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第五章


 Ⅴ.キミが泣いた日。


「おふぁよー、昌國」

「……ああ、おはよ」

 卵焼きをつくる手を止めずに返事をしてから――そっと振り返る。

今日も緋色の様子に変わったところはない。やや寝癖のついた髪を揺らし、眠たげに目をこすりながらリビングへやってきた。

 気づかれないうちに、視線を手元に戻す。

 よし、今日の出来はなかなかだ。


 やがて食事をはじめ……もぐもぐと、俺的自信作の卵焼きを頬張る緋色は、お気に召したのか機嫌が良さそうに見えるが……。

「……緋色」

「なに?」

「あ、いや……なんでもない」

「なによ、もう」

 ちょっとむっとしたように眉根を寄せ、緋色が食事に戻る。

 “あの日”から俺は、緋色を気にかけながらも話すことを避けるようになった。

 正直に言えば、接することが苦になってしまった。

 それは、彼女の過去の苦しみと痛み、そして俺への憎悪を知ってしまったからだろう。

 緋色がいつ、あの憎しみのこもった目を向けてくるかと思うと、自然と目をそらしてしまう。ただの逃げだとわかっていても。

 記憶を観てしまった(正確には観せられた)ことは、言っていない。

 目覚めてすぐに駆けつけたアムリタに口止めされたこともあるけれど、熱が下がり「め、迷惑かけたわね」と赤い顔で謝ってきた緋色を見て……俺はなにも言えなかった。

 面目なさそうにする緋色だけど……本心はどうなのだろうか、と警戒にも似た推測をしている自分に気づいて、少なからずショックを受けた。

 目の前の相手がなにを考えているのか。それがわからないことが――怖い、と……思ってしまった。

「……ねえ、昌國――」

「ごめん、あとでなー」

「あ……」

 出来るかぎり会話をしない。

 そう決めた俺を、ときおり、緋色がもどかしそうな――なにか言いたげな顔で見ていることに気づきながら、臆病な俺は、気づかないふりをしていた。

 そうして、緋色が来て以来やっと訪れた、なにも起こらず、ただ流れていく日常を、迫るテストに気が重くなりながらも過ごしていった。

 それが、嵐の前の静寂だということも知らずに。

 どこか噛み合わない、少しずつズレていく日々がゆるゆると、流れてゆく。

学校でも緋色を極力避け、男友達とつるむようにした。

 もともと、緋色が現れる前はそうだったんだ。だから、元に戻っただけ。それだけの、はずなんだが……。

(……つまらん)

 延々と続く、たっつーの美脚論その他の講釈を聞き、変態発言にツッコんだり。リア充の小松をいじりたおしたり。漫画や音楽についてムダに熱く語り合ったりしていても、どこか心は遠くにあるようだった。

 テスト中も気がつけば、ぼうっとしていた。なにか大切なことを忘れている気がする。正体のわからない焦燥に、駆られていた。

 テストは散々な結果だった。

 担任のいけちゃんにこづかれながら、緋色も解答用紙を手に肩を落としているのを不思議に思った。緋色は模範生よろしく、いつも授業に集中していたはずなのに……。

 点数をのぞき込もうとしたら、殴られた。やっぱり、結果は芳しくなかったらしい。

(まあ、調子が悪かったんだろ)

 あまり深く考えず、俺は殴られた頭をさすった。


 ―*―


「よっこらせーっ……と」

 ふう、と息をついて、書道教室のドアに手をかける。がらがらとやたら音をたてる引き戸を動かして室内に入れば、温かな光、それと墨の独特の匂いに包まれた。

 墨の匂いは嫌いじゃない。

 夏は高い気温のせいか、ちょっとやばい匂い(あれは経験した奴にしかわからない)になってしまうこともあるけれど、放課後の埃っぽい教室に満ちる控えめな香りは、どこか落ち着く。そういや吉井先輩も、冬の墨の香りは最高だとかなんとか、言ってたな……。

「ん?」久しぶりの部室をしばらく眺め、ふと床に視線を落としたとき、ようやくそれらに気づいた。

 たくさんの龍が、灰色のカーペットを埋めつくさんばかりに広がっていた。

 もちろん、龍そのものではない。ファンタジーはこの間だけで十分です。じゃなくて。

「すげーな、昨日だけでこんなに書いたのか……?」

 龍のひとつを、ひょいと拾い上げる。

 白い半紙に黒々と書かれた「龍」の文字。誰が書いたのかはわからないが、勢いのある線からして、作者がノリノリで筆を運んだのが伝わってくる。

「お、パープル。今日は来たのか。えらいぞー」

 黒い龍の群れを眺めていると、後ろから声をかけられた。

 振り返るまでもなく、誰だかわかる。パープル(名字から紫と連想したらしい)なんてあだ名で呼んでくる人間は他にいない。

「吉井先輩。お疲れさんです」

「疲れてはないけどな。授業は昼寝の時間だぞ?」

 飄々とそう言ってのけた、書道部唯一の二年生にして部長の吉井先輩は、「すごいだろ、これ」と言いつつ無造作に俺の肩に手を回してきた。

 何度かやめてくれるよう頼んだのに……スキンシップの激しい先輩である。

俺はさりげなく先輩の手を払いのけながら、

「すごいっすねー。これなんか特に」

 持っていた半紙を渡すと、

「ん? ああ、これか。柳川が書いたんだよ、すごいだろ」

 まるで自分のことのように嬉しそうな顔をする。子どもみたいな人だな、と思う。

「え? 柳川?」冷え冷えとした無表情が脳裏に浮かぶ。あの氷の女が、こんな激しい字を?

 俺の言わんとしていることがわかったのか、先輩は苦笑すると、ふっと目元を和ませて話しだした。

「柳川ってさ。実は感情豊かなやつなんだよ。いつも無表情だけど、ハートは燃えてるっていうか。……俺は、ああなる前の――クールじゃない柳川を知ってる。どうして変わったのかもな。まあ、それはまたいつかじっくりたっぷりのろけてやるとして――」

 いや、いりませんと丁重に断りを入れようとする俺に、先輩は饒舌に続けた。

「だからこそ、俺は書道が好きなんだよ。書には、そいつの心が現れる。どんなやつだって、嬉しいとか悲しいとか、あと迷いとか怒りとか、色んな感情が墨だけで表現されるんだ。人が書いた文字って、上手い下手関係なしになんか、安心するだろ? 俺だけかもしんないけど、でもそう思うんだよ。書は心を映す。いい言葉だよなー。さてそれじゃ、パープルも書こうか」

「嫌です」

「即答かよ」

 どこから取り出したのか硯と墨、それに筆まで差し出してきた先輩は、端正な眉を八の字にした。

「なんでいつも書かないんだ? 昨日もさぼったし」

 げ、さぼりだってばれてた。

 もちろん、テスト最終日の翌日である昨日、部活が再開されることは心得ていた。やる気がでなかったのと、あとタイミングよく中学の同級生からきた誘いのメールとが重なり、カラオケで深夜までバカ騒ぎしていたのだ。喉が痛い。

「けほっ……いや、気分で」

「スカーレットと、関係あるんじゃないのか?」

 先輩は緋色のことをスカーレットと呼ぶ。色になにかこだわりがあるんだろうか。

 いつも通りの軽い口調で、でも真剣味をおびた目で問われ、目をそらした。

「……緋色とは、関係ありませんよ。あいつは、ただの従姉っす」

 そう、関係ない。

 従姉は嘘だけど。

 ただの、居候だ。

 それだけだ。

「はあ。どいつもこいつも」

 口を閉ざした俺を見て呆れたように頭を振った先輩は、かがんで床に散らばる作品の一枚を手にとると、ずいと差し出してきた。

「これ、どう思う?」

(どうって――)

 覇気のない龍だ。かたちは悪くないけれど線に力がないし、スピードもない。存在感が薄く、今にも消えてしまいそうな……。

「なんか……心ここにあらず、みたいっすね」

 そう答えると、先輩は「そっか」とうなずいた。

「これが今のスカーレットだ」

「はい?」

「スカーレットが書いたんだけど、ひどい字だよなー、これ。基本も忘れてよれよれふらふら、迷いが出まくり。ため息ついてそう」

 緋色が聞いたらへこみそうな辛評である。でも、的を射ている。

「緋色が、こんなの書いたのか……?」

 まったく緋色らしくない。

 先輩が再び念を押すように訊いてくる。

「本当に、なにかあったんじゃないのか?」

「……ないですよ。俺の知るかぎりは」

「ふーん?」猫みたいな鋭い目がきらりと光った気がした。

「まあ、あんまり首つっこんで引っ掻き回すのもなんだしな。なあ、パープル」

「なんすか?」

 ドアに手をかけた先輩は振り返らずに、今度は真剣な声で意味深な言葉を呟いた。

「俺さ、柳川が怒ってないときが逆に怖い」

 んじゃな、と先輩は出ていってしまった。あれ、部活は?

 言いたい放題言って、さっさと帰るとは……なんたる自由人。吉井先輩には一生、適いそうにない気がする。

「昌國?」

「っ、ああ、緋色か。なんだよ、びっくりした」

 気づけば、吉井先輩の去ったドアの隙間から緋色の顔がのぞいていた。

「びっくりさせたつもりはないわよっ。昌國が勝手に驚いたんじゃない。お詫びに殺されなさい」

「い、や、で、すー」

「な、なんかむかつく……!」

 緋色が腹立たしげに唸る。

(……なんだ)

 ふつうに、できてんじゃん。緋色をおちょくって楽しむのも、前と変わらない。

 大丈夫。

 きっと、大丈夫。

 動揺が伝わったりはしない。なにかが変わったりなんかしない。それでいい。

 そんなかりそめの安心は、ポケットで震える携帯に届いた一通のメールで、簡単に崩れるのだけれど。

 差出人を確認し、すぐに携帯をしまう。喉の違和感をなくそうと咳をひとつしてから、

「――緋色。俺、今日もさぼりなー」

「え? ちょっと待っ……って、さぼりだったの!?」

 一瞬、気弱そうな――不安げな目をした緋色はしかし、俺がつい口走った言葉に反応して、眉尻をきりりと吊り上げた。

「腹痛と頭痛とその他諸々で早退しまーす!」

「言い訳が今更すぎるわよ!」

 怒鳴り声から逃げるように、廊下を一目散に走りだす。心は鉛を飲み込んだように重いけれど……真っ白なメールに呼ばれたら、行かなきゃならない。それが俺にとっての“日常”だから。

 階段をどんどん下りていく。

(……それにしても)

 部活中に呼び出されるなんて初めてだな、とふと思う。

 “彼女”はいつも、部活がはじまる前に先手を打つように、メールをよこした。こんなことは初めてだ。

(なにかあったのか?)

 まさかな、とすぐに打ち消す。

 放課後の静かな廊下は、奥へ行くほど薄暗く感じられた。

 窓の外を中庭の景色が流れていって、角を曲がれば、“彼女”が待つ部屋は、もうすぐ。


 ドアに掲げられたプレートを目で確認して、そしてドアを開ければ、薄暗い部屋のなか、 “彼女”が嬉しそうに微笑んだ。

「来てくれたのね」

 喜びに弾む澄んだ声が耳に侵入し――花の香りに包まれれば、正常な思考は失われる。

 ぎゅっと抱きつかれたかと思うとそのまま押し倒され、背中にもやわらかな感触。

「ね……キスして?」

 どこまでも甘い甘い、響き。夢を見ているような黒い瞳。

 そっと唇を寄せれば、“彼女”はうっとりと目を閉じた。

「ん……」

 媚薬のようなキスに酔いしれていると、気づけば学ランは脱がされ、シャツのボタンもすでに三つ外されていた。

「……なにしてるの?」

 “彼女”の手首をそっと掴んで問う。口調や目つきを真似するのには、もう慣れた。

 “彼女”が求めている相手を、俺はよく知っているから。

「なにか嫌なことでもあった?」

「……ううん」

 かぶりを振って、「なんでもないの」とすがりつくように胸に顔をうずめてくる。そんな子供のような仕草が、いとおしくて狂おしくて悲しくて。

 深いキスを交わす。

 頭がぼうっとして、ふたり分の乱れた荒い息だけが響いて、なのに胸の痛みは消えない。

 この痛みはどこから来るのだろう。全部、俺のせいなのに。悲しむ権利なんて、ないのに。

 イタイ。

 カナシイ。

 ああ、あいつもこんな気持ちだったのか?

 伊勢物語の『芥川』。あの貴族の“男”も、胸を裂くような苦しみに身悶えたのか?

 授業で聞いたときはバカな奴だと思ったけど、俺も似たようなものじゃねえか。

 遠い昔に綴られた物語と、自分の記憶とが交錯する。

 “男”は盗みだした“女”を幸せにできなかった。

 “女”は、鬼に喰われてしまった。

 “彼女”は、壊れてしまった。

 勝手に連れ出しておいて……奪っておいて、守れなかった。

 ――似てるんだもの。

 無邪気な“彼女”が言った科白。絶え間ないセミの鳴き声とともによみがえる。

 似ているくらいなら。

 最初から代わりたかったよ、俺は……。

「――くん」

 ぐちゃぐちゃした思考を貫いて、透き通った声が耳に届く。幸せそうに、俺じゃない奴の名を呼んでいる。

 だから、その口を塞いでやる。

 誰も来ない密室で、キスだけを交わす。

 それ以上のことは、しない。それは暗黙の了解だった。越えてしまえば、もう後戻りはできないとわかっているから。その点では、俺と“彼女”はよく似ている。

 放課後の密会。響きだけは甘美だなと、もう一人の俺が嘲笑う。

 どちらが先に言い出したわけでもない、強制されているわけでもない、これは日常。当たり前のこと。異常はいつしか通常になる。

 だから、終わりもない。

 終わらせられない。

 終わらせたくない。

 だから俺は、“彼女”の望む声で、仕草で、口調で、その折れそうに華奢な体を抱き締める。

 “かつて”好きだった女性(ひと)を。


 もし、芥川の“男”の前に、死んだはずの“女”が現れたら。

 彼は彼女を愛するだろうか。


 ―*―


 “彼女”が落ち着いて、いつも通りの態度に、立場に戻ったら、さっさと部屋を出る。こちらに背を向けた女性の表情は、わからない。

 後ろ手にドアを閉め、深く息をつく。

 まだ温もりの残る体が、唇が冷えていくのを感じながら、窓の外の空が黄昏を呑み込み薄暗くなっていくのを眺めていた、そのとき。

「やっぱり」

 凛とした声が、すぐ近くから聞こえた。

「また、会ってたんだ……村崎」

 さあっと全身の血の気がひいた。

 ただの通りすがりなら、こんなことを言わない。ぎこちなく首を動かして、声のした右のほうを向く。

「あたしが口出しすることじゃないって、思ってたけど……もう限界」

「柳川……」

 曲がり角の向こうから姿を現した、ショートカットの、無表情の女子は、冷たい刃のような――けれど熱のこもった声で続けた。

「あんた、よくここで、舞子ちゃんと会ってるでしょ」

 ごまかしや言い訳は通じない相手だ。俺はただ力なく笑った。

 どうやら彼女は、知っているらしい。俺がこの部屋の主と、なにをしているのかを。たった今出てきたばかりのドアの上に掲げられたプレートを、振り仰ぐ。

 そこには、『保健室』とあった。

 しんと静まり返った廊下に、外の世界からの喧騒が届く。

 ここはそう、舞台裏。誰も知らない物語が繰り広げられる場所。

 柳川が口を開く。

「どうして、なの?」

 セミの声が、聴こえた気がした。


 ――――

 ――

 ……三年前。

 葉桜があざやかに生い茂り、かすかに夏の気配が漂いはじめていた頃だった。

 その人は、桜の花を思い出させるふんわりとした女性だった。

「はじめまして、えっと……まーくん、だっけ?」

「それはあだ名です。昌國です。……はじめまして」

「えぇっ!? てっきり名前だと……」

(『まー』なんて名前の奴は、なかなかいないと思う)

「……」

「ご、ごめんね……?」

「いや、怒ってるわけじゃないんで」

「え……?」

「そうそう。こいつはこれがデフォルトなんだよ、舞子さん。気にしないで? 昌國も、お手柔らかに頼むぜ。オレの大切な人なんだから」

 幸せそうに笑う、俺の兄。

 その傍らに立つ、黒髪の儚い容貌の女性。

 当時中学一年の俺を唖然とさせたのは、ふたりが教師と生徒の間柄だということだった。

 いきなり保健室の先生を家に連れてきて、「オレの彼女」と紹介された俺の気持ちも考えてほしい。まあ、遊び人の兄ちゃんが本気で惚れたようだから……素直に、ふたりの恋を応援した。

 それでも、教師と生徒の恋。それは禁断。

 そこにどうして俺を巻き込んだのか、兄ちゃんの浅はかさと愚直なほどの弟への信用の厚さに、呆れもしたけれどちょっとだけ嬉しかったのだ……あまり仲のいい兄弟ではなかったから。

 でも――。

「まっさくーにくんっ。なんの本を読んでるの?」

「へぇ~、おもしろそう。今度貸して?」

「貸ーしーて。年上命令よ?」

 最初の印象と違って少し子どもっぽい彼女は、よくいたずらっ子みたいな目をした。黒い瞳のなかで星がきらきら光っているようだと、いつも思った。

「ふふ、昌國くんって、タカくんと違ってくせ毛じゃないのね」

 なのにやっぱり大人で、肩からこぼれ落ちるつややかな黒髪、甘い香りのする肌が近づくだけで、心臓がうるさいくらいに跳ねて。

「昌國くん、またタカくんとケンカしちゃった……」

「そうね……私も悪かったわ。今から謝ってくる。ありがとう、昌國くん!」

 彼氏の弟である俺に無垢な信頼を寄せてくる彼女が、

「昌國くん!」

「昌國くん」

 そのやさしい声で名前を呼んでくるたび、嬉しいような悲しいような、甘酸っぱい感覚が胸に広がって。

 可憐な薄紅色の花のような彼女の存在は、ゆっくりと花開くように、俺のなかで日増しに大きくなっていった。

「そりゃ恋だろ、わが弟よ」

 もちろん相手はわからないようにして、相談してみると兄ちゃんは気取った口調で断言してくれやがった。その頭をとりあえず持っていた新聞紙でひっぱたいた俺は、内心動揺していた。

 愕然とした。

 そんなはずはないと、何度も自分に言い聞かせた。兄弟の恋人を好きになるなんて、ありえないし報われない。

 実際ふたりの仲は順調で、バカップルと言ってもいいほどだった。

 でもいくら頭で否定しても、彼女の笑顔が、声が、香りが、消えなかった。

 複雑な心をかかえたまま、日々は過ぎ、夏の香りは濃くなっていった。

 あれは嵐の日だったか。彼女を初めて抱き締めた日。

 激しい雷雨に見舞われ、近くを通りかかった舞子さんは村崎家のインターホンを押した。

「ごめんね。雨宿りさせてもらえる?」

 ドアを開けた途端、その姿が目に飛び込んできた。雨に濡れた彼女の髪は妖しくうねってその肌に貼りつき、透けたカッターシャツの下の肌が、真珠のように眩しくなまめかしかった。

 兄ちゃんは不在で、俺は風邪をひいたらいけないからと、彼女を家にあがらせシャワーを使わせた。目のやり場に困ったというのもあるけれど。

 しばらく続いたシャワーの音がやみ、物音がして、どうやら風呂場から出たらしいと思ったその時、ふっと視界が暗くなった。

「あれ……? ったく、これだから台風は……」

 停電だと察し、彼女に大丈夫かと声をかけようとした瞬間、ばたばたと足音がして――やわらかななにかがぶつかってきた。

「ま、舞子さん……ッ!?」

 声がアホみたいに裏返ったけれど、そのときは気にする余裕なんてなかった。

「いやっ、暗い、暗いのはイヤ……! こわい……っ!」

 見えはしないけれどはっきりとわかるくらいにガタガタと震える彼女の、ひどく怯えた様子に驚いたからだ。

「こわい……こわいよ、孝國くん……!」

(――え?)

 タカクニ? それは、

 兄ちゃんの名前だ――。

 当たり前だ。不安なとき、こわいときに、とっさに恋人の名前がでることは、普通で。そこでショックを受けた俺のほうが、おかしかったんだ。

 そして、

「――大丈夫。ここにいるから」

「孝國、くん……」

 声しか聞こえない暗闇で、兄のふりをしてその彼女を抱き締めた。

 それが、俺の最初の罪。


 嵐の夜の出来事から数日が経ち……けどなにも、変わることはなかった。

 舞子さんは取り乱したことを恥ずかしそうに謝ってきただけで、それからも前と変わらない態度で接してきた。

 しょっちゅう兄ちゃんに会いに家に来て、俺が部活から帰ると、ついでなのか昼飯を作ってくれていたりした。

「外でデートしたら、誰かに見つかったとき面倒だろ」それが兄ちゃんの持論だった。

 帰宅部でアウトドア派の兄ちゃんは夏休みにもかかわらず、舞子さんが来ない日以外はいつも家にいた。

 そのうち、俺はふたりと一緒にいることが億劫になり、家にあまり寄りつかなくなった。まあ、当然といえば当然だろう。目の前で好きなひとと自分の兄がいちゃいちゃしているのだから。

 そして、できるだけ不機嫌さが伝わらないようにふたりを避け続けて、部活に没頭したり課題を猛スピードで片付けたりなんかして、いつしか長い夏休みが終わろうとしていた。

俺は波風立てず、そっと、叶わぬ恋心を消そうとしていた。

 それが最善の道だ。

 恋は一時の気の迷いだなんて言うし、きっといつか自然と薄れて消えるはず――。

 暑い夏が終わる寸前、そんな俺の淡い期待を吹き飛ばす、嵐がやってくることになる。

 それはまるで、ドラマのような筋書きだった。

「ただいまー……あれ?」

 部活のあとに寄った友達の家から帰り、暑さに辟易(へきえき)しながら玄関のドアを開けると、女物の華奢なサンダルはあるのに兄ちゃんの靴がない。

 クーラーのきいたリビングも無人だった。

「舞子さん?」

 呼んでみても返事がない。

「舞子さーん?」

 しばらく捜し回り、もしかしてと思い兄ちゃんの部屋に行ってみると果たして、彼女はそこにいた。

 一家全員が綺麗好きの性格のため、きっちりと片付いている部屋のベッドに、ごろんと寝転がっていた。涼しげな白のワンピース姿で、結んでいない長くボリュームのある黒髪が広がり、顔の半分を覆い隠している。静かな寝息をたてて……眠っていた。クーラーもつけないで……とちょっと呆れる。

 起こしちゃ悪いかな、と思いつつもそっと歩み寄ると、「うぅ……ん」とかすかに身じろぎした。薄く開かれた桜色の唇から、熱っぽい吐息がもれ、心臓が跳ねた。

「……舞子……さん」

 兄ちゃんの真似をして呼んでみて――結局「さん」を付けた。

(なにやってんだ、俺は)

 頭をかかえていると、「うぅーん……」と舞子さんが起き上がる気配がした。

「あ、舞子さ――」

 くいっ、と手首を掴まれ引き寄せられた、と思った次の瞬間。

「へ?」

 くるりと回る景色。どさっという音とともに背中にやわらかな感触がし、目の前には舞子さんの顔があって。

「ま、ままままま舞子さん……っ!?」

「黙って……」

 部活の疲れもあってか、力では勝っているはずの彼女に一瞬の間に、ベッドに押し倒されていた。

 セミの鳴き声が、窓の外から聞こえる。

 汗が一筋、頬を流れた。

「舞子さん……ふざけてるんですか?」

「ふふっ」

 すごんでみても、とろんとした目の舞子さんは笑うだけだ。その息が酒臭いことに気づく。

「酒飲んだんですか?」

「うふふ。どうでもいいじゃない。だーい好き。大好きよ、孝國くん」

「……!」

 息がとまりそうになった。

 今、彼女が見ているのは俺じゃない。俺と声がそっくりな、兄ちゃんがその目には映っている。俺には一度も見せたことのない、甘えるような表情を浮かべている。

 胸が締めつけられるように痛くなって、悔しくて悲しくて惨めで淋しくて恨めしくて。

 壊してやりたくなった。

「大好きよ、孝國くん。ね、キスしよ?」

 ゆっくりと近づいてくる顔を避けることもせず、その甘く妖艶な微笑みに見惚れていた。花の香りで頭がいっぱいになり――唇が触れるか触れないかというところまで近づいた、そのとき。

「なに、やってんの。おまえら」

 ぴしり、と世界に亀裂が走った。

 いっそ心臓が止まってしまえば楽なのにとすら思いながら、目を向けたドアの向こう、薄暗がりに幽霊のように立っていたのは、

「孝國くん」

「兄ちゃん……」

 不気味なほどの無表情の、兄ちゃんだった。

 目の前が真っ暗になった心地がし、しんとした部屋にセミの声がやけに大きく響いた。汗をかいていた体がさあっと冷たくなり、湿ったシャツが気持ち悪い。

 ぴしり。亀裂は止まらない。

「なにやってんだよ、おまえら……」

 舞子さんは、夢を見ているような微笑みを浮かべていた。

 ぴしり。どんどん広がっていく亀裂。

「あ……」

「答えろよ……っ、どうしてだよッ!」

 音もなく、世界が――かりそめの平和を保っていた日常が、砕け散った。

「どうして……?」

 それが自分の口から出た言葉だと気づくのに、数秒かかった。

「どうして、って?」

 俺と兄ちゃんは口をつぐみ、きょとんと小首をかしげる女性を見つめる。

 酔っ払ってついやっちゃった、なんて明るく言ってくれるんじゃないかと、最後の望みをかけて。

 だけど彼女は言い放った。

いつもと変わらない笑みを、浮かべながら。

「だって……似てたんだもの」

 それだけ。ただ、それだけ。

 俺を取り巻く世界が、がらがらと音を立てて崩れていくなか、彼女は静かに微笑んでいた。

 その日から、兄ちゃんは俺の記憶にほとんど存在しない。極力会わないようにしていたのだろう。それは俺も同じだったけれど。

 そのまま時は過ぎ、俺は他人に対する信頼や興味を失い、無気力に生き、適当に受験して高校生になった。

 快晴の日、桜の花びらが狂ったように乱れ舞うなか行われた入学式でも心は空っぽなままで、その際にあった職員紹介も、てんで聞いていなかった。

 放課後、目つきの悪さのせいかいきなりヤンキーめいた輩に絡まれ、とりあえず返り討ちにして二度と近づかないと誓わせ、絆創膏でも貰いに行くかと向かった保健室で……俺は彼女と再会してしまった。

「久しぶりね」

 三年ぶりに見た、その無邪気な瞳は――妖しく狂っていた。


「――信号」

「あ? ああ、悪ぃ。さんきゅ」

 柳川に注意され、俺は赤信号の横断歩道に踏み出しかけていた足を引っ込めた。同時に、周囲の音が一気に戻ってきたような感覚がする。僅かな風の音、自動車のエンジン音、道行く人々の足音、話し声、ときおり車のクラクションや自転車のベル……。

 薄墨色の空の下、何台もの自動車が走り、すれ違い、あっという間に遠ざかっていく。

「……村崎」

 スクールバッグを肩に掛け直しながら、柳川が口を開いた。

「舞子ちゃんと、ああいう事をしてるのは……好きだから?」

「……わからねぇ。でも、好きだったよ」

「……そう」

 信号が青に変わる。柳川に目配せされ、歩きだす。

 周りに見えるのは車や自転車ばかりになり、近くを歩いている人間はほとんどいなくなった。

「詳しい事情はきかない。それは、あたしの権利でもないし役目でもない。でも、緋色には……話すんだよ」

 後ろへ後ろへ、流れていた町の景色が止まる。もちろん俺が立ち止まったからだ。爪先に視線を落とす。

「それは……無理だ」

「……それは、逃げでしょ」

 横を向くと、柳川は珍しく苛立ったような顔をしていた。初めて表情に現れた感情の片鱗に、面食らう。

「そう言って、逃げてるだけ。言ってくれなきゃ、わかんないこともあるんだから。緋色がなんにも気づいてないと思ってるでしょ」

「……緋色には、関係のないことなんだよ」

「あたしね、舞子ちゃんのこと好きだったの」

「は?」

 脈絡のない突然のカミングアウトに戸惑う。

 誰が? 好きだって?

「えーっと、それはライク、ラブどっちだ?」

「ラブ」

「そっすか……」

 いっそ男らしいまでの潔さに、つい先輩相手の口調になる。

 早くもヘッドライトを点けた車がびゅんっ、と横を駆け抜けた。

「あたしが初めて、あんた達のことを知ったのは6月。あたし、4月からよく保健室に顔出してて、舞子ちゃんに優しくしてもらって……好きだった」

 言いつつ、すたすたと歩きだした柳川のあとを追いながら、

「6月? そんな前から……」

 もう4ヶ月は経っている。

(あ、もしかして)

 柳川がよく、俺を睨んだりしてたのはそのせいなのか?

「誰にも言ったりはしてない。舞子ちゃんは言わないでとか、なにも言わなかったけど……。それと、」

 今度は柳川が足を止めた。くるりと振り返ったその顔は凛としていて、はっとさせられた。強い意志のこもった瞳に、間抜けな顔の俺が映る。

「あたし、あんたに会ったらさ、舞子ちゃんを泣かしたりしたら許さない、くらい言おうと思ってたんだけど、訂正する。泣かしてもいい。もう、終わらせてあげて。舞子ちゃんのために」

「え……」

(なにを――)

(なにを言ってるんだ?)

 舞子さんが、望んだから。

 だから、俺はずっと――。

 俺はさぞ非難がましい目をしていたのだろう、柳川はすっと目を細めると、

「あんたがやってることは、舞子ちゃんのため? 本当に? やっぱり逃げてるだけ。誰のことも考えてないよ、村崎は」

 突き放すような言葉は甘えも逃げも許さない――まるで断罪者のものだった。風が吹いて、そのゆるやかな空気の流れさえも手足を縛り付けてくるような錯覚に陥った。

「じゃ、あたしこっちだから」ともと来た道を早足で戻っていく柳川を、俺は声もなく見送った。

 騒がしい街の喧騒が一気に戻ってきて――でも、自分がそこに紛れこめている自信はなかった。

「ただいま」

 鬱々とした帰り道がようやく終わり、一度深呼吸をして……玄関のドアを開けた。

「え、あ、おっ、おかえり。ふ、腹痛はもう治ったのかしら?」

 緋色の部屋の襖が開き、やたらつっかえながらの返事が聞こえた。声に続いて緋色が現れ、腕組みしてじと目で見上げてくる。そういや、ばればれの仮病つかって早退したんだっけか。

「あ、ああ。もう治りましたよ? おかげさまで、はい」

 不機嫌そうに睨まれ、ついつい敬語に。あれ、デジャヴ?

「ぼうや、おかえりなさい。自分から挨拶するなんて、珍しいわねん」

 黒猫姿のアムリタが緋色に続いて現れ、その足下で尻尾を揺らす。

「え? そうか?」

「ん。だから、うれ……じゃないっ、驚いたんだから!」

 緋色は同意するようにうなずいたかと思いきや、ご立腹の表情になる。そこ、怒るところか?

(まあ、いっか)

 顔を怒りのためか赤くした緋色のわきを擦り抜け、リビングに向かう。

 緋色が振り返る気配がしたけれど、気にしない。

「ずいぶん、ややこしいことになってるみたいねん」

 夕飯をつくっていると、アムリタがリビングのソファーの上から、そんな言葉を投げかけてきた。

「ややこしいこと?」

 手を止め、振り返る。

 緋色が掃除をしている風呂場から、水音が聞こえてくる。料理のできない(というか、させたくない。皿と調理器具の安全のために)緋色は、掃除なら得意だからと自分から風呂掃除を買って出たのだ。

 それが9月の話で、正直言ってめちゃくちゃ助かっている。風呂掃除は腰が痛くなるしな。緋色はならないらしいけど。

 それはそうと、アムリタの知った風な発言にぎくりとした。

 動揺を押し隠し、静かに問う。

「アムリタさんは……どこまで知ってるんだ?」

「実は、9月からこっち、色々と調べさせてもらってるのよん。ゴメンネ」

「じゃあ、全部?」

「ええ。ぼうやと保険医の関係、過去に起こったこと、その他いろいろエトセトラ。悪く思わないでね? アタシ、緋色のことに関しては妥協はしないと決めてるの」

 心臓がどくん、と鳴る。

 前から知っていたっていうのか? 俺がどんな奴なのか。その上で、緋色を俺にまかせていたと?

 アムリタの真意が読めない。慎重に、言葉を選びながら言う。

「それは、もう知っちまったんなら別にいいけど……そこまで、緋色が大事なのか?」

 彼女が緋色と知り合ったのは、この間観た記憶の通りであれば五年前のはずだ。

「やっぱり……緋色を、助けられなかったからか?」

「ええ。それもあるわ。だけどそれ以前に……あの子は、特別なの。絶対に守りたかったのに、アタシはなにもできなかった。結局、掟に負けてしまった」

 それ以前?

 アムリタは、緋色のことをずっと前から知っていたような口振りだ。

(一体、なにが――)

「それで、ぼうや」

 アムリタの金色の瞳が、じっと見上げてくる。

「緋色に殺される気には、なった?」

「え……」

 あ、そうか。それをすっかり忘れていた。緋色は俺を殺せば試験クリアとなり、魔女になることができる。

 もし、俺が断れば――?

「……わかんねー。俺は死にたがりってわけじゃねえし、でも死にたくないって強く思うわけでもない……わからねぇんだ」

 わからない。俺はなにも、わからない。

 緋色の本心も、舞子さんの本心も、自分のことさえ。わからないし、知ろうとさえしていなかった。

『誰のことも考えてないよ、村崎は』

 ああ、そうだな、柳川。

「緋色の記憶を観て、過去を知っても――答えが出ねえんだ。薄情なんだよ、俺は」

「緋色……!」

 そう、緋色の――。

(え?)

 アムリタの声の、悲鳴にも似た響きに気づいたときには、もう遅かった。

「なに、言ってるの……? 私の記憶って……」

「緋色……」

 さっきから、シャワーの音は止んでいたのだ。自分の浅はかさに歯噛みする。

 いつからいたのだろう、風呂場に続く廊下とリビングの境目の暗がりに、Tシャツに短パンのラフな私服姿の緋色が顔を蒼白にしてたたずんでいた。揺れるオレンジ色の瞳には混乱が浮かんでいる。壁についていた左手がだらりとおろされ、胸の前で、ちいさな右手がぎゅっと握られる。

「どういうことよ、ねえ、昌國!」

 永久に隠し通せる秘密など、この世にあるのだろうか?

 リビングと繋がったキッチンに、重い沈黙が落ちた。

「……それで」

夕食後。

緊迫した空気のなか、下ごしらえまで済んでいたためつくりあげた焼そばを腹が減ってはなんとやら、とでも言うように猛然と、かつ無言で平らげた緋色は、ソファーに座り一息つくと口を開いた。

「いつ、どうやって、どこまで知ったの? ふたりとも」

 威圧感さえある目を向けられ、警察で取り調べを受ける犯人の気分を味わいながら緋色の前でおとなしく床に正座した俺とアムリタは、顔を見合わせた。

 まず、アムリタが『供述』をはじめた。

「つい最近のことよん。緋色、あなたが熱を出して、アタシがにこっちに来た、あの晩。覚えているでしょう?」

「うん」

「あのとき、熱で魔力の制御が効かなくなったあなたは、無意識に魔術を発動させたのよ」

「……あ!」

 緋色が目を見開く。

「そうだわ。あのとき、私は……魔力が暴走するのを感じた。それで、気を失って、目が覚めたら熱は下がってた……」

「そう。おそらく風邪じゃなく、魔力が関係してたのねん。具合が悪くなったのは」

 そうだ、あの日、アムリタからそう聞かされた俺は、風邪ではなかったことにひとまず安堵したのだ。

「わかったわ」とうなずく緋色。その冷えたオレンジ色の瞳が、俺に向けられる。それだけで逃げ出したくなるんけど……なにしろプレッシャーがすごい。ポケットなモンスターだったら大活躍できそうだ。いや、それは置いといて。

(次は俺の番か)

 深呼吸をひとつ。口を閉ざせば、家のなかはしんと静まり返る。

 町の中心部から離れたところで、さらには近所の家同士が離れているため、静かな夜の時間だ。

「えーっと、だな。俺たち三人はおまえの記憶の世界ってやつにいつの間にかいて――」

「ちょっと待って。三人って?」

 あ゛。口がすべった、かな?

「あ、いや、ふ、二人だよ、二人の間違いで――」

 やばい。これはまずい。記憶を観た限りじゃ、緋色はルシファーのことが――

「もう一人は、ルシファーくんよ」

「アムリタさん……っ」

 アムリタは落ち着き払った態度でその名を口にした。どうしてそれを言うのか――なにを考えているのか理解できない、このひとは。

「ッ! ……そう」

 途端、緋色はびくりと震え、自分の体を掻き抱くようにした。けれど、すぐに暗い声を返す。

「続けて」

「あ、ああ……俺たちは、おまえの記憶、ほぼすべてを観た。つっても、なんだっけ、おまえ個人の記憶だから、けっこう抜け落ちてたり、曖昧だったり……途切れたりしてたな」

「……あんたと会ったときのことも?」

「ああ、観た。そのあと、おまえがどんな目にあったのかも」

「……ふぅん。それでも、あんたはどうとも思わなかったって?」

 口元をゆがめた、皮肉げな笑みを向けられ、はじめて見る表情にぞっとした。

「あ、いや、それは、その」

 どうとも思わなかった、なんてことはない。ないのに――けど、あれ、なにが言いたいんだ、俺――。

 言うべき言葉があるはずなのに、口から出るのは間抜けな声ばかりで。その煮え切らない態度に、緋色の目が次第に苛立ちを滲ませ、険しくなっていく。

「……別に、あんたがどう思おうが、私の知ったことじゃないわよ」

「緋色……」

 立ち上がった緋色は、うつむいてこぶしを固く握っている。つられて立ち上がった俺からは、その表情は見えない。

 アムリタはなにも言わず静かな目で、事の成り行きを見守っている。なにを考えているんだ?

「あんた、言ってたものね。前の試験で受からなかったおまえが悪いって。そうよ、その通り。私が悪いの。だからっ、だから、『汚れた娘』なんて呼ばれてるの、ルシファーに。私は汚らわしい、掟破りの存在なのよ」

 感情が高ぶるように声が揺れ、肩が小刻みに震えている。

「おい、ひ――」

「触らないでっ!」

 バシッ

 思わず伸ばした右手を払われ、俺は呆然と緋色を見つめた。

「なんか……っ、あんたといると、苛々するのっ」

 そう言って背を向けた緋色に、頭の芯がかっと熱くなって――気づけば言葉が口をついて出ていた。

「俺だって、迷惑なんだよ……! あんな記憶、観せられたほうの身にもなってみろよ」

 今でもふいに耳に蘇る、少女の悲鳴――。

 あんなもの、見たくなかったし知りたくもなかった!

「……昌國は、」

 緋色が首だけをこちらにひねり、黒髪の向こうに白い横顔が見えた。

 静かなその声は、好みの声だからか耳に心地よいのに、胸が針でつつかれるようにちくちくと痛んだ。

「なんにもわかってないわ」

 しんしんと降る雪のように静かな、冷たい表情。

俺にはその顔が、何故だかとても――寂しげに見えた。

「緋色……」

 名前を呼んでも決して振り返らず、華奢な背中はひっそりと廊下の奥へと消えていった。


 なんにもわかってない。


 こだまするその言葉が、胸に(いばら)のように刺さって抜けない。


 ―*―


「『あなたがいてくれたから、今のわたしがあるの。わたしのこと、誰よりわかってくれている、あなた』……」

 満開の桜の木の下で見つめ会う少年と少女。薄紅色の花びらはまるでふたりを祝福するかのように風に舞い、世界をやさしく染め上げるのだ――。

「なにぶつぶつ言ってるの、昌國。怪しいよ」

「ぎゃあっ!?」

 小説の台詞を呟いていた俺を、花音が怪訝そうに見ていた。完全に向こうの世界にトリップしていた俺は、なさけない悲鳴をあげた。

 昼休みの飯を食べおわった頃合いで、他の奴らの話し声なんかに紛れるから誰にも気づかれないと思っていたのだが、前の席でうたた寝していた花音には聞こえてしまったらしい。くっ、油断は禁物だった……!

 よりによってヒロインの、それもラストの告白シーンの台詞を読み上げていた俺は、頬が熱くなるのを感じながら、努めて平静を取り繕い、

「あ、ああ、花音か。いや、小説読んでたんだよ」

「ふつう声には出さないと思うよ。へー、どんなの?」

 冷静な突っ込みをくれてから、興味がわいたのか身を乗り出す花音に、数日前に購入したハードカバーの表紙を見せる。白地に、遠くから撮られたらしい桜の大樹の他は草原と空のみが写っている写真が貼られたデザインで、その澄んだ色が目を引いたのだ。

「あ、それ本屋で見たことあるよ。昌國でも恋愛小説とか読むんだー」

 やってきたあきほがポニーテールにした髪を揺らしながら、花音の隣から本をのぞき込んできた。珍しく、授業中と同じく眼鏡をかけている。

 なんか今、聞き捨てならない発言が聞こえたぞ、おい。

「俺だってそのくらい読みますー。あのな、このヒロインがさ、すっげー純粋なんだよ。世の女子どもはこれを見習うべきだな。おまえも読んで学ぶがいい」

「なにそれー。うちが純粋じゃないみたいじゃん。失礼しちゃう」

 冗談混じりに言ってやると、あきほはぽこんとむくれた。背が高くて頭もそこそこ良くて、頼りになるイメージが強いのに、割と子どもっぽいんだよな、こいつ。

 すると花音が首をもたげ、

「あーちゃんはそのままでいいよ、おもしろいから」

「おもしろいってなによー!」

 花音が「おもしろいから……おもしろいんだよ?」と返し、またあきほが大げさに怒る。漫才コンビみたいなふたりだ。

 海咲もそうだけど、このふたりと話しているのは、楽だ。無理して愛想よくする必要もない。適当に流しておけばいい。

 まだまだ続くコントのような掛け合いに、傍観している俺はくっくっと笑いがこみあげてくる。

「おまえら、中身交換したほうがいいんじゃねーか?」

「なんでよ!」

「ああ、わかるわかる。あたしもあーちゃんくらい、背ほしかった……」

 緋色よりも高い背丈ではあるものの、「絶対、妹に身長持ってかれた」と日頃からこぼしている花音は、むう、と眉根を寄せて頬をふくらます。本人の意には反しているだろうけど、海咲がいたらすぐさま激写するであろう、迫力に欠けた可愛らしい表情だ。

 あきほが「えー」と不満そうに言う。

「うちは、ちいさいほうがよかったなー。花音と緋色くらい。あれ、そういえば緋色は?」

 いや、なんで俺に訊くんだよ。

 どう答えたものかと思案していると花音も、

「そうそう。最近、ひーちゃんとあんまり一緒にいないよね、昌國。屋上にも来ないし。避けてるみたい」

 うっ。やっぱり二人から見ても、不自然だったか?

 というか、いつの間に緋色のこともニックネームで呼ぶようになったんだ。

 俺はなんでもないことのように、

「ん? ああ、イトコだからって、ずっと一緒にいるのもおかしいだろ? 変な誤解してくる奴らもいるしさ」

 迷惑なんだよな、つきあってるのどーのっていう噂、と続けようとしたのだが、

「ふーん……」

 花音の、じいっと見つめてくる視線がやけに圧迫感がある。

「な、なんだよ」

「別に、なにも。昌國がそれでいいんなら、いいけどね」

「……?」

 意味深な呟きに、眉をひそめる。あきほも花音の意図がわからないのか、首をかしげていたのがふと思い出したように、

「そうだった。緋色も海咲もいないけど、どこ行ったの?」

「さあ……」

 緋色はそういえば、屋上から海咲たちと一緒に戻ってきてすぐ、教室から出ていったかと思うとまた戻ってきて……焦ったように海咲の腕をつかんで、二人してどこかへ消えたな。どこに行ったんだ?

「あ、あたし知ってる。保健室だと思うよ」

『保健室』。

 ガタタッ!

 さっき廊下ですれ違った、と話す花音の言葉を聞きながら、反射的に立ち上がった。

 あきほはそんな俺に驚いたようで、

「わっ。なによ、昌國」

「あ、いや……なんでもない。すまん」

(馬鹿か、俺)

 緋色はなにも知らないんだから。舞子さんに会ったからと言って、なにが起こるわけでもないのに。

「……」

 そそくさと椅子に座りなおす俺を、花音は変わらずたれ目がちの大きな瞳でじーっと見つめている。まばたきくらいしてくれ、怖いから。

 そんなに見つめちゃ、いやん。なんてふざけたことでも言えればいいのだが、俺にはそんな度胸はない。

 生まれつきの目つきの悪さと愛想のなさ(愛想笑いは得意だが時と場合による)、元から不機嫌そうな顔をしているせいか、俺は赤の他人、特に女子から避けられやすい。危険な奴だと思われているようだ。今でさえ、俺と平気で話している花音とあきほを、尊敬の眼差しで見ている女子がいる。あれ、あいつ誰だ? クラスメイトのはずなんだが。

 そんな俺がいやん、なんて言った日にはどうなることやら。キャラ崩壊なんてレベルじゃないだろ。

 会話が途切れ、生まれた沈黙のなかくだらない考え事をしていると、

「やっほほーい、皆の衆。あたしがいない間、寂しかった? もしくは、ムラムラした?」

「選択肢がおかしいだろ二つ目」

 ああ、いつも通りの奴が現れた。

「もちろん昌國は論外、ってゆーか存在自体いらないとして――」

「おい」

 存在自体全否定してきやがった。

 おそらく凶悪化しているだろう俺の視線をものともせず、普段はイマドキな女子高生、その正体は二次元三次元両方の美少女をこよなく愛する変態こと海咲は、花音の頭を愛おしそうに撫ではじめた。おい。

「寂しかったでしょ~? カノンもアキホも」

「「全然」」

 即答する二人。

「まったく、二人ともツンデレなんだからっ。ほら、アクマちゃんは寂しかったって言ってるよ~?」

「ちょ、ちょっと! 私、寂しいなんて一言も言ってないわよ!」

 めげない海咲は、緋色に話を振った。いつのまに来たのか、単にちっさいせいで隠れて見えなかったのか。海咲の背中に隠れるようにした緋色は、むきになって否定した。そんなに怒らなくてもいいのに。

 そんな緋色に花音は冷静に突っ込む。

「なんで顔赤いの?」

「うっ。いや、これは違――」

「そうそう。これは違うもんねー、アクマちゃん。あたしは、ぐすっ、嬉しいわっ、ママとして。ぐすん」

「アホか」

「もしそうだったら、突然変異だね」

 ハンカチまで出して、泣き真似をする海咲を呆れて見る。花音の突っ込みがさりげにひどい。

「で、なにが嬉しいの? なにかあったの?」

 唯一あきほだけが、そこに食いついた。そういや、どうしたんだ? 気になって緋色を見ると、タイミングよく目があってしまい思いきり顔をそらされた。

 昨夜から、緋色は俺を無視し続けている。朝も起きたら、いなくなってたし……。朝食はちゃんと摂ったのだろうか?

 そんな心配がよぎり――いや、でも海咲たちもいるしなと思い、口をつぐんだ。

「それは――」

「アクマちゃんっ! お姉さんがお祝いにチョコあげるから、あっちに行こうか~」

「え? え?」

「怪しさ全開だな」

 緋色が答えようとすると、いきなり海咲が大声をだした。きょとんとしている緋色の肩を抱くようにして、足早に離れていく。何なんだ、一体。

「チョコ? うちも欲しい~」

「あたしも」

「さあおいでおいで、グフフ……」

「おまわりさーん、ここに変質者がいまーす」

 便乗するあきほと花音が寄っていくと、海咲は怪しい笑みをもらした。

 それを、俺は席に着いたままただ見送った。何故なら、

「また、ミサキたちと一緒にいるよ……」

「なんで無事なの、あの四人」

「実は全員セ」「やめいっ!」

「え、じゃあやっぱり女をとっかえひっかえしてるってのは……」

「ありえるネ」

「うそーっ」

 女子のひそひそ話と、

「昌國、なんて羨ましい奴……」

「華宮嬢に仲原ちゃん、水戸さん、さらには阿久間さんまで……」

「死んで詫びるがいい……!」

 男子の呪咀が聞こえてくるからです。

 文化祭のときには一致団結している雰囲気だったこのクラス、実は本当にそういうときしかまとまらないのだ。ノリがいいとも言えるが。玄武祭が終了し日常に戻った今、クラス内の不仲は目に見えている。女子ってこわい。

 俺も実行委員という肩書きがなくなり、また女子の大半からはこわがられ避けられ噂されな日々が続いているわけなのだ。

 なんで女好きなんて根も葉もない噂が広まったのかは謎だが……舞子さんとの関係がばれたりはしてないよな、うん。

 男子も男子で、俺をハーレム野郎と目のかたきにしてきやがるし。ハーレムって。180度……いや、少なくとも90度は違う。俺は女子なんて嫌いだからな。あいつらが絡みやすいからついつい話してるだけで――ああ、また誰にともなく言い訳を。

(誤解を解きたいのはやまやまなんだが……)

 さっと目をそらす女子軍団、ぎらりと光る目を向けてくる男子どもの様子を見るかぎり、とうぶん話を聞いてくれそうにもない。

「コマー! 今度の試合、見に行くからなー!」

 と、廊下から小松の彼女の明るい声が響いた。相変わらず声でかいな、あの先輩。

「ちょっ、先輩、大声で言わないでくださ――」

「うぉおおおらああぁ小松ううぅ!!」

「リア充は血祭りじゃああぁ!」

 ぎゃああぁ、と小松の悲鳴が聞こえる。さらば、戦友(とも)よ。

(つーか、おまえら何人かは彼女持ちじゃなかったか?)

 なんだかんだで男子は仲いいんだよな。

 俺は灰色の空をちらりと見、ひと雨来そうだなと思いながら閉じていた本を開いた。


 ―*―


 そして、放課後。

 なにやら用事があるからと、緋色たちは連れ立って帰っていった。

 けっきょく、緋色になにがあったのかは教えてもらえなかった。

「オンナノコの秘密だよっ。テヘペロっ」なんて言いやがった海咲を思い出し、ため息をついた。

 部室――書道教室に着くと、ちょうど窓の外で雨が降り出した。予感が当たった。

「あー、傘持ってきてねーよ……」

 空は分厚い雲に隠され、まったく見えない。もし今空が赤や紫、黄色に変わっていたとしても、おかしくないのかもな。誰も見ていないのだから。

 そもそも“青い空”自体、人間が勝手に抱く妄想なのかもしれないけれど。

「……はあ」

 どんよりと体をとりまく湿気に、憂うつさは加速する。他のことを考えたり、誰かとくだらないことを話していないと、すぐに考えだしてしまう。

 緋色のこと、舞子さんのこと。どちらも答えが見いだせない。堂々巡りして出口がない。延々とループする。

 緋色は、俺を憎んでいるのか? 当たり前だろう。じゃあ、殺されてやるのか? わからない。

 舞子さんのために、今の関係を終わらせるべきなのか? わからない。自分はどうだ、やめたいのか? わからない。

 何度も何度も考える。でも結論は出ない。

 雨の音が戻ってきて、終結のない思考を中断する。

 帰りまでには止んでたらいいけどな、なんてひとりごちながら、ふと視線をめぐらすと、

「なんだ……?」

 毛氈の上に、また新たな作品が広げられていた。

『知りたいと欲するならば知れ。後悔する前に』

 激しく、力強く書かれたその言葉が、耳元で囁かれたような心地がした。

 誰が書いたのだろう。柳川か、それとも吉井先輩か。

 力強い言葉が、まっすぐ胸にぶつかってきた。どん、と。こぶしをたたき込まれたかのように。それは指針に思えた。

 何故かはわからないけど、胸が高鳴る。心臓の上に手をやると、なにかを伝えようとするかのように速い鼓動を感じた。

(知りたいと欲するならば――)

 黒髪が、揺れる。

(知れ。後悔する、前に)

 振り返ったその瞳は――。

「――ああ、そうだな」

 記憶のなかの相手に微笑む。

 なんにも知らないなら、知ればいい。間に合わなくなる前に。俺は肩にかけていたバッグを無造作におろすと、墨の薫る教室を飛びだした。

 廊下を走る。

(この間も走ってたよな、俺)

 だけど、今日は違う。

 真っ白な、送信主しか書かれていないメールに呼ばれたわけじゃない。

 俺から、“彼女”に会いに行く。そして――。身体が軽い。なにかから解き放たれたみたいだ。重く湿気った景色が、ぐんぐん後ろへ流れていく。

 この決断がなにを招くのかなんて、わからない。それは怖いけれど。足が止まることはなかった。

「失礼します」

 数分足らずで到着した保健室の前。呼吸を整えてからドアを引き開ける。いつもと同じ、薬品の匂いがした。

「あれ、いない――って」

 部屋の主はまた、『サボり』の真っ最中だった。

 無人なのをいいことに、電気も点けずに空いたベッドにばったりと倒れこんでいる。静かな寝息が聞こえた。

 艶のある黒髪がシーツの上に広がり、流れるようにゆるやかにうねっている。

「まったく、相変わらず……」

 化粧が崩れたりはしないのだろうか。ちょっと出鼻をくじかれた思いで、俺はその肩をそっと揺すった。

「舞子先生、起きてください。職務怠慢ですよ、舞子先生……“舞子さん”」

 すると、白衣の女性は跳ねるように起き上がった。

「うー? ……おはよう、昌國くん」

「いま夕方ですから。ちょっと訊きたいことがあるんすけど」

「なあに?」

 こてん、と寝呆け眼で首をかしげる舞子さん。

「今日、ここに緋色が来たと思うんですけど。どうしたのか知ってますか?」

「あら」

 緋色ちゃんね、とうなずくと、

「ないしょ」

 唇に人差し指をあてるポーズで、楽しげにウィンクをよこした。

「なんでですか」

「わりとデリカシーないわよねえ、昌國くん」

「なっ……」

 クスクス、と穏やかな瞳で笑う彼女に、

「ふざけないで答えてください。俺は……知りたいんですよ。あいつのことが」

 薄暗い部屋のなかに、沈黙が降りた。

 舞子さんはしばらく黙って俺を見つめていた。その表情は水面のように静かで、彼女の真意はつかめない。

 それからすっと、右手を伸ばし、白く細い指で俺の頬に触れた。

「……ね」

 それはいつもの合図だった。

 舞子さんはそのまま顔を寄せてきて――俺はまったく無意識に、顔をそらした。

 自分でも驚いたけど、言い訳をしようという気は起こらなかった。ただ黙って、彼女を見つめた。すると舞子さんは目を見張ったあと、ふにゃっと表情を崩した。

 泣き笑いの顔に、見えた。

「そっかあ……。好きなひとが、できたのね?」

「へ、いや、別に緋色は好きとかそんなんじゃ――」

「緋色ちゃんだとは言ってないわよ? わたしよりも気になって、ほうっておけないのでしょう? だったら答えは一つよ」

 急に大人びた笑みを浮かべると、

「えいっ」

「わっ、舞子さ――」

「……最後だから」

「え」

 心臓がどくん、と脈打った。抱きついてきた舞子さんの、表情は見えない。

「これで最後だから。しばらく、このままいて……?」

(――ああ)

 彼女も、決めたのか。

「……はい」

 花の香りがする。やわらかな温もりを感じながら、俺は静かな気持ちで彼女を抱き締めた。

「……ね、最後にもう一度だけ、名前、呼んで?」

 くぐもって聞こえるその声は震えていて、だけどしっかりと言葉を紡ぐ。

「……舞子」

 俺は“昌國”として、好きだった――初恋の人の名を呼んだ。告白の代わりに。

 そして彼女は、舞い散る桜のように消えてしまいそうな儚い声でそっと、

「孝國くん……」

 それが答えだった。

 サアアアア……

 雨音が耳に届く。

 やっと、答えが出た。

 舞子さんの本心は、彼女自身にしかわからないことだ。三年前のこともきっと、俺が真相を知ることはこの先もないのだろう。

 それでもわかることは……彼女に俺はもう、いらない。俺にも、彼女は……いらない。

 静かな悲しみが、胸に波紋のようにゆっくりと広がっていく。それは寂しさに似ていた。

そっと、どちらからともなく体を離したとき、花の香りが遠ざかっていくのを感じた。

窓の外では、雨がやさしい音楽を奏でている。

 あの夏の日に砕けて壊れた世界は、今やっと、再生しようとしているのかもしれない。。新しい色と形で。

 けれど。

 それを吹き飛ばす嵐は、すぐそこに来ていた。

 カタッ――と、かすかな物音がして、ドアのほうを見た俺は自分の目を疑った。

(緋色――?)

 いるはずのない少女が――髪の先やスカートの裾から雫をしたたらせながら――目をいっぱいに見開いて――茫然と――立ちつくしていた。

 目があって一瞬、俺がようやく口を開いたときには、緋色の姿はドアの向こうになかった。黒髪の先だけが、ちらりと見えた。

 いつからいたのか。どこから見ていたのか。逃げたということは。

 知られたく、なかった。

「――緋色! おい……待てよっ!」

 立ち上がり、あとを追って駆け出そうとする。

「村崎くん」

 やさしい、澄んだ声。それはもう、俺を縛ることはない。

「大切なひとは、ちゃあんとつかまえておかなきゃダメよ」

「……はい。失礼しました」

 舞子先生に一礼して、ドアを閉めると今度こそ走りだした。

 角を曲がって、ちいさな背中はすぐに視界に入った。人気のない廊下は曇り空のせいで薄暗く、西日も射さない。

「緋色ー! おい、緋色!」

 緋色は返事をしない。ひたすら走っている。

 どうやら全力を出しているようで、なかなか追いつかない。そろそろ本気出すか、と思ったとき、緋色が階段の踊り場で盛大にこけた。白い太ももがむき出しになる。

「きゃっ!」

「緋色! だ、大丈夫か?」

「うるさいっ! ロリコン! 変態! ついてこないでっ!」

 顔を真っ赤にしながら俊敏に起き上がり、また階段を駆け上がっていく。久しぶりに聞いたな、そのフレーズ。

「緋色! 待てって!」

 階段が終わり、たどり着いたのは南棟の最上階にあたる四階。書道教室の前も通り過ぎ、角を曲がったそこは、行き止まりだった。妙なつくりになっている校舎に、助けられることになろうとは。

 はっと足を止めた緋色が逃げられないように、壁に片手をついて自分と壁との間に立つ緋色を見下ろす。

「緋色っ……おまえ、けっこう足速いな……っ」

 肩で大きく息をする。久しぶりに全力で走ったせいか、呼吸が苦しい。文化部の弱味だな。

「……っ」

 緋色も同じように、顔を真っ赤にしてぜいぜい言っている。

 それからきっと俺を見上げ、

「……なにか、用?」

 固い声で、そう言った。

「え……あ、いや」

しまった。なんか勢いで追いかけてきちまったけど……どうしてだったっけか?

(だから、舞子先生と……ああしてるところを見られたからで)

 でも、どう切り出すんだ? それで、どうしたいんだ?

 あれ?

 俺が言葉につまっていると、緋色は夕焼け色の瞳をふっとそらし、

「……べ、別に、あんたが誰と抱き合っていようが、私に関係ないわよ」

「見てたのか……」

 とっくにわかっていたけれど。

 知られてしまった――。

「見てたわよ。すっごくお似合いだった。……つきあってるんでしょう?」

「え」

「だったらそう言えばいいじゃない。私なんかには、関係ないことだけどっ」

 緋色の口調は次第に鋭さを増していく。

 再びこちらに向けられた瞳は、燃える炎を映したようで。

 怒りかそれとも苛立ちが、言葉の端々に滲む。

「私は、ただ、あんたを殺したいだけなんだから。あんたのせいでっ、全部、あんたのせいなんだから……っ!」

「緋色……」

 こぶしをぎゅっと握り締め、緋色が叫ぶ。

「私はっ、あんたのことなんか――大嫌いなんだから!」

 家の事情や自分の性格上、昔から、他人に嫌われたり、うとまれたり暴言を吐かれるのには慣れていた。平気だと、思っていた。

 なのに、

『大嫌い』。

 その言葉が思いもよらない鋭さで胸に深く、突き刺さる。

 だけど、

「緋色……?」

 今はそれどころではなかった。何故なら――

「嫌い、大っ嫌い! 昌國なんか……っ嫌いなの!」

「緋色、なんで――」


なんで、泣いてるんだ?


 緋色は泣いていた。

 俺のことを大嫌いだと、何度も何度も叫びながら。大粒の涙がいくつも、その頬を伝っては床に落ちる。

 俺はぎょっとして、

「ひ、緋色、泣くなよ」

「な、泣いてなんかないわよっ! これは、そう、水が勝手に流れてるだけなのっ!」

 んな無茶な。

 緋色は困惑する俺に続ける。

「もう……あんたのせいでっ、わけわかんな……っ! 私、私は、あんたのせいで、自分がわけわからないのっ」

 首を幾度も横に振り、髪を振り乱しながら涙に濡れた顔を腕で隠そうとする。

 それを見た俺は――緋色の両手を空いてるほうの手でつかんだ。そっと、彼女が怯えないように。

「そうだな、俺のせいだな」

 一度口を開けば、出てくるのはそんな言葉だった。

「全部、俺のせいだから……おまえのせいじゃないんだよ。俺が悪いんだから」

 暴れていた緋色がぴたりと動きを止め、目を見開く。

 よっぽど俺が、情けない顔をしているからだろうか?

「俺のせいなんだよ、全部……。俺が、悪いんだ」

 緋色のことも。

 舞子先生のことも。

 俺がきっかけで。壊して、傷つけて。

 心がどろりと、底無し沼に沈んでゆく。

 緋色が現れて、いきなり「殺されなさい」と言ったことも。

 舞子先生を、兄ちゃんの代わりに抱き締めて……キスをしていたことも。

 被害者ぶっていたんだ。自分が加害者なのに。許されないことをしたのに。

 自分のことしか考えていない。最低で最低で最低で。

「ばかっ!」

 永久に続くような自責の念は、大声に断ち切られた。

 ぽかんと見下ろすと、俺をまっすぐに見上げる緋色がいた。緋色は顔をゆがませ、苦しそうに言葉を吐き出す。

「どうして、そんなこと言うのよ! 全部自分のせいだってことにして、勝手に悩んで、落ち込んで、なんでもないフリするの!? ば、ばっかじゃない!?」

「緋色……」

 真っ向から糾弾され、返す言葉もない。話の方向が変わっているのを、指摘することもできない。

「私、ずっとあんたが憎かった」

 さあっと血の気が引くのを感じた。

「そっか、そうだよな――」

「話は最後まで聞く! 私、3年間ずっと恨んでた。試験の内容を知って、なにがなんでんも殺して、復讐してやろうって思った。なんにも知らずにいた昌國が、許せなかった。だけど……あの日、教室に入って、あんたを見つけて、そしたら……っ。なんでよ、ねえ、なんでそんなに――寂しそうな目をしてるの!」

 頭を殴られたんじゃないかというぐらいの衝撃に、俺は茫然とした。

 寂しそう?

 俺が?

「いつも、いっつもよ。不機嫌そうなのに、寂しそうな目をしてるの。だから、私は――っもう、昌國が悪いんだからぁっ! 私は――ころさなきゃ、いけないのに」

「緋色、俺は――」

 そのとき、なにか言葉が、するりと口から出ようとした。

 すると緋色は、急に弱々しい顔になった。まるで――風のなかにぽつんとゆらめく灯火のような、今にも消えてしまいそうな……儚い瞳だった。

「――――」

 何事かを呟くと、その姿はふっと消えてしまった。

「緋色……」

 わざわざ魔法を使ってまで逃げるなんて……。

「ッくそっ」

 壁にこぶしを叩きつける。無性に自分に腹が立った。

(俺は、なにを言いたかったんだ?)

 自問するけれど答えは出ない。

 一人きりになった廊下の隅で、俺は急に感じた肌寒さに、ぶるりと震えた。


 ―*―


 翌日、見上げた空はからっとした晴天だというのに、心は曇天、憂うつなままだった。

「まーくん、まーくん」

「――あ? ああ、なんだ海咲か。なにか用か?」

 休み時間にぼんやりと窓の外を眺めていると、海咲が声をかけてきた。

「緋色なら休みだぞ」

「それなら知ってるから心配ご無用。そうじゃなくてだね」

 なんで知ってんだよ、という問いを飲み込む。まあ、海咲だから――という結論で終わらせておこう。

「ほい、これ」

「ん?」

 はい、と渡されたシンプルな封筒を、訝しみながら受け取る。

「なんだよ、これ」

 すると海咲は急にもじもじしだしたかと思うと、

「えっと……その、私の気持ち……読んでくれたら嬉しい、な……っ」

 両手を胸の前で組み合わせ、やたら恥じらうようなアニメ声を出す海咲に、「なあ」と俺は一言。

「キモいぞ」

「キモいとは失敬な。まあ、あとで読んでねっつーことで。ばいばいきーん」

「へいへい」

 あっさりとデフォルトに戻った海咲に片手を挙げて応えてから、改めて封筒に視線を戻す。なにも書かれていない、味も素っ気もない茶封筒だ。しばらく裏返したりしてみる。

(なんでわざわざ手紙……?)

 と、タイミングよくチャイムが鳴り響いた。英語教師がドアを開けて入って来たのを合図に、授業がはじまる。

 号令がかかり、よっこらせと立ち上がる。前の席の花音もむくりと起き上がった。どうやら寝ていたらしい。

「えっと、休みは阿久間さんだけねー。それじゃあ――」

 ファッションセンスが残念な女の英語教師(全身蛍光色が目に痛い)は、俺の隣の空席を確認すると、さっそく授業を開始した。

 真面目に受ける気なんてさらさらない俺は、見た目だけはと教科書やらノートやらを机の上に広げ、先ほどの封筒をこっそり開けようとした。

と、

「昌國貴様、それは華宮嬢からの御文か……!?」

「たっつー、ちょっと黙ってくれ」

「イエス、ボス」

 誰がボスだ、誰が。

『おんふみ』ってなんだ……ああ、手紙のことか。

 しかもいつの間に緋色の席に移動してきやがった。

(あなどれん奴だ……)

 敬礼なんぞしている友人の底知れなさに若干おののきつつ、速攻で教師に見つかりいそいそと自分の席へ戻っていくたっつーを尻目に、封筒を破いて開く。

 中から出てきた便箋――じゃないな、これ――書道用の半紙か――ざらりとした手触りの一枚の紙を、ぺらりと広げる。

 そこにはやたら綺麗な、流れるような筆致で、

『貴様の娘(隠し子)は預かった。返してほしくば、放課後書道教室に来い』

 とあった。

「……」

 破り捨ててやろうかと思った。

(まあ、書道教室に来いって言いたいんだよな?)

 人に聞かれたらまずい話でもあるのだろうか。今日は部活が休みだから、あそこには誰も来ないはずだ。

 にしても、普通に書けばいいものを、わざわざ筆で書くとは。なんだかどっと疲れ、ため息をついた。

(海咲、ひとつ言いたい)

 うつらうつらと揺れる花音の背中を眺めながら、机の下に隠した半紙をぐしゃりと握り潰した。

 俺、隠し子なんていませんけど?


「来たなパープル卿! さあ、身代金を渡してもらおうか」

「金なんて書いてなかったぞー」

 放課後。

 窓際で大げさな身振りとともに振り向き、意気揚々と声を張り上げた海咲にそう言ってやれば、海咲は見事に固まった。

 それから空咳をひとつすると、何事もなかったかのように、

「よくぞここまでたどり着いたな、紫の光を纏いし勇者よ! さあ今こそ我と血湧き肉躍る、世界の命運を賭けた最後の戦いをはじめようではないか!」

「お疲れさんでーす」

「ちょっと待てゴルァ」

 ひとまず他人のふりをしようと、ドアに手を掛けた俺の肩を海咲がガッと掴んだ。

「なんで俺が悪いみたいになってんだよ」

「我が愛しのアクマちゃんの悩みの種になってる時点ですでに悪いわ。悪人め」

「悩みの種……? あいつ、なにか言っ……いや、あいつに会ったのか?」

 驚いて聞き返す。

 緋色は、昨日から姿を見ていない。帰宅すると家は無人で、ずぶ濡れのまま玄関で立ちつくす俺に背後から声をかけたのは、アムリタだった。

「緋色なら、ちゃんととある場所にいるから安心してねん。しばらくはそこでお世話になるみたいだから。あと、明日は学校休むわ。ってことで、ヨロシク」

 一気にまくしたてると、「あ、ああ……」と生返事をする俺を置いて、黒猫は雨のカーテンの向こうに消えた。

 アムリタが把握してるってことは、大丈夫なんだろう。

 濡れた制服を着替え、久しぶりに一人分の夕飯をつくったりしながらも、頭のなかに緋色の泣き顔がちらついて、苛立ちとなにかがないまぜになった嫌な感覚に、舌打ちを繰り返していた。

「まーくん? おーい、まーくんや」

「あ、悪ぃ」

 昨夜のことを思い返していた俺は、海咲の声で我に返った。

「まったく。自分で訊いておきながら、いきなりフリーズするし。なんかあったの? 昨日の夕方、いきなりあたしん家にアクマちゃんが来たんだよ」

「え? あ、おまえん家だったのか」

「やっぱ、知らなかったんだ」と呆れたように言われ、頭を掻いた。

「いやあ、俺、なんかさ……」

 棚の上からパンダのかたちをした文鎮を取り上げ、意味なくそれを弄びながら、言葉を続ける。

「緋色に、嫌われた、みたいでさ……いや、別にどうでもいいんだけど」

「『どうでもいい』? 本気で、そう思ってんの?」

 腕組みして壁に寄りかかった海咲が、刺のある声を放つ。

 文鎮って重いよなー。なにでできてんだろ。

「……ああ」

「アクマちゃん、泣いてた」

 手が一瞬、ぴたりと止まる。「……そうだな」

「目が真っ赤だったの。ずぶ濡れで、家に入ろうとしたら後ろに立ってた。アクマちゃん、あたしの家の場所知らないはずなのに」

「……不思議だな」

「あんたが泣かしたんでしょ」

「ああ」

 重い重い、コミカルな表情のパンダ。墨でところどころが汚れている。

「アクマちゃん、今、うちで預かってるから」

「そうか」

「……気にならないの?」

 わからない。海咲がなにを言いたいのか。どこか必死そうな様子が、不思議に思えてならない。

「……俺さ、嫌いって言ってくる奴は嫌いなんだよ。こっちから願い下げって言うかさ」

 わざと笑みを浮かべてみる。

「緋色に、嫌いだって怒鳴られたよ。大嫌いなんだと」

 泣きながら、叫ぶほど。

 嫌いなのだ――俺のことが。

 あの過去の記憶のなかで、一度も泣かなかった緋色が。悲鳴をあげても、涙は決して流さなかった彼女が、泣いたのだ。


 そんなの、『嫌い』の骨頂だろ?

 グラウンドから運動部のものだろう、気合いの入った声が遠く聞こえた。

「すっげー怒ってたし。やっぱり嫌われ――」

「あほっ!」

「ッ!」

 ガッ、と鈍い音がして――左頬に、痛み。

 不意を突かれ、文鎮を離す。武骨な音をたてて、パンダは床に落ちた。

「なっ……」

 なにが起こったのかと左を向けば、海咲が右手を振り抜いた姿勢のまま立っていた。固く握られた拳が、どうやら俺の顔にヒットしたらしい。親父にも殴られたことないのに……! いや、不良にはあるけど。

 女子にしてはいいパンチだな――じゃなくて。

「おまっ、フツー女子がグーで殴るか!」

「うっさい! 黙れ昌國!」

 仁王立ちになった海咲は、正面から俺を睨みつけた。怒髪天を突く勢いって感じだ。あまりの剣幕に、怒るどころかたじろいでしまう。

「あのね! アクマちゃんは今、不安定なのっ。無性にムカついてイライラしちゃう時期なの! それもはじめての! そのくらいわかれアホっ!」

「は?」

 なに言ってんだ?

 イライラしちゃう時期?

「だっかっらっ! アレだって、アレ!」

「だからアレってなんだよ!」

 本気でわからずにいると、海咲はやけになったように叫んだ。

「保健で習ったでしょーが! 女の子のアレだよ、アレ!!」

「あ」

 やっとソレに行き着いた俺は、間抜けな声をあげた。

 え? アレなの?

(たしかに、ストレスが溜まりやすいとか神経質になるとか、聞いたことがあるよーな……)

 海咲はしばらく荒く息をしていたのが肩を落とすと、憑き物が取れたように静かな声で、

「アクマちゃん、スッゴく落ち込んで……混乱してる。……今は、あんたに会わせらんない。しばらく、あたしん家に泊まらせとくから」

「首洗って待ってろ!」と妙な捨て台詞を残し、海咲は勇ましい足取りで教室を出ていった。

 とたんに体中から力が抜け、カーペットに膝をついて倒れ込む。薄いカーペットに殴られた頬を当てるとひんやりした感触がして、深く息をはいた。

(泊まらせとくって……まさか)

 緋色が俺の家に住んでること、知ってるのか?

 ……まあ、たとえ知っているとしても、それは些細な問題とみなしていいだろう。海咲もなにも言わなかったし。

 それよりも。

(緋色……)

 また、わかってやれなかった。

 知らない間に、緋色に体の変化が起こっていたなんて――いや、それは気づかなくてもしかたないとして、まったく想像していなかった。

 じゃあ、あの涙はどこから来たのか――わからない。精神的に不安定だったからなのか?  わからない。

『大嫌い』は本音?

 ……わからない。

 どうして、わかってやれない?

 それがたまらなくもどかしくて、自分が最低な奴に思えて。

 右腕に爪を食い込ませる。それでも心は晴れない。ごまかしが効かない。

「緋色……」

 おまえは今、なにを考えてる?

 パンダの文鎮に手を伸ばす。ずっしりとしたそいつは、滑稽な笑顔を浮かべているはずなのに、まるでバカな俺を嘲笑っているように思えた。

 夕暮れが終わり、外が薄暗くなっていきやがて夜の闇に呑まれるまで、俺はひとり、墨の香りのする冷たい部屋でうずくまっていた。


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