文字は表現の手段
土日の間、私は新しい世界のことを常に考えさせられた。食事をしている時も部活の時もテレビを見ている時も、果てには数学の世界に入っているときすらも思考の端にはチラチラとノートの文字が浮かんでいた。
しかしそれだけ没頭しても、新しい世界の開拓は少しも進まなかった。視界はほとんどきかず、新しい手掛かりも見つからない。本を開けば視界が開けて、ペンを走らせれば新しい道標が次々に見つかっていく数学の世界とは対照的だ。気づけばすぐに同じところをぐるぐると回っている。
ようやく私が至極当たり前のことに気づいたのは日曜日の夜に自分のベッドに入って薄暗い天井を眺めていた時だった。
椎葉くんのノートはその意思を悟られることを拒否している。もしそうでないのなら、あの対人能力に長けた椎葉くんのことだ、私に直接声をかけているに決まっている。数学の世界が能力と情熱のある人を拒まないのとはこの点で決定的に違う。
椎葉くんが知られたくないこと。
そう考えると、ありえるはずのない自惚れた解が頭の中に浮かんでくる。いやいやいや、冷静になれ。あの椎葉くんだぞ。コミュニケーションに長け、多くの人を引き寄せる椎葉くんが、私にそのような感情を抱く理由が全くない。
そう、私と椎葉くんは平行だ。外国人から見れば近いのかもしれないけど、到底交わるものではない。数で言えば、何倍してもいくつで割っても同じにならない、0と他の数字のようなものだ。その二つを等号で結ぼうと思ったら、たし算のように他の数字の力を使わないと不可能だ。
0と他の数字。例えば、0と1。金曜日に倉田先生が教えてくれた道具を思い出す。本当に世界は0と1で表されるのか。
私と椎葉くんは0と1。0と1は他の数を使わずに等号で結ぶことはできない。だから、椎葉くんが私に特別な感情を抱くということはあり得ない。間に他の人間が挟まれないと無理だ。論理的に考えて、これは間違いのない事実だ。それでも、疑う部分があるとすれば?既知の道具が出てくる。背理法。疑うのならば、仮定。
私と椎葉くんは0と1。そこが違う?もしそうでないとしたら?いやいや、それはあり得ない。仮定と呼ぶには、あまりにもその事実は強固すぎる。
少し考えて、金曜日に倉田先生がくれたもう一つの道具を思い出す。10進法に染まった私たちに、10進法と他の記数法との関係を正しく認識することは難しい。それでも、難しいという事実に真摯になり、結論に飛びつかず、間違っているかもしれないと疑いながらも、一歩一歩進んでいく。
椎葉くんのノートにこの道具を使うとどうなる?私が椎葉くんのノートに書かれた文字の意図を知るのは難しい。ならば、真摯に分かる部分から進めていく。椎葉くんのノートの手掛かりは少ない。結論を疑え。真摯に。
文字に秘められた意味を知るには?文字の意味……。文字は表現の手段。何の表現?意思の表現。椎葉くんのノートに書かれた文字は誰の意思?椎葉くんの意思。では、それを少しずつでも知るためには?
少し、ノートの世界の手掛かりを得る。視野は相変わらず広がっていないけれど、探る方法は見つかった。しかし、それは躊躇われる。数学の世界を切り開くよりも、最初の一歩はずっと勇気のいる行動が必要になる。時間もかかるような気がする。
あまりできる気はしないな、と自嘲したところで、少し気が緩んだのだろうか、私の意識はようやくまどろみに落ちた。