確かに私には時間が止まったように感じられた
会話のキラーパスは人付き合いが得意な人、今風に言えばコミュ力の高い人の方が意外と多いように思う。考えるより先に言葉が出てくるのだろう。私のような存在はそのあたりの反射神経に優れていない。
だから、椎葉くんの周囲に集まった生徒の一人である男子が私に話をふってきたときは、あまり上手に反応できなかった。自分がどんな反応をしたのかも定かでないほど内心で慌てていた。目を丸くしていただろうか、不機嫌な顔をしていただろうか、それとも一番とっつきにくい無表情だっただろうか。
それでもほんの少しの間をおいて、私は自分が数学が好きだという事実を認めた。
それを聞いて、すぐ近くにいたてっぺんからつま先まで曲線しか持ち合わせない可愛らしい女子が、ウチバリバリ文系だから羨ましい、と言葉ほど羨ましくなさそうに言った。
伊織さん毎回ちゃんと質問用紙書いてるよね、と椎葉くんが言う。事実なのだからしっかりと首を縦に動かせばいいのに、私はなぜか曖昧な感じに返事をした。
周囲からほとんど書いたことがないという声が口々に上がると、私はこれまたなぜか俯いた。
いや、俺だってできるだけ書くけどな、と椎葉くんが言った。
一瞬時間が止まる。いや、私が止まったように感じただけかもしれない。
実際、赤点ギリギリの椎葉がかよ、と茶化す声が入って、それは言わないでおけよ、と椎葉くんがすかさず軽いリアクションをとって、すぐに先ほどまでと同じ温度で会話が続けられた。
傍から見れば、何の問題もなく話は進行していたのかもしれない。しかし、確かに私には時間が止まったように感じられた。
「椎葉くんも、質問用紙書くんだ」心の中の声が脳内で流れる。
倉田先生が教室に入ってきた。
数学の時間の始まりを告げるチャイムが鳴り、椎葉くんの周りにいた生徒たちも自分の席へと散っていく。
起立、礼。私はサッと座る。
倉田先生は前回までの内容を言葉で振り返りながら、いつものように質問用紙を先頭の生徒に配る。授業の終わりとは逆方向に人間ベルトコンベアが回り始める。
椎葉くんの手に渡った質問用紙は、数を-1されて私へと渡される。椎葉くんがさりげなく、はい、と言って用紙を渡し、私は受け取る。
「ありがとう」
無意識の言葉だった。
その自分の言葉に、ここ数日抱いていた疑問の解答を見つける。
いや、まさか。
そんなわけはないだろう。
自意識過剰だ。だいたい、椎葉くんがそんなものをメモする理由がない。私が覚えていないような事実を、いったいなぜ。
だが、心のどこかでは確信めいたものを感じてしまっている自分がいる。
私が混乱している間に、板書が始まっていた。方程式の整数解を求める方法。大丈夫、以前自分で学習した内容だ。覚えている。
板書は見える。倉田先生の声も聞こえる。だが、思考は数学の世界に浸っていかない。潜り込むことに失敗し、表面を滑っていっている気がする。なんだこれは。
それでも、時間はやはり刻一刻と流れていた。いつもと同じ感覚を取り戻すのに十五分ほどを要する。授業内容は判別式を利用した値の絞り込みに入っていた。
不安になり、それまでにやっていた内容がきちんと頭に入っているか確認をしてみる。大丈夫。文字式と自然数を両辺に整理した不等式にもち込み、値を絞る。以前学習した通りだし、倉田先生の説明でよりクリアになっている。
しかし、冷静さを取り戻しても、椎葉くんが質問用紙を受け取った時の私の反応をメモしていた理由は分からない。
今日の椎葉くんのノートが見たい。本当にそこに「ありがとう」と書いてあるだろうか。違っていたほうが良いような気がする。そうだったら、気のせいかと思って、また徐々にそのことが記憶の片隅へと移動していってくれるのではないだろうか。
しかしやはり、ノートは見えない。広い背中の向こう側に隠されてしまっている。その大きな体をどけて、と心の中で叫ぶ。
授業が終わる。頭の中では不定方程式の解法パターンが家で勉強した時よりもすっきりとまとまっている。ただ、私の質問用紙は初めて白紙のまま回収されていった。