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第六章&エピローグ


 Ⅵ.黄昏の刻。


 花の金曜日を自己嫌悪のうちに終えた俺は、土日もなにをするでもなく、ぼんやりとして過ごした。緋色に会いにいこうと思えばできた。海咲の家は行ったことはないけれど、住所は知っている。

 だけど、探すのも面倒だったし――第一、どんな顔をして緋色に会えばいいのか、わからなかった。

 10月もすでに後半に入っていた。タイムリミット――10月31日は近い。

死ぬ気なんてさらさらない。なのに、延々と考え続ける自分がいた。

 そのまま、数日が過ぎた。

 緋色は学校を休みっぱなしで、海咲も来てはいるけれど俺を無視し続けた。

 花音はいつも通りだったけれど、やたら眠いようで話す機会が掴めない。あきほはそんな花音の隣でマイペースに菓子を食べている。

 そんな状態でいるもんだから、むしろ周りの奴らが鬱陶しかった。

 小松が神妙な表情で、

「昌國……いとこ同士は、結婚できるからな?」

 含みのある口調で重々しく言ってきたかと思うと、それを聞いたたっつーが、

「なぬ!? では昌國と阿久間さんは結婚可能なんだな!」

 轟くような大声で補足してくれやがり、そのせいで女子の一部が、

「やっぱり……! あのふたりってそういうオトナなカンケイ」

「シーッ! あんまり人様の事情に首突っ込まないの!」

「じゃあ阿久間っちが休みなのってやっぱり――」

「だからシーッ!」

 と騒ぎだしたり。

(……もうヤダ)

 とりあえず俺は努めて、近寄るなオーラを放ちながら、無言を貫き通した。

 よっぽど人相が悪くなっていたのか、クラスメイトらしき女子とドアのところで鉢合わせした際に悲鳴をあげられてしまったのはちょっとショックだったが。


 再び金曜日が巡ってきて、放課後。教室を出ようとしたところを海咲に捕まえられ、あとをついていく。

 すでに校門は遥か後方、様々な店の溢れる大通りをひたすら進む。

 雑貨屋のショーウィンドウにオレンジ色を基調としたハロウィーンのグッズが並んでいるのを見て、足が止まりそうになる。いつもは興味がないからと、目をそらしていたのに、今日はいやに目についた。

 もうすぐ、10月31日。

 答えは出せるのだろうか。

「なあ、どこ行くんだ?」

「あたしん家」

「……ですよねー」

 気を紛らわそうと海咲に問うと怖いほど冷めたお声が返ってきたので、それきり口をつぐんだ。

 自転車通学の海咲は、わざわざ自転車を押して歩いている。普段のこいつなら、問答無用で「走ってついてこい」と言いそうなものなのに。

 歩くこと、およそ30分。

「はー……」

 初めて見た華宮邸は、さすがと言うべきか、こんなのがここらにあったんだな、と感嘆する立派さだった。

 その存在に気づく者はなかなかいないだろう、静かな住宅街のそのまた奥にあるお屋敷。外観は高さのある和風の平屋で、その古さはボロいなんて言葉よりも貫禄と表したほうがいいだろう。

 純和風かと思いきや、鉄門からして洋風である。たしか、明治から続く家柄だとか、噂で聞いたような……。

「なにやってんのー。さっさとあがれ」

「すまんすまん。おじゃましまーす……」

 おそるおそる足を踏み入れると、中は意外にも洋風だ。外見は日本家屋って感じだったけど……天井も高い。

 迷路のように入り組んだ広い廊下をひたひたと歩き、廊下の突き当たりまで来た。

 目の前には大きなドア。草花を模した細かなレリーフが施された、深みのある落ち着いた茶色の木製の扉は気品さと……先にある部屋が庇護されし場所なのだという空気を醸しだしている。

「ここか?」

 意味もなく小声で問う。なにせこの家、静かすぎるのだ。

 こんなに広い屋敷なんだから、誰かいてもおかしくはないのに……毎日海咲の弁当をつくっている六十歳のスーパー家政婦さんとか。

 海咲は金のドアノブに手をかけると振り返り、

「ん。とっとと入った入った。あ、お手伝いさんたちは、みんな今日は休みにしてもらったから。ごゆっくり~」

「え?」

 ごゆっくりって?

 聞き返そうとすると、海咲は無造作にドアノブを回して引っ張り、音も立てずに開いたドアから俺を部屋のなかに押し込んだ。

「わだっ」

 背中を思いきり押され、つんのめってやわらかな絨毯に手をついた。背後でドアの閉まる音。

 え? 海咲は来ないのかよ。

(いらんお節介だな……ったく)

 ふう、と息をついて立ち上がり、部屋のなかを見回す。これまた広い。教室よりも広い。

 客間なのか、やたらでかいベッドと、あとは棚とテーブル、椅子くらいしかない。壁のあれはテレビか? 壁が黒くなってるのかと思ったわ。

 テーブルの上には、高価そうな白いティーポットが置かれている。中身の入っていないカップもひとつ。

 そして部屋の客分たる少女は、窓のところにこちらに背を向けて立っていた。

 シンプルなレモンイエローのパジャマの背中を、寝癖なのかところどころが跳ねた長い黒髪がこぼれ落ちている。

 その後ろ姿が目にはいったとたん、微かに――違和感がした。

(いや、違和感ってなんだよ)

 自問しても答えは出ず、漠然としたそれが、胸の奥にわだかまる。

「……緋色」

 ひとまず気にしないことにして、ちいさな背中に呼びかける。

「昌國」

 振り返った緋色は、少しだけ口角を上げて微笑んだ。

「っ」

(なんだ、今の――)

 また違和感、が。消えない。

 その表情のまま、緋色は近づいてくる。

 一歩、一歩。距離が縮まるにつれて、ドクン――ッ動悸が激しくなる。

 緋色は近くまで来ると、立ち止まった。

「なにヘンな顔してるのよ。どうかした?」

「あ、いや……その、この間は、ごめんな? 俺、その、アレ……知らなくて」

「アレ?」

 ふと首をかしげ、すぐに「ああ」とうなずく。

「あ、アレは……しかたないわよ、海咲も、そう言ってたし。昌國は気にしなくていいわ」

「そ、そうか」

 顔を赤らめてそっぽをむいた緋色に、安心する。

 安心? 安心ってなんだ?

(ちょっと待てよ)

 俺は今日、なにをしに来たんだ?

 そんなことを謝るために?

 違う。

 違うのに、わからない。

 わからないけど、胸がざわざわする。

「このベッドへんなのよね。上に布が張ってあるの」

「ああ、天蓋付き……ってやつだろ」

 ベッドのそばまで移動した緋色は、やたらと話を振ってきた。

 部屋にあるもののこと。超大画面テレビで観たバラエティー番組のこと。学校のこと。通学路の子猫たちのこと……。

 ふたりだけでこんなに話したのははじめてじゃないだろうかというくらい、緋色はよくしゃべった。

 だけど、どこかその表情は空っぽなかんじがして。

 冗談混じりに訊いてみる。

「なあ、おまえ、そんなにはしゃいでて大丈夫か? 海咲から病み上がりみたいに聞いたぞ」

実際は違うけれど。

『スッゴい落ち込んで――』

 海咲の険しい顔が浮かぶ。

『混乱してた』

 俺の思い過ごしかもしれない。もう一週間も経ったんだ、元に戻っていてもおかしくはない。

 でも、今日の緋色はどこかおかしい。根拠はないけど、そう思った。

 緋色は顔を伏せた。そして顔をあげたとき、俺を見上げるその表情は変わっていた。

ようやく気づく。いつもの髪留めが、ない。

「昌國、私に殺されなさい」

 何度も聞いた台詞。

 唇をきっと結んで、オレンジ色の瞳が見据えてくる。

 そして俺は、

「……今はまだ、答えられない」

 はじめて――答えを示さなかった。

 それは本当の言葉だった。

 いつものように、「だが断る」とか「慎んでお断わりします」とか、受け流すことはできた。けどしなかった。

 緋色はすっと無表情になり、「……そう」と呟いたかと思うと、おもむろにパジャマのボタンに手をかけた。

「は? おい、なにして――」

 俺がうろたえている間に、緋色は淡々と前のボタンをすべて外した。

 当然ながらパジャマが少しはだけ、その下にあるものがあらわになる。

「おまえ……風邪引くぞ?」

 目を剥き、すぐに視線をそらした俺の口から出たのは、そんな現実的な言葉。

 緋色は下着を着ていなかった。

 透けるように白い肌が、鎖骨からへそにかけて晒されている。

「待て待て、着替えるなら出ていくからさ――」

「その必要はないわ。着替えるんじゃないもの」

「緋色、おまえ……」

彼女がなにを考えているのか――思い当たってしまった俺は数歩あとずさった。

「逃げないで」

 緋色は左手で上着の前を掻き合わせ、にじり寄ってくる。

そして、予想通りの台詞を口にした。

「殺されてよ。私を……好きにして、いいから。『汚れた娘』だけれど、その、純潔、ではあるわ」

「……本気で言ってんのか?」

 こくりと、肯定の動作。

 それは、今まで緋色が一度も使わなかった手。単に思いつかないのか、年齢的にそんなことまでする覚悟はないのかと思っていた、奥の手。

 甘い(ハニートラップ)、どころじゃない。自分自身を……取引の道具にするっていうのか。

 半開きにした目と薄く開いたさくらんぼ色の唇は、大人の女の色香をただよわせている。甘い香りのするやわらかそうな肌がすぐそこにあって――俺は急に喉の渇きを覚えた。

 魔女。今の緋色はまさにそんな雰囲気だった。男を惑わせる魅力を持った、魔性の存在――。頭がくらくらして、目の前の可憐な花を蹂躙したいという衝動に駆られる。

けれど、気づいた。少女の橙色の瞳には焦燥が滲み、不安げに揺れているのだ。呼吸も整っていない。

 ゆっくり息を吸う。不思議と頭はひどく冷静になり、やがてひとつの答えを導きだした。

「ふーん。じゃ、遠慮なく」

「っ!」

 わざと冷たい声で告げ、細い手首を掴んで小柄な体躯をベッドに押し倒す。両手にひんやりとした手触り。冷え症なのだろうか。

 スプリングのきいたベッドが、ぎしりと音をたてる。

 緋色の黒髪がシーツの上に扇のようにばさりと広がった。

 難なく組み敷いた相手の顔を見下ろすと、目をぎゅっと瞑って唇を噛みしめ、体を固くしている。

 こんなに細くて。力もなくて。なのにどうして。

(どうしてだよ……っ)

 俺は無性に腹が立って――乱暴に、首筋に唇を這わせた。

 緋色が身を震わせる。

(なんで――)

 顔は朱に染まって、からだはかたかたと震えているのに。

 口も目も固く閉じて、抵抗しない。

「……ばか」

 呟き、するりと、なめらかな肌の鎖骨の部分に手をすべり込ませた、そのとき。

「っや……ッ!」

 緋色の声が、聞こえた。反射的に出たのだろう、『嫌がる声』が。

 俺は掴んでいた腕を離すと、上着の前を合わせてやり身を引いた。

「……え?」

 緋色がおそるおそる目を開ける。それを見て、ああ、本当にこわかったんだな、と実感する。

 緋色は混乱した様子で、

「な、なんで――」

「嫌、なんだろ? だったらするか、ばか」

「なっ……!」

「簡単にそういうことさせんなよ。もっと自分を大事にしろ」

 ベッドの端に腰掛けそう言うと、体育座りをした緋色はくるりと背を向けてしまった。

「……大事にしろって? 大事にする価値なんてないわよ、私なんて」

 低いその声は、感情を押し殺しているように聞こえた。

「価値って……そんなわけ」

「あるの!」

 鋭く叫ぶと、緋色は背を向けたまま、ボタンを外していた上着をするりと肩脱ぎした。ぎょっとして、慌ててひねっていた上体を前に戻す。

 さっきはあんなことしたけど……あれはそう、その場の勢いというか。もう一度同じことをしろと言われても、演技だったとはいえ一生できない自信がある。

 急に冷や汗がでてきた。緋色の怒ったような声が届く。

「そのまま! こ、こっちを見なさい」

「え、や、でも」

「いいから!」

(せ、背中しか見えないはず、だよな……?)

 迷いながらそうっと振り返り、

「おまえ、それ……っ!」

 目に入ったものに息をのんだ。

 長い髪は体の前の方へ流され、その流麗な線を描く背中が隠されることなく見えた。

 ……痣や傷だらけの肌が。

 まるでそこであればバレないと、隠すかのように、背中だけが痛めつけられていた。白かったのであろう肌はどす黒く、または紫に変色し、赤や緑が散り……傷痕が生々しく残っている。

「……私は、見てのとおり、こういう存在よ。『汚れた娘』。魔力が強くて、大抵の怪我はすぐ治るから……でも、背中のは絶対に治らないの」

 はっとする。文化祭の後、海咲が緋色に猛反対されてお蔵入りになったという衣装の図案を見せてきたことがあった。そのすべてが、採用されたものよりも露出の多い……いや、露出は少なくても、背中が見えるデザインだったのだ。

 永久に消えない呪いの痣を、隠したかったからなのか。

 緋色はパジャマを羽織りなおすと、首をかたむけてこちらを向き、目を細め自嘲の笑みを浮かべた。

「こんなカラダ、大事にする価値、あるのかしら」

「あるさ」

 俺は迷うことなく答えた。

「どうしてそう言い切れるのよ」

「知らん。知るか。理由なんてどうでもいいだろ」

 体ごとこちらを向いて睨んでくる緋色に、俺も不機嫌さを隠さず応じる。

「どうでもいいって……なによそれ……っ」

 緋色の顔がゆがむ。あの雨の日のように。

 シーツについた両手が、ぐっと握り締められるのが見えた。瞳が儚げに揺れ、長いまつげが震える。

 また、あのときみたいになるのか? なにも答えられないで、泣かせることに――

(そんなの――)

 嫌だ。

 なにか枷が、外れたような心地がした。そして考えるより早く、身体が勝手に動いた。

「――え。な、なな、なにして……っ!」

 ギシッ、とベッドが突然の行動に抗議するように唸った。

 気づけば俺は、緋色の背中に手を回して……抱きしめていた。

 腕のなかにすっぽりとおさまった緋色のちいさな身体が、かあっと熱くなるのが伝わってくる。

「は、はなはなはな離れなさい」

 壊れたラジカセみたいな声を出す緋色に、

「こうしたいと思ったから。なにか悪いか」

「悪いわっ! な、なんで……」

 間髪入れず怒鳴る緋色。顔は見えないけれど、きっとまた真っ赤になっているのだろう。

 理由? そんなの。

 緋色が今にも消えてしまいそうなほど、淋しそうに見えたから。

 だから、抱きしめずにいられなかった。

「おまえをどうでもいいなんて思ってねえよ。ひとりにしてごめんな……淋しかったよな」

 あの記憶を観せられた今ならわかる。

 三年間、彼女はずっと独りぼっちだったのに。

「そ、そんなこと……っ。ま、昌國がそう言うなら、そういうことにしといてあげるわ」

 強がりな彼女は、それでも強がって。虚勢をはって。

 涙すら流さずに。赤い月をからっぽの瞳で見上げて。脆く、壊れそうな心を守っていたのだ。

「……淋しかった」

 ぽつり、と漏らされた呟きは波紋を生み、次第に雨足を強め……やがて土砂降りの雨へと変わる。

「淋しかったわよ……。アムリタもいなくなって、ルーちゃんも変わっちゃって、みんな、みんな、遠くなっちゃった。でも、院長さまが『強く在りなさい』って、言ってたから……ずっと、泣いたりしないように……っ。でも、だけど、私はっ、私は――ずっと、悲しくて、痛くて、淋しかった! 淋しくて、死んじゃおうかって何度も思った! ひとりは嫌……っ嫌なのッ!!」

 悲鳴にも似た叫びに、胸がずきりと痛んだ。剥き出しの感情が、その声に痛いほど表れる。

 サミシイ。

 それは、誰もが抱く感情で。でも、彼女には抱きしめて安心させてくれる相手が、いなかった。

 不安を拭い去ってくれる相手――「大丈夫」と一言、言ってくれる相手が。

 緋色はまるで、冷たい雨のなかでひとりきり、膝を抱えて震えている子どものようだった。

「大丈夫。大丈夫だから……な、緋色。大丈夫」

 ちいさな少女を、優しく包み込むように――でもしっかりと、抱き締める。

「私は昌國に、私のこと、知って欲しかった……! だから、あの日、そう思った、だけなのに……っ。魔術、発動しちゃって……ごめん、なさい」

 突然の告白に、どきりとする。

 過去の記憶の世界。

 ルシファーは言っていた、俺たちが喚ばれたのは、緋色が憎しみを抱いている相手だからだと。

「え? てっきり、恨まれてるからかと――」

「そんなわけないじゃない! ばかぁ!」

 おずおずと口にすると、背中を抗議するように叩かれた。強くはないけれど、連打は地味に痛い。

「ただ、知ってもらいたいって……それだけ……だったのに。め、迷惑だったわよね」

 弱々しいちいさな声に、首を振った。

 そんなことはない。

「まったく気にしてないってわけでもねえけど……俺も、おまえのことを知ることができたのは、悪いことじゃない……と思ってる。こないだはちょっと頭にきて……キツいこと言っちまったな。すまん」

 なんだか、謝ってばかりな気がするな、俺。

 謝って許されることばかりじゃないけど……伝えたいことは、言わなければ伝わらない。それを知ったから。

 だから――

「緋色」

 呼びかけると、緋色は小声で「……なによ」と訊いてきた。

「舞子先生は、俺の初恋の人で、兄ちゃんの恋人だったんだ」

「え……」

 緋色がほうけたような声をもらす。

(まあ、変だと思うよな、ふつう)

 軽蔑されるかもしれない。あんなゆがんだ感情を、罪を、知られたら。

 それでも、過去を曝け出してくれた彼女に、報いたいと思った。

 だから、もう隠さない。誤魔化さない。本当のことを、告白する。

 外は夕暮れが近いのだろうか、窓から射し込んだ西日が部屋全体に広がっているように、空気はやわらかな金色に染まっていた。

 離れたほうがいいかと問うと、少し間が空いたあと「ど、どうしてもって言うんなら、このままでも構わないわよ」と返されたので、そのまま話しだした。

 この温もりをはなしたら――この時間が終わったら、きっと臆病な俺は話せない。そんな予感がしたから。

 時計の針の微かな音だけが、静かな部屋に時間の流れを告げる。

 やわらかな温かみ、それと二人分の心音を感じながら、俺はゆっくりと、話しはじめた。

春に出会った、儚い花のような女性のことを。

 彼女に恋をして……でもそれは叶わない想いで。気持ちを伝えられないまま、時間だけが過ぎて――夏の事件。結局、誰も幸せにならなかった。滑稽な結末。

 なのに、再会してしまった。傷ついて心を壊した、変わってしまった彼女と。

記憶を振り返る間、不思議とこれまでみたいに刺すような胸の痛みは、なかった。静かな切なさだけがあった。

「――それから、舞子先生にときどき呼び出されて、会いに行くようになった。理由なんて特になくて……罪滅ぼしだと、思ってた。先生は、俺のせいで兄ちゃんに捨てられて……でも、まだ兄ちゃんを想ってた。可哀相なくらいに。だから、俺が代わりになって“あげてる”つもりだったんだ」

 でも、違った。

 呟き、唇を噛んだ。

 どろりと渦巻く悔恨の念に、また押しつぶされそうになる。

 すると、背中に回された緋色のちいさな手に、力がこめられるのがわかった。ぎゅっと……まるで、励ますように。

 緋色のほうが俺よりずっとちいさいのに……不思議と、幼い日……母親に一度だけ抱き締められたときのことを、ふっと思い出した。

 心がいくぶん落ち着いて……一度息をつき、また口を開く。

「俺はただ、こわかったんだ。先生が本当に、俺から離れてしまうことが。俺の親は昔っから仕事一筋で、可愛がってもらった記憶は全然なくてさ……兄ちゃんにも、もともと仲がいいってわけでもなかったけど……嫌われちまった。自業自得なのに――わかってるのに、独りになるのがこわかった。だから、関係が切れてしまわないように……先生に甘えてた。利用されるふりをして、利用してただけだ」

 舞子さんは決して、おかしくなったままじゃなかった。

 俺の知らないところで、変化は確実に起こっていたのだ。それをこわがっていたのは、俺だ。

 他人と関わるなんて面倒だ、そう言って逃げているけれど。

 独りぼっちは、嫌だ。

 常に心の奥底にある本音。

 それが、中途半端な行動を生む。

「……俺は、そんな奴なんだよ」

 最低だろう? とは訊けなかった。

 言う前に、緋色の腕が首に絡みついたかと思うと力がこめられ、痛いほど抱き締められたからだ。甘い香りがふわり、と。息がとまり、目を見開く。

「ひ、緋色……?」

「ほんとにばかよ、昌國は。悲しいなら、淋しいなら……す、素直に言いなさいよね、ばか」

 間近にある緋色の瞳は、水面に映った夕日のようにゆらゆらと揺れていた。

 淋しい……。

 その言葉が、胸にすっと入ってきた。

(ああ、そうか)

 俺はずっと、淋しかったのか。

 そこまで考えて――いまだにすぐそこにある緋色の顔に、一瞬思考が停止した。

一気に冷静な思考が戻ってくる。

(ちょっと待てちょっと待て)

 これは、近すぎる。

 なにしろ緋色は――綺麗だ。

 この一ヶ月ほどで見慣れたとはいえ、こんな至近距離で見ていると心臓に悪い。いや理性が危ない。

 ほんのりと桃色に染まった陶磁器のような白い肌はなめらかで、すっと通った鼻筋からはかたちのいい鼻が続き、長いまつげに縁取られた夕焼け色の瞳は魔的な美しさを秘めており、つやつやしたさくらんぼ色の唇なんかが、手を動かせば触れられる距離にあって……つややかな黒髪から香る花の香りに、頭がくらくらして……やわらかそうな頬から綺麗なラインを描く顎をなぞりたい衝動に駆られ――はっと我に返ってのばしかけた手を引っ込めた。

(なに考えてんだ俺)

 きょとんとした緋色になにか言われる前に、動揺を隠そうと、わざと意地の悪い声を出す。

「じゃあおまえだってばかだってことになるぞ」

「な……っ!? ――あ。あ、あげ足取らないでよね!」

 はっとし、誤魔化すように怒りだした緋色に、くすりと笑った。

(ありがとな……緋色)

 かち、かち、と時計の音を聞くともなしに聞いていると、ふと、疑問が浮かんだ。

「そういえば、おまえなんでこの間、保健室に来たんだ?」

「あ、あれは……」

 とたんに、緋色の顔が曇る。どうかしたのか?

「昌國を捜しに、書道教室に行ったら唯がいて……保健室にいるかもって言われた、から」

 どこか歯切れの悪い口調で話す。

(ユイ? ああ、柳川ってそんな名前だったっけか)

 いや、柳川の下の名前は今は正直どうでもいい。

「なんで、俺を捜してたんだ? なんか用でも……」

「な、ないわよっ!」

いきなり大声を出した緋色は、学ランの胸に顔をうずめるように抱きついてきた。

「は、い、え、あ、お、おい?」

 変な声の羅列だけが口からもれる。

「ど、どうした?」

「なんでもない……っ。さ、寒いからっ。最終手段としてっ。しかたがないから、しばらくこのままでいなさい」

「へ? 寒いっておまえ――」

 薄いパジャマしか着てないからだろ、出ていくからさっさと着替えろ、と続けようとして――口をつぐんだ。

 黒髪が、震えている。

 表情は見えないのに、いつかのように――そうだ、あれはたしか文化祭のとき、ルシファーに会ったときと同じくらい、なにかに怯え、不安を感じているのが伝わってくる。

 ただならぬ様子に、それ以上追及することはできなかった。

 だから、俺に最低限できることをしようと黙っていた。

 震えるちいさな背中には隠された傷があって……他にも、もう跡形も残っていないけれど……胸がきゅっと痛くなって、傷だらけの少女をそっと抱き締めた。それはただ、なんとなく。

 すると、

「……っふ、ぅえ……っ!」

 くぐもった泣き声が聞こえた。

「ひ、緋色?」

「ばかまさくに……っ。二度も泣かせるなんて……っ昌國のくせに……!」

 緋色は涙でぐしゃぐしゃになった赤い顔をあげ、恨めしげな視線を向けてくる。

 まるで子どもだ。俺はその目をまっすぐ見つめ、

「そうだな。二度も三度もたいして変わんねーから……思いっきり泣くのはどうだ? 結構すっきりするぞ」

 緋色がなにを抱えているのかはわからない。

 それに、きっと教えてはくれないだろうという予感があった。

 彼女は、強がりだから……。

「べ、別に、好きで泣くんじゃないわよ。昌國が言ったから……しかたなく、なんだから」

 ぼそぼそと言う緋色の頭を、「はいはい、わかったわかった」と撫でる。

「もう我慢すんな、緋色」

 それが引き金になったのか。

 悲鳴にも似た、悲痛な泣き声が耳をうった。

 淋しさ、怒り、悲しみ、恐怖……緋色がいままでひた隠しにして、押し込めていた感情が、嘆きが、流れる涙に変わってゆく。

 背中に回された手には驚くほど力がこめられていて、少し痛い。

 緋色になにがあったのか。からだを差し出してまで、試験に合格しようと決意したのはなぜなのか。なにも、わからない。不明瞭なことが多すぎる。

 でも、たとえ他人のすべてを理解することはできないとしても。

 今この時だけは、緋色の救いになれたらいい。

 そう、ひとり願った。


 やがて緋色の様子が落ち着いてきて、時間を確認しようと、壁の時計に目をやった、ちょうどその時。


 ボーン ボーン ボーン……


 振り子時計と同じような音が、時計から響いた。長い針はちょうど6時を指している。

 振り子もないのに、なんでこの音なんだ?

 楕円形のシルエットの時計。文字盤は円を描き、その周りのスペースには、細かな装飾が――。

「からくり時計……」

 緋色が呟いた。泣き疲れたせいか、どこかぼんやりとしたオレンジ色の瞳が、重厚な音を鳴らし続ける時計に向けられる。

 音に合わせて、からくりたちが動き出す。回るバレリーナ、首をかしげる小鳥、きらきらと輝く三日月――。

 緋色の記憶の扉となっていた、孤児院にあったものとは違うデザインだが、それでもあのときのことを思い起こさせる。

 緋色はじっとしたまま、何事か考え込んでいる。

 次第に聡明な光を取り戻した瞳を、ゆっくりと閉じ、ぱっと開いた。それは花の開花を連想させた。

 そのまま、微動だにしない横顔を見ていると――急に胸騒ぎがしてきた。

 ざわり、ざわりと。わけもわからず落ち着かなくなる。

 緋色はすぐそこにいるのに、何故だか――今にも遥か彼方へ行ってしまいそうな、そんな予感。隣にいるのに、遠ざかっていく。

(あほか、んなわけないのに)

 妙な想像を振り払おうと、頭を軽く振る。

「……昌國」

 はっとさせられる声だった。

 いつものつっけんどんな口調とも、先ほどのおかしな、どこか空虚な響きとも違う、凜としたそれが、揺れる心を掴んで離さない。

「ひとつ言っとくわ。もう、昌國の家には泊まらない。あと何日かだし……ここでお世話になるから」

「え? ああ、そうか……」

 まあ、緋色がそう言うんならな。海咲も喜ぶだろうし。

(それになにより……)

 年頃の男女がひとつ屋根の下なんて、いまさらだが問題だよな。緋色だって女なんだし……いや、今まで女として見てなかったわけじゃないよ?

 そんな考えを巡らせ、あっさりと了承した。

「無理して俺ん家に泊まる必要もねえしな。わかった。荷物はどうする?」

「んー……アムリタに持ってきてもらうわ」

「そっか」

 さっきまでの動揺はどこへやら、普通の会話が続く。

 外も暗くなってきたし、そろそろ帰ると告げて立ち上がり、ドアへと向かう。

(なんだ、俺の思い違いか……)

 胸を撫で下ろしたその、次の瞬間。

「それが、ふつうなのよ。私はあんたを殺しに来たんだから」

「え……」

 あっさりと放たれた言葉に、ドアノブに手をかけたまま俺は振り返った。

「私は、村崎昌國を殺して魔女になるために、人間界に来たの。それは変わらないわ」

 凛と立つ緋色=フィアルカはそう言うと、微笑んだ。

 殺しにきた者と、その標的。それが現実。決して覆されることのない。

「私は……あんたを殺しに来たのよ。だから――」

 口がぴたりと止まり、迷うように視線を泳がす。なにを言おうとしているのか、いまいちつかめない俺が黙っていると、やがて意を決したように、まっすぐな視線で、迷いのない口調で、

「私は、敵と馴れ合うつもりはないわ」

 そう宣言した。


 三日月のほのかな明かりと夜の街の明るすぎる光の下、やたら重いペダルを無心に漕いでいるうちに、家についた。

 しんと静まり返った真っ暗な自宅を見ただけで、ふいに襲ってくる虚しさ。

(なんだよ……これ)

 漠然とした感覚は、もう自分の内には存在しないと思っていたもの。ずっと昔に諦め、捨て去ったはずの感情。

 緋色に指摘されて、自覚してはいたものの、これっぽっちのことに対して沸き上がるなんて、思ってもみなかった――。

「『さみしい』なんて……言うガラかよ」

 自嘲の笑みを浮かべて、けれどすぐにもれるため息。

 玄関先に自転車を置き、鍵を抜きとる。

「さんきゅな、海咲」

 手のひらのなかの冷たくちいさな鍵を見下ろし、呟く。

 客間から茫然自失の状態で出てきた俺に、廊下の曲がり角から現れた海咲は、鍵を握った手を突き出してきた。

「はい。自転車貸すから。明日乗ってきてね」

「……いや、だいじょ――」

「歩いてたらいつまでぶらつくかわかったもんじゃないっての。彷徨えるユダヤ人じゃあるまいし。とりあえずまっすぐ帰ること。いい?」

 海咲の言葉は的を射ていた。こんな状態でふらふら歩いて、ちゃんと家にたどり着く自信はなかった。

 ありがたく自転車を拝借し、それでも道順なんててんで考えていなかったからだろう、リビングの時計は9時を指していた。

(……そんなに俺の様子は、おかしかったのか)

 ソファーに倒れこみ、床の木目をぼんやりと目で追う。

 ポケットから携帯を出して開き、指を機械的に動かして操作し、まだ出歩いていそうな知り合いの電話番号を眺めて――ぱた、と閉じる。舌打ちをひとつ。

 どうせ夜遊びしたって、心は晴れない。がらんどうなのにずっしりと重い。

 あの海咲が笑いとばしもせずに見送ったのだ、よっぽど暗い顔でもしてたんだろうか。

 少し力を入れて、ゆっくり軽く持ち上げた両腕をじっと見る。目を閉じれば、抱き締めたときの緋色の体温が、その細さとやわらかさが、ありありとよみがえった。

そして、

『私は、敵と馴れ合うつもりはないわ』突き放すような、あの言葉も。

 冷水を顔に浴びた心地がした。

 あのやさしい光の射す部屋のなかで起こったことは、すべて夢だったんじゃないか。そう思うくらいの、絶対的で現実的な言葉。心が通じあえたなんて傲慢な思い込みを、何故したのだろう。

 緋色にとって俺は、敵でしかないのに。

 どうしてそれを、悲しいと思うのだろう。たかが二ヶ月近く一緒に暮らしただけなのに。

 あちこちに残る、少女のかすかな気配に、すがりたくなって。胸が鬱陶しいほど訴える、この痛みはなんだ?

 律儀に動き続ける時計の針の音が、やけにおおきく響く。

 ソファーに横たわったまま、どれだけ白い壁を睨んでいただろうか。

「……飯、つくるか」

 だらけたいと主張する体を無視して、立ち上がる。

 ひどく広く、がらんどうに感じるリビングは静まり返っている。誰もいないから当然だ。だけど。うつむき、唇を噛んだ。右手で左腕をきつく握る。

 返事がない。ただそれだけのことなのに。

 ひりひりと痛む胸は、黙っていてくれない。


 ―*―


 いくら一睡もできなかろうが、悪態をつこうが、朝というものは誰にでも平等にやってくるもので。

「……ねみぃ」

 寝不足でうまく開かない瞼を無理やり持ち上げつつ、学校への道を自転車で行く。

 今なら、人生でいちばん目つきが険しくなっている自信がある。実際、すれ違う人たちはわざわざ大きく避けてくれる。ありがたいことだが、怯えた目を向けるのはやめてほしい。

 朝の補習はとっくに終わり、ホームルームの時間になっていた。教室に入り、担任の「また村崎か」という視線をスルーし、窓際の席にどっかりと腰をおろす。

 隣の席にちらりと、ほんの一瞬、目を向ければ――緋色が何食わぬ顔で座っていた。

普段どおりの、まっすぐ伸ばされた背筋に、黒板を一心に見つめる瞳。

 声をかけようかどうか迷って――結局、花音に「はよっす」と挨拶する。

「なにやってんの遅刻魔。おはよ、昌國」

「言う順番おかしくねーか? 徹夜で小説読んでたらさ……ふぁ」

「ふーん」

 本当は小説なんて一ページも読んでいないけれど。

 ヘッドホンで音楽を聴きながらベッドでぼんやりとしているうちに、気づけば夜が明けていた。

 でも、緋色に聞こえるだろうし……嘘を言ったほうがいいだろう。きっと気にするだろうから。

 淡々とした反応を見せた花音は、あっさりと前に向きなおる。

 窓の外は一面の薄い青に、ちぎったような白い雲がいくつか浮かぶ。窓から入り込んだ秋の風がすうっと控えめに、教室を通り過ぎていった。

 いつもと変わらない高校生活が今朝もまた、はじまった。


 一応、教科書やらノートやらを準備して……沈没するように居眠りし、ときおり感づいた教師に叩き起こされ、しばらく経つとまた睡魔に負け……ということを繰り返しているうちに、放課後になった。

 部活に行く気も起きない。海咲には昼休みに礼を言って自転車の鍵を返しておいた。

 歩いて帰るにも気分がどうにも乗らず、俺はバッグを肩にかけ、生活して半年以上になる校舎を、入学したての新入生よろしく見てまわることにした。

 休み時間は喧騒に包まれる、長い廊下。老朽化のせいか所々が剥げたり黒ずんだりひびが入ったりした壁や天井。

 階段の手摺りは木製で、これまでに何百、何千にものぼる生徒が使ったからだろう、手触りはつるつるとなめらかで、緋色はいつも楽しげに手を滑らしていたな、なんてことを思い出す。

 築五十年をゆうに越える玄武高校。

 これまでに、顔も名前も知らないたくさんの生徒たちがここで笑い、怒り、時には泣いて……そして去っていったのだろう。

 夕暮れの光が、古びた校舎をあたたかく包む。金色に染まった埃が、静かな空気をたゆたっている。

 はちみつ色。

 この色をそう表現したのは、誰だっただろう。

 甘く、綺麗で……どこか儚い、この時間だけの輝き。

 いつかは消える、時間。

 まるで卒業間近の三年生のように、妙な感傷に浸っていたときだった。

「やあ、討ち入り直前の鉄砲玉みたいな顔して、どうかしたの?」

 耳元で聞こえた声に、全身が総毛立った。嫌でも聞き覚えのある声が、俺の名を呼ぶ。

「ムラサキ」

 振り返り、輝く金と底光りする深い青が見えて――鋭い衝撃。

「かッ……」

(なに)

(が)

 こぶしを握った、女のように細い腕が自分の腹部にめりこんでいるのが見えた。息ができない。視界がかすんでゆく。力がはいらない。

「遊びは終わりだよ」

 その言葉だけが、水底に沈んでゆく意識のなか、耳に届いた。


 頭が重い。ひんやりとした湿った空気がからだを包んでいる。

「――い、おーい」

「……あ゛?」

 殴られた鳩尾が痛い。9月からこっち、俺はいったい何度気を失っているのだろうか。

 気分の悪さも手伝って、低いうなり声が渇いた口からもれた。

「わあヤンキー。ヤクザ。もう少し可愛らしい声、だせないの? あ、ムラサキがそんな気味の悪いことしても吐き気がするだけだね、ごめん。忘れてたよ」

「……相変わらずよくしゃべるな、おまえ」

 中性的な声に爽やかな笑顔で、毒をまぶした言葉をすらすらと放つルシファーに、驚いたり怒ったりするよりもまず呆れた。

「あれ? もっと驚くとか怒るとか、暴れるとかないわけ? つまんないな」

 見下ろしてくるルシファーに、俺は見えない『なにか』によって背中で拘束された両腕と両足首を軽く動かし、簡単には解けないことを確認すると、平然と相手を見返す。

「おまえだったら、来るかもしれないとは思ってたからな。緋色のことだろ?」

 本音を言えば、ちょっとびびったけどな。

 虚勢でもなんでもいい、要はこいつのペースにのせられないでいれば。

 この間みたいに推測にすぎない話を聞かされて、それを鵜呑みにする気はさらさらない。

さっと周りに目をはしらせると、バレーボールやバスケットボールの入ったでかいカゴに、跳び箱や得点板、積み重なったマットなんかがある。どれも年季が入っており、使い物にはならなさそうな……だとすると、体育倉庫じゃなく、去年から使われなくなったらしい、旧倉庫か。部屋全体が埃を被り、白っぽく見える。

 背中に固く冷たい感触。壁ぎわにあぐらをかいて座り込んだままの姿勢じゃあ(おまけに手も足も縛られているし)、迫力もなにもないだろうけど……。

 笑みを消して無表情の仮面を被った少年を、睨みつける。

「で、なんの用だ?」

 夜が近いらしい。血のように赤い落日の光が、薄汚れた窓から射し込んでいた。

「ぼくら魔界族の持つ魔力はね。その大きさには個人差があるけれど、成長すればするほど強くなっていくんだ」

 唐突な話に戸惑う。

「は?」と眉をひそめた俺を無視して、ルシファーは淡々と続ける。中性的なよく通る声で……まるで物語の、語り部のように。

「魔力は強くなるにつれて抑えることが難しくなる。だから、魔界族は全員、魔法学校に入るのさ。魔法や魔術学なんかを学ぶためじゃない。昔の王が学校を設立した本来の目的は、魔力の暴走を防ぐための“抑制”を刷り込むことだ」

「……え?」

 とりあえず黙って聞いて……胸の痛みが薄らいできて、頭が働くようになってくると、ある矛盾に気づいた。

 ちょっと待てよ。

 今の話は、おかしい。

 魔力ってやつを抑えることが必要不可欠で、そのために魔法学校に入学『しなければならない』のなら――どうして、緋色は不合格だったんだ? いや、そもそもなんのために、入学試験があるんだ?

 そんな胸のうちの疑問を読んだかのように、ルシファーは、

「入学試験は、魔法学校の真の目的を民に知られることのないよう、掟に定められて行われている。魔力の暴走が起こるなんて、普通の民は知る由もないことだ。だから、子ども騙しみたいな試験内容だろう?

 試験に合格できない者は、魔力を扱う能力なしと見なされ、“廃棄”される」

「廃棄……?」

 前にも、ルシファーは言っていた。

『そいつは、廃棄されるべき穢れた存在だ』

『関わらないほうがいい』

 なんてことを言う奴だと思ってたけど……まさか、本当に? 言葉のあやじゃなく?

 ぞくりと悪寒がした。

 倉庫の気温や、赤い光を浴びて立つルシファーの姿以上に、その表現に。ルシファーはどこか楽しげに、説明を続ける。

「廃棄方法もちゃんと決まっていてね。人間界で言う……ギロチン、あれかな。胴体と頭部を切り離すことによって、魔力を爆発、拡散させ、消滅させる。そうすれば魔界は安泰なんだってさ。ただ……あの汚れた娘は、そうはいかなかった」

「どういう、ことだ?」

 嫌な予感しかしない。それでも、続きを聞かずにはいられない。

「おかしいと思わなかった? 最初に不合格になった時点で、本来ならば掟通りに廃棄されているはず。誰にも知られずに。なのに、生きていた。そうさせたのが、アムリタだよ」

「アムリタが……」

「そう。彼女は王宮で王に謁見して、こう主張した。『あの子の魔力は強すぎる。もし廃棄すれば、爆発は大規模なものとなり、世界にゆがみが生じるだろう』と」

 話の主導権を渡す気はなかったのに……結局こうして、無慈悲な話を、語られる真実を、聞くだけの自分がいた。

「掟にのっとった方法でしか、廃棄は行えない。王宮の権力者どもは致し方なく、再試験を許した。でも、あの娘は『人間と口づけを交わすべからず』という掟に背いた……だから、」

 にいっ、と口の両端を吊り上げ、悪魔が嗤う。

「自滅してもらうのさ」

 汚れた窓ガラスの外から、カラスの濁った、耳障りな鳴き声が聞こえた。

 背筋がすうっと冷たくなる。

 動悸が激しくなり、思い浮かぶのは、不吉なイメージ……赤く染まった、墓場。

「普通に考えて、自殺志願者でもない人間に『私が試験に合格するために殺されてください』なんて言って、了承する奴がどうかしてるよ。初めから、あの娘は死ぬ運命にある。魔力の暴走から自滅してもらうのが、掟による最善の道だ」

「ちょっと待て……ちょっと待てよ」

 あほみたいに同じ言葉を繰り返す。頭がついていかない。

 でも――まさか、あのとき……そうだ、『魔力の暴走』は一度起こっている。あれは予兆だったのか? あれよりもひどい暴走が起こったら、緋色は――

 死ぬ?

 悪寒が止まらない。はじめから、死ぬ運命?

 掟、掟と……そればかり。

「なんなんだよ、掟って……」

「さあね。前にも言ったろう? いつから存在するのかもわからないけれど、誰も逆らうことはできない、魔界の(ことわり)反駁(はんばく)した者の末路は、悲惨なものだったらしいよ」

 赤い斜光が次第に冷たく、蒼くなっていく。

「……まあ、最近もまた、掟に咬みつこうとしてる馬鹿がいるらしいけどね。愚かだとは思うけれど、称賛には値する。ぼくも、本当は……」

 表情がふっと陰る。一瞬の変化。たまに現れる、ルシファーのホントウの顔。

まだ動悸のおさまらないまま、訊ねる。

「あいつは……緋色は、俺を殺すことができなかったら、死ぬ、のか?」

「十中八九、そうなるだろうね」

 空っぽになった視線をこちらに向け、ルシファーは至極あっさりと答えた。

「そんな……」

 死ぬ? 緋色が?

 一人前の魔女になれないなんて、そんな程度の話じゃない。

 生きるか死ぬか。緋色の命を、俺が握っているようなものじゃねえか……!

 と、ここで重大なことに気づく。

 まさか――でも。口をのろのろと動かす。

「緋色は……知ってんのか? そのことを……」

「知ってるもなにも、ぼくが教えたよ。あれは確か――雨の日だったかな。女子高生たちと、のんきに買い物なんてしてたからね。現実を見てもらおうと思って」

 胸がさあっと冷たくなった。

 雨の日。

 買い物。

 海咲たちと帰っていった日だろう。

 保健室に何故か現れて。

 緋色が、泣いた日――!

「っくそッ!」

 ガンッ!

 勢いよく壁に頭を打ちつける。鈍い音が響き、頭がぐわんぐわんと揺れる。

「どうしたのさ、ムラサキ」

 どうしたって、そんなもん。

「自分に腹が立ってんだよ……!」

 どこまで俺は愚かなのだろう。

 緋色が取り乱したのも、なりふりかまわず俺を誘惑したのも、全部、そのせいだったのに。

 あんなに震えていたのに。

 緋色は俺に本当のことを――死ぬかもしれないということを告げず、期限の10月31日をむかえようとしていたのだ。

(なんで――)

(どうしてだよ、緋色ッ!)

 壁に体重を預け、うずくまる。

 冷たい声が降ってくる。

「まあ、きみには、関係のないことだ。あの娘のことなんて、忘れてやればいい。そして、11月からは元の生活に戻ればいい。きみが望む、平凡な日常にね」

 11月? そんな、未来のことなんて考えてもいなかった。

 考えるひまもなくて……ただ、10月31日までのことだけが、緋色と再会してからの俺のすべてだった。

「緋色……」

 いるはずのない相手の名を、呼んでしまう。すると鼓動が落ち着いた。

「……本当に、ぼくはきみが嫌いだ」

 ゆらり、とルシファーの闇に沈む体躯が動いた。

「もとはと言えば、きみが悪いのに。きみがあんなことをしなければ……汚れた娘だなんて、呼ぶことにはならなかったのに」

 うつむいたその顔は、陰になって見えない。

 自らの細く長い指を凝視し、低い呟きを、呪いのように吐き出す。

「今でも、あのときの感触が消えない……悲鳴も、血も汗も……忌まわしい、悦びも……」

「ルシファー、おまえ……」

 表情は見えないけれど……今にも泣きだしそうな声だった。

「血が、消えなかったから……髪も、切った……なのに、今でも……あの甲高い悲鳴が聞きたくなる……ぼくは、狂ってる」

 背筋が凍った。

 気温が一気に下がったような感覚。心臓の音が大きくなる。とうの昔に、常人には理解できない感覚を知った者の、危険な光を宿した深い蒼の瞳に射ぬかれ、身体が動かない。異質な存在を前にして、身がすくんでいる。

 狂った堕天使は愉しげに呟く。

「きみの悲鳴を聞けば、この衝動もなくなるかな……?」

「なっ……」

 ゆらり、ゆらりと危なっかしい足取りで、黒い影が近づいてくる。

 背筋を寒気が這い上がり、本能が危険信号を打ち鳴らす。動けない。動けよ、おい。くそ、縛られてるんだった……!

「きみは、どれくらいで狂うのかな」

 手品のように一瞬で手のなかに現れた細長い凶器――鞭を、まったく無造作にルシファーが振って――

 キィンッ!

(――え?)

 何故か金属音が響き、鞭が宙を舞い、コンクリの床の上にゴトリと落ちた。

 同時に、緊張から解き放たれたからだからどっと力が抜ける。

「なに、してるの……!」黒髪がさらりと揺れる。学校指定の上履きを履いた足が、そこから伸びる、ハイソックスに包まれたすらりとした脚のラインが目に入った。子どもっぽいデザインの髪飾りがちらりと見える。

「緋色……!?」

 荒い息をはく緋色が、俺の前に立ちはだかっていた。

 ルシファーに対する恐怖心は薄れていないのだろう、細い足が小刻みに震えている。

 右手に握られているのは……棒、か?

「やあ、汚れた娘。調子はどう?」

 おかしな様子だったルシファーは、さいわいいつも通りの声と笑顔に戻っていた。

 緋色は問いかけを無視し、

「昌國に、なにしようとしてたの……」

 ルシファーは笑みを深くし、一言。

「殺そうとした、って言ったら?」

「!」

 細い身体が跳躍する。

 甲高い、刃が交わる音が響き――緋色の棒に、黒い刃が現れているのが見えた。

(刀……!?)

ルシファーも似たような物で、その攻撃を受けとめている。

魔刀(まとう)も使えたのか。知らなかった」

「あんたなんかに知ってもらわなくても……結構よっ!」

 拮抗した鍔ぜり合いから、緋色が一度、踊るような動きで身を引く。

「――っ」

 ふいに、ざわ……っとうなじの毛が逆立つような感覚がして、身震いした。

 緋色の足元に、オレンジ色のフレアが現れるのが見えた。烈しい、炎のような――。

 それを見て取ったルシファーは、すっと手をおろした。

「やれやれ。今日はこのくらいにしておこうか。こいつが本気になったらどうなるか、わからないし。お守り役のアムリタもいないんじゃあ、危険だ」

 刃の消えた柄をパーカーのポケットにしまい、ルシファーは緋色を見据えて言った。

「ほんとになにしに来たんだよ、おまえ……」

「ぼくはただ、借りたものを返しにきただけ。きみらのことはそのついでだ」

 謎めいたことを呟くと、右手の指を複雑に蠢かす。その足元に淡く光る円が現れ――金髪の少年の姿は、闇に溶けるように消えた。

 非日常が去った旧倉庫は、再び永い眠りにつこうとしているように、静かな空気に満ちてきた。

「緋色、ありがとな。おまえが来てくれなかったらどうなってたか……」

 ひとまず危機が去ったことに安堵する。身をよじって埃っぽい床の上を移動し、緋色を見上げる。

 緋色はふいっと顔をそらし、

「魔法の気配がしたから……心配になって。っや、べ、別に、あんたを助けに来たわけじゃないわよ。昌國に死んだりされると、私が困るの」

 怒っているような声が返ってきた。薄暗いせいで、その表情はよく見えない。

 緋色が近づいてくる気配がした。ひゅんっと刀が振りぬかれ、高い金属音が二度続けて響き、手と足が自由になった。拘束具のようなものは見当たらない。どうやら魔法で縛られていたらしい。

「大丈夫? 昌國」

「ああ。さんきゅ」

「とりあえず、早くここから出るわよ」

「――待て、緋色」

 落ちていた鞄に棒切れにしか見えない刀の柄をしまい、それを肩に掛けてドアノブに手をかけた緋色を、俺は呼び止めた。

「……なに?」

 振り返ることなく返事をする。スカートを左手で、ぎゅっと握っている。

 もしかしたら、感づいたのかもしれない。

 10月31日間近のこのタイミングで現れたルシファーが、俺にいったいなにを話したのか。

 緊張のせいか、手が汗ばんでくる。唾を飲み込むと、喉が鳴った。

「おまえ……なんで言わなかったんだよ」

「なにを?」

 どうして。とぼけようとするんだ。

「ルシファーから、全部聞いた」

 セーラー服の背中がぴくり、と揺れる。

「ま、昌國には、関係ないわ。私がどうなろうが、昌國には……」

 動揺を必死で隠そうとしている、いつもと違う声。頭のなかで、熱いなにかが弾けた。

「関係ないわけねぇだろ……っ」

「っ!」

 立ち上がり、緋色の手ごとドアノブを握る。緋色が息をのんだ。今逃がすわけにはいかない。

「俺を殺せなかったら、おまえが死ぬんだろ? どうして言わなかった」

 高ぶる感情を押し殺して問うと、細い肩が震えだした。

「……め、なの……っ!」うつむいたまま、緋色が声を絞りだす。

「ん?」

「ダメなのッ! そんなんじゃ、昌國は、そんなこと言ったら絶対……っ!」

 声は不安定に揺れ、俺はまた彼女が泣くんじゃないかと思った。

「ダメ、ダメなのに……私は、卑怯だわ」

 右手で包み込んだちいさな手は冷たくて、手を離したら消えてしまいそうな錯覚を覚えた。

「……きらい」

「え?」

「ダメなのに……っ。昌國は優しいから……キライッ!」

 緋色がなにを言っているのかわからず、困惑する。その一瞬の隙をついて、緋色は重たいドアを押し開けると、すでに夜に変わっていた外に飛び出した。ちいさな音がした。

 俺は――追いかけられなかった。

 なにがダメなんだ? 優しいから嫌い?

 優しくなんてないのに。

 緋色の真意が掴めなくて……どうすればいいのかわからない。

 さっき音のした足元を見る。どこかに引っかけたのか、緋色のカボチャの髪留めが落ちていた。屈んでそれを拾い上げる。カボチャがにやりと笑いかけてきた。

 隅に放ってあった荷物を拾って外に出て、空を見上げる。雲が出てきたのか、月も星も見えない。夜の闇がどこまでも広がる。

 上着の上からでも、冷たい夜気が伝わってくる。

「……帰るか」

 独り言が虚しく空に溶けていった。


 ―*―


 わからないまま、時間だけが過ぎていく。

 学校で会っても、緋色は無視を決め込んでくる。目があっても、すぐにそらされてしまう。彼女との間に見えない壁ができているようで、俺は近づくことさえできなかった。

 殺されるか、彼女を死なせるか。究極の二択だ。答えがでない。

 なにか大事なことがあるのに、それは薄い靄の向こうにあって、手を伸ばしても掴めなくて。曖昧な感覚に、頭はぐちゃぐちゃになったままだ。

 家でも通学路でも学校でもコンビニでもどこでも、あの夕焼け色の瞳がちらついて……胸がきゅっと締めつけられるような感覚がした。

 淡々とした日々が流れ、ある朝、携帯を開けば『10月30日』の表示。

 明日には、決めなければならない。

「海咲」

 放課後。教室を出ようとしたショートカットの背中を呼び止める。

「ん? なーに、まーくん」

 海咲は俺と緋色のことについて、一切触れてこない。改めて、いい奴だと思った。

 周りの奴らが全員出ていったのを確認し、口を開く。

「あのさ、屋上の鍵、貸してくんねぇか?」

「いいよ。ほい」

 あっさりと手渡された鍵を、握り締める。

「それで、これ……緋色に」

「……りょーかい」

 白い封筒を差し出すと、海咲はちょっと黙ってからうなずき、受け取った。

「細かいことはわかんないけどさ、がんばれ」

 にかっと笑う海咲に、「……さんきゅ」とつられて笑った。

「あ、あと」

 グラウンドのほうからは、早くも運動部の気合いの入った掛け声が聞こえてくる。

「もう一つ、頼みたいことがある」


 そして、10月31日。

 天気は快晴。

 朝から遅刻し、担任のいけちゃんから拳骨をくらい、だらだらと授業を受けて、終礼のチャイムが鳴る。

 学校という日常が終わった時刻。空気がやわらかな金色に染まっていく時間。

 帰り仕度をした俺は階段を上り、ポケットから鍵を取り出すと、鍵穴に差し込んだ。鈍く光るドアノブを回せば、ガチャリと音をたててドアは解き放たれる。

 錆付いたドアをゆっくりと開け、屋上に出る。涼しい風が吹いて、前髪を揺らした。

 コンクリの足元。ここでしょっちゅう、海咲と、花音と、あきほと、あと小松とその彼女……そして緋色と、飯を食ってたっけ。

 ついこの間あったはずのことなのに、遠い昔の出来事のように感じる。

 荷物をドアのすぐそばに下ろす。何歩か進んで、振り仰げば円筒型の給水塔が鎮座している。いつだったか、緋色が登ろうとして――下着が見えそうになっちまって、蹴られたりもしたっけ。

 色んなことを思い出しながら、手摺りに手を置いた。塗装がところどころ剥げ、錆の強い匂いがする。鉄柵は俺の胸の高さまでしかない。安全面の問題から、屋上は立ち入り禁止になってるんだっけか。

「こんなにいい景色が見れるのにな……」

 ゆるやかな線を描く山のある西の空には、だんだんと色を濃くしていく太陽が見える。夕暮れが近い。

 ギギイ……と背後で音が聞こえた。

「来てくれたか、緋色」

 振り返り声をかけると、ドアの隙間からそうっと、緋色の顔がのぞいた。

「こっち来いよ」

「……ん」

 長い髪、スカートの裾を風になびかせ、こちらに近づいてくる。かたい表情で、けれどしっかりと前を見て、凜として……。その手には、海咲に渡してもらった手紙。

『10月31日の放課後、屋上で待つ』

 半紙に筆ペンで書いた呼び出しの文句は、我ながら素っ気ない文章だ。果たし状みたいだな。

「この時間にここに来るのって、はじめてだな」

 夕暮れの光に染まる町並みに目をやる。

 緋色は心奪われたように、柵に駆け寄ると身を乗り出した。長い黒髪が風に煽られ、俺の鼻先で誘うように揺れた。

「きれい――じゃなくてっ! ……なにか、用?」

 眉を下げ、どこか弱々しい表情で見上げてくる緋色は、とっくに察しているのだろう。

「これ、この間落としたろ」

「……あ。ありがと」

 カボチャの髪留めを差し出す。緋色はそれをそうっと受け取ると、ぼそぼそ礼を言った。

「で、本題なんだが」

「……なによ」

「なにって、ひとつしかねえだろ」

 すると髪留めを付け終えた緋色は、視線を眼下に広がる街並みに戻し、

「わ、わかってるわよ……でも……なんでもないわ」

 低く呟くと、顔を伏せた。風が強く吹いて、緋色は片手で髪を押さえた。

 そんな緋色の隣で、鼓動が速くなっているのが自分でもよくわかる。

「緋色、今日で終わりだ」

 緋色は答えない。

 ただ顔をあげて、静かな表情で俺を見つめる。

 3年前に見たのと同じ……いや、深みを増した、オレンジ色の瞳。それをしっかりと見つめ返し、俺は口にした。

 たったひとつの答えを。


「おまえに、殺されてやるよ」


 風が止んだ。

 おおきく目を見開いた緋色が、時間が、世界が、すべてが止まってしまったんじゃないかと思った。

「……なんで?」

 やがて、さくらんぼ色の口が開かれ、ちいさな声が聞こえた。

「なん、で……どうしてよ? 昌國」

 やっぱり訊いてきやがった。

 心臓がうるさい。俺は息を吸うと、意を決して言った。

「おまえが好きだからだよ。悪いか」

 たった一言伝えるだけのことなのに、こんなに緊張するなんて思わなかった。今すぐ逃げ出したい衝動を押し殺す。

 固まる緋色に続ける。

「阿久間緋色。いや、緋色=フィアルカ。俺は同情とか、そんな理由で言ってるんじゃないからな。おまえに――好きな奴に死んでほしくないって思うからだ。つまり、ただの俺のわがままだ。わかったか!」

 思うままに口にしているうちに、だんだんと顔が熱くなってきて、最後は怒鳴るように言ってしまった。

 ぽかんとしていた緋色の顔が、やがて赤くゆであがった。ずざざっ、とあとずさり、

「ばっ、ばかじゃないの……っ!? す、すす好きとか、ありえないわよ……っ!」

 茜色の夕空の下、緋色がわめく。涙目に見えるのは、気のせいだろうか。

「たしかにありえねー。最初は俺もそう思ってた。けど、初めはおまえらの存在自体、信じてもいなかったんだぞ? もうなにがあったっておかしくねーだろ」

 魔女に魔法、異世界。それらは想像の産物で、本や映画、漫画なんかの向こうの存在だった。実在するなんて本気で思ったことはなかった。

 けれど。今ここに、俺の目の前に、確かな温もりと重み、心を持った彼女がいるのだ。

 だから、好きになったってなにも不思議じゃないだろう?

 目の前の少女はなにを思っているのか……本物の人形になってしまったかのように動かない。それを、俺はただ見つめていた。

 やがて緋色が口を開いた。

「……わかったわ。あの、昌國」

「なんだ?」

「最後にひとつ、お、お願いが……あるのよ」

 ぽそぽそと呟いた緋色に、俺は微笑んだ。

「ああ」


 燃えるような夕日が、山の向こうを目指して少しずつ、少しずつ傾いていくのを、手摺りに手を置き、無言で眺める。

 緋色の願い――それは、日が沈むまで、並んで夕日を見ること。

 秋の風がちいさく歌うように、通り過ぎてゆく。

 海咲に頼んで学校側に頼んだ(正確には、圧力をかけた)ため、学校内に他の生徒はもちろん、教師も誰もいない。

 静かな、黄昏時。

 今は世界の終わりで、燃え墜ちる太陽を、最後の二人きりになった俺たちが見届けている――そんなくだらない妄想が、浮かんではすぐに消えていった。

 ふと、傍らに立つ緋色を見る。

 届かないからか(かかと)を上げ、手摺りを両手で握った彼女。口をきゅっと結んで、輝く太陽を、あざやかな光をその両目に焼きつけるかのように、ひたと前を見据えている。

(綺麗だな)

 凜とした横顔に、心臓が高鳴って――俺は自分の想いを、心を改めて感じる。

 これが、答え。

 夕焼けの光がぐっと強さを増し、儚い時間の終わりを告げる。

(かが)んで」緋色に言われ、忠誠を誓う騎士のように片膝をついて彼女を見上げた。

 緋色が取り出した刀の柄に左手を滑らせた。手の動きに沿って、真っ黒な刀身が現れる。

 緋色の表情は陰になって見えない。

 艶やかな黒髪が揺れ、細い腕が振り上げられる。死へと誘う漆黒の刃がぎらりと光り、俺はゆっくりと目を閉じた。


 ……楽しかった。

 9月のはじめに、現れたキミ。

『私に殺されなさい』

 突拍子もない言葉で、退屈な日常を非日常に変えてくれた。

 それはまるで、魔法のように。

 色んなことがあって、変わって、終わって、はじまって。

 楽しかった。

 とても、楽しかった。

 キミがいなければ、こんな気持ちを知ることすらなかった。

 出会えてよかった。

 だからもう、終わってしまってもいい。

 キミが幸せになれるなら、死んでいい。

 もし、おかしいと、ばかげていると否定される考えだとしても――

 それが本心だから。

 瞼を通して伝わってくる、やわらかな光。

 微かな風の音。

 刃が、空気を切り裂く音がして。

 ああ、死ぬんだなと思った。

 そして、

 唇に、やわらかな感触。

「――へ?」

 予期しなかった状況に、間抜けな声をもらす。

 カンッ、カラカラ……と、なにかが落ち、転がった音がした。

 目を開けば、すぐそこに目を閉じた緋色の顔。離れたところで転がる刀の柄が、視界の隅に映った。

 重なった唇から、体温が伝わってきて――ふっと、離れた。

「緋色……?」

 膝をついた緋色は、茫然とする俺を見つめ――微笑んだ。

 それは、俺が今まで見たなかでいちばん美しく、いちばん綺麗で……いちばん哀しい、笑顔だった。

「私だって、好きなんだから……ばか」

 潤んだ夕焼け色の瞳は、どこまでもどこまでも澄んでいて。

 最後まで悪態をついて。

 でも、その頬には涙が一筋、つたっていて。

「ばいばい、昌國」

 愛おしいその声は、最後に俺の名を呼んだ。

 そして、少女は消えた。

 出会ったあの日と同じように。

 はちみつ色に染まった世界から。

 まるで風にさらわれたように。

「ひ――」

 夕日が残した最後のかけらが、薄闇に溶けていく。

 黄昏が、夜に呑み込まれていく。

弾かれたように立ち上がって周囲を何度も見回す。そこには寂れた屋上だけが広がっていた。

 いない。あいつが。どこにも。

 俺は、生きてる。そしたらあいつは――。悟ってしまう。なにが起きたのか。どんな結末を、彼女が選んだのか。

 待てよ。

 まだ10月31日は終わってない。

 終わってないだろ!?

 がくん、と膝が折れる。身体にうまく力が入らない。

 心の一部が引き裂かれたかのように痛くて、悲しくて。

 言葉にならない叫びが、口からほとばしる。

 緋色。

 緋色。

 緋色――!

 いくら呼んでも、叫んでも。

 冷たい風が無情に通り過ぎるばかりで、二度と、返事はなかった。

「にゃあーお」

 どこかで猫が鳴いた。

 誰かを、見送るように。



 エピローグ・そして、キミは。


 窓の外に広がる、青と白の世界。

 その向こうに、背中合わせのもうひとつの世界はあるのだろうか。

「こらっ、村崎! まだ朝だぞ、起きなさい」

「……ああ、すんません」

 担任に注意され、頬杖をついて窓の外をぼけっと眺めていた俺はのろのろと前に向きなおった。

(はあ。やっぱ、二列目はキツいな)

 窓際の列、前から二番目の席になった自分のくじ運を恨む。

 ため息をついていると、

「アハハ、またまーくん怒られた~」

 隣の席から聞こえた、あけっぴろげな笑い声に、

「うるせーよ、里紗(りさ)

 不機嫌さを隠さず言い返す。

 新しいクラスになって知り合った里紗は、女子にしては屈託のない話し方と性格で、男子とも気軽に話す。

 俺が無気力ながらも無事に高校生活を続けていられるのはこいつと、あと海咲たち書道部の奴らのおかげだ。認めるのは癪だが。


 新クラス――そう。

 俺は数ヶ月前に、進級した。


「まーた詩人みたいにたそがれちゃって~。なに考えてんの?」

 身を乗り出してくる里紗に、一瞬言葉につまって――目をそらす。

「別に……なんでもねぇよ」

 誰に話したって、わかってもらえるはずがないから。

 脳裏によみがえるのは、黄昏の終焉。ひとりきり取り残された、夜に染めかえられてゆく世界。耐え難い喪失感。硬く冷たいコンクリートの感触。

 あの10月31日の夜、阿久間緋色という少女は、この世界から消失した。それも、記憶ごと。海咲も、花音も、あきほも……緋色と関わったすべての人間の記憶から、その存在は綺麗さっぱり消えていた。

 幾度となく尋ねても、誰もあの、つややかな黒髪を揺らす可憐な……緋の瞳の少女ことを知らなかった。魔界族が魔法でみんなの記憶をいじったと考えるのが妥当だろう。

 学校から、家から……彼女が存在していたすべての証拠が、なくなっていた。

 俺はただ、それを現実として受けとめるしかなかった。

 もう、あいつはいない。

 非日常は終了し、日常が戻ってきたのだ。あの日だけの夕焼けは、黄昏は、遥か遠くに行ってしまった。

 物語はもう、終わってしまった。

 桃色の髪の、謎めいた女性も、金髪の、素直じゃない少年も、もう二度と姿を見ることはない。

 あの2ヶ月間は、夢だったんじゃないか。何度もそう思った。きっと、魔法にかけられていたのだと。

 それでも、心に残ったたくさんの記憶が――彼女からもらった温もりや切なさが――彼女が確かに存在していたと、繰り返し主張する。

 彼女はどうなったのだろう。

 最悪の予想は、高確率の結末。

 けれど、あの緋の色をしたちいさくもあたたかな灯火は、消えていないと。彼女は生きていると、信じたい。

 それでももう、二度と会えはしないだろう。あの出会いは奇跡的で、再会も偶然が生んだものだったのだから。

 心の一部が失われた、あの日。その空白に冷たい風が吹くたび、名前を呼びたくてたまらなくなって、でも声にはならない。

 少女が連れてきた、嵐のような日々。もう誰も覚えていない記憶。それは確かな思い出となって、胸の奥でやさしく輝いている。

 ……けれど。

 痛みとあたたかさが同時に訪れるこの矛盾した感情を、なんと呼べばいいのだろう。

 見知らぬ誰かの、さらりと揺れる黒髪を見たとき。

 甘酸っぱい香りを嗅いだとき。

 秋風がふわりと通り過ぎたとき。

 金色の光に包まれたとき。

 オレンジ色の夕日を見るとき。

 今でもキミを、思い出す。

 なくならなかった記憶は、やさしくも残酷だ。暗闇の訪れを告げる、美しい黄昏のように。

 どうして、俺からキミが消えないのだろう。

 あの短い日々は、色褪せるどころかよりあざやかになって――いとしさを増していく。

 あの日からも、色んなことがあって、悩んで、忘れたくなんかないと思ったけれど。

 いい思い出になんてできない。胸を刺すような痛みは、薄れないから。

「トリック・オア・トリート!」

「えっ――なんだ、里紗かよ……」

 おおげさに反応し、また無駄に落胆してしまう。

 あいつのはずが、ないのに。

「なんだとはなにかな、まーくん。失礼しちゃうなぁ」

 手を差し出していた里紗が、ぷうっと頬をふくらませた。

「今日はハロウィーンじゃんよ? ほら、お菓子ちょーだい」

「持ってねーよ」

 しっしっとあしらうと、ガキみたいに無邪気に笑ってみせていた里紗は「まーくんのケチ」とそっぽを向き、反対側の隣の女子と話しはじめた。今日おもしろいヒト見つけたんだけどさー。なになにー。頭にヒヨコが乗ってんの。えっ。もちろん作り物だよ。ああ、作り物……ってそれでもヘンだよね!?……。

 女子高生らしいかしましい話し声を聞き流しながら、また窓の外へと視線を流す。ハゲ一歩手前の寒々しい木が見えた。

(ああ、そうか)

 10月31日、ハロウィーン。

 もう、一年になるのか……。

 胸がぎしり、と軋むように痛んだ。

 もう、いない。あいつは。もういないんだよ。歪む顔を誰にも見られないよう、机に突っ伏す。木の匂いがツンと鼻を刺した。

 気にしたらだめだ。もう、あの日々は戻らないのだから。

 今日もまた、漫然とした一日が流れていくのだ。心を遠く、遠くに置いて……そうして俺は、生きていく。

 さて、いつも通り、居眠りでもするか。

 ざわ……ざわ……周囲の声が、ざわめきが大きくなり耳に届く。

(んだよ……)

 うるさいな……。

 しん、と一瞬、世界が静まる。

 とん、と軽い足音が、しっかりと響いた。

 衣擦れの音がして――ふわりと、柑橘系の甘酸っぱい香りがした。

「Trick or treat」

 夕日が、茜色の空が広がった。

 その、声。

 名前を呼ばれるだけで胸があたたかくなる、特別な愛おしい声。

 顔を上げ――がたんと音をたてて、立ち上がる。

「ひい、ろ……?」

 目の前に立つ少女の顔を凝視する。何故か黒いワンピースを着て、黒いとんがり帽子を被って。むっとしたように上目遣いで見上げてくる、その瞳は見間違えるはずがない、美しい夕焼け色。

「そ、そうだけど。なによ、文句ある?」

 黒髪の少女は口をとがらせてそう言い、

「来たわよ」

 静かに、微笑んだ。

 バカみたいに突っ立っていた俺は、ようやく頭が動きはじめる。

 来た……って。

 え?

 試験は?

 掟は?

 何で?

 どうして?

 というか、

「生きてる……?」

 疑問で頭の中が埋めつくされて、わけがわからなくて。

「私も、覚悟はしたんだけど……アムリタのおかげで――みゃっ!?」

 もうどうでもよくなった。

「緋色……っ!」

 胸がいっぱいになって――ちいさな少女を、抱き締める。力強く。二度と、はなしたくないと心が叫ぶ。

「えっ、ひゃ、ちょっ、な、ななななっ!?」

 緋色が顔を真っ赤にしておかしな悲鳴をあげる。

「ひ、ひとが見てっ……って誰もいない!? ア、アムリタの仕業ね……っ!? も、もう、別に嬉しくない……わけじゃないけど、もうーっ!」

 他には誰の気配もしなくて。緋色の言っていることもてんで聞こえない。熱いくらいにあたたかな身体のやわらかさが、切ないくらいに嬉しくて。

 空虚が、塞がっていく。夕暮れの光で満たされていく。

 ああ。けっきょく俺は、おまえに救われるんだな。

 なにがあっても、誰がなんと言おうと、世界のすべてに否定されようと。俺は緋色と一緒にいたい。それが答えだ。

 しばらくじたばたしていた緋色は、やがておとなしくなると、おずおずと、俺の背中に手を回してきた。

「あいたかった……」

「……俺も」

 ちいさく囁かれた言葉に、かすれた声で返す。

「色んなことが、あったわ……この一年」

「そっか。いくらでも聞くぞ。時間はたくさんある」

「うん……」

 黄昏は一度、終わりを告げた。けれど、日が沈んで夜になっても、また朝になれば太陽は昇る。新しい物語が、紡がれていく。

 これからもきっと、俺と緋色の非日常な日常は続いていく。

「……ところで。俺、お菓子とか持ってないんだよな」

「え?」

 きょとんとした緋色に、いたずらっぽく言う。

「だから、あの時と同じでいいか?」

 緋色の顔をのぞき込むと、なんのことかわかったらしく、かあっと赤くなった顔で、うなずく。

「し、しかたないわね」

 小柄な体躯を抱きかかえる。目を閉じた緋色の細い顎を、そっと掴んで持ち上げる。

 今日は10月31日、ハロウィーン。

 愛しい魔女に、お菓子のように甘いキスを。

「あーっ!?」

「「え」」

 なにやら悲鳴やら叫び声が……まさか。

「なにやってんだ昌國」

「なんで!?」

「ヒュー、おアツいねえ」

「はわわわ」

「どーいうカンケイ!?」

「そーゆーカンケイ!?」

 慌てて唇を離せば、周りはまさに阿鼻叫喚の様相を呈していた。緋色と顔を見合わせ、苦笑する。

 どうやら静かな日々にはならないようだ。

 それでもいい。

 緋色がいるなら、魔法だろうがなんだろうが、まとめて楽しんでやる。

(さて。まずは、どうやってこの場を切り抜けるか)

 再びはじまった非日常に俺は一歩、踏み出した。


 -She spell on me, and gave me fantastic days.-

 10年ほど前から別サイトにて投稿しております本作、ちょこっとだけ手直しを入れつつ投稿させていただきました。ワルプルギスの夜前に投稿を終えられて満足です。

 本サイトではこれで完結となりますが、別サイトでは続きを書き続けておりますので、ご興味のある方はご一読くださいませ。

 最後まで読んでくださったあなたに、無上の感謝を。

 ありがとうございました。


2020/4/29 緋衣箒

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― 新着の感想 ―
[良い点] 最後まで、拝読させていただきました。ハッピーエンドでホッとしています。ちょっと、エッチな描写もあり、楽しめました。
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