ハンカチと、ねずみと、追いかけっこ
名探偵を気取ったねずみ。
それは大げさな物言いでありながら、アーレックの言葉によれば、あながち間違いではないらしい。
少なくとも、ただのねずみではないことは、お屋敷の全員が認めている。そして、アーレックの言葉は、驚きの事実まで伝えている。
カーネナイ事件の解決の、真の功労者は、このねずみだと。
半信半疑でありながらも、アーレックが友と認めたのだ。ねずみが怖かったはずのアーレックが、肩に載せた。そして、指輪を託したのだ。
このお屋敷において、ねずみは家族となったのだ。
「♪ちゅちゅ、ちゅ~ちゅ、ちゅ~ちゅちゅちゅちゅ~………♪」
それから数日、ねずみは堂々と、お屋敷の中を歩くようになっていた。
ねずみの通り道からは、ギロチンのように君臨していた斧の罠も解除され、ただの食料の提供場所となっていた。
今、小さな女の子の目の前の光景のように。お庭に姿を現すことも、珍しくない。
「ねずみさん、お洗濯してるの?」
お屋敷の下の娘のオーゼルちゃんは、お友達のお人形さんを抱きしめて、しゃがみこんだ。お屋敷の庭園にある噴水から、常に流れ出る清潔な水の流れに、ねずみはいた。初夏の行水をしているわけではない、お洗濯をしていたのだ。
ありえない。
道行く人がこの光景を目にすれば、指を刺し、目を見開いて驚くことだろう。しかし、このお屋敷の住人にとっては、驚くには値しない事態である。
ねずみは、ただのねずみではない。
アーレックの手のひらの上で、指輪を両手で差し出したねずみだ。今のように、せせらぎでお洗濯をしている姿を見ても、驚くには値しないのだ。
ねずみは、可愛らしいお嬢様に、ご挨拶をした。
「ちゅう」
威嚇でも、命乞いでもない、優しい鳴き声だった。
やぁ、お嬢様——
そういった、お隣さんへのご挨拶だ。お洗濯の途中で、ねずみさんは腰を伸ばして、やさしく鳴き声を上げた。すぐにお洗濯に戻ろうとするねずみだったが、オーゼルちゃんのにこやかな声に、さえぎられた。
「ねずみさん、名探偵なんだって?」
お洗濯に戻ろうとしていたねずみは、再びその手が止まる。
悪い気がするわけがない、栄誉の称号で呼ばれたのだ。ねずみは、照れくさそうに、鼻をこする。
「ちゅ~………」
いやぁ、それほどでも―—
ねずみは、まんざらでもないらしい。
清潔な水のせせらぎは、ねずみにとっては腰までつかる深さである。洗濯物も全身を水につけて、足で踏んづけて洗う規模である。
人であれば、シーツを洗うという仕草だろう。
ねずみの足元では、シーツが優雅に泳いでいた。
「じゃぁ、私の探し物、どこか分かるかな~」
おや、ご依頼ですか?
ねずみは小首を傾げて、少女を見上げる。ご厄介になっているお屋敷のお嬢様のお頼みなら、喜んで引き受けましょう。
ねずみは、紳士を気取って、胸を張っていた。
どんっと、胸を叩いて、鳴いた
「ちゅ~、ちゅうう、ちゅう」
どうぞ、お任せください―—
腰をまっすぐにして、その足元では、すっかりと汚れの落ちたシーツが泳いでいた。可愛らしい刺繍は、少しほつれていても、その原形は失っていない。
可愛らしく簡略化された、クマさんの笑顔があった。
オーゼルちゃんは、訊ねた。
「私のお気に入りのハンカチなの。クマさんの顔の」
オーゼルちゃんは、それはそれは、可愛らしい笑みを浮かべていた。
だが、このお屋敷に長く関わっている人物なら、この笑顔を知っているはずだ。誰かさんとそっくりの笑顔で逢った。
何かを、企んでいる。
それはもう、恐ろしい何かを企んでいるという、お姉さん譲りの笑みであった。
おや、お姉さんまで後ろにいた。奥様までおいでだ。
「ちゅ………」
ねずみは、一歩下がった。
いやな予感を覚える程度に、この状況に覚えがあった。今はまだ、武器を手にしておいではないが、いつ武器を手にしてもおかしくない雰囲気だった。
ふと、足元を見る。
刺繍された、可愛らしいクマさんが、笑顔だ。オーゼルお嬢様がお探しのハンカチは、ねずみの足元で、泳いでいた。
ねずみが、シーツとして頂戴した日から、行方不明だったらしい。
このお屋敷にご厄介になった初日、寝床の確保のため、小さな布切れを拝借したのだ。自分はねずみなのだ、物を盗んでも、なにがおかしいだろうと。
屋根裏ではホコリとクモの巣と、汚れるのは早いもの。清潔を心がける心は紳士のねずみさんは、お洗濯に精を出していたのだ。
ただのねずみではない、顔を見せただけでは、もはや命の危険がないと思ったために………
清潔を取り戻したクマさんは、笑っていた。
ねずみは、涙目だ。
「ちゅ………ちゅう、ちゅっ、ちゅう~」
こ、これは違うんです。何かの間違いなんです―—
魔法の力がなくとも、ねずみのこの言葉だけは、女性たちに届いたであろう。動かぬ証拠を足元に、ねずみは静かに後ずさる。
オーゼルちゃんの可愛らしいお顔が、にっこり笑顔から、変化を始めていた。宝石のような緑色の瞳に、涙をたっぷりとたたえたお顔になっていた。
あぁ、この顔に覚えがある。爆発まで3、2、1………
「ねずみさんの、ばかぁぁああああっ!」
ねずみは、脱兎のごとく逃げ出した。
とっさにシーツを背負い、まるで、マントを翻した怪盗だ。名探偵を気取ったねずみから、今度は怪盗と、忙しい。これが、ねずみの日常だ。
だが、こんな暮らしも悪くないと、ネズリーは思った。
ねずみに生まれ変わったのは、認めようではないかと。そして、第二の人生………と言うより、ねずみ生活を、謳歌しようと。
仲間が、ネズリーを元に戻そうとして、アニマル軍団になっているなどと、知る由もない。
今はただ、逃げていた。