夏の終わりに付き合う話。
「生きているのが嫌になった」
そんなことを言った夏は、周りの大人たちに叱られた。
そんなことを言うもんじゃない。生きたくても生きられない人がいるんだぞ。命を粗末に扱うな。
そして、ある大人からは心配された。
なにか辛いことでもあるのか。周りに話してみろ、きっと味方になってくれる。苦しいことがあるなら話してくれ。
そして、励まされた。
生きていればいいことがあるよ。辛いことから逃げてもいいんだよ。生きているのが苦しいときは誰にでもあるから大丈夫、乗り越えられるよ。
大人たちが共通して言うこと。
それは、「だから、死なないで」。
僕はその異様な光景を目にしてしまった。夏を囲んで、必死に生きることを強要する大人たちは夏の気持ちなんてこれっぽっちも考えていない。
ただ、無感情に言葉を聞き流す夏は、とてもつまらなさそうにしていた。
「おかしいよね」
「なにが?」
「大人って。生きているのが嫌になったって言っただけなのに、なにか辛いことがあるって勝手に決めつけてる」
夏は大きくため息をつく。
「夏はどうしてそんなこと言ったの」
「由紀も同じこと言う?」
「んーん、ただの興味」
ガタン、ゴトンと揺れる電車には僕達二人しか乗っていない。夏休みが終わった学校で起きた小さな事件。大人たちが勝手に事件に仕立て上げただけだけど、僕達はその事件の当事者だった。でも、釈明と対応が面倒になったから。遊びに行くという名目で、海の近くの展望台に足を運んでいる途中だ。
夏休み中はたくさんの人で賑わっていた電車も、終わってしまうと人がいなくなる。秋になったらまた、景色を見に来る人が集まってくるのかな。人混みや人の騒音を考えると、この時期に来た僕達は丁度いいときに来たのかもしれない。
ガタン、ゴトン。ガタン、ゴトン。
静かにしていた夏の考えがようやっとまとまったのか、答えてくれる。
「ただ、そう思っただけ」
「ふーん」
時間をかけて考えた割に、なんのひねりもない。
「死にたくないって言うと、普通とか当たり前って言われるしさ、何を言ってるんだ、言わなくてもわかってるってなるじゃん」
「あー、なるね。ドラマとかでよく見るやつだ」
「うん。でも、生きたくないって言うと、今度は話せって言うじゃん」
「言われてたね、夏」
「同じように思って、同じように言っただけなのに。変なの」
終着駅につく。目的地の展望台はここから歩いて二十分だ。
「でもさ、大人たちからあれこれ言われているとね」
うん。
「本当に生きていくのが嫌になっちゃった」
うん。
「こんな大人になるように育てられているのかーって。こういうのが子どもっぽいって言われるのかな」
どちらかといえば大人だと思う。
「別に生きていてもいいんだけど、生きるのは、選ばなくてもできるし」
うん。
「だから生きないってことを選択するのもいいなって思ったんだよね」
生きていたいのに生きられない人もいるんだぞ、命は大切にしなさい。申し訳ないと思わないのか。
夏は答えた。
「思わない」
生きたいと願う人がいるように、生きたくないと願う人もいる。
その人が願いを叶えようと努力することは、そんなに悪いことで、他人の気持ちのために自分を押し殺さなくちゃいけないの?
「人として間違っているのかもね」
夏は笑った。僕には笑う夏がとても綺麗に見えた。
間違っていると考える人も、常識も。僕の前で全部取り払ってくれる。だから僕も、夏の前では好きに生きていられるんだ。
「夏の父さんと母さんは?」
「悲しむんじゃないかな。せっかくここまで育てた子供がいなくなるんだもん。思い出の品が無くなるわけだしね」
夏は全部考えた上で選んだんだ。だったら僕から言えることはなにもない。
「由紀も悲しい?」
「友達がいなくなるからね」
「そっけないなー」
「おじいちゃんがいなくなった時、悲しかったけど今は普通だよ。だから、悲しいけどなんとかなるかなって。引き止めてほしかった?」
「だから一緒に来たんだよ。由紀が引き止めるなんて野暮な真似しないこともわかってた」
展望台の見晴らしはとてもいい。来てよかった。
夏は僕の手に手紙を握らせた。夏休み前にもらった作文用紙。
「これは?」
「遺書。流石に親ぐらいには言わないとでしょ」
「怒られちゃうね」
「怒られるのも嫌いだからね」
二人でクスクスと笑いあった。夏は展望台の柵を超えて崖に立つ。
「怖くない?」
「むしろ楽しみ。ご苦労をかけるね」
「なにそれ」
「言ってみたかっただけ」
どこまで行っても夏は夏だ。ツクツクボウシが鳴っている。太陽の光も暑い。季節は終わりのはずなのに、どこまでも夏だった。僕は夏の世の虜なのかもしれない。
「終わりの最後まで付き合ってくれてありがとう」
「友達だからね」
「じゃあね。由紀も頑張って」
「夏も、ありがとう。じゃあね」
明日また学校で。そんな言葉が続きそうな流れを最後に、僕達は別れを告げた。
夏の終わり、僕はその瞬間を目の当たりにした。
夏は思った。
体中が痛い。息ができなくて苦しい。
こんなこと二度とするもんか。
そう思ったけれど、ここで死んだら二度目はないと思ったら、途端に愉快になった。最後にこんな経験ができたんだ。なんとも悪くない。
夏はこのまま助けが来ないことを祈る。
由紀には迷惑をかけたかな。絶対大変だろうに本人は気づいていないところが可笑しい。
嫌なことも苦しいことも辛いことも、私よりたくさんしている筈なのに、本人はそんなもんだと思っているから誰も気づかない。
本人も、周りも。だから、大変だろうなとは思うけど、由紀ならなんとかするんだろうなとも思う。
もし、このあと由紀と話すことができたなら、これだけは伝えておかなくっちゃ。
飛び降りてから死ぬのは痛くて苦しくって大変だぞ。私は二度と経験したくない。由紀もしなくていいならしない方がいいぞ、って。
そしたらきっと、由紀は笑って「そうなんだ」って返してくれる。
夏がいなくなってから時間が経った。僕はすることもなく、同じ場所に立っていた。
帰りの電車の時間を見ていないな。お金は足りるだろうか。ああ、きっと足りるだろうけど今月は大変だな。暑くて倒れてしまいそうだ。
展望台に登ったときには真上にいた太陽が、夕日の橙に染まるとき、たまたま通りかかった男の人が声をかけてきた。
「坊、どうした。夏休みか。一人でここに来たのか」
喉が渇いて声が出ない僕は、返事をしない。振り向いて男の人を見上げると足元がぐらつき後ろの柵に手をついた。そのまま、何も発さずじっと男性を見つめていると、その人は困ったような顔をした。
「だんまりは困るんだがなあ」
男の人は手がかりがないかを探るように僕の手元へ視線を下ろすと、持っている紙に気がついた。これは?と屈むようにして中を覗いたのだろう。
途端に驚いた顔をして、大きな声で叫んだ。
「おい、自殺はいけねえ。ちょ、待て、こんなの想像してないぞ。と、とりあえず警察、いや止めるか。おい、おめえ、熱あるぞ!」
慌ただしいことこの上ない。僕は自殺なんてする気がないのに、男の人は僕の腕を掴んで展望台の柵から引き離した。
その腕と体が暑かったのだろう。直射日光に照らされ続けた体温を知ると、すぐに「救急車!」と叫んで電話をかける。
騒いでいる男性の声を聞きつけてやってきた人たち。男性はその人たちにも声をかけて警察まで呼んでしまった。
だから、僕は自殺なんてする気がないのに。
救急隊の人から運ばれて病院へ。軽度の熱中症だと点滴を打たれて待っていたら、母さんと父さんが来た。慌ただしく入ってきた両親に、とても心配させたようだと考えた僕は、ごめんなさいと素直に謝る。僕の様子を見た父さんが、息をつくように言った。
「今日はなっちゃんと遊びに行っていたんだろ? なっちゃんはどうしたんだ?」
今日はどうだった?
毎日の質問と同じように、どうして一人なのか、という疑問を投げかけてくる父さん。母さんは父さんの言葉を聞いて、抱きしめていた僕から体を離すと、血の引いたような顔色になっていた。
母さんは警察から僕がどういう状況で発見されたのか聞いているらしい。母さんの感じた嫌な予感というものを僕は肌でひしひしと感じてしまっていた。
「由紀、もしかして夏ちゃんは」
「うん。母さんが想像している通りだと思う」
「そんな……まさか……」
母さんが僕の腕をしっかりと掴むと、ぎゅっとした圧迫感で腕がどくどくと脈打っているのがわかる。指先がしびれる感覚がして、身じろいだ。
「母さん、痛い」
「あ、ごめんなさい……っ」
ぱっと腕を離される。一連の動作を経て、父さんもやっと母さんと同じ考えに至ったらしい。いつもの顔色が、さーっと青ざめていった。
僕達家族の話を聞いていた警察官が、僕の側にやってきて膝をつく。宥めるように、刺激しないように話しかけてくるから、どうしてこんなに気を使われているんだろうと思ってしまった。
「君以外にも、あの場所には人がいたのかい?」
うん。僕は声を出さずにコクリと頷く。
「その子はどうしたのかな」
「いなくなった」
僕の返事を聞いた警察官は、息を呑むようにして僕を見た。そんなにおかしなことは言っていないはずなんだけど。
その人の後ろから、別の警察官が声をかける。夏が僕に託した原稿用紙。言葉が出ないその人に、紙を手渡して、中を見てください、と言っていた。
上から下まで目を通した警察官は驚いたように僕を見る。
「まさか、君が」
警察官の人が尋ね切る前に、病室の扉が大きな音を立てて開いた。
「どうして、何で止めてくれなかったの……この、人殺し!」
「勝手に入らないでください!」
外から入ってきたのは、夏の母親だった。甲高い金切り声で叫びながら、その声は僕を非難する。
「夏がしそうなことくらいわかってたんでしょ」
わかってた。
「由紀君だって夏のことが好きだったんでしょ」
好きだった。
「男の子に止められれば夏だって……なのに!」
男とか女とか関係ないと思う。
「無理にでも止めればよかったのよ! 生きてさえいれば、いいことだって沢山あったはずなのに!」
夏の母親は体を抑えられながらも喚き立てる。男の子の力なら、止めることくらいできたでしょ!と叫ぶ。
それよりも、夏の母さんは何か勘違いをしている。だって、僕は。
「男の子、男の子って、由紀は女です! 勝手な言いがかりでうちの子を傷つけないで!」
母さんが反論した。どこか怯えるように、でもしっかりと噛みつく姿で。震える体を父さんに抱えてもらいながら一生懸命に抵抗する。
「なによ、由紀くんは、由紀君でしょ、それなら」
「そもそも夏ちゃんがいなくなったのだって、由紀が悪いわけじゃ……」
ボロボロと涙をこぼす母さんの言葉はそれ以上続かなかった。
一部始終の事態を見ていた警察は状況を理解していないようで、ヒステリックに叫ぶ母さんたちを見るばかりだ。
「えっと、由紀君と、夏さんと、お母さんと。結局その、夏さんは自ら」
「夏だってあんなこと言っていたけど、本当に自殺をしたい訳ないじゃない! ただ、あの子は、好奇心が強いから」
夏の母親なのに、夏のことをわかってあげようとしない人なんだ。僕は少しだけ、夏のことを不憫に思った。
「夏の母さんにこれ、夏から」
警察官の人が持っていた夏の手紙を奪い取って、僕は夏に母親に手渡した。夏の母親は僕の手から怯えるように受け取ると、ゆっくりと大粒の涙を流した。
後ろでは僕の母さんが泣き崩れ、父さんはそれを宥めている。目の前では夏の母親が手紙を読んで声を押し殺している。端では狼狽えた警察官と騒ぎを聞きつけた医師が困惑したように話をしていた。中心に立つ僕はどこにも溶け込めないまま立ちすくんでいる。
夏が言っていた通り、僕は今苦労をかけられているのかもしれない。そして、夏が愛されていると実感すると共に、こんな大人たちのようになるために勉強をしているんだな、そうなるように望まれているんだなという夏の言葉がすとん、と胸に降りてきた。
僕を疑って自事情聴取をした警察は、全貌を理解すると今度は可哀想なものを見る目でこう言った。
「今は辛いだろうけど、乗り越えるんだよ」
夏の母親は僕の顔を見るたびに縋るように言う。
「由紀君は、夏の分まで生きて」
点滴を外したお医者さんは、僕の状態を見て言った。
「生きていてよかったね」
学校の先生は淡々と学校に通う僕の様子を見て安心していた。
母さんは僕に言う。小さいときから何度も言われた言葉。肩にあざができるほど大事に大事に抱きしめて、母さんは言う。
「由紀が無事で良かった。女の子なんだから無茶しないでね。母さんは由紀を愛しているわ」
父さんは僕の耳元で言う。母さんを悲しませたくないと、教えながら。
「由紀は自分の生きたいように生きるといい。母さんは女の子であることを望んでいるが、お前がなりたかったのは男なんだろう。周りは、協力してくれる、好きに生きなさい」
担任の先生は、僕を抱きしめてこう言った。今回の事件が大事になって辛いと思っているのだろう。
「無理はするな、辛かったな。嫌なことは全て忘れていい。俺がお前を守ってやる」
夏がいなくなってからの担任は、憑物が取れたように僕の体を抱いた。僕が先生に抱かれている間は、本当に何も考えなくていい時間だった。夏がいなくなって、ポッカリと空いた隙間を、先生は気づいて埋めてくれた。僕が僕であるために努力することを忘れさせてくれる時間を、先生は作ってくれた。
ときおり、夏がいなくなって好きにできるようになった、と呟いているけれど、夏はそんなに手のかかる生徒だったのだろうか。まあ、そうだろうな。先生受けは悪いかもしれない。
「ああ、由紀、最高だ」
ねえ、夏。夏は生きるのが嫌になったと言っていたね。
夏がいなくなってから、僕は大人に生きることを強制されているよ。でも僕は、夏のように生きないことを選択はできそうにない。
夏とは違って、僕は僕でありたいと思うから。夏のように愛されていたいと思うから。実感していたいから。
死を選んだ夏も、生を選んだ僕も、どっちも間違ってないって夏は肯定してくれるかな。夏らしい最後を見届けて思ったんだ。僕は流されて生きていこうと。
生きるも死ぬも自分で選ぶのは怖いから。何も選ばず生きていってみたい。
またどこかで会うことがあったら、また話をしよう。それが来世なのか、今世なのかわからないけれど。僕は生きていくことを選んだから、きっともっと先の話。
夏の最後に僕を付き合わせてくれて、由紀を選んでくれて、本当にありがとう。僕は夏のいなくなった、当たり前になった日常を生きていきます。
また、どこかで。じゃあね、夏。
夏休み開けに提出した作文用紙。規定の文字数に達してないまま賞を取った夏の作品の隣には僕の文章が並んでいる。
「続きものの作品みたいだね」
先生たちから言われた言葉。そうだね。だって僕達は、最後まで友達だったからね。