駄犬と、風船と、ヘイデリッヒちゃん
風船が、大空へと解き放たれた。
本日も、とてもいい天気だ。太陽の力が強すぎて、雲ひとつ見えない快晴である。大空に旅立つには、いいお天気なのだ。
そのための、この季節を選んだといってもいい。そして、風向きもはっきりとしている。獣人の国へと向けて、まっすぐ、そよそよと風が吹く。
駄犬は、見上げていた。
「………ねずみ――も、ご一緒だったのかワン」
路地裏と言う、あまり柄のいいとは言えない場所は、生活空間のすぐ裏側でもある。ゴミ捨てや、奥様たちの噂話が拡散される場所なのだ。
お昼も過ぎた時間帯、駄犬は空を見上げていた。
ポニーテールちゃんも、ご一緒だ。
「言ってましたの、ねずみさぁ~ん――って、お見送りしてましたの」
不思議そうに、空を見上げる。
本日は、とてもいいお天気だ。風船の皆様をお見送りした、それはまだ一時間ほど前のこと。本日は学校行事であるため、お帰りは少し早いのだ。
夏休みは、目前だ。
駄犬ホーネックは、事前にヘイデリッヒお嬢様から教えてもらっていたため、いつもより早い時間帯に、待ち合わせをしていた。
オヤツをせしめるためではない。
口の周りには、もらったクッキーの欠片がついているが、駄犬としての礼儀なのだ。心優しいお嬢様は、いつもカバンにおヤツを忍ばせておいでなのだ。
きっと、駄犬がお腹を空かせているだろうとの、優しさである。その優しさは、むげにしてはいけないのだ。
「お嬢様は、見たのかワン?」
「ううん、みんなは見た、見たって言ってるけど――」
お子様の大騒ぎは、当てにできない。楽しければそれでよく、自分だけ見えていないという仲間はずれが、悔しいのだ。
そして、騒ぐうちに、小さな違和感でも、見たという事実に置き換わる。
だが、きっかけがあるのだ。
「さ、最初に見たのは、どちらのお嬢様なのか、分かるかワン?」
駄犬ホーネックは、緊張する。
ねずみが風船と共に、旅立った。それは、子供らしい、可愛らしい空想と言うことが出来る。
しかし、空想で終わらせることが出来ない事情がある。駄犬ホーネックたちアニマル軍団は、ただいま、行方不明の仲間の捜索中だ。
ねずみ生活、始めました―—
そのねずみが、風船と共に旅立ったと耳にすれば、それはもう、心中はドキドキで、嫌な予感で一杯だ。
基本、情報収集しか出来ないため、どこにいるのかと思っていたのだが………
なお、動けるのはレーゲルお姉さんと、駄犬ホーネックだけである。巨大なクマさんや、ドラゴンの尻尾を生やした女の子が街中を歩けば、騒ぎになる。
魔法のローブを肩にかけ、蝶ネクタイをしたクマさんがいれば、危険だ。
クマさんが、危険だ。
サーカスの団長さんが、おいで、おいで――と、にっこり笑顔で登場する未来しか見えない。
よって、ホーネックは期待する。
いやな予感過ぎて、期待が外れて欲しいと思いつつ――
「えっと、オーゼルちゃんです。私、みましたの、光るカーペットに乗って空を飛んでましたの、この前の夜、見たって言ったでしょ?」
いやな予感は、加速する。
名前は分からなかった、魔法少女の名前が判明した。輝くカーペットと言う表現に、心当たりがいくつもあるだろうか。
緊張の眼差しで、ポニーテールちゃんを見上げる駄犬ホーネック。
「それでね、みんな、今度は見た、見たって………前は信じなかったのに――」
残念ながら、話題がずれていく。ねずみの行方が気がかりだが、魔法少女の話にずれていく。
しかし、お嬢様のお気持ちも、大切であると、お話を聞く駄犬ホーネック。
ここで、慌てて情報を聞き出そうとしては、失礼だ。大切な情報源であり、心やさしいお嬢様なのだ。
ちょっと、勝気なだけだ。
クラスメイトが、魔法少女になった。その話題を最初に手に入れたのに、だれも信じてくれなかった悔しさを、駄犬は慰めたものだ。
「でも、今は信じてくれているんだワン」
「………うん」
横目で、ちらりと空を見る駄犬ホーネック。
雲ひとつなく、怖いくらいの青空は、遠くまで見渡せる。空高く旅立った風船の皆様の姿が、まだ見ることができる。
あと少しでもタイミングが遅れていれば、気付けなかった。風船が飛び去った方向だけでも、重要な情報だ。
そして、魔法の宝石が、カギだ。
魔法の宝石につながるカギは、もう一つあると判明して、さらにドキドキだ。オーゼルお嬢様という人物が持ち主だという、貴重な情報であった。
「空を飛んだお嬢様が、ねずみを見送っていたのかワン?」
「うん、オーゼルちゃん、なにか手に隠してて、そして見送ってたの」
ポニーテールちゃんは、空を見つめていた。
駄犬も、空を見つめる。なんとか、建物の隙間から風船の群れを追いかけることが出来る。さすがに、この距離でねずみを探すことは不可能だ。風船らしきものが、のんびりと漂っているものが見えるだけだ。
いや、風船の旅立ちに立ち会っても、見送る本人達でも、見えたか怪しい。オーゼルお嬢様と言う、ねずみを直接見送ったという、お一人だけだ。
そのお嬢様と、お話をしようか。
すこし真剣に考えながらも、それはねずみ救出の後にすべきだと、獣人の国へと旅立った風船たちを見つめる。なぜか、ちゅ~、ちゅ~――と、パニックになっている仲間の声が聞こえた気がする。
それは、気のせいだ。
駄犬の聴力が人間を超えているといっても、さすがにムリと言う距離だ。お話を聞いたための、勝手な想像である。
あながち、間違ってはいないと思いつつ………
その根拠は、先日の、ねずみとの待ち合わせと、そのあとの騒動だ。宝石を頭上に輝かせて、空中に浮かび上がったのだ。
仲間の一人、ネズリーだと確信した瞬間だった。
ワニさん騒動で、全てが吹き飛んだ。
ドラゴン姉さんの威嚇のおかげか、あるいは、小川から故郷のニオイを感じ取ったのか、そのまま川を上っていったので、騒動は解決した。
みんなで仲良くお見送りをしたのだ。
そして………ねずみを見送った。
せっかく手がかりと合流したというのに、光るカーペットに乗ったお嬢様が、迎えに来てしまったわけだ。
そんなお嬢様が、何人もいるわけがない。
駄犬は、緊張しながら、ポニーテールちゃんを見上げる。
「そ、そのねずみは、宝石と一緒だったのかワン?」
いや、それであれば、もう少し話題に上るはずだ。しかし、お子様達が注目する出来事は、大人と異なるものだ。
後で問われて、あ、そういえば――ということも、おかしくない。
駄犬は、ごくりと見つめる。
「………宝石?」
きょとんとしていた。
ポニーテールちゃんは、どうやらご存じないようだ。
輝く何かがあれば、少しくらい記憶に残っていそうだが、しかし、ねずみと言う単語は、聞き流すには重要すぎた。
その後、駄犬はたわいない会話に混じり、宝石のもう一人の持ち主だろうお嬢様の話を、すこしだけ詳しく聞きだすことに成功した。
いつものように再会の約束をして別れたのは、十分後のことだ。
早く風船を追いかけたい、仲間に知らせたい気持ちを落ち着かせながら、いつもどおりの別れの時となった。
「お話聞いてくれて、ありがとうね、犬さん」
「こちらこそ、いつもお菓子をありがとうだワン」
お茶をする友達。
お話が出来る、不思議な動物。
それが、ポニーテールちゃんの抱く、駄犬への印象であろう。このまま、素直に育ってもらいたいと思いつつ、慌てて走り出す。
「た、たいへんだワン、急いでみんなに知らせるんだワン」
ねずみが、ネズリーが、風船と共に旅立った。
それは、確定らしい。魔法の宝石が一緒なのか、魔法の力で隠すことも、出来るかもしれない。
しかし、いつも宝石と一緒でないのなら、ただのねずみなら?
アニマルモードのまま、万が一があれば、どうなるのだろうか。
先ほどまではのんきな気分だった駄犬ホーネックは、嫌な予感に、焦り始めた。
「大変だワン、ねずみが、空へと旅立ったワン」
心の声が、鳴き声に混じった。
まさかと、驚きながら見つめる人々は、どれほどいただろうか。お昼に、お子様達が騒いだ風船の旅立ちとあわせて、しばらくは、誰かの心に残っていくのだった。




