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第四章


 Ⅳ.魔女の過去。


 ひんやりとした空気が頬を撫で、目を覚ました。

「ここは、どこだ……?」

 周りを見回すと、さっきまでいたリビングとは違う、見たこともない風景が広がっていた。

 プラネタリウムを見ているような……いやむしろ、星空に浮いているようだ。

 360度どこを向いても夜空が広がり、赤や青、黄色、緑……様々な色の星がはしゃぐように瞬いているだけだ。

 足はしっかりと地面に着いている感覚があるのに、地面と言うべきものはなにも見当たらない。幻想的な星空が、どこまでも続く。

 しばらくぼうっとして――重要なことに気づく。

「そうだ、緋色……! 緋色、どこだ!?」

 もしかしたらこれは緋色の魔法なのかもしれない、こじつけだけれど。だったら、どこかに彼女もいるはず――。

「あの娘はいないよ、ムラサキ。きみも来てたなんてね。いや、当然かな?」

「っ!」

 聞き覚えのある声。中性的な少年のもので、綺麗なのに氷のように冷たい、その声。

 すこし前、文化祭のときに聞いた……緋色の青ざめた、怯えた顔が浮かぶ。

「ルシファー……」

「やあ。ぼくのこと、覚えてたんだ。全く嬉しくないね」

 笑顔で毒を吐きながら、どこからともなく現われたのは、金髪碧眼の少年――ルシファーだった。

 今日はフードを被っておらず、輝くさらさらの金髪に海みたいに青い瞳、透けそうに白い肌、綺麗な線を描く輪郭にバランスのよい目鼻立ちという呆れるほど整った顔が、惜しげもなくさらされている。

 こうしてみると、この間も思ったけど……女みてぇな顔だよな、こいつ。

 ついまじまじと眺めていると、

「……ムラサキ。きみ今、女みたいって思ったろう? 殺すよ?」

 笑顔のままそんなことを言われ、図星だった俺は慌てて首を横に振った。

「い、いや? そんなこと思ってねぇよ?」

「へえ? まあいい。とりあえずさっきも言ったけど、ここに『汚れた娘』はいないよ」

「……その腹立つ呼び方は今はスルーしてやるとして、どういうことだ?」

 ルシファーはすっと無表情になると、淡々と説明しはじめた。

「つまりだね。これは確かにあの娘の魔法だ。いや、魔法と呼べる代物じゃないか。不安な精神状態と発熱による魔力の暴走から起こった、精神世界への次元移動さ。言うなれば、ぼくらのいる此処こそが、あの娘自身の内側なんだよ」

「緋色の……精神世界?」

「そう。ついでに言うと、今のぼくらも身体のない、精神体でしかない。だからここでなにをやっても、死んだりはしないよ。肉体はたぶん、死体みたいになっているんじゃないかな」

「え」

 死体のようにって……それはそれで、ちょっと心配になってきたんだが。大丈夫か、俺の肉体。

ホラー映画で見たグロテスクな映像を思い出し、ぞっとした。慌てて嫌な想像を振り払う。

 しばらく沈黙が続き、むず痒いような、妙な居心地の悪さに俺は「あー……えっとさ」と口を開いた。もともと、よく知りもしない相手と二人きりでいるのは苦手だ。

「で、ここからはどうやったら帰れるんだ? そもそも、なんでおまえまでここにいるんだ? 近くにいたわけじゃねえだろ」

「質問が多いね。そういう面倒な奴は嫌いなんだけどなあ」

 おまえに好かれようが嫌われようが、どっちでもいいわ。

(やっぱいけ好かねぇなー、こいつ)

 憮然として、こっそりと毒づく。

 緋色を『汚れた娘』なんて呼びやがるし。いったいなんなんだ。

「順番に答えると、まず、ぼくらの意志ではここから出ることは叶わない。言ったろう、ここはあの娘の世界だ。ぼくらにどうこうできる場所じゃない。魔法も……使えなくなっているみたいだしね」

 ルシファーは手を何度か握ったり開いたりを繰り返すと、ふうとため息をついた。

「次に、ぼくとムラサキ、両方が『呼ばれた』のは……さあね。ぼくにもわからない。ただ、なんらかの理由があるんだろう。なにしろぼくは、きみたちから遠く離れた魔界にいたんだから。さて、これで満足かい? そしたら、今度はぼくからの質問だ」

 碧い瞳がふっ――と、暗く冷たい光を放った、気がした。

「あの娘の魔力が、発熱によって制御不能になったのは感知したよ。あいつの魔力は相当なものだからね。でも、魔界の者はよっぽどのことがない限り、熱など出さないはずなんだけど? ムラサキ、あの娘に、なにをしたのかな?」

 ぞくり、と悪寒がはしった。

 ルシファーは笑みを浮かべているだけなのに。さながら蛇に睨まれたカエルのように、からだが動かない。視線がそらせない。

 圧倒的な力を持った相手を前にした、原始的な恐怖。そこらのヤンキーなんて比じゃない。初めて味わうそれに、呼吸は乱れ膝がバカみたいに震える。

「なにを……って、俺は、なにも……」

 喘ぐように呟く。視界がかすんで、自分の荒い呼吸と心臓の音だけが、耳に響いて――

「あらん。二人とも来てたのね。ぼうや、元気してた~?」

 場にそぐわない、色気たっぷりの声がしたかと思うと。

「えいっ」

 むぎゅっ、と後ろから抱きつかれた。背中にマシュマロみたいなやわらかな感触。張りつめていた糸が緩むように、緊張から解放される。

(……って)

「ア、アムリタさん!?」

「そっ、ア・タ・シ~」

 突然の闖入者は、波打つピンク色の髪のナイスバディな美女、アムリタだった。

「まさか、アムリタまでここに来てたなんてね。まあこれで、なんとなくぼくらが選ばれた理由がわかったよ」

 アムリタの登場の際、またうげっ、という顔になったルシファーは、すでに笑顔に戻って言った。

(『選ばれた』って……)

 アムリタを引き剥がし、二重の理由で乱れていた呼吸を整えて尋ねる。

「俺たちが、ここに来た理由ってことか?」

「うん。まあ、それはまた後で教えるよ。そのほうが楽しいしね」

 いや楽しいしって、おまえな。

「それにアムリタは、もうわかってるよね?」

「……ええ。わかっているわ」

 ルシファーの問いに、アムリタの表情がふっと陰った。

 どういうことかと訊くひまもなく、すぐに表情を明るくすると、

「まあ、ともかく、そのうち元の世界に戻れるってのは確かよぅ。アタシが保証するわ。安心してネ、ぼうや」

 ウィンクしてきた彼女に、釈然としないながらも俺は「はあ」とうなずいたのだった。

 輝く星たちのちりばめられた世界に、変化はなかなか訪れなかった。

「はあ、暇だなー」

 このままここにいて、いいんだろうか?

 緋色はどうしてるんだ? 大丈夫なのか?

 魔力が暴走……。金色になった、緋色の瞳。

(あ、そうだ)

「あのさ、アムリタさん」

「なにかしら?」

「さっき、その魔力の暴走ってのが起こったとき……緋色の瞳の色が変わっ――むぐっ!?」

 顔色をさっと変えたアムリタは、俺の口を手のひらでふさいだかと思うとそのまま、ルシファーから距離を取るように一気に走った。

(な、なんだ!?)

「んむ~っ!?」

 抗議の意味をこめて唸ると、アムリタはあっさりと手を離してくれた。

「あらん、ごめんねぼうや。ちょっと焦っちゃって。……あの子の瞳が、金色に変わったのね」

 険しい表情、真剣な瞳にひやりとする。

「あ、はい」

(なんだ、アムリタは知ってたのか)

 よくあることなのか?

「どうしたの、アムリタ。いきなり走りだしたりして」

「なんでもないわよう、ルシファーくん。これはぼうやとアタシのヒ・ミ・ツ。ね?」

「え? いや、あの」

「ふうん。ムラサキもまあ、男だしね。あの娘なんかに手を出すわけないよね」

 困惑する俺をよそに、ルシファーは知ったような口振りでうなずいた。どんな風に解釈してやがるんですか、てめえは?

(……ん?)

 変わらない笑顔だけれど……少しだけ嬉しそうに見えるのは、気のせいか?

 けれどそれも一瞬で。

 まばたきをする間に、微かな違和感は消え失せていた。

「それでさ、ここから出る方法ってのは……無いのか?」

 難しい顔をしたアムリタに、声が尻すぼみになる。

「んー、そうねえ、こんな魔法見たことも聞いたことも……あ」

 アムリタはぽん、と手を打つと、

「そうだわ! あの魔法、いえ、魔術に似ているのよ。自らが創りだした世界に他者を閉じ込め、ある条件を満たすまで決して還さない、という古の術よ。ね、ルシファーくん?」

「あいにくぼくは、魔術学は嫌いなんだよね。そんなマイナーな術、知らないなあ」

 興奮した様子で言ったアムリタに、ルシファーは肩をすくめた。

 いっぽう俺は、アムリタの口からぽんぽん飛び出した謎の単語に、頭が埋めつくされていた。

タシャ?

 イニシエ?

 マジュツガク?

 魔法じゃなくて魔術?

「アムリタ。ムラサキの鳥サイズの脳みそが、破裂しかかってるよ」

「あらん。ごめんなさい、ぼうやには難しかったわね。今からきちんと説明するわ」

 おいこらルシファー、てめえ一応年下だろ。それとアムリタ、フォローして下さい心が折れそうです。

(この二人といて、俺……大丈夫かな。精神的に)

 夜空を彩るたくさんの星が、エールを送ってくれているような気がした。

「おーいムラサキ、そんな凶悪な顔でロマンチックなこと考えても、子どもが見たら泣き叫ぶと思うよ」

 ……緋色のツンツン口調が懐かしいなあ、はは。

 なんだかちょっと切なくなり、気分転換にと軽く伸びをしてみたりしていると、

「……あれ?」

 それぞれの場所で、ぴかぴかと光っているたくさんの星。そのうちの一つが、次第に大きさを、明るさを増して――って。

「あり?」

 違う。

(近づいてきてる……!?)

「アムリタさん、ルシファー、あれって」

「来たわね」

「んー?」

 アムリタが猫のような目をきらりと光らせ、ルシファーは間の抜けた声をあげた。

 星に見えたものは近づいてくると、徐々にその正体が見えてきた。

 縦長の楕円形で、その中に丸い文字盤、回り続ける三本の長さの違う針、文字盤の周りを埋めるように施された、小人や鳥、様々な形の金細工。色ガラスか宝石かはわからないが、赤や青、紫、緑のちいさな石がちりばめられている。文字盤には中心から端へ、1と2、4と5、7と8、そして10と11それぞれの間に波状の線が入っている。

「からくり時計……?」

 ルシファーが呟いた。

「なんだ、それ?」

 ルシファーは時計を凝視したまま、うわごとのように、

「孤児院にあった、時計……。あれはからくり時計と言ってね。6時ちょうどになると、飾りが光ったり動いたり、文字盤が切れ目から4つに割れて、後ろから回る人形が出てきたりするようになっているんだ」

「へー……そういや、映画かなんかに出てきたな、からくり時計――って、どんどんこっちに来てないか? つーか、でかっ!?」

 細部まで見られるようになったからくり時計は、まだまだ近づいてくる。とっくに、その高さは俺たちの背を越えているのに。

 なにが起こるのかわからない不安に、背筋を冷たいものが走った。

 狂ったように速度も方向もばらばらに、回り続ける三本の針。

 幻想的な色をした巨大なからくり時計はもう、目前に迫っていた。

「避けなくて大丈夫なのか?」

「大丈夫よ」

 アムリタは動かない。ルシファーは、両手を頭の後ろで組んで時計をじっと見上げている。

 ぐるぐると動き続けていた針が、カチッ! と音をたてて止まった。指し示しているのは――6時。

 明るく透明な音楽が、星空に響いた。

 流れるメロディーに合わせて、眠りから覚めたからくりたちが動きだす。

 楽隊を模した小人たちが賑やかに演奏をはじめ、妖精は踊り、小鳥は優雅に羽を広げ、ウサギやネコ、色々な動物たちが金の唐草模様の向こうから姿を現し、目を瞬かせる。

からくり、というには動きすぎな気も……魔法のからくり時計ってやつだろうか。

おとぎの国の、だれも知らない森の奥で密かに繰り広げられる、音楽の宴。そんなイメージだ。

 ただ……でかい。とにかくでかい。ネコが俺と同じ身長に見える。

 幻想的な雰囲気と、その異様な大きさに圧倒されていると、ついに文字盤が動きだした。四つにわかれて開いていくその向こうには、闇しかない。仕掛けはないのか?

 けれど、その真っ暗な空間に、暴力的なほど激しく、惹きつけられる。引き寄せられる。

「時計はとき。刻は“記憶”……」

 いつかのように、神秘的な声音で呟いたアムリタのほうを、振り返ろうとしたとき――。

 暗闇が渦を巻いてこちら側に手を伸ばしたかと思うと、避ける間もなくからだに巻きつき、ぽっかり空いた時計のなかに引きずり込まれた。


それは一瞬か、それとも永い時間だったのか。曖昧な闇の世界。

気づけば闇が終わり、視線の先にはまた、俺たちが吸い込まれたはずのからくり時計があった。

 あれ、と思い、車酔いをしたような気持ち悪い感覚にぼうっとした頭を、軽く振る。少し思考がクリアになり、沈黙する時計が先ほどの巨大さを失っていることに気づく。

 それに無限の星空は消え去り、代わりに、色のちりばめられた温かみのある茶色が広がっていた。足元にもちゃんと硬い床がある。

「ここは……」

「……」

 感慨深そうに呟くアムリタとは対照的に、ルシファーは無表情で時計を見上げる。慌てた様子がないことから、どうやら二人とも知った場所であるらしい。

「どこだ、ここ?」

 壁を彩る色のついたガラス――ステンドグラス、時計のかけられたほうとは逆の壁一面を占めるパイプオルガン、細かな模様の描かれた高い天井。奥行きのある細長い木造の建物のなかに、俺たちはいた。世界史の資料集なんかに載っている、外国で撮られた写真のなかに入りこんだかのようで、俺は子どものように落ち着きなく周りを見回した。

 バラ窓にはめられた色彩豊かなステンドグラス越しに降りそそぐやさしい彩色光を浴びて輝く、荘厳な空気をまとった金のパイプオルガン。中心と壁ぎわを開けて通路をつくるようにし、左右にわけて整然と並べられた長椅子の列は教会に似ている。温かみのある木の壁。天井のあれは、アラベスクというやつだろうか?

 見知らぬ場所なのに、不思議と不安はなく、まるで子どものように好奇心がうずく。わくわくするなんて言葉、もう、使わないと思っていたのに……。

「ここは、魔界よん。もっとも、本物ではないけれど」

 アムリタの静かな声に他のふたりの存在を思い出し、我に返った。

「どういうことだ?」

「えっと、どこから話そうかしらん」と、アムリタが手のひらを頬に当て考えるそぶりを見せたとき。

「いんちょうさまぁー、いらっしゃいますかー?」

 三メートルはあろうかという縦に長いドアの向こうから、幼い少女の声がした。ぱたぱたと、可愛いらしい足音も続く。

「げっ、誰か来た!?」

「大丈夫よん、ぼうや」

「へっ?」

 よくわからないけど、ここが魔界だというのなら、人間の俺が誰かに見られたりしたらやばいんじゃないか? 不法侵入者みたいに。

 とっさにずらりと並んだ長椅子の間に隠れようとする俺を、アムリタがやんわりと制した。

「あれ? だれもいない……。いんちょうさまは?」

 開け放たれたドアの向こうから、跳ねるように駆けてきた少女は、こてんと首をかしげた。そのおおきな目はしっかりと俺たちのほうを見た、はずだ。

(『誰もいない』って……。俺たちが見えてないのか?)

 せわしない動きに合わせてさらりと揺れる、背中まで伸びた髪は、ピアノのように艶やかな黒。それを一層際立たせる、病的でない白い肌。整った顔立ちには、見覚えがあるような。

 そして、くるくるとよく動く、ぱっちり二重の双眸は……夕日のような、赤に近い綺麗なオレンジ色。

 それは、その少女はまるで――

「緋色……?」

 カボチャの髪留めは付けていないし、今よりもちいさく幼いが、その少女は間違いなく、阿久間緋色だった。

 現在のような彼女独特の存在感はまだ弱く、ぽわわんとした明るい少女。そういった印象を受けた。

 黒い無地の、余計なものを一切省いたというようなシンプルなワンピース姿。くるぶしまでを隠した裾の下から、これまた真っ黒なブーツのつま先がちらりと見えた。その出で立ちはまるで、黒い可憐な一輪の花。

「緋色……だよな?」

「そうよん。……やっぱり、ここは緋色の記憶の世界なのね」

 アムリタが、確信を得たという風にうなずく。

(『記憶の世界』?)

 そんな会話を交わしているのに、邪気の無い、「これがあの緋色なのか」と疑うほど純粋にして無垢な雰囲気のチビ緋色はやはり、こちらの存在に気づかない。あ、チビなのは今も同じか。

「あ、あっちかな?」

 しばらく首をひねっていたチビ緋色がぽんと手をうったかと思うと再び、外に向かってぱたぱたと走りだした。ウサギが跳ねるような、ぴょこぴょことせわしない動きだ。そういや今も、こんな走り方だな。

「行っちまったなー……っえ?」

 ちびっこい背中を見送り、さあこれからどうしたもんかねとアムリタと、無表情に黙ったままのルシファーに声をかけようとした矢先。ぐんっと体が前に引っ張られる感覚がし、

「のわっ!?」

 ぎゅうぅん、と周りの景色がゆがんだかと思うと、

「……あ?」

 そこはもう、教会に似た建物の中ではなかった。

「ムラサキ、そこは『あれれぇ~っ?』って言わないと。ただでさえ人相が悪いんだから、そんなドスのきいた声なんて出したらどこのヤのつく職業の方ですか? なんて言われるよ」

「突っ込むのはそこかよ。おまえだって、女みたいな顔してるくせに……!」

 久しぶりに口を開いたと思ったら、ずけずけと言いたい放題の野郎である。

 ならばと、更に目つきを鋭くして睨んでみても、無駄ににこやかな笑みは崩れることなんてなく。

「へえ? やっぱりそう思ってたんだ。……殺すよ?」

 あ、なんか前言撤回したくなった。かな?

 待て、こういうときは先手必勝だ。

「よしわかった。じゃあ今後、お互い見た目についての悪口は無しな」

「了解、キュートな邪気眼のギャングスターになれそうな二十歳越えにしか見えない素敵なムラサキ」

 もうやだコイツ。

 精神的ダメージにうずくまった俺を見て、アムリタは「あらん、ぼうやとルシファーくん、いつの間にそんなに仲良くなったの?」なんて言っているし。ちょっと待て。

「コイツと仲いいとか、あり得ないから!」

「そうそう。ぼくもこんな、ポケットに折り畳み式ナイフとか忍ばせてそうな奴はヤだよ。だいたい、人間は嫌いだし」

 力強く否定すると、ルシファーは淡々とそれに乗じた。……あれ? なんか俺、けなされてる気がするんだが。刃物なんて忍ばせてないからな?

「けなしてるんじゃないさ。苛めて貶めて跪かせようとしてるだけだよ」

 にっこりと言い放ちやがった。

(……こいつには口喧嘩じゃ勝てねえな)

 あれか、俗に言うSという属性なのか、コイツは?

 いつまでこんな奴と一緒にいなきゃいけないのだろうか。先が思いやられる。

「しっかし、ここもすげえなー。さっきとはまた違って」

 気をとりなおして周りを見回すと、くどいが俺のボキャブラリーでは世界史の資料集で見た、と言うしかない景色が広がっている。

 日本でいう欧風のアンティークの調度品があちこちにある、木でできた家の一間に、俺たちはいた。

 目の前ではチビ緋色と、彼女が「いんちょうさま」と呼んでいる牧師のような格好をした、柔和な笑みを浮かべたご老人が、ソファーに座って何事か話している。言わずもがな、二人は俺たち三人に気づく様子はない。

(……ん?)

 しばらく古めかしい電話をつついたりしながらその様子を見ていた俺は、ある違和感を覚えた。

「聞こえない……?」

 結構近くにいるというのに、楽しげなチビ緋色たちの会話の内容は、まったく聞こえないのだ。小声で話しているわけでもないのに、しゃべっている言葉が一切わからない。電波の悪いラジオのように、途切れ途切れに声が聞こえる。奇妙な感覚に顔をしかめていると、

「ああ、そうそう。説明がまだだったわねん」

 アムリタが思い出したように言った。

「頼む、アムリタさん。もうわけわかんねー……」

「頼まれたわよん」

 正直、知恵熱が出るんじゃないかと思うほどわからないことが多すぎたので、アムリタに向きなおる。ちいさなテーブルの上に置かれた赤い装丁の本の表紙をそっと撫でたアムリタは、「あのね」と話しだした。

 外の季節は春なのだろうか。やさしい花の香りが、暖かな空気をふっと横切った。

「まず、緋色が高熱を出したのでしょう? それで、魔力が暴走して、勝手に魔術を構築、展開、発動させちゃったのよん。魔術っていうのは、魔法と違ってあまり形式化されてない曖昧なものなの。言うなれば魔法の原型ね。魔法は呪文や材料なんかがそろえば大体誰でも使えるけれど、魔術は本人の能力、素質に頼るところが大きいの。誰でも使えるものじゃないし、古……昔のものだとされているから、なかなか使わないのよねん。ここまで、わかったかしら?」

「あ、ああ。つまり、その魔法とは違った魔術ってやつが緋色の意志と関係なく、発動しちまったわけか」

「まあ、意志に関係なくと言うよりも、深層心理……無意識の意識って言ったほうがいいかもね。自覚のない、隠された本心ってことさ」

 ルシファーが付け加える。

 話してはいるが、その視線はずっと、笑顔のチビ緋色から動かない。感情のまったく読めない目だけれど……ほんの少しだけ、風に揺れる水面のように、瞳が揺らいだ気がした。

アムリタの説明は続く。

「で。たぶん、この魔術はね。自分の記憶から創りだした精神世界に、相手を閉じ込める術よ。ちなみに今いるこの院長室とさっきの教堂――文字どおり教会と聖堂が混ざったようなものね――は、緋色が八歳まで暮らしていた孤児院よん。いくつかの建物に分かれているの」

そっか、ここが孤児院なのか……って。

「え、閉じ込め……?」

 なんか不穏な響きだな。

「あ、心配はいらないわよん。たぶん、すべての記憶を見終わったとき、元の世界に還れるわ」

「全部って……。それは、結構時間がかかりそうだな。ちょっと昼寝しててもいいか?」

「だーめ。記憶と言っても、あくまでも緋色の記憶が元になっているのよ? 起こったことを細かく覚えているはずはないし。実際、いきなり場所が移動したでしょう? 途中の記憶が曖昧、もしくは忘れてしまっているせいなのよん。だから、会話の内容もわからないの」

「ああ、それでか」

 やっと納得した。

 緋色一人の、主観的な記憶である以上、抜け落ちている箇所があってもおかしくはないのか。

「つまり、絵本を見てるようなもんだと思えばいいんだな?」

「いい例えねん。満点よ」なんて、アムリタがはなまるをつける先生ぶって言ったあと、

「ほら。ページがめくられるわよん」

 一人の少女の思い出が、暖かな午後の一場面が、ぐにゃりとゆがんだ。


 土の匂いが、鼻を刺した。

 まず目に飛び込んできたのは、やさしい緑。いっぱいに広がる草の絨毯の上に、黄色や白や赤、ピンク色の花の群れが風に揺れる。視線を上げれば、晴れ渡った青い空がどこまでも、続いている。

 そんな、春ののどかな草原を、それぞれに違った髪や瞳の色をしたたくさんの子どもたちが、彩っていた。

 友達と笑い合っている子。

 他の子となにか言い合いになて、それで泣いたり、怒ったり、それを止めに入る子がいるかと思えば。

 一人で黙々と土いじりをする子。

 花で輪っかを作ってはしゃいでいる子。

 歓声をあげながら走り回る子。

 本当にここは、魔界なのだろうか?

 人間の子どもと何ら変わらない、仕草、表情、感情。髪や瞳の色は様々だけれど、その姿からは、人間と違う存在だとはとても思えなかった。

「なあ、人間とおまえらの違いって、なんなんだ?」

 好奇心から、問いが口をついて出ていた。

 アムリタは気持ちよさげに腕を広げて伸びをしてから、穏やかな表情で子どもたちを見つめると、

「そうねぇ。簡潔に言えば、『住んでいる世界』かしらん」

「え、それだけ?」

「んー、それを説明するには、魔界についても教えなきゃね。どこまでなら話しちゃってもいいのかしらん、ルシファーくん?」

「さあね。アムリタならわかるでしょ。ムラサキの頭がキャパオーバーで破裂しない程度に、だよ」

 キャパオーバーって……要するに、頭が足りないってことか?

 肩をすくめてみせたルシファーに、「そうねん」と返すアムリタ。俺は怒ってもいいよな? この場合。

 けれど、アムリタはさっさと魔界講義を再開してしまった。さみしくなんかない。

「本当にそれだけなのよねん。人間界と魔界、どちらに『在る』か、というだけ。人間界に生まれたから人間と呼ばれ、魔界に生まれたから魔界族と呼ばれる。アタシ達の見た目は、人間とそう変わらないわ。髪や瞳の色は、まあ、カラフルだけれど。ヒトならざる姿をしたモノ……いわゆる悪魔や魔物なんかは、また違った世界に住んでいるのよん。天使や神様なんかも、それぞれに世界があるの。ちょっと話が逸れたわねん。で、アタシ達魔界族は魔法が使えて、人間は魔法が使えない。生まれた世界が違うから。それだけよん。一説には、人間界と魔界は遥か昔は一つの世界だったとも言われているけど。伝説みたいなものだから、確証は無いわねん。まあ実際、人間界と魔界は繋がりやすいし。背中合わせの位置にあるそうよん、ある人によると。これくらいでいいかしらん?」

「あ、ああ……」

 正直に言って、いっぱいいっぱいだが。

 オレンジや水色、金、紫、赤と、様々な色の髪の子どもたちを横目に見ながら、

「要するに、俺たちと魔界族ってのは、そう違いはないんだな」

「そうなるわねん。あと、人間界みたいに国がたくさんあったりはしないの。魔界の王が最高権力者にあたるのよん。王族の下に貴族があって、その他は民と呼ばれる。でも、貴族と民には大差はないのよん。だから、フランスで起こったような、身分の違いから生じる革命は今まで起こったことがないわ。王族は一応、敬われているし……実際、魔法学校の関係者のほとんどは、王族に連なる者たちで占められているわ」

「なんのために?」

 学校を王族が支配することに、なんの意味があるんだ?

 素朴な疑問をぶつけてみると、アムリタはそれまでの饒舌さが嘘のように、口をつぐんだ。

「……さあねん。お偉いさんがたの考えは、アタシたちにはわからないわ」

「簡単なことさ。“掟”だよ」

 目を伏せたアムリタにわずかなひっかかりを覚えていると、ルシファーの中性的な声が冷え冷えと響いた。

 心なしか、目が険しくなっているような。

「魔界に在る者は全て、“掟”ってやつに縛られてるのさ。いつ誰が作ったのかもわからない、そんなものにね。王族ですら、あらがうことはできないよ。だよね、アムリタ?」

「……ええ」

 何故だろう。ルシファーは笑みを崩さないのに。アムリタはどこかほろ苦い表情を浮かべているのに。

 俺がつかの間、二人から感じ取った感情は――ぱっと燃えあがる炎のような、怒りと憎しみ。しばらく言葉が出なかった。

 そういや、昔から感受性ってやつが強くて、それで人間の群れが苦手になったんだっけ。そんなことを、ふと思う。

 春風が駆け抜ける草原の丘がわずかに、暗く陰った気がした。子どもたちのにぎやかな声で、かろうじて沈黙が埋められる。

 と、

「ヒイロー、あそぼー」

「うん!」

 遠くに、風にふわりと舞う黒髪が見えた。そっか、緋色の記憶だから、チビ緋色がいるのは当たり前か。ちょっと本気で忘れてたわ。

「まあ、ともかく」アムリタが気を取り直すように明るく言う。

「とりあえず、いつまで続くのかはわからないけれど。のんびり記憶巡りの旅をしましょうか」

「ああ」

「ま、そうするしかないだろうね。ムラサキなんかと一緒ってのは気にくわないけれど」

「……てめぇは一言二言余計なんだよ。奇遇だな、同感だ」

「うわぁ。同じこと考えてたとか最悪だね」

「……もうなにも言わん」

 終わりのない言い合いに疲れ、草原に腰をおろす。

 どことなく釈然としないところはあるけど……まあ、今は風景でも楽しむかな。綺麗だし。

 そんなのんきなことを考えていた俺は、後で痛い目をみることになる。

 他人の記憶を……過去を覗き見るということがどういうことなのか。まるでわかっていなかったんだ。

 ひゅうっと一陣、冷たい風が春風に紛れて通り過ぎた。


 ふっと気づけば、春の陽気に包まれた丘の景色は掻き消え、最初と同じ、木造の建物――教堂のなかにいた。

 ただ、暖かだった空気はしんと冷え、肌寒さにちいさく震えた。

「寒ぃ……。冬、か?」

 空気に溶け込むように、静謐な沈黙を奏でるパイプオルガンを見上げる。首がちょっと痛い。

「魔界にも四季があるのよん。うぅ、寒い」

 アムリタが身を縮める。

 そういえばこの人、やけに露出度の高い服だったっけか。大胆に開いた胸元と、チャイナドレスよろしく切れ目の入った丈の長いスカートからのぞく太ももに、自然と目がいく。もちろんすぐに逸らしましたとも。

 と、それを目ざとく見つけたルシファーが、

「発情しないでよ、ムラサキ」

「するかアホ! 寒そうだなって思っただけだよ」

「へーえ? じゃあ女性の体には興味すらないんだ」

「ああ。断じてない。俺は変態じゃねえかんな」

 草食系とかいうやつではないが、女にいちいち欲情するような肉食系ではないのである。よく枯れてるとか言われるが、気にしない。

「……ぼうや。それもそれで、問題があるような気がするわよん」

「へ?」

 神妙な顔をしたアムリタの言葉に、きょとんとする。ルシファーはしてやったり、と言うように笑みを浮かべている。なんで?

 アムリタは長椅子にちょこんと座って絵本を読んでいるチビ緋色に視線を向け、

「そうだったのねん。アタシに興味ナシ、緋色の下着姿にも大して反応ナシ、とくると……もしかして、女じゃなくておと」

「おい、ちょっと待て?」

 なんかどんどん変な方向に解釈してないか?

 どうも変な誤解をしているらしいアムリタを、どうしたものかと頭を抱えていると。

「…………ムラサキ?」

 アレ? なんだか地獄の底から響くような声がするなあ、ははは。

 寒気を覚え、気温のせいだと自分に言い聞かせる。背後を恐る恐る振り返ってみると、そこには笑顔の悪魔が。あ、魔界族だっけか。

「ナ、ナンダイ? ルシファーくん」

「アムリタ、今、下着姿って言った?」

「ええ、言ったわよん。ぼうや、もう二回も緋色のあられもない姿を見てるのに、反応が薄いのよねぇ。がっかり」

 いや、あられもない姿って。なんかわざといやらしい表現使ってないか? あとがっかりってなんすか。

 はっ。ちょっと待て。

「いやいや。ちゃんと頭ん中真っ白になったり、なんつーか、こっ恥ずかしい感じがしたりしたぞ?」

 ここは話の流れを利用して、せめて女に興味がないわけじゃないことを証明したほうが賢明じゃないか? 俺はいたってノーマルであって。同性愛に理解がないわけではないが、自分は違うからな。って、誰に言い訳してんだ、俺?

 二人は笑みを深くすると、

「ふうん。つまり、あの娘の半裸を見て欲情した、と」

「あらあら。ぼうやもやっぱり健全なオトコノコねん。そうよね、ベッドの下に一つや二つは隠してる雑誌があるわよねん。安心したわー」

 そうそう――って。ん?

 いや、たしかに健全であると主張はするけど、俺はあくまで紳士であって。健全な男子高校生代表の小松みたいに、青春の教科書という名の、あはんうふんな写真集を買ったりはしてないからな。新たに浮上した誤解を解こうとした矢先。

「違うよアムリタ。あの胸部が絶望的絶壁の娘に欲情したってことは、普通じゃなくてロリコンってことだよ」

「は?」

 ちょっと整理してみる。

 俺は十六歳。

 緋色は十三歳。

 でも緋色はぶっちゃけ絶ぺ……じゃない、小学生にしか見えない。俺はよく酒が飲める年齢だと間違われる。納得できん。

 つまり見た目だけで言えば、小学生な緋色と二十歳越えの俺。

 つまり――

「ロリコン確定だね」

「ロリコンだわねん」

 うまく誘導された……!?

「ちょ、ちょっと待て」俺は断じてロリコンではない!

 確実に誤解されて……いや、誤解がなくとも絶対に弄るだろこいつら! 俺のばかああぁ。

けれど、自己嫌悪に陥っても時すでに遅し、というやつで。

「そっかあ。ムラサキはロリコンだったんだね。ちょっと後で牢屋に来てくれる?」

「鞭とか蝋燭は使っちゃだめだからね、ルシファーくん。ぼうや、アタシは否定しないわよん、がんばってネ」

 いやあのちょっとお二人さん? にこやかに殺気放ったり、やたら楽しそうにウィンクしたりしないでください。

 牢屋ってなあに? ムチとロウソク……ってあれか? アルファベットのエスとエムを組み合わせてよく言われるまさかいやそんなはずないよなあはは。

 ……リアルに生命と尊厳の危機を感じるんだが。

(早く帰りたい……!)

 俺たちが騒いでいることにはもちろん気づかずに、ひとり平和に絵本の世界に没頭しているチビ緋色がうらやましい。

(――それに、)

 あのあと緋色がどうしてるのかもわからないのに、いつまでもここにいるわけにはいかないよな。いや、でもアムリタが心配してないところからすると、大丈夫なのか?

てか、俺がこれ以上いたくない。

 なにが描かれているのかよくわからないきらきらしたステンドグラスを眺めながらそんなことを考えていると、ふと、疑問が浮かんだ。

「なあ、ルシファー」

「ん? 質問なら一つしか受け付けないよ。二つ目以降は一つにつき鞭打ち百か」

「わかったわかったオーケー了解した皆まで言うな。……あのさ、おまえって緋色のこと、どう思ってんだ?」

 視線を向けた、偽名しか知らない少年の笑顔が、すっと無表情に変わる。よく知っている表情。何度も鏡で見たことがある。

 それは、感情を消した空っぽの能面でも、冷たく凍り付いたものでもない。

 こいつの無表情は、爆発しそうな感情を、必死で押し殺した表情だ。

 最初は、無表情がホントウで、笑顔が作り上げたもの……ウソなのだと思っていた。たまに見せる無表情から、そう信じ込んでいたのだ。

 けれど、違う。

『汚れた娘』。緋色をそんな、蔑んだ呼び方をしながら。緋色にあんなに、怯えられながら。

 無限の星空の世界で、緋色が高熱を出したと聞いて、

『あの娘に、なにをしたのかな?』

 あれは、緋色が俺になにかされたんじゃないかと心配したんじゃ?

 他にも、思い返してみれば次々と浮かんでくる、ルシファーの言葉。

『あの娘なんかに手を出すわけないよね』

『今、下着姿って言った?』

『胸部が絶望的絶壁の娘』

 安心したように、怒ったようにと、かすかだけれど声に表れた感情。そして、緋色のことをよく知っている風な口振り。

 笑顔と無表情の二面性に翻弄され、見抜けなかった変化、揺らぎ。

 それらが、パズルのピースがはまるように次々と組み合わさっていき……ぱちん、と最後の一ピースがそろった。

 やっとわかった。

 どちらかがホントウというわけじゃない。笑顔と無表情、二つともが、ウソだったのだ、と。

「ぼくは」

 固い声。感情を読めなくさせる、無表情。

 それを少し離れてじっと見ているアムリタが、見たことのない冷たい表情を浮かべているのが、視界の隅に映った。

 冬の静寂が、やさしいものから張り詰めたものへと変わったのがわかる。チビ緋色を除いた、パイプオルガンやステンドグラス――すべてが息をひそめ、事の成り行きを見守っている。

 俺は少しだけ、後悔しはじめていた。

 ふと口に出してしまったけれど、これは……ルシファーの秘密に触れることになるんじゃないか? 俺に、秘密があるように。

 禁忌のパンドラの匣――。大げさかもしれないけれど、底知れない闇を映したような紺碧の瞳を見ると、胸騒ぎがした。けれど質問を撤回することもできず、重い沈黙は続く。

 そのとき、縦長のドアが開かれ、金髪の少年が飛び込んできた。

「ヒイロっ、ここにいたんだね」

「ッ!」ルシファーが目を一瞬、見開いた。苦々しい表情が、ゆっくりとその整った顔に広がっていく。

(な、なんだ?)

 どうしたってんだ、いったい?

 チビ緋色が顔をあげ、ぱあっと笑みを弾けさせた。

「あっ、ルーちゃん!」

「ルーちゃんはやめてって言ったよね、ヒイロ。ぼく、怒るよ?」

「ごめんなさい、ルーちゃん……あっ。また言っちゃった」

「はあ。もういいよ。言っておくけど、ヒイロだけだからね、許可するのは」

「きょかってなあに?」

「許すってことだよ。ヒイロにはまだ、難しい言葉は早いかな?」

「むっ。またこどもあつかいしてー! ひとつだけ年上ってだけでしょ」

 金髪碧眼の、ルーちゃんと呼ばれた少女と見間違えそうな顔立ちの少年がからかうように笑い、チビ緋色が頬をふくらませる。

(ん?)

 ルー……ちゃん?

 金髪に青い瞳……。

(って、まさか……!?)

 ルシファーはまた無表情に戻っている。

「あ、ちなみに気づいてるだろうけど、あの子はまだまだ穢れを知らないルシファーくんよん。可愛いわね~。さすが、天使と呼ばれただけある……っと、冗談よん、冗談」

 あっさりとご丁寧に教えてくれたアムリタは、ルシファーに睨まれ口をつぐんだ。

 へえ。……って。

 戦慄が走り、俺はおもいきり叫んだ。

「はああ~っ!? アレがコレ!?」

 ジャケットに半ズボンという、ちょっと昔のお坊っちゃんといった出で立ちのチビルシファーと、ルシファーとを交互に指差す。

 いや、たしかにそっくりだけど。予感はしたけど。

「ありえねぇ……!」

 雰囲気がまるっきり違う。例えるなら天使と悪魔だ。いや、誇張なしに。

 だいたい、ルシファーは偽名だって、最初に言ってなかったか?

「ムラサキ、黙ってくれない……?」

「はいすいません」

 ぎらりと光った双眸に、反射的に謝る。

「なに読んでたの?」

「んとね、『月はむじゃきな夜の王女さま』よ!」

「へえ。牢屋とか縄とか鞭とか出てくる?」

「え? でてこないわよー、そんなの。あ、いっしょに読もうよ」

「いいよ」

「えへへ」

 こちら側に険悪な雰囲気が漂うなか、向こう側のチビ緋色とチビルシファーはすっかり、ふたりの世界をつくっている。ああ忘れてた、今記憶を観てるんだったな、俺たち。

(……つか、やっぱりルシファーはルシファーなんだな)

 なんというか、安心した。

「ねえ、ルーちゃん」

「んー?」

 仲良く並んで長椅子に腰掛けた、過去の幼いふたり。

「ルーちゃん、春からがっこうに行っちゃうって、ほんとなの?」

「うん。秋の試験に合格したからね。全寮制だから、しばらくはヒイロとも会えないよ」

「そんなぁ……」

「泣かないでよ、ヒイロ。ヒイロも来年、試験を受けるんだろう? またすぐに学校で会えるよ。それに、夏休みと冬休みには、帰ってくるから。ここにもきっと来るよ」

 うつむいていたチビ緋色が、顔をがばっとあげる。

「ぜったい?」

「うん。約束するよ」

「じゃあゆびきりしましょ? ほら、ゆーびきーりげーんまーん……」

 チビ緋色の笑顔。チビルシファーの微笑み。

 それは、幸せな光景で。すべての祝福を受けているかのように、二人は輝いていた。俺には、眩しすぎるくらいに。

 ずきり、と胸が痛む。

(なんで――)

 どうして。

 今、俺は。

 寂しいなんて、思ったんだ?

 誰にも気づかれないように、ぎり、と左手で右の二の腕を強く掴み、爪をたてる。感情が制御できなくなりそうなときは、こうすればいい。昔から、そうしてきた。

 理解不能の感情が鋭い痛みと混じり、曖昧になり、薄れて消え去るのをじっと待った。

幼い緋色とルシファーの笑みに、文化祭のときに見た、怯える緋色の顔が、フードで顔を隠したルシファーの侮蔑を含んだ声が、重なる。

(どうしてそこまで、変わってしまったんだ?)

 思考が正常に戻り、客観的に考えられるようになったことに安堵した。

「ぼくは、あいつのことを」

 一切ぬくもりのない声。機械が流す音声のように、感情を捨て去った音の羅列。ウソの無表情を貼りつけたルシファーは、静かに言った。

「ただの『汚れた娘』だとしか思ってないよ」

 ぱっと、世界が暗転した。

「え?」真っ暗だ。今までと様子が違う。空間がねじれて、気づいたら場面が変わって――なんてことはない。

「ここから先は、覚悟したほうがいいかもよん、ぼうや」

 暗闇に、アムリタの声が響いた。その不気味なほど静かな響きに、不安が増幅し、鼓動が速くなる。

「アムリタさん、それってどういう――あり?」

 周りを見回しても、黒一色に塗り潰された世界に、二人の姿は見えない。声はすぐ近くから聞こえるのに。

「ぼうや、よく聞いて。ルシファーくんも……聞いているわよね」

 はじめて聞く、真剣な声。しゃべり方も妙に普通だ。

「さっきのが、緋色が七歳、ルシファーくんが八歳の頃の記憶よ。つまり……」

「今から見ることになる記憶が、ようするにあの『汚れた娘』の闇の部分さ」

 ルシファーの冷静な声が割って入る。

「ちょうどいいから言っておこう。何故、ぼく達がここに『喚ばれた』のか。それはね、」

 嘲るような声が、告げた言葉。

「ぼく達のことを、心の底から憎んでいるからさ」

 一瞬、自分の耳を疑った。

 ちょっと待てよ。じゃあ、今まで緋色は。

(――うそだろ?)

 緋色がこの一ヶ月ほどのあいだ、俺に見せてきた、怒った顔、しょぼくれた顔、呆れ顔、ふくれっ面、恥ずかしがる顔……照れたような笑顔が、次々に浮かぶ。

 耳元で、静かでいて執拗な響きを持つルシファーの声が囁くように聞こえた。

「もしかして、あの娘が自分に懐いてるとでも思ってた? そんなわけないだろう。あの娘は、そもそもムラサキ、きみを殺すために、きみに近づいたんだから。心の底では、憎くて憎くてたまらないはずさ」

 懐くとか言うな。そう言いたいのに、言葉が出ない。

 緋色と過ごした、面倒だけど退屈しない、非日常的な時間が、その悪魔の囁きに、音をたてて崩れていく気がした。

「そ、んな……わけ……」

 あいつは、緋色はいつも――。

 我ながら苦しい言い訳の言葉を、口が勝手に絞りだそうとする。

 けれど、頭ではわかっていた。

『あんたのせいで――』

 何度か言われたこと。その度に、むかついていたけれど。それは、当然のことだ。

 俺が三年前、緋色にキスなんかしなければ、彼女は今頃、魔法学校に通って、普通に暮らしていたはずなんだ。それを奪ったのは、俺だ。

 理解はしていたものの、目を逸らしていた現実が今、刃のように目の前に突き付けられていた。

 ひとりの人生をめちゃくちゃにした。端的に言えばそうだ。

 未熟な過去の自分が犯した罪の重さに、ぞっとする。

 嫌な汗がじわりと浮かび、足元がおぼつかない。ふらりとよろけたところを、なんとかこらえる。

「おっと。まだ倒れたりしないでよ?」

 愉悦を含んだ悪魔の囁きはまだ続く。救いを求める罪人に、無慈悲にもさらなる苦しみを与えようとするように。

「きみは、知る義務がある。あの娘になにがあったのかを、ね。そして、罪悪感にさいなまれればいい。それが、あいつの本心であり、本性なんだよ」

 本心? 本性? 緋色の?

 あいつは、俺の絶望を、痛みを、望んでいると?

 記憶のなかの緋色の顔が次々と、闇に浮かんでは砕け散る。手を伸ばすことさえできない。

 創られた精神世界。俺の意識も、反映されているのか……?

 頭はまるでブラックホールの渦。ぐちゃぐちゃになった思考が延々と回って、出口が見えない。

 確証もなにもない言葉で、それだけで、世界がばらばらになって、心臓が、握り潰されるように痛くて。自分が立っているのかさえ、わからなくて。暗闇に独りぼっちに、なったようで。

 緋色の本心。ホントウの心。

(そんなの……)

 いやだ。

 自分勝手だとは思う。なんて調子のいい奴、と言われてもかまわない。それでも、俺は緋色に――。

「ぼうや、ごめんね。アタシにはどうすることもできない。これがあの子の望みなら……」

 アムリタの哀しげな声が、遠くなっていって――

 ふわっ、と体が浮くような感覚がし、俺の意識は再び、記憶の旅へと向かった。

 否応なしに、辛く悲しい、物語のページがめくられる。


「ルーちゃん、どうして、もどってこないのー?」

 季節は夏だろうか。蒸し暑く、しょぼくれたチビ緋色は暑さにやられてぐでん、と教堂の床に転がっている。

 ステンドグラスを通していくらか弱まってはいるんだろうけど、夏の日差しはやっぱり狂暴だな。暑ぃ……。

「ルシファー、おまえなんで戻らなかったんだ? ……って、いねえし」

 虚しく独り言なんかを呟く。

 案内人、もしくは説明係となっていたふたりはいなくなっていた。声すらも聞こえない。

「こっからは一人でってことかよ……」

 アムリタ達もそれぞれ、この場面を見ているのだろうか?

『きみは、知る義務がある。あの娘になにがあったのかを、ね。そして、』

 チビ緋色がごろごろ、と床を転がっていく。

『罪悪感にさいなまれればいい』

「はあ……」

 ついさっきルシファーの言ったことが、頭から離れない。首を回したりして、頭をリセットしようと試みるけどうまくいかない。

 そうだ、なら違うことを考えようと、床を怠惰な動きで転がり続けるチビ緋色を見やる。

「うーにゃーぅ……」

 今にも耳としっぽが生えそうな様子で、不機嫌そうに唸っている。

 どうやら、どんな事情があったのかは知らないが、ルシファーは夏休みにこの孤児院に来ることはなかったようだ……場面がぐにゅうん、と秋の景色に変わった。

「こんにちは、緋色。あなた担当の試験官になった、王立魔法学校のアムリタよ。よろしくねん。頑張ってちょうだい」

 秋の風が紅い葉を運んできた、孤児院の門の前。

 過去のアムリタ、チビ緋色は共に黒いワンピースに黒いとんがり帽子という格好……緋色の言ってた、正装ってやつか。

 笑顔で差し出された、まだ髪が腰まで届いていないアムリタの手を、チビ緋色はぎゅっと握った。

「はい!」

 ふたりの周りでは、他にも試験を受けるらしい子どもたちが、自分の担当者と挨拶をしている。学ランの集団並みに真っ黒な眺めだ。

(えっと、たしか俺のところに来たのが三度目の試験だったよな)

 一度目と二度目は、いったいなにがあったんだ?

 いってらっしゃーい、と騒ぐチビども(どうやら少なくとも三十人ほどが一緒に暮らしているらしい)に見送られ、チビ緋色は自然に囲まれた孤児院を旅立ったのだった。

そして、場面は日本へと変わる。

「と、とりっくおあとりーと!」

 発音下手だな、おい。

「あ゛ぁん? 失せろ、このくそガキ!」

 玉砕ー!? しかもチンピラ!

 チビ緋色を一蹴したチンピラは道に唾を吐き捨てると、がに股でどかどかと遠ざかっていった。

「あらん。残念だったわね、緋色。たまにヤな奴に当たる子、いるのよねー。また来年、頑張りましょ」

 軽っ! 緋色も「うん!」と笑顔だし。

 予想外に平和な記憶に、さっきまでのシリアスな雰囲気もどこへやら、拍子抜けした俺はため息をついた。


 そして、

「ルーちゃん……来ない……」

「ルーちゃん……夏には、きっと戻ってくるわよね?」

「暑い……」

「……ルーちゃんの、ばかー!」

 冬、春、夏と季節は巡るが、チビルシファーの姿が再び緋色の記憶に現れることは、なかった。

 アムリタから聞いていた通りに、試験から帰ったあと孤児院のある村の外れのちいさな小屋で、チビ緋色は暮らしはじめた。

「緋色、元気ー?」

「あっ、アムリタ! いらっしゃい」

 時折アムリタが様子を見にやってきた。二人がだんだん仲良くなっていくのが、見ていてよくわかった。今も、緋色はアムリタには心を開いてるように見えるしな。

チビ緋色は村の役場で手伝いをしながら、一人暮らしをしている。

「おーい、ヒイロ。おまえ、不合格だったんだってー?」

「また来年があるわよ、頑張ってね」

「はい、ありがとうございます」

 笑顔で励ましの言葉をかける村の人々。それに笑顔で応じるチビ緋色は、だけど、どこか居心地悪そうに見えた。

「ルーちゃん……」

 ふとした瞬間、ルシファーの名を口にする。

(なんだよ、いつまでもルーちゃん、ルーちゃんって……)

 口がへの字に曲がっていく。

 睨みつけてしまっても、チビ緋色は決して俺の存在に気づかない。当たり前だ、俺は肉体のない精神体でしかなく、目の前にいるチビ緋色も、記憶でしかないんだから……。

(あー、なんかイライラする)

 緋色と出会ってから……いや、再会してからというもの、時々、自分が自分でわからなくなる。

 頭をがりがりと掻く。

「意味わかんねー……」

 誰かのために心を乱すなんて、もう絶対しないと……したくないと、思っていたのに。

 はめ殺しの窓から、オレンジ色の光が射し込んでいる。

 “彼女”と緋色。

 似ても似つかない、黒髪のふたりの顔が重なった。


 秋も深まっていき、二度目の試験の日になったようだ。

「さあ、緋色! 今回こそは合格するわよん」

「うん、がんばるわ」

 きゃいきゃいと盛り上がるふたり。人間でも同じだけど、女子だけでいるときってたいていテンション高いよな。

(うーん。一度目のオチからして、また追い返されるんだろうな……)

 俺の予想は、しかし裏切られた。

「あの……はじめまして。トリック・オア・トリート!」

 おお? 発音がやや流暢に。なるほど、まずは挨拶からはじめることにしたんだな。

 真剣な顔で右手を差し出すチビ緋色。その真っすぐな瞳を向けられた、知的な風貌のサラリーマン(これなら、チンピラよりも温厚に追い返すだろう)は、アパートのドアを開けたポーズのまま驚いたように何度かまばたきをして――

 どすっ

「み゛っ」

(――は?)

 腹を蹴られた緋色が悲鳴をあげる。細い体は簡単に吹っ飛び、どんっ、と後ろのコンクリートの壁に激突した。そのままぐったりと崩れ落ちる。

「てめぇっ、なにしやが……あ」

 カッと頭に血がのぼり、メガネ男に掴みかかろうとして――するっ、と通り抜けてしまった。

 あ、そうか。今の俺は、ただの精神体だったんだな。触れるはずないか。

 冷静に分析する自分がいるいっぽうで、怒りの熱はなかなか冷めない。

「あ……ち、近寄るなあっ! 俺は、ロリコンなんかじゃないんだよッ! 消えてくれよ、消えて……っ!」

 自分のしたことにしばし茫然としていたメガネ男は、半狂乱になってそんなことを叫ぶと、ばたんとドアを閉めた。がちゃり、と鍵をかける音までする。

 蹴飛ばされたチビ緋色は、こちらもなにが起こったのかわからないといった様子で腹を押さえ、コンクリートの床にしゃがみ込んだままぽかんとしている。

「なんで……」

「大丈夫、緋色!?」

「うん……」

 どこからか走ってきたアムリタが、チビ緋色を抱き起こす。

 そして、「ごめんなさい、緋色」と頭をさげた。

「まさか、精神面で問題のある人間だったなんてね……。もう少し、人間の選考方法を見直してもらわなきゃならないわねん」

「アムリタのせいじゃないわよ。……あの人間のせいでもないわ。また来年があるんだし、気にしないで。私、がんばるから」

「そうね……。ふふっ」

「どうかしたの?」

 チビ緋色は不思議そうにアムリタの顔をのぞき込むと、目を真ん丸に見開いた。

 微笑むアムリタの目元にキラッ――と、夕日を反射して光るものがあった。俺もぎょっとする。

「ど、どうしたの、アムリタ! 目にゴミが? お腹へったの!?」

 ちょっと検討はずれなチビ緋色の問いに、アムリタはゆっくりと首を振ると、

「そうじゃないの。やっぱり緋色は緋色ねん。大好きよ」

「アムリタ……?」

 ぎゅっとチビ緋色を抱き締めた。まるで、母親が子どもにそうするように。

 夕陽のあたたかな光のなか、それはとてもやさしく……どこか、哀しい光景だった。

(なんだ、これ……)

 暖かい。

 チビ緋色の感じているのであろう温もりが、伝わってくる。ミルクティーを飲んだときのように、じんわりとしたあたたかさが、全身を満たした。

 しばらく目を見開いて固まっていたチビ緋色は、やがておずおずとアムリタの腰に手を回した。

 それから打ち明け話をするかのように小声で、

「私も大好きよ、アムリタ」

 その言葉は、冷たく固いコンクリートに吸い込まれるように、消えた。


 ぱらぱらと、記憶のページはめくられていく。

 厳しい冬が到来し、春の陽気が雪を溶かし、やがて夏の暑さへと変わり、とうとう紅葉の秋になった。

 そう、運命の三度目の試験が、やってきた。

 小屋の前で、アムリタの気合いの入った声が響く。

「緋色、今年こそは決めるわよん! 話しかける対象の人間の選考方法も、元老院のじじい……じゃなかった、おじ様たちに申し入れて、見直してもらったから。ほら、ここに相手の資料もあるわ」

「へー。見せて見せて」

「だーめ。いちおう個人情報なのよん。あ、ちょっとだけならいいって言われたっけ。んーと、村崎、昌國……十三歳。今までとは違って、ずいぶん若い子ね。年齢も近いから、危険性も低いってことかしらん」

「危険性……?」

 首をかしげたチビ緋色に、アムリタはしまった、という顔をしたあと、

「んん。ちょっとね……。実はこの試験、毎回何人かはアブナイ目に遭ってるのよん。もちろん、すぐに担当の試験官が助けたらしいんだけど。あっ、緋色はアタシが今度こそ守るから、安心してネ」

「そうなの。……ありがとう、アムリタ」

「え?」

 笑みをこぼしたチビ緋色に、アムリタが虚をつかれたような顔をした。

 いっぽうで俺も、どうしてチビ緋色が突然ニコニコしだしたのかわからず、部屋の隅にある揺り椅子に腰掛けたまま前のめりになった。

 ちなみに、この小屋での記憶を観ているときの定位置である。どうやら地面や椅子、テーブルなどのある程度のものには触れるようだ。

「えっと。なんかね……うれしいの」

 チビ緋色はこほん、と空咳をひとつすると、頬を染め、つっかえながらも続ける。素直な心を、伝えようとするように。

「たとえ、私の担当になったからだけだとしても……アムリタが、しょっちゅう会いにきてくれて、私を、私として、話したりしてくれる。村のみんなは、私のこと、『孤児院から出た不合格の子』ってしか、思ってないわ。ばかにされてるわけじゃないけれど、でも、私自身を……見てくれてるんじゃない気が、するの。アムリタは、私を私として、緋色として見てる。それが、その、う、うれしいなって……あーもう、これ以上はムリ!」

 だんだんと頬が赤くなっていき、最後にはくるりと背を向けてしまった。

 そんなチビ緋色に、アムリタは、

「なんて可愛いのっ!」

「にゃっ!?」

 後ろからがばっと抱きついた。

「そんなこと言ってくれるなんて、嬉しいわ。このっ、可愛いんだからっ」

「か、かわいいとかやめ……っ! も、もうぜったい、二度と言わないんだからねっ!」

「はいはい。あー可愛い」

 頭に頬擦りをされて、じたばたと暴れるチビ緋色。

 秋の少し寒いくらいの風が吹くなかでも、あたたかな雰囲気が二人を包んでいた。

「――じゃあ、行きましょうか」

「うん。私、ぜったいに合格してみせるから。春からは学校で会おうね」

 ふたりの会話に、俺は椅子から立ち上がり外に出た。

(いよいよか……)

 つつましくも幸せな物語は進み、悲しいページへとつながる。

(緋色……)

 この世界の主。

 おまえは、なにを望んでいるんだ?

 空を見上げても、答えはない。


 燃えるような夕陽が、輪郭が曖昧な、記憶をもとにしているがゆえに不完全な世界をオレンジ色に染め上げている。

『村崎』と書かれた表札が掲げられた家の玄関に、黒服にとんがり帽子を被った少女……チビ緋色は立った。

 そして呼び鈴のボタンを押そうとして――なかなか届かず、何度もぴょんぴょんと飛び跳ね、やっとのことで指先がボタンを捉えた。まさかの舞台裏だ。

 ピンポーン……

 がちゃ、とドアが開き、現れたのはひねた目をした不機嫌そうな男子中学生。つまりは過去の俺。

 うーむ。確かに、物騒な目つきしてるなー俺……。わざとじゃないんだが。ちょっとショック。

「Trick or treat!」

 ドアが開いた瞬間、緋色は間髪入れずに声を張り上げた。

 どうやら今回は、相手に深く考える時間を与えずに『なんとなくお菓子を渡してしまった』という平穏な流れを演出することにしたらしい。実際俺も『じゃあお菓子やるか』なんて、怪しむ間もなく考えたしな。

 ズボンのポケットに手を入れ、チビ緋色を見下ろした過去の俺は、少しだけ視線をやわらげると、口を開いた。

 ああ、言っちゃだめだってのに。できれば全力で阻止したい俺の願いもむなしく、

「お菓子をあげるから、目を瞑ってごらん」

 とりあえず俺は俺を殴りたい。

 チビ緋色は期待とともに、素直に目を閉じた。俺の目の前も当然、真っ暗になる。

 ……。

 うう。なんか俺が緊張するのっておかしくないか?


(――え?)

(な)

(なんなの!?)

 あん? なんだ、今の。

 視界が戻ってくる。チビ緋色が突き飛ばした(もちろん離れる程度の力しかないが)昔の俺は、どこかぼうっとした……空虚な目をしていた。


 ああ、この目はやっぱり、俺なんだな。


それにしても、さっきのは――

(い、いいいま、キッ)

 これは。

(いまの、キス――!?)

 この、自分の感情であるかのように頭のなかに響く、混乱した声は。

(消えたい)

 緋色の――?

(消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい消えたい!!)

 そして、爆発するようなその想いに呼応するように、細い体躯の足下に複雑な模様が絡み合った光る円が出現したかと思うと。

「うえおわあああぁっ!?」

 二度ほど経験した『移動魔法』なんて比じゃないくらい、視界がぐるぐるぐにゃぐにゃ、上下左右前後と不規則に回ってゆがんでひしゃげて狂って――吐き気すら感じる間もないほどで。

 だからとりあえず、気を失った。


 あたたかな光の眩さに、目を開けた。

「うぅー……うにゃぅ……」

「緋色ー! あ、いた」

 どうやらあまりのことに、意識をシャットダウンしたらしい。吐き気も頭痛もなし。立ち上がり、ごきごきと首を鳴らしてやっと人心地がついた。

 見回せば、世界は金色だった。

 銀杏の落ち葉が地面を覆い尽くさんばかりに広がり、金色に茶色のまだらの混じったヒョウ柄模様の絨毯みたいな道が延々と続く。

 チビ緋色は俺の傍らで、いつか見たような、両手で膝を抱えて黒いボールのように丸くうずくまるポーズのまま唸っていた。

「緋色……あのね」

「恥ずかしい……!」

 神妙な顔で切り出そうとしたアムリタに、チビ緋色は顔をあげることなく、

「あ、あんな……顔、近くてっ。なんか熱くてカーッてなって口がやわらかくてなんかもううにゃあああぁっ!!」

 と悶絶した。

 恥ずかしさのあまりすっかり猫と化している。

 俺としても、今すぐスライディング土下座をきめられるくらいのいたたまれなさを味わっているんだが、心は平身低頭状態の俺はもちろん、記憶のなかの映像でしかないチビ緋色には見えないわけで。

「やん、可愛い……じゃなくて、お、落ち着いて、緋色っ。えっと、試験は不合格よん。それであの――ごめんね、緋色」

「……ぅ?」

 どこかアムリタの声色の変わったのに気づいた、チビ緋色がようやく視線をあげると、ピンク色の髪でほどよく縁取られた整った顔は金の光のなかで何故か青ざめていた。目尻にはうっすらと涙が溜まっている……ように見えた。

「どうしたのよ、アムリタ。た、たしかにあれは……ぅぅショックだったけど、また来年が――」

 ただならぬ様子に、チビ緋色が気遣わしげに言おうとした、そのとき。

「残念ながら」

「それは」

「無理だ」

「否」

「許さぬ」

 いつの間に現れたのか、黒い人型の影が五つ、アムリタとチビ緋色を囲むように立って――

(いや、)

「ふぇ?」

「ちっ」

 驚きの声をもらしたチビ緋色、舌打ちをしたアムリタを、文字どおり取り囲んでいた。

(なんだ、こいつら――)

 一瞬で、現れた?

 影どもはゆらゆらと揺れながら、順に言葉を発していく。

「見つけた」

「定めに背きし娘」

「大人しく」

「捕われたほうが」

「身の為だ」

「あんたたち、なんでここが――」

「試験官アムリタよ」

「貴様の妨害魔法など」

「我らの前には無力」

「早くその娘を」

「渡せ」

 鬼気迫るものがあるほど険しい顔をしたアムリタの悔しげな呟きに、淡々と答える、機械音に似た無機質な声。

 ぽかんとしていたチビ緋色が、口をはさんだ。

「ちょ、ちょっと! 捕われたほうがって――さだめってなんのことよ!? アムリタになにかしたら、許さないわよ!」

「無論」

「お前が抵抗しなければ」

「試験官に危害は加えない」

「何故かと問うたな」

「ならば答えよう」

「人間の口づけを受けること」

「これ、掟への反逆なり」

「よって」

「娘よ。お前を」

「「「「「掟破りとみなす」」」」」

「掟……? ――ッ!」

『掟』。

 その言葉に、チビ緋色は蒼白になった。

 魔界の“掟”。それは、俺にはよくわからないけれど……。

『魔界に在る者は全て、“掟”ってやつに縛られてるのさ』

『いつ、誰が作ったのかもわからない、そんなものにね』

『王族ですら、あらがうことはできないよ』

 ルシファーの言葉、緋色、アムリタの口振りからして、絶対に守るべきものであって、その拘束力は半端なものじゃない――そう感じた。

 金色の光はいつしか、たれ込めた雲に遮られ、辺りは薄暗くなっている。

 チビ緋色は喘ぐように、

「そ、んな……」

「では」

「これより審議の場に移る」

「人間と口づけを交わした」

「穢れし罪人」

「汚らわしき女」

「「「「「緋色=フィアルカ!」」」」」

 影どもの声に合わせて、チビ緋色たちの足元に毒々しい紫の光の細かな模様が発現する。ちょうど、五つの影が描いていた円の形に。

 幻想的な色をした、魔力の発露。何度見ても、綺麗なのにどこかぞくっとする瞬間だ。

 これは魔術と魔法のどちらになるんだろうか?

 魔術というには、なんだか整いすぎている感じを受けた。魔術はもっとなんつーか、不安定っていうか……でももし魔法であるならば、呪文も発動のための道具もなしでは無理だろう。

「緋色っ! これを、お守りに……!」

「アムリタぁっ」

 アムリタが必死で伸ばす手から、緋色があのおばけカボチャの髪留めを受け取る。

(もしかして)

 影たち(あいつら)自身が、魔法を発動させるための道具……スイッチ的なものだったり?

 チビ緋色たちのピンチのはずなのに、何故かそんなことを考えている俺がいた。

(ああ)

 俺って本当、薄情者だな。


 場面は切り替わり、背景は金色の銀杏並木から薄暗い石畳の広場へと変わった。

 頭上は曇天のまま、まるで世界が色を失ったかのように、モノクロの風景が広がる。実際、過去の緋色も目の前は真っ暗、生きた心地がしなかったのだろう。

 五体の影と、さらにアムリタの姿も消え、代わりに、ちいさく縮こまったチビ緋色を取り囲み、見下ろしているのは――見覚えのある顔ぶれ。不安げな表情の、村人たちだった。

 なにが起こったのかわからないといった様子で、けれど両手を拘束され地面に座り込んだままのチビ緋色に近づこうとはしない。

 というか、いつの間に手を縛られたんだ? 魔法で移動していたときだろうか。

 村人たちの小声で交わされる会話がざわめきとなり、チビ緋色を包んだ。

 チビ緋色の働いている役場に何度か現れた、杖を持った小柄な老人が進み出る。温厚そうな顔立ちが今は引きつり、白い眉はふにゃりと下がっている。

「緋色……」

「村長どの。この村の娘、緋色=フィアルカは本日、王立魔法学校入学試験中、人間の口づけを受けた。これは、神聖なる掟への反逆、『堕落』とみなされる!」

 人垣のなかから進み出た、深紫色のローブを羽織った男がそう言った。曇り空の下に重々しく響き渡った見知らぬ男の声に、しん、と広場が静まり返る。

 ふと、能面のような無表情を浮かべている村人たちが目にはいり、嫌な感じがした。

「そう、か……」

「そ、村長さま……」

 老人……村長はふー、と深く息をついて――カッと目を見開いた。先ほどまでの温和な空気は掻き消え、炎のような怒気を漂わせている。

 明らかに雰囲気が違う。

 ガンッ! ゴツゴツした手に握られた黒い杖が、石畳を穿った。びくり、とチビ緋色が身を震わせる。手に持った髪留めを、隠すようにポッケに忍ばせる。

「この、恥さらしがッ! なんということをしてくれた!」

「ご、ごめ、なさ……」

「まさか掟に背くとは……重罪じゃ!」

 あまりの変貌ぶりに、俺は呆気にとられた。

「――村長さま! この者はまだ子供で……それに、魔力が異常に強うございます! ここは、なにとぞ、なにとぞご慈悲を……ッ!」

「院長さま……っ!?」

 魔法を使ったのだろう、風に運ばれてきた落ち葉のように、どこからともなくひらりと現れた孤児院の院長が、がばとひれ伏し、石畳に額を擦りつけた。チビ緋色が悲鳴に似た声をあげる。絵空事のような光景に――俺はただ立ちつくしていた。

 石畳についた老人の白い手が、それがどんな感情から来たものなのか――恐怖か、怒りか、それならば誰に向けたものなのか――ぶるぶると震えている。

 それを憎らしそうに睨んでいた村長はやがて、

「ええい、忌々しい! ……ならば、緋色=フィアルカよ」

「は、はい」

「お前は今日、この時をもって、『汚れた娘』の名を冠すのだ。よいな?」

「なっ……それは――」

「? はい」

 村長の含みのある言葉に、院長は顔をこわばらせてしわがれた声をもらし、緋色はその様子を見て、返事をしつつも不安げな顔をした。

『汚れた娘』……このときに付けられたのか。どんな意味があるのだろう。

「ふむ。こちらも了解した。上にもそう伝えよう。今後はこのような事の起こらぬよう……」

 一連の会話を偉そうに腕組みして見守っていたローブの男はそう言うと、ぶつぶつと呪文らしきものを唱え、消えた。

 いまだに平伏していた院長も、追いかけてきたらしい息をきらせた青年に、「帰りますよっ」と半ば強引に連れていかれた。

「……皆の者。わかっているな?」

「帰る」と言い残すと、村長は肩をいからせたまま立ち去った。静かな広場に戻ったそこは、石畳に穿たれたちいさな穴だけが、先ほどの騒ぎを証明していた。

 冷え冷えとした広場には、顔を蒼白にして黙り込んだままのチビ緋色と、彼女を遠巻きに眺める村人たちが残った。

「み、みんな――っきゃ!?」

 チビ緋色はおそるおそる口を動かした矢先、大人の握りこぶしほどの大きさのなにかが頬をかすめ、悲鳴をあげた。

「え……っ!?」

 カンッ、と石畳にあたって跳ねたそれ――当たったらただではすまないであろう尖った石を、信じられないといった様子で見つめるチビ緋色。そこに、じりじりと、不気味なほど静かな村人たちが無表情のまま近づいてくる。

 ……手に手に石や棒を持って。

「みんな……?」

「あんた……よくもやってくれたね!」

「うあっ……きゃあっ!」

 憤怒に顔をゆがめ、野太い声で怒鳴ったおばさんが、呆然とするチビ緋色の胸ぐらを掴んで軽々と持ち上げたかと思うと、ちいさな身体を容赦なく石畳に叩きつけた。嫌な音が響く。

 あれはたしか、役場でよくチビ緋色と話していた――

「このっ、おまえは村の恥だ!」

 他にも見覚えのある人々が、罵声を浴びせながらチビ緋色を取り囲む。

 そんなときでも、チビ緋色のすぐ隣にいる俺は、なにもできない。ただ、彼女の恐怖だけが伝わってくる。

「そうだそうだ」

「この恩知らず」

「汚れた娘」

「汚れた娘め!」

「簡単には死なないらしいからな……やっちまえ!」

「ひっ……ごめんなさっ、ごめんなさい――!」

 チビ緋色が目をぎゅっと瞑り、視界は真っ暗になる。

 簡単には死なない? どういうことだ。

 けれど深く考えるひまもなく、見えないだけで、鈍い音や悲鳴から、村人たちのむごい仕打ちがありありと浮かんでくる。

 吐き気がする。

 これがすべて、緋色の記憶だっていうのか?

 こんなの――ありえない。

(なんで――)

(なんでだよっ!)

 こんなひどいこと――

 誰が望むってんだよ!?

 けれどこれが、緋色が味わった恐怖、痛み、苦しみ……地獄。

 甲高い悲鳴も、怒声もやまない。耳を塞いでも無意味だ。

(――やめろ)

 頭が焼けるみたいに熱くなって、胸が苦しくて、

「やめてやれよっ! やめろっ……やめろおおおお!!」

 気づけば俺は、夢中で叫んでいた。

 決して届くことのないことはわかっていたけれど、声を枯らして叫び続けた。

 最後まで、泣き声は聞こえてこなかった。


 むくりと、傷だらけの少女が起き上がる。

 綺麗な長い黒髪は乱れに乱れ、今はただ痛々しい。

 石畳にぺたりと座り込んだ少女がぼんやりとした目で、天高く輝く赤い月を見上げる。

 泥や血で汚れたちいさな青白い顔に、涙の跡はない。

「……帰ろ」

 いつものように、少女――昔の緋色は、呟いた。

 その様子を、すぐ近くからぼんやりと見ている俺も、なんだかこのことが異様なことではなく、当たり前のことのように感じはじめていた。

 ……って。

(アホか、俺!)

 なに考えてんだよ、毎晩毎晩、村人数人がかりでリンチされるのが普通なわけねーだろ!

 だけど、俺が錯覚しそうになるほど――緋色は、静かだった。

 緋色が村人たちの前で『汚れた娘』と宣告的なものを受けたあと……もう何回、こんな映像を観ただろうか。

 昼間はでっかい屋敷でメイドとして奴隷みたいに働いて、夜になったら殴られ蹴られの生活を、ちいさな魔女は送っている。

 緋色を暴行する奴らが笑みすら浮かべて言うことは皆同じで、「汚れた娘だから」というもの。まったく狂ってる。

 観ているだけの俺でも気がおかしくなっちまいそうな記憶なのに、まだ十歳の緋色は一度も泣いていない。ぼんやりとした目で、日々を過ごしている。

 順応力が高いとか、そういう問題じゃないだろうけど……。

「なんで平気なんだよ、緋色……」

 ぽつりと呟いても、ちいさな背中は振り返ることなく、夜道をとてとてと歩いていく。

 そうしていつのまにか、冬になり、春がきて、夏が過ぎ、また秋になった。一年が過ぎても、緋色の生活はなんら変わらなかった。心を失くしたみたいに、人形のような無表情で緋色は暮らしていた。

 また冬から春、夏へと季節が変わり、ある変化が訪れた。

 緋色の働く巨大な屋敷の前に、一台の馬車が停まり、誰かが降りてきた。

 ちょうど門の掃除をしていた緋色は、それを目にしてさっと隠れようとする。そういえば、屋敷の主人とその一家には決して会わないように、なんて村長から言われてたな。

「おかえりなさいませ、ぼっちゃま!」うやうやしく、ずらりと並んだ執事やメイドが挨拶をすると、ぼっちゃまと呼ばれた誰かは、

「ただいま」

 どこか冷たい声だった。

(ん?)

 なんか、聞き覚えがあるような……?

 と、

「きゃっ!?」

 屋敷からお出迎えにとぞろぞろ出てきた奴らに押され、緋色は人垣からぽんっと飛び出してしまった。あちゃー。

 よく手入れされた芝生に倒れこんだ緋色が顔をあげると、そこにいたのは――

「ルシファー……?」

 思わず呟く。

 今とほとんど変わらない様子に成長した、金髪碧眼の美少年だった。今よりもずっと長い髪はひとつに結わえられ、馬のしっぽみたく垂れている。

「ルーちゃ……きゃっ!?」

 緋色が茫然としてその名を呼ぼうとした矢先、ルシファーは緋色を突き飛ばす――刹那、そっと耳打ちした。

「地下の倉庫に」

「!」しりもちをついた緋色が目を見開き、口を開こうとしたときにはすでに、ルシファーの背中はばかでかい扉の向こうへと消えていくところだった。

「ルーちゃーん?」

仕事が終わり、緋色は屋敷の地下にある倉庫にやってきた

迷路のように入り組んだ暗い地下はしんとしていて、緋色の声はよく響いた。

「こっちだよ」

「ルーちゃん……?」

 声のしたほうへ緋色が歩いていくと、闇のなかにランプを持ち、薄く笑みを浮かべたルシファーの姿が浮かび上がった。

「っ!」ぞわっと、悪寒がした。

 嫌な、予感がする。

 緋色が顔をほころばせ、駆けていくのを無駄だと知りつつ呼び止めようとした瞬間――

「きゃあっ」

 ふっと灯りが消え、緋色の悲鳴が聞こえた。続いて、バタバタ、ドサッ、と物音も。

 ぼうっと灯りがともされると、冷たい無表情のルシファーがうずくまった緋色を見下ろしていた。

 改めて周りを見回すと、そこは鉄格子で囲まれた石畳の空間……牢屋だった。つまりは地下牢。

「ルー……ちゃん……?」

「うるさいよ、『汚れた娘』」

「っ!」

 緋色が息をのむ。

 ルシファーは長い紐のようなもの――鞭を手にしていた。さらに、緋色の両腕は背中で拘束されている。

(まさか――)

 ルシファーがなにをしようとしているのか――思いいたった俺は、また頭がかっと熱くなるのを感じた。

 なにが起きているのかわかっていないらしい緋色は、疑いなど微塵もない澄んだ瞳をルシファーに向け、

「どうしたの、ルーちゃん?」

「ぼくはルーちゃんなんかじゃないっ」

 ヒュッ――ビシッ!

「いっ!」

 赤い線が、緋色の頬にはしった。痛みに顔をゆがめる緋色を見下ろし、ルシファーは嗤う。

「ぼくは、ルシファーさ」

「『ルシファー』……?」

「知らない? 地に堕とされた堕天使の名前さ。まあ、どうでもいいけど」

「堕天使なんて……。ルーちゃんは優しくて――」

「うるさい」

 冷たい声に、空気を、皮膚を裂く鋭い音がいくつも続く。

「ぅあっ!」

 頬を血が流れ、ルシファーの言葉が冗談などでないことを悟った緋色はいよいよ顔色を変えた。

「ルーちゃん、やめて……っ」

「そろそろ黙ってよ、汚れた娘。もっとも、いくら泣き叫んでもここには、誰も来ないけどね」

「ルー……いやあああっ!?」

 痛ましい叫び声を最後に、映像はぶつりと途絶えた。

(イタイ)

(ドウシテ)

(ルーちゃん)

(助けて)

(コワイ)

(やだよ)

(ヤメテ)

(痛い)


洪水のように溢れだす、緋色の感情。叫び。がんがんと響いて――頭が割れる……っ!


(どうして?)

(ルーちゃん)

(ルーちゃん)

(いやだよ)

(もうイヤ)

(いたい)

(ゆるして)

(タスケテ)

(ルーちゃん!)

(……アムリタ)


「……ひいろ」

 それが、自分の声だったのか、それとも――。

 肺が押しつぶされたように、息ができない。どろどろした沼に沈むように、意識が遠のいていった。


映像が、流れていく。

早送りをするように、緋色の記憶はぱらぱらとめくられていく。

「緋色」

「アムリタ……?」

「特別試験よ。これが最後のチャンス」

「最後の……」

「掟には続きがあるの。人間の口づけを受けた者は、三年後の同じ日にその人間を殺すべし、と」

「……」

「もしその人間の了承を得たうえで殺すことができたら、入学をゆるすそうよ」

「……やってやるわ。絶対にゆるさない、村崎昌國……!」

「緋色」は「火色」。

 憎しみの炎を燃やす緋色の瞳。

 それが最後だった。

 俺は苦しさと……胸の痛みを覚えながら、意識を手放した。

 記憶の旅が、終わった。

(……緋色)

 これが、おまえの望みか?

 頬を一筋、流れたものはきっと汗だ。

 俺に、泣く資格なんてない。

 目が覚めたら、緋色はどうしているだろう。泣いてなきゃいいな……。

(緋色)

(緋色……)

 夢と現実のはざまで、俺はただ、緋色の名を呼び続けた。


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