立ち上がった、チキン
雷神様が、現れた。
190センチに届こうという青年アーレックが、樽の隙間から飛び出し、仁王立ちをしていた。
あのごっつい体を、よくタルの隙間に潜めていたものだ。フレッドだけでなく、諜報員の印象の執事も、驚いたと言う表情をしていた。
ガーネックと言う借金取りがいることによって、意識がそがれていたのだろう。ガーネックと言う借金取りの恐ろしさを、またも見せ付けられた気分だ。
ねずみは、不気味な、言い知れない恐ろしさを、ガーネックに抱いていた。
悪魔だと。
今回、ねずみが関わった事件の、本当の元凶であるに違いない。この悪魔を何とかしなければ、同じような事件が、またどこかで起こるかもしれない、何とかすべきだと。
だが、今はまずい。
大変、まずいと思った。
「このニセガネ………銀行強盗の件もだが………話してもらうことが、色々ありそうだ」
アーレックは、手にニセガネの銀貨を一掴み、握り締めて突き出した。
ねずみは、あわてた。
まさか、ここでチキンなハートのアーレックが姿を現すとは、思っていなかった。
やむを得まいと、ねずみも姿を現す。
頭に、アーレックの婚約指輪をかぶって。
「あっ、こいつっ」
カーネナイの若き当主、フレッドが立ち上がった。
頭に冠をかぶったこの姿は、見間違えようはずがない。昨日、仲間たちがつかまった原因を作ったねずみである。
八つ当たりの自覚はあっても、このねずみの邪魔さえなければ、彼の計画に従った青年達は、いまだ自由の身であったはずなのだ。
贅沢は敵であっても、ささやかながら、宴会を開くつもりだった。そして、気のいい青年たちは、その余韻を胸に、旅立つのだ。故郷へ小金を持って帰るのか、あるいは、役者としての、新たなスタートか、少なくとも、牢獄ではなかったはずだ。
ねずみが、すべての計画を台無しにしたのだ。
「ちゅぅ、ちゅう、ちゅぅ~!」
フレッドの怒りを受け、ねずみは答えた。
今は、お前の相手をしている暇はないと。
カーネナイの若き当主、フレッド様が理解したのかは、別問題だ。ねずみは、言い放つと、目の前で立ち上がったチキンを見つめて、己の未熟に歯ぎしりをした。
アーレックを、侮っていたのだ。
体がでっかいだけで、ねずみにおびえる、チキンなハートの青年だろうと。隠れて、やり過ごす慎重さを持っているだろうと。
違った。
ハートはチキンの青年、アーレックは、ねずみが苦手なだけなのだ。
あと、恋人さまと、そのご一家に頭が上がらないだけなのだ。
そうでなければ、サーベル使いの長女様との付き合いをお許しにはならぬはず。
ねずみは、アーレックを誤解していたと、後悔した。
相手は追い詰められている、どう出るか分からない。アーレックは腕に自信があるのだろう、優れた体格だけではない。壁を軽々と飛び越えた身のこなしからも、自信は過信ではないと伺える。
しかし、素手であった。
「おとなしく同行していただければ、手荒なことはしない。さぁ、どうする」
怒鳴り声ではないが、はっきりとした、威圧を放った。
これが普段の、公僕としてのアーレックの姿だ。
小太りの借金取りは、固まったまま、動けない。裏側にどっぷりと浸っていそうな部下の二人は、せっせと金を集め始める。このあたりは、修羅場の経験をにおわせる。
一方、ねずみに気を取られていたカーネナイの若き当主フレッドは、やはり動くことはなかった。
動いたのは、忠実なる執事だった。
「やむをえません。相手は一人です」
アーレックの前に立ちはだかり、武器を構えながら、主に告げる。
お前は本当に執事なのかと、ねずみは突っ込みたかった。執事は、懐からナイフを取り出すと、暗殺者の雰囲気に変わったのだから。
たいへん、まずい。
いくらチキンが優れた体格と、すぐれた運動能力の持ち主であっても、素手なのだ。こんなところで勇気を出すなら、チキンなハートのままで、いて欲しかった。
「ちゅ~、ちゅちゅ、ちゅ~、ちゅ~っ!」
お前は逃げろ、あとはオレが何とかする――
ねずみは、柄ではないと、自らの蛮勇に焦りながら、叫んだ。
タルの上で、仁王立ちになって、両手を振り上げて………だが、チキンと執事、戦いを決意した二人の世界には、ねずみ一匹すら、入る余地はなかった。
「そうか、戦うのか」
こぶしを握るアーレック。
刃に対して、こぶしとは自殺行為。ねずみは、おとなしく降伏するように、さらに声を発しようとする。
しかし、遅かった。
「やめるなら、今だ」
執事が、今度は忠告を与えた。
言葉は、短い。
そして、沈黙。
ねずみは、固唾をのんで見守る。
もはや、自分が何をしても、二人の戦いを止めることが出来ない。出来ることとすれば、この二人の戦いの決着を、見守ることくらいだ。
だが、それで終わるつもりはなかった。
ここでアーレックが命を落とす事態になれば、屋敷の人々に申し訳がたたない。いざとなれば、執事の手に噛み付こうと。相手が、アーレック一人だと思っていることを、後悔させてやると………
まずは、アーレックが動いた。
手の中の銀貨を執事に投げつけ、同時に駆け出した。
相手が油断している間に、距離を詰めようとしたのだ。並みの相手なら、視界をさえぎられた隙をつかれただろう。
しかし、執事は動じることなく銀貨を受け、やはり駆け出した。
この間は、一瞬。
相手が動じなかったことに、今度は、アーレックが動揺してしまうだろうか。
アーレックは、違った。
想定済みなのか、優れた格闘センスのなせる業か、動揺することなく、まっすぐに突き進む。
二人のこぶしが触れ合う距離になる。
どちらも、並みの腕ではないようだ。アーレックは、わずかに体をひねることで、執事の刃を交わした。その頬から、ぎりぎりの隙間で、空気を切る、執事の刃。
ひねった勢いで、アーレックはこぶしを叩き込む。
巨大なこぶしが、今度は執事の顔を狙うも、執事もまた、わずかに胸をそむけることでこぶしを交わすことに成功する。余裕の表情が憎らしく、さらに執事は、半身を回転させた勢いで、改めて刃を振るった。
ここで、ねずみは気付く。
執事の持つ刃が、どこかおかしいと。
ナイフの刃が、刃ではない、鞘に納まったままだった。アーレックの目的は捕獲であり、殺害ではない。
対する執事もまた、殺害の意図はないようだ。互いにルールを決めたわけではないが、これが、戦いと言うものか
そこへ、主が声をかけた。
弱々しく、殴り合いの最中には、聞こえるはずのない声だった。
しかし、声は聞こえていた。
もう、やめよう――と
終わってみれば、演舞を見せてもらったような動きだった。
どちらも、優れた技術の持ち主であったおかげかもしれない。そのために、小さな停止の命令にも、即座に従うことが出来たのだ。
念のため、アーレックは距離をとり、タルの横に戻っていた。
執事が、寂しげに振り向く。瞳には、まだ、何とかなるかもしれない。あきらめないで欲しいという気持ちがこもっていた。
「貧しさに………負けんたんだ」
主のフレッドは、かすかに左右に頭を振りながら、告白する。
短かった。
だが、それが全てだろう。
借金を返すために、ニセガネを造ろうとしたと、続けて告白した。もう終わりだ、そんな気持ちで、ニセガネの詰まったタルを見つめていた。
詳しくは出頭してもらってからであるが、突き詰めていけば、そういうことだ。
貧しさに、負けたと。
背後では、私は無関係ですのでと、金の詰まった袋を抱え、借金取りご一行様がお帰りだ。
ガーネックという名前と顔は、覚えた。アーレックも姿と名前を確認しているので、あとで出頭を命じられるはずだ。
「いえ、時代が悪かっただけです………」
主のあきらめに、執事も刃を落とす。
時代が違えば、この執事も武力を振るうことはなく、主を守る、すばらしい執事として人生を終えたはずだ。
落ちぶれ、落ちるところまで行き着いた家を継いだ、最後の当主。それが、フレッド・カーネナイと言う若者だ。
話は後で聞くと、冷たく言い放つことは、アーレックには出来なかった。
それでも、一言だけ言いたくなったようだ。
「いや、あんたら、ねずみに負けたんだろ?」
世間の風が、さびしく吹いていた。
「ちゅぅ~………」
言ってやるなと、ねずみは小さく、鳴いた。




