシュな印象を与えているのはシャギーの入った前髪だった。
「あのね、部長が呼んでるんだけど‥‥。」
地下室まで呼びに来た栗毛色のマッシュルームカットの少女が心配そうに小声で伝えた。
「部長がぁ? ‥‥何だろ?」
ナココと呼ばれた小柄な少女は髪から滴り落ちる汗を左手を櫛にして軽く一回梳く。
「ねぇ‥‥かな~りヤバい感じだったよ、部長。」
「えぇーっ、私、何もやってないよぉ‥‥多分。」
身に憶えはない。
しかし、あの四角四面のおカタい性格の部長が呼んでいるのだからこれはただ事ではない。
身の潔白に暗雲が広がっていくと、言い知れぬ不安が背筋に冷たいものを走らせる。
そしてそれは小柄な少女を彼女が所属する女子卓球部の練習場所へと全力で走り出させた。
「あん、待ってよぉっ!」
マッシュルームカットの少女もその後を追って走り出す。
「すいませ~ん、遅くなりました!」
「鷹ノ目直実さん。」
部長の長谷川葵の冷たい声で呼ばれた自分のフルネームに、小柄な少女は一瞬にして凍りついた。
ペコリと下げていた頭を恐る恐る上げる直実の瞳に映ったものは、黒縁眼鏡から垂直に伸びる眉間の縦皺を一層深くした長谷川の表情だった。
黒髪を地味なヘアピンで留め、大きく出した額にはうっすらと青筋が浮き出ている。
自分が置かれた状況がかなりやばいものだという事に気づかないほど直実も鈍くはなかった。
「――は、はいっ!」
緊張のあまり、返事がワンテンポずれた。
「来週からあなたも中二でしょ。
もうすぐ後輩が入って来るのよ、わかってるの?」
「はい! もう荒川の土手の桜も満開ですし、いい季節ですよね!」
自分の言いたい事が微塵も伝わっていない様子の直実に長谷川の苛立ちゲージが増幅する。
「じゃなくて!
あなたは何もわかってないわ。
一人だけ別メニューで練習されては新入部員に示しがつかないのよ!
一体、地下で何の練習しているって言うの!?」
ヒステリックな長谷川の声が響くと体育館で練習中の全運動部員の動きは停止、しばし視線が二人に集中する。
「腹筋とか腕立て、バービーなんかの柔軟運動とか、素振りです!」
自信に溢れたその答えが嘘ではない事は体育着から出ている腕や脚を見れば一目でわかる。
体脂肪率が一桁と思われる引き締まった身体、太さこそないがシャープでしなやかな筋肉は一朝一夕に出来るものではない。
しかし、長谷川には女子卓球部部長としての立場がある。
その立場に立つ者の視点から見れば、直実の行動は単なる我がまま以外の何物でもなかった。
「さっき、素振りもしているって言ったわね。見せてもらえるかしら。」
「わかりました!」
直実はその場で素振りを始めた。
フォン、フォン、フォン‥‥‥‥!
(は、速い!)
直実の素振りは長谷川の秀でた動体視力を以てしても、その動きを正確には捉える事は出来なかった。
だが、それが長谷川の教えた卓球の素振りではない事だけは明白だった。
「そこまで!」
長谷川は直実の素振りを止めさせた。
「ちょっと鷹ノ目さん、それは教えた素振りと違うんじゃないかしら?」
「はい! この方が将来役に立つと思ってアレンジしました!」
胸を張って答える直実。と同時に長谷川の額の青筋がピクっと反応した。
「将来?」
「ラリアット風にアレンジしました!
私、女子プロレスラーになりたいんです!」
その意表をつく答えは、一拍の静寂の後、先輩たちの失笑を起こし、同級生たちをうつむかせた。
その中で一人、プルプルと怒りに震えている長谷川がいた。
「プロレスラーになる為の練習を部活でやるっていうのはどういう事?
それはちょっとふざけすぎなんじゃない?」
「ふざけてなんかいません!
プロレスと卓球、両方で使える合理的な練習です!」
直実の凛とした態度に、長谷川は話し合いでは解決しない事を悟った。
「そこまで言うのなら『ラリアット』とかいう打ち方が通用するかどうか、私と卓球で勝負をしなさい!
もし鷹ノ目さんが勝ったら今まで通りあなたの好きにしててもいいわ。
――だけど私が勝ったら部から去りなさい!」
「ええっ!?」
直実の驚きは当然の反応だ。
「勝負、受けるの? それとも受けないの?」
「‥‥やります!」
既に切羽詰まった状況である事を察知した直実は要求に応じる以外の選択肢はなかった。
「ちょ、ちょっとナココぉ~、謝るなら今のうちだよ。――ねっ?」
小声で直実に語りかけて来たのはさっき地下まで呼びに来た少女だ。
「勝負を挑まれた以上、後には引けないじゃない。」
「だってナココ、今まで三回くらいしか卓球台でやってないじゃない!」
「――山吹さん、あなたが鷹ノ目さんの代わりにやってもいいのよ。」
長谷川の台詞に直実を呼びに遣わされた少女、山吹明美はうつむいた。
「アケ、心配しないで。何とかするから。」
自分を案じてくれる明美に直実は明るく声を掛けた。根拠がないなと思いつつも。
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