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第二章


 Ⅱ.文化祭と華麗なる攻防。


「いようっ! 昌國っ!」


 翌日の朝。


 ホームルーム開始寸前に教室に着いた俺は、後ろから思いきり背中をどつかれた。痛ぇよ。


「あー、はよ、小松」


「なんだなんだ、つれないなー昌國?」


 眠気も手伝ってなげやりに応えると、そいつ――入学式以来の貴重な友人である小松はいきなり正拳突きを繰り出してきた。空気を裂いた拳が唸る。当てる気はなかったようで、俺の左頬すぐ横の空間が穿たれた。


「うおっ。危ねーな、素人相手に技出すなよ」


 ひょろりとした体格に、度の強い黒縁眼鏡。大人しそうな見た目に似合わず、こいつは空手道部員なのだ。


「……コマツ」


 さっさと席に着いた緋色が、小松をじっと見ている。


 昨日、テレビ番組を初めて観て夜中までガキみたいにはしゃいでいた(ただし他の電化製品は知っていたらしく反応は薄かった)緋色は、あくびを噛み殺している俺とは対照的にすっかり目を覚ましている。なんでだ。チャイムが鳴り響く中、緋色は鋭い視線で小松を睨み、


「小松、そいつは私の獲物だから。殺したら許さないわよ?」


「へ?」


 妙な釘を刺され、困惑する小松。俺は咄嗟にフォローする。


「はは、こいつゲーム脳だからな? 俺に全然勝てなくて怒ってるんだよ」


「げーむなんかじゃないわよ」と不満げな緋色を無視しつつ、小松にへらへらした笑みを向けると、「おっそうか」と納得してくれた。持つべきものは鈍感な友達。大好きだぜ小松。


 前方のドアが開いて担任いけちゃんの顔がのぞく。気づけば周りはしっかり席についている。


「おいこらー、ホームルーム始めっぞー、村崎、小松ー」


「はいはい、と」


「はーい」



 ―*―



「――はい、で! コンセプトは何にする、まーくん?」


「…………は?」


 快活な女子の声が飛び、昨今の世界情勢について真剣に思案して――ませんごめんなさい――、要するにぼーっとしていた俺は顔を上げた。


「……いや、なんで俺なの。つかなんの話?」


「……まーくん?」


 クラスの話し合いっぽいのになんで陰キャラに徹する俺を名指しするんだ、と呆れるが、相手のドスの効いた声に口をつぐむ。


「はいごめんなさい聞いてませんでしたそれでなにか御用でしょうかミサキ様様大統領」


 慇懃なほど下手に出ると、部活仲間でもある壇上の文化委員――華宮海咲はため息をつきながら答える。


「だーかーら、文化祭のクラス展示! なにやるか決めなきゃなの」


(あー、もうそんな季節か)


 公立・玄武高等学校。通称玄高。

 俺の通うこの学校では、二学期早々に文化祭がある。伝統行事なんてたいそうな呼び名を冠し、ここ楓水(ふうみ)市ではわりと大きなイベントとなっている。土日開催で一般の来場も多いのだそうだ。俺も一昨年、中学時代の友人に連れてこられたことがある。人混みでグロッキーになった記憶しかないが。


 ともかく、玄高一大イベントといっても過言ではないほどで、そのため各クラスの展示(とは名ばかりで、実際はお化け屋敷やらメイド喫茶など)の初期準備も、夏休みからするはずなのだが……うちのクラスは肝心の出し物が決まらず、結局今日まで準備は一切していない。昨日の緋色の話題がすでに下火になりつつあるのも、文化祭シーズンでみんな浮き足立っているからだろう。


 まったくもう、と肩上で切り揃えた髪を揺らしながら首を振る海咲に、


「あー、わかったわかった。で、なんで俺?」


「一番やる気なさそうだから」


「えー……」


 きっぱりと断言され、顔をしかめた。


 それってすげー矛盾してるような……。

 海咲を睨んでやると、


「やる気のないやつにわざとやらせる。その嫌そうなカオといったら……たまんないよねフフフ」


 その愉悦に満ち溢れた顔がそう語っている。今にも高らかな笑い声を響かせそうだ。


(この、隠れ女王様め……!)


 あーめんどくせえ。やだやだ。

 でも、この女王様に「パス」なんて言葉は通じない。こいつの本性を知っている奴なら、きっとわかるだろう。


(うーん。……そだ)


 気がつくと、俺は耳に新しい単語を口にしていた。


「魔女、とか」


「…………」


 見事に静まり返る教室。

 あれれ? 俺ってば、なに言っちゃってるんだろうね?


 沈黙が痛い。痛すぎる。泣いていいか? 沈黙に耐えきれなくなった俺が、核シェルターでも掘って埋まろうか、いや桜の木の下もいいかもな――なんて現実逃避気味に本気で考えたそのとき、


「いいじゃんそれ! 魔女っ娘カフェとかおもしろそう! 秋だし季節感も出る! 皆もそれでどう? いいかな?」


「おおー」


「いいんじゃない?」


「オッケー」


「さんせー」


 かくして、海咲の提案に満場一致で決まりとなったのでしたとさ。

 ……すげえ、さすが元バレー部キャプテンの統率力。


 ただし、今のは俺をフォローしたわけではなく、さっさと議題を終了させたかっただけなんだろうがな。


「……魔女っこかふぇ? それってなにをするの?」


 隣の席で緋色が疑問を口にした。どうやら耳慣れない単語だったらしい。


「アクマちゃん、それはね~」


 とたんに、海咲が笑みを浮かべ緋色に近づく。今にもとろけそうな表情だ。


 昨日実家の用事で欠席していたこの文化委員は、けさ昇降口で緋色と初めて顔を合わせるなり数秒固まったのち、「あたしの嫁!」と抱きついて緋色を絶叫させた。これもまた瞬く間に学校中に広まったことだろう。本人いわく一目ぼれだそうだ。この海咲さん、ギャルゲーなるものを嗜んでいるのだが、たしかにいつも嫁として紹介されるのは幼い容姿のキャラばかりだったな。


 なんてどうでもいい思考を巡らしていると、海咲が「なあに、コワイ顔して」と突っ込んできた。放っとけ、元からこんな顔だよ。


「魔女の格好――コスプレをした女の子が接客する喫茶店のことだよっ」


「ふぅん、喫茶店……」


 喫茶店という単語には馴染みがあったらしく、ふむふむとうなずく。


「でさっ、アクマちゃん魔女役やってくれない?」


「なっ……」


「阿久間さんが魔女コス!?」


「見たい! 見たい!」


「ミニスカ! ミニスカ!」


「是非ともお願いいたします!」


 数人の男子どもがすぐさま援護射撃。荒い鼻息はヤメロ。女子が引いている。欲望に忠実な野郎どもだな、とは思ったが口にしない。


 絶句した緋色は、


「ちょっと、こすぷれってなによ! だいたい魔女『役』って! 私は本物のま――」


「おおっとお、緋色ー!」


 緋色の抗議をぶったぎると、「なにジャマしてんのよ」と殺したそうな目を向けられた。

 いやだっておまえ今、絶対「私は本物の魔女よ」って言おうとしてただろ! あっぶねぇ!


「ち、ちなみに、魔女役をしない場合はたぶん調理班にまわらなきゃいけないんだが……いいのか?」


「ぐっ」緋色が声をつまらせる。


 ふっ、やはりな。昨日の皿洗い事件(多くは語るまい)からして、料理が破壊的にヘタそうだったもんな。気づかないとでも思っていたのか。ふはははは。


 さあさあ、おとなしく降参しろ。……決しておまえのコスプレ姿が見たいわけじゃないけどな。

 とかなんとか、俺がひとり勝利に酔いしれたり弁明したりしていると、


「…………わかったわよ」


 それはもう悔しげに、絞りだすような低い声で緋色が言った。それから赤い顔で俺をキッと睨んで人差し指を突きつけ、


「い、言っておくけど、別に料理ができないから接客するわけじゃないんだからねっ!? 気分よ、気分っ」


 ……ほんと素直じゃねー。


「ありがとー、アクマちゃん!」


 海咲はテンションMAXなご様子。

 他の女子たちも「阿久間さんよろしくー」「宣伝効果抜群だネ」なんて楽しそうにしてるし、うし、この話はこれで終わり――。


「あ、まーくん」


「なに?」


「てなわけで、店長よろしく」


 ……は? 店長? それってつまり、


「1年8組文化祭展示実行委員長ってことで」


 やっぱそうなりますー?


「はあっ!? い・や・だ」


海咲はわざとらしく小首をかしげ、


「意見出したのまーくんでしょ? 責任持ってよね」


 な ん だ と――!?


「いや、俺ほんとそういうのカンベン……」


「……昌國?」


 う゛。めっちゃ恐い。後ろに炎のオーラが見えますよ?


 ここ、教室だよな? 急に、魔王の巣屈にノコノコ入り込んだ村人Cみたいな気分になったんだが。名前で呼んでくるときは本気(マジ)モードだ。ヘタに逆らったら殺されそうな雰囲気に、俺は敗北感を味わいつつうなずいたのだった。



「――えーっと、じゃあ、これで決定だな」


黒板の前に立った俺はチョークで書きなぐった結果、遠目には真っ白にも見えそうな黒板を示しクラスの奴らに言った。昼休みが始まって数分。会議は滞りなく終わろうとしている。


「へーい」「いーぜー」「は~い、昌國」「オッケー」などと、了解の言葉が返ってくる。


 うむうむとうなずきながら黒板を振り返る。


 ーーーーーーーーーーーーーーー

 企画名:1年8組・魔女っ娘カフェ☆

 ~かっわいーおにゃのこ達が、魔女っ娘になってお相手しちゃう♪

  オタクWELCOME! スケベはGO HOUSE!~

 接客:阿久間、華宮、仲原……(以下略)

 衣装:仲原、水戸……(以下略)

 調理:小松、田中……(以下略)

 店長:村崎

 副店長:華宮

 ーーーーーーーーーーーーーーー


 女子の名前がわからず名簿を盗み見しながら書いたのは内緒だ。ちなみに企画名を考えたのはもちろん海咲である。


「まーくーん」


 誰にともなく弁明していると。海咲が満面の笑みを浮かべ、軽やかなスキップで寄ってきた。漫画だったら周りにキラキラしたエフェクトが散っていることだろう。

 ……ほんと、楽しそうですね。


「生徒会に申請通ったよん。料理も、簡単なのだったらオッケーだってー」


「うお、早いな。そっか、さんきゅ」


「ふはは、もっと褒めろ」と胸を張る海咲に呆れていると、


「……昌國」


 緋色の、なにやら不機嫌そうな声が届いた。


「なんだ? 緋色」


 ん? と声のしたほうを向くと、


「…………」


 ひどく不機嫌そうな、むううーっとした顔つきの緋色が睨んできた。ハイソックスと上履きに包まれたちっちゃな足を、なんの意思表示かやたらぶらぶらさせている。

 昨夜も思ったけど、ちょくちょく子どもっぽい表情になるな、こいつ。いや、見た目相応ではあるが。普段はツンとしているから余計にそう感じるのか。


 昔、近所の幼稚園生の女の子と遊ぶ約束を破ったときのその子に似てるな、なんて思っていると、


「……いつまで会議とやらを続けているの? 早く私に殺さ」


「そーだな緋色! 昼飯一緒に食うって約束だったな! いやー、ごめんごめん」


 大声で、ありもしない約束を思い出したように言い、緋色の言葉を遮る。


 昨日の「殺されなさい」発言は、久しぶりに再会したイトコ(これももちろん嘘)のお茶目なジョークだよ、ってことで誤魔化したのだが、さすがに何度も言っていたら怪しまれるやもしれん。


 村崎昌國十六歳。

 邪気眼とか不良っぽいとか女遊びしてそうとかなんやかんや言われるが……いたって健全なふつうの男子高校生だ。この上マゾだのロリコンだの思われたくはない!


 と、何故か緋色は急にあたふたしだした。頬を赤らめて整った眉を吊り上げ、


「っえ、昼飯……!? そ、そんなに言うんなら、一緒に食べてやってもいいわよっ」


 ……なんだろう、こういうセリフをアニメかなんかで聞いたことがあるような……。デジャヴ?

 そしてそんなやりとりを、海咲はニヤニヤと笑いながら眺めていたのだった。



「にしてもさぁ」


 ところ変わって屋上。まだまだ厳しい真昼の日差しに照らされながら、アスファルトに思い思いに座り込んで昼食をとっていると。


 豪勢なカツサンド弁当(御年六十歳の家政婦さんお手製)をもりもりと食べながら――食べながら話すのは止めましょうよお嬢さん――海咲がなんとはなしに言った。


「ほんっと似てないよね、二人とも。イトコなのに」


「ごふっ」


 さらっと言い放たれた言葉に、コッペパンを詰まらせそうになる。


「なにやってんの、バカじゃない?」と言いたげに睨んでくる緋色。いや、ちょっとは心配しろよ。してください。


 パックのレモンティーでコッペパンを胃に流し込み、


「ま、まあ、そんなに似ないだろ、いとこだからって」


「ふぅーん……?」


「ま、いっか」と再びカツサンドに食らいつく海咲の横顔を、そっと見る。


 俺の嘘を真に受け、「じゃああたしも混ざる! 屋上行こー!」とここまで引っ張ってきたのがこいつである。ちなみにどうして立ち入り禁止であるはずの屋上の鍵を持っているのかは、怖くて聞けない。


 行動力があるのはよろしいが……変なとこで勘がいいんだよなぁ、こいつ。いきなり図星突いてきたりするから、そのせいで今まで何度弱みを握られたことか。

 四月からの苦い記憶が頭を駆け巡り、顔をしかめた。


「おーいまーくーん、どうしたの? ミプトン苦かった? 貰ったげる~」


 言うが早いか、海咲は俺の手から市販のパックのレモンティーを奪い取った。お、俺のミプトン(136円)……!


「ちょ、おまっ」


「ぷはーっ、ごちそうさまんさ」


 良く言えば豪快、悪く言えば下品な音をたてながらお茶を一気呑みしておっさんのような声をだす海咲に、俺は怒ったものか呆れたものかとため息をつくのだった。


 ふと視線を感じ横目でそちらを見ると、


「…………」


 あの、緋色……さん?

 先ほどから黙ってエビカツサンドをもぐもぐと食している彼女なのだが……その殺気を含んだ視線はなんだ?


「どうしたんだ、緋色?」


「……別に、なんでもないわ」


 うわ、なんか怖い。


 出し抜けに、海咲がぽんと手を打った。


「あー、アクマちゃん、もしかして寂しかったんだね? よしよし、あたしが思う存分身も心も愛して――」


「黙れ変態」


 ぺしっ、と頭をはたくと、海咲は悪びれた様子もなくにへらと笑った。


「だあって、拗ねたアクマちゃん、最高に可愛いじゃんっ」


「それはおまえだけだ」


「ちょっと! 私、す、拗ねてなんかないわよっ!」


 急に大声をだした緋色は、跳ねるように立ち上がり、俺と目が合うとぎょっとしたように目をむき、「ほ、ほんとになんでもないからっ!」とこぶしを振り回して言い捨て、たたっと校舎のなかに入っていってしまった。


「ありゃ、いじりすぎたか。でもオトしがいもあるってもんだね。楽しみだなぁ~」


 海咲の怪しい発言が聞こえた気もしたが……。長い黒髪が吸い込まれるように消えた錆付いたドアを見ながら、俺は二個目のミプトンをすすった。


 結局、なんだったんだ? ほんと、女子ってわかんねぇ。


「今度はカノンたちも連れてこよー。あ、まーくんまーくん、殺人犯みたいな目つきになってるよ」


 放っとけ。



 ―*―



「小松! あんた看板作って!」


「何故にオレよ!?」


「選択美術でしょ!」


「カンケーねぇ!」


「いいから早くやれ」


「はい副店長」


「海咲少佐! 衣装の材料を調達しに行って来るであります!」


「了解だチアキ隊員! レシートを忘れるな! 幸運を祈るぞ!」


「いえっさー!」


「あっ、海咲ー! ちょっと来て―」


「はいはーい」


「……うわ」


 まさに戦場だなおい。


 翌日、早速はじまった準備作業の時間。看板や衣装の作成、そして当日に向けてのタイムスケジュール作りやメニュー決めと、やることはたくさんある。


 よく知ってる奴も、あんまり知らない奴も……誰も彼もが、普段のイメージを覆すほど親密に関わりあい、協力する、非日常な空間が出来上がっていて。いつもはつまらない教室が、なんだか新鮮に見える。


 文化祭まであと一週間。スケジュールはギリギリ。体育祭に向けての練習も同時進行だから、一日中文化祭準備をすることはできないのだ。今日も午前中は体育祭練習をした。必死になってみんな動いて……でもどこか楽しそうだ。わいわいと騒がしい部屋の窓の外には四角く切り取られた綺麗な青空なんかが見えていて、なんとも絵になる。


 うん、青春ですね。


「……まーくん? なぁにじじ臭いこと考えながらぼさっと立っているのかなぁ?」


「読心術が使えるのか、おまえは。いや、あとは若いもんにまかせて」


「しばくぞコラ」


 笑顔なのにこわいんですけど。身の危険を感じた俺は素直に従うことにする。


「はいはい。で、なにすればいいんだ?」


「んー、衣裳係の進み具合見てきてくれる? カノンたちのとこ」


「どこにいるんだ?」近くにそいつらの姿は見えない。


「被服室」


 被服室……って南棟か。遠いな、おい。


「いってらっしゃーい、ダッシュでねー」なんて笑顔で手を振りやがる海咲に見送られ、俺はしぶしぶ駆け出した。


「どうもー、村崎でーす……アレ?」


 がらがらっとドアを開け、かしましい話し声のする被服室に足を踏み入れた俺は、目の前に広がった光景に思考がフリーズした。

 人間って、頭が真っ白になることがあるんだなアハハ。全くもって感慨深くねぇ。


「あれ、村崎く――」


「きゃっ、昌國なんで――」


「……わ?」


 三者三様の反応をした衣装係三人の視線が俺から、はっとしたように中央の四人目へと集中する。

 もちろん、俺の意識のほとんどは最初からそいつに注がれているわけだが――。


「…………」


「…………」


 しばし、そいつと見つめあう。


 緋色が目を茫然と見開き、俺と同じく思考停止状態で立っていた。見事に石化ないしは人形化している。


 何故か――。

 あれ? なんでそうなんの? 誰か教えて。



 緋色は立っていた――下着姿で。



「なっ、だっ、ぅにゃっ……!」


 先に石化が解けたのは緋色だった。

 ひらひらした白と黒の服を胸の前に抱え、口をパクパクと動かす緋色の顔が、みるみる赤く染まっていく。


(おお、タコみたいだ)


「っ、なに見てんのよこのヘンタイ――っ!!」


「ぉわっ」


 細腕のどこからそんな力が出るのか、ぶん投げられた丸椅子が勢いよく飛んできた。当たったらたまったもんじゃないとすんでのところで避けるが、勢い余って態勢を崩し、床に尻餅をついてしまう。背後でものすごい音がした。窓は割れていないようだ。


「この変態ロリコンキス魔……。今すぐあの世へ送ってやるわ……!」


 次なる武器(椅子)を振りかざし、緋色がゆらりと近づいてくる。……魔女よりも魔王になれる素質があるんじゃなかろうか、こいつ。


 後ろの三人は、その般若もかくやという怒りのオーラに気圧され、怯えたようにこちらの様子をうかがっている。できればタスケテ。


「ま、待て、緋色――」


「誰が待つかゴルァ」


「いや、だから」


「寝言は寝て言いなさいこの野郎」


「だから、ほら――」


「あぁ゛? ごめんで済んだら警察はいらないのよ」


 全っ然会話噛み合ってないし。キレたら人の話聞かない奴だったか、ほほう。


「あのー、緋色?  ……服」


「……え?」


 はい、どうやら緋色さん、やっとお気づきになられたようです。両手で椅子を持ち上げているもんだから、身体を隠すものがなにもないわけで――。


 すらりとのびた足に、健康的に引き締まりつつもやわらかそうな太もも。レースとフリルの付いた淡いピンクのキャミソールの裾からちらりとのぞく、同じくピンク色の三角の布。眩しいほど白い鎖骨に、ほんのりピンク色を帯びた丸い肩。これまた引き締まった細い両腕。下着だけをまとったスレンダーな――つまりは子ども体型の身体が、俺の目の前にさらされていた。


 緋色はうつむいてぶるぶると肩を震わせた。黒髪が逆立っている。そして、


「昌國……死になさい」


 緋色をした緋色の瞳が(ややこしいな)狂暴にギラリと輝き、


 ガンッ! 頭頂部に衝撃。確実にヤバイところに当たったとわかる音をBGMに、意識がぶつりと途絶えた。


 キャミソールって、逆にエロくないか? 何故かそんな問いが、頭に浮かんだ。



「退屈だ」。それが口癖になったのは、いつからだったか。


「……ん」


 目を開けると、正面には白い壁……じゃなくて、天井。ベッドに寝かされていることに気づくのに、数秒かかった。


 えっと……確か緋色に殴られて、気絶した……のか? 誰かが運んでくれたのだろうか。

 なにか、夢をみていた気もする。


 視界の端に、窓が開いているのか風に揺れるカーテンが見えた。ひらひらと、白い蝶が舞うようなそのさまに、しばし視線をそのままにする。


(ここは――)


 薬品の独特の匂い。清潔感はあるけれどなんとなく落ち着かなくなる、全体的に白いレイアウト。保健室か。

 ぼーっとした頭でそんなことを考えていると、


「あら、起きたのね、村崎くん。頭はもう痛くない?」


 すぐ傍から、おっとりとした、優しい声がかけられた。

 そちらを見れば、白衣の似合いたる人、いとうつくしゅうて居たり。


(――って、竹取物語かっ!)


 そんな俺の脳内一人漫才にはもちろん気づかず、保険医の(いずみ)舞子(まいこ)先生は、ふわりとやわらかく微笑んだ。聖母のような笑みが眩しい。


「あ、はい」


「そう?  ……うん、腫れはひいたみたいね。痛くない?」


 そっと俺の後頭部に手をあて、訊いてくる。


「あ……もう大丈夫です。ありがとうございました」


 できれば長居したくない。女は……苦手だからな。

 自分に言い聞かせるように、そう胸の内で唱える。


 他人行儀に礼を言ってさっさと立ち上がろうとする俺を制し、舞子先生は「ほらぁ、もう出ておいで。彼、起きたわよ」とカーテンの向こうに声をかけた。


(?  誰だ?)


 カーテンの隙間から、揺れる黒髪が見えた。と思ったら、ひゅんっと慌てたようにフレームアウトする。黒猫の尻尾みたいだな。


 しばし、ためらうような間が空いたあと。そろりと、ちょっとだけ開けたカーテンの向こうから顔をのぞかせたのは――


「お、起きた?  ……昌國」


 不気味なほどしおらしい様子の、緋色だった。


「えっと……。そ、そのっ」


 五分後。

 舞子先生の説得(と言っていいのだろうか、アレは)に負けベッドの前に来た緋色が、もじもじしながら口を開いた。両腕を組み、ふんぞり返りつつもその表情にはいつもの冷たさがない。


「た、たいしたケガじゃなくて良かったわね! もっと強く殴っておくんだったかしら!」


「打ち所が悪かったら病院行きよぉ」


 にこにこと、舞子先生が間髪入れず口をはさむ。


 うっ、と言葉につまった緋色は、うつむいてしまった。黒髪が簾のように表情を隠す。


「ごめんな、緋色。さっきのは俺が悪かった。これからは気をつける」


 まあ、だいたい、ノックもせずに入った俺が悪いんだし。女子オンリーの部屋にみだりに入っちゃいけないっていう学習ができたからな、うん。


 ベッドに腰掛けた俺はそう思い、一度頭を下げ、そして反応がないので視線をあげると。


「……ひ、緋色?」


 何故か、緋色はもともと大きな目をさらに見開いて――とても驚いた顔をしていた。名前を呼ぶと何度かまばたきをし、


「あっ、私も、ちょっとやりすぎたかなって……思って……ごめん、なさい」


 お互いに頭を下げた状態になる。


(ん?)


 ということは。


「じゃあ、どっちもどっちってことよねー。よし、この話はこれにて、一件落着。それでいいわよね?」


 俺が思ったことを、ふんわり笑いながら、ずばり言い当てる舞子先生。

 だから、俺に異存はないわけで。


「はい。……緋色は?」


「……ん」


 こくん、とうなずいた緋色を連れて、さて戻るかと引き戸に手をかける。早くしないと海咲に怒鳴られそうだ。


「ねえ、昌國くん(・・・・)」背中から声がかかり、振り返る。


「……孝國(たかくに)くんは、元気?」


 笑みを刻んだ、桜色の唇。やさしい光をたたえた、濡れたように黒い瞳。一瞬目をあわせて、すぐに視線を窓のほうにそらす。


「……はい、元気でやってると思いますよ」


『舞子さん』にそう返すと、今度こそ、俺たちは保健室をあとにした。


(あの人は、相変わらず……)


 こっそりため息をつく。


「昌國、ぼさっとしてないで戻るわよ! あの三人、待たせてるんだから」


「そろそろ名前覚えてやれよな、おまえ」


 緋色に呼ばれ、慌ててあとを追って走りだす。


 ばたばたと、夕暮れに染まりつつある廊下を走る。長い黒髪を揺らす緋色の背中も、淡い金色に包まれている。

 前を走る背中は、ちびっちゃくて元気いっぱいで……。でもどこか、儚い感じがした。


 文化祭まで、残りあと一週間。



 ―*―



「……だ、だめだってば……ッ」


 緋色の甘い声が響く。

 人気(ひとけ)のない教室で、目の前の相手を潤んだオレンジ色の瞳で怯えたように見つめるその顔は、恥じらいに染まっている。


「いいじゃん、少しぐらい……。恥ずかしがらずに、ね?」


 相手はそう囁くと、指をなまめかしく動かし……緋色の服の胸元に手をかける。


「ん、や……っ」


「可愛い……。その顔そそられ」


「なにやってんだおまえは」


 スコン、と丸めたパンフで思いっきり頭をひっぱたくと、変質者――もとい、海咲が「なにすんの、まーくん」と恨めしそうに振り向いた。


 海咲に肩を掴まれて壁に押しつけられていた緋色は、涙目で顔が真っ赤になっている。


「なにやってんだよ、おまえは」


 変形してしまった冊子を両手で戻しつつ、もう一度問いただす。


 いやだって、着替えにいったはずの二人がなかなか戻ってこないもんで様子を見に来たら、壁ぎわで密着した状態で、さっきの会話を繰り広げてたんだぞ? 回れ右して帰ろうかと思ったわ。


「いやぁ、だってさあ」


 不満げに頬をふくらませていた海咲はちっとも悪びれずに、


「メイドなんてできないって、恥ずかしがるアクマちゃんに『緊張をほぐすおまじない』って名目で口づけを迫ろうとしたら、抵抗する顔と声が最高でねー」


「いや、迫ろうとしたら、って本音もれてるから。あと最後ただの変態発言だろ!」


 なにやってんだ、こいつは。

 ぎろりと睨んでやっても、どこ吹く風の海咲はむしろにやりと意地悪く笑い、


「へーえ? まーくんだって、アクマちゃんのエロい声に興奮してたよねー? 一瞬固まってたもんね」


「っな」


 どストレートな質問に、受け流し損ねてしまう。


 いや、まぁ、確かに、ほんの一瞬だけ聞き惚れ――げふんげふん。


「と、とりあえず、行くぞ、二人とも」


 これ以上追及されるのも嫌なので、手にした玄武祭のパンフレットを振ってみせさっさと『魔女っ娘カフェ』になっている教室へ歩きだす。


「あっ、待ちなさいよ、昌國っ」


 緋色も海咲から早く離れたいのか、たたたっと駆け寄ってくる。


「ひゅー、おアツイねー」


 取り残されたことなんて気にするそぶりもなく、後ろで海咲がいつものように囃し立てる。


(……はいはい、しかしな)


 全っ然お暑くない。むしろ毎日冷や汗ばかりかいている。


 それというのも、このちみっちゃい魔女っ子のせいだ。

 隙あらば俺に“承諾”を得ようと、二十四時間営業のコンビニ並みの気合いで虎視眈々。


 朝起きると枕元で「私に殺されてくれる?」と声がし、寝ぼけてうなずきそうになったこともある。もっとも、緋色は俺以上に朝に弱いらしく、それきり、俺より早く起きることはない。そのことを利用して、寝ぼけた緋色に俺の部屋がある二階にはあがってこない旨の誓約書にサインさせ、自室という陣地を不可侵にすることには成功したが……。


 学校に行ってからも、家に帰ってからも。絶えず、俺と緋色の攻防は繰り広げられているのだ。誇張なしに。


 もちろん、周りの奴らはそんなこと、露ほども知らないわけだが。

 四六時中一緒にいるため、他人から見れば、ひょっとしたら恋人かとも思われかねない。緋色は気づい

ていないようだが。


 実際、最近男子に「リア充め……!」と言いたげな怨念のこもった目を向けられることがよくある。視線に気づいてそちらを見ると、不思議なことにビビったように逃げられるのだが。


(……あ、俺の目つきが悪いせいか)


 納得しつつ、階段に足をかける。


(まぁ、それも10月31日までの辛抱だけどな)


 あと二ヶ月近くなんて、すぐに経つだろう。それまでの辛抱だ。

 そうすれば緋色ともおさらばして、また前までと同じ、退屈で凡庸な日常に戻れる。


 でも――。


 ぴたり、と足が止まる。


(……いや、でもってなんだよ)


 今、なんか違和感があったような?

 一瞬だけ、胸に冷たい風が吹き抜けたような、嫌な感じ。


 まあ、いいか。


「なあ、そういえば」


「なに?」


「……どうして、結局メイド服なんだ? うち、魔女……カフェだったよな?」


 緋色が着用しているのは、衣装係の女子が徹夜で仕上げたというシロモノで、フリルやレースなんかがこれでもかと付いている、可愛さを全面に押しだした、見まごうことなきメイド服だ。魔女の要素はどこにもないような……?


 そう思い、魔女っ娘カフェ、とストレートに口にするのは気恥ずかしかったのでぼかしながら訊ねたのだが、


「……魔女のこすぷれで喫茶店なんて、邪道よ」


 思いがけず、怒気をはらんだお言葉が返ってきた。な、なんか怖いんですけど、緋色さん……?

 たじろぐ俺に、緋色は噛み付くように、


「魔女の黒服は大事なものなの! それを『こすぷれ』扱いするなんて……!」


 お嬢さん、髪の毛が逆立ってます。


 そういやこの世間(人間界)知らずなお嬢さん、いつだったか、海咲にコスプレの専門雑誌を見せられていたな……。要するに、緋色の猛抗議によって魔女の衣装は却下されたってことか。海咲がよく承諾したな。


 いや、待てよ。


(露出度は、メイド服のほうが高いんじゃ……?)


 緋色みたいな体型ようするにぺったんこでは色気がないが、胸元にはハート型の大きな穴が空いて下の黒レースが覗いているし、背中だけ肌がまったく見えないのが不思議に感じられるくらい、露出度の高いデザインだ。


 超ミニのスカートの下からのぞく白い太ももに目が吸い寄せられて――無理やり視線を剥がしながら後方の海咲を見やると、言わんとするところが分かったのか(本当にエスパーか、こいつは?)、満面の笑みでピースサインをしてきやがった。


 ほほう。つまり、これはおまえの仕業か。

 魔女の衣装を“仕方なく”諦める代わりに、緋色にミニスカのメイド服着用を余儀なくさせる……。


 恐ろしい子……!


(まあ、それはそれとして)


 吹き抜けの渡り廊下を歩いていると、どこからか風に乗って香ばしい食べ物の匂い、生徒たちの歓声が運ばれてくる。教師だってはしゃいでいたりするかもな。

 空は晴れ渡り、まさにイベント日和だ。


 玄武高校文化祭一日目。

 なかなかの盛り上がりをみせている。


 玄武高校文化祭ならびに体育祭、通称『玄武祭』は、文化祭二日間、体育祭一日の計三日間に渡って行われる。最終日の夜にはお約束というかなんというか、後夜祭でフォークダンスも催される。


 一通り緋色に説明すると、「ふうん。フォークのダンスなんて、変わったことをするのね、人間って」と感想をいただいた。面白いからフォークダンスの意味は黙っとくか。


(まあ、どうせ参加しないだろうし……)


 知らない人間と手を繋ぐなんざまっぴらな俺は、サボる気満々である。


(潔癖症ってわけじゃないんだけどさ……。なんだかなー)


 そんなことをつらつら考えながら無言で歩いていると、ふいに、後ろから引っ張られる感じがした。


「おわ? なんだ、緋色?」


 ちょん、とシャツの裾を掴んだちいさな手を見、訊ねると、


「そっちじゃないわよ。上」


「――ぁ」


 そう言われ、知らず下りの階段のほうに踏み出していることに気付いた。喫茶店になっている教室は上がって四階にある。


(あー、ついクセで……)


「すまんすまん」と言いながら、緋色に続いて階段を昇りはじめる。


「っておい、緋色」


「? なによ」


「……もう少し、ゆっくり行こうか」


「どうして?」


「いや……」


 口ごもり目で訴えようと試みるが、緋色は不思議そうな顔をするばかりだ。


 きょとん、と見下ろしてくる緋色は、いわゆる二段飛ばしで階段を昇っていて。しかもミニスカなわけで。つまるところ、なんというか。

 高い位置でツインテールにした髪が「ぴょんぴょん」跳ねるのと一緒に――

 白地に水色のストライプ模様の布がちらちら見えているんですね、はい。


(これは……よし、言わないほうがいいだろうな)


 もしこの数段下という位置から教えたらそれはつまり見たということで。ヘンタイ呼ばわりされ、顔面を蹴り飛ばされかねない……。危険だ。


 そこでさりげなく、緋色と同じ段に移動する。


「? へんなの」


「はは……」


 世の中には知らないほうがいいこともあるんですよ、ははは。


 下を見ると、海咲が白い歯を見せ爽やかに笑いかけてきやがった。ぐっと親指まで立てている。

 ……おまえ、絶対ばっちり覗いただろ。



 我が一年八組の出し物、『魔女っ娘カフェ』は南棟を四階に上がってすぐ、左手に曲がったところにあった。


 カフェに変身した教室は、なんと書道教室。


 何年か前まで書道科があった玄武高校の書道部は、当時はそれなりの栄華をほこったらしい。

 しかし時代の流れにあらがえなかった学校運営陣が、書道科を廃止して以来、書道部は名ばかりの顧問と数人の部員で細々と活動中。それも幽霊部員が多い。

 たとえば、俺と海咲とか。


 ちなみに、書道部だと自己紹介するといつも驚いた顔をされる。どうしてスポーツ全般が得意な、ばりばりの体育会系にしか見えない俺が書道なのか、と。

 まあ。その話は、今は脇に置いておくとして。


「……ここは、どこだ?」


 室内に足を踏み入れた俺は、目の前に広がる光景に絶句した。


 おいおい、ちょっと待てよ。これは一体どういうことだい、ベイビー?

 なんか某お坊っちゃまが出てきてしまった。でもまあ、それだけ俺は目の前に広がる光景にびっくり仰天してたってことでわあああ。


 だってさ……。


(誰が、高校の文化祭にこんなクオリティの高さを求めたんだ?)


 教室を改造したって言うよりは、かのアキバから直接持ってきて少しだけシンプルにしたって言ったほうがいいだろう。いや、あまり詳しくはないから間違っていたら申し訳ないが。


 墨で悲しいほど汚れていた壁にはやたら可愛らしいデザインの壁紙が貼られており、床も見た目はぴかぴかのフローリングに。一体どこから持ってきたのか、アンティーク調のテーブルと椅子まで用意されている。昨日、前日にもかかわらず簡単な準備だけで解散したのはこのためだったのか。


 こんなことができるのはこのクラスには、他ならぬ解散を宣言したひとりしかいない。いや、学校にだってひとりで十分だ。


「おい海咲。おまえは高校の文化祭をなんだと思っているんだ?」


「生徒の『文化的』趣味と情熱とコネを最大限に発揮する場」


 キリッとした顔で堂々とのたまう海咲。コネって……。なんと末恐ろしい娘じゃ。


「さっ、早く入った入った、アクマちゃんに店長!」


「うん」


「あー、そういや俺店長だったネー」


「……サボったら殺るぞゴルァ」


「ぜひ働かせていただきますとも副店長さま」


「……ね、昌國」


「ん?」


 副店長さまの殺意を感じた俺がプライドをかなぐり捨てていると、メイド緋色がちょんちょん、と腕をつっついてきた。なんだか頬が赤い。


「どうした緋色」


「スカート……」


「おう? スカートがどうした」


「短すぎない……?」


 いまさらな発言。

 海咲の思惑に気づいていないらしい……。


「いいんじゃないか? 確かに短いけど……似合ってるし」


 今から補正なんてできないしな、と考え、「こんな短いの着たことない……」とごにょごにょ言っている緋色に、とりあえずフォローを入れてみる。


「に、似合っ……!?」


 すると緋色は恥ずかしがっていたのが一転、ぎょっとしたように目を剥いたあと、腕組みしてそっぽを向き、つんと顎をそらした。あんまり勢いよく頭を振るもんだから、オレンジのカボチャ髪留めに合わせてなのかオレンジ色のリボンをあしらった髪が、猫が尻尾を振ったようにひゅんっと唸る。


「ふ、ふんっ、当然よ、私は魔女なんだからっ」


 魔女関係なくね?


 そこは流しておくことにして、店内のあちこちで談笑しているクラスの奴らに集合をかける。


「よし、それじゃあ一年八組――」


「『魔女っ娘カフェ若干メイド喫茶』! がんばっていきまっしょーい!」


「おーっ!!」


 俺のだらけた声を遮った、海咲の元気な掛け声に呼応する皆様方。


 あれ? 俺の役目じゃないの? なんでこんなに切ないんだろう。

 てか店名変わってるし若干どころか純度百パーセントでメイド喫茶だし。


 突っ込みたいのはやまやまだったが、周りはすでに『魔女っ娘カフェ若干メイド喫茶』として動きだしていて。俺はむなしく佇んだのだった。


 部長より副部長が有能ってパターン、よくあるよね。


 ともあれ、にぎやかな文化祭が始まったのだ。

 ああ、いい天気だなぁ。


「働け店長」


 ぎゃー。



 それから数時間後。

 忙しく立ち働いているうちに、怒濤に波濤にてんやわんやのお祭り騒ぎで大騒ぎな一日目が終わった。


 いくつかハプニングもあったけれど、メイドのコスプレが効いたのかうちの店はなかなかの客入りだったと思う。売り上げも、この勢いだったら黒字で終わるだろう。

 他クラスの友人がよく「八組は可愛い女子が集まってる」と羨んでくるが、どうやら本当だったらしい。確かに海咲も可愛いっちゃー可愛いしな。口を開けばあれだが。


 なかでも嵐の転校生こと緋色はかなりの人気で、途中から写真撮影会みたいになっていた。最初、緋色はあまりの人の多さに涙目になり嫌だと言い張っていたのだが――人混みとかが大嫌いらしい――お気に入りのチョコクッキー五箱で了承してもらった。


 そこでなぜ、条件にあの殺すのなんのの話を出さないのかが謎だけれど。変なとこで抜けてるんだよなー、あいつ。


 夕暮れのがらんとした室内で、今日の役目を終えたテーブルを片手で撫でながら緋色の様子を思い返し、思わず苦笑する。


 しかし、緋色は頑張ってたな……。初めは嫌そうだった接客も、一生懸命やっていたし。

 なんだか妹を見守る兄になった気分ですね、うん。


「アクマちゃんはあたしの妹だから、盗らないでねー?」


 あれ? 今しゃべったの誰だ?


「海咲……だから人の思考に入ってくんなっての」


 しかもなんだ、その全然目が笑っていない笑みは。


 海咲はふふんと得意げな表情を浮かべ、「どうしたの?」とやってきた緋色を抱き寄せにゃーっと悲鳴を上げさせたかと思うと、


「そのまんまの意味だよー? アクマちゃんはあたしの妹だから。身も心も」


「海咲っ! 変なこと言わないで! 昌國も真に受けないでよね!」


「そ、そうだったのか……」とわざとらしくよろめくと、緋色が海咲に抱きつかれたまま真っ赤な顔で抗議してきた。


 いや、もちろん本気にしたりしてませんよ?


 海咲は俺たちの他には誰も残っていないことを確認し、


「もう解散しちゃったしー……。コスカ行こうよ、お菓子補充しなきゃだし」


「ああ、そうだなー……」


 コスカとは、学校の北側に道路をはさんでたつ、我が校生徒御用達のスーパーである。

 菓子やパン、飲み物などが格安の値段で販売されているため、昼休みなんかにこっそり買いに行く奴もいる。それでも購買部の利用者が減ったりはしないのが、玄武高のすごいところだと思う。


 うちの店で出す既成のお菓子もコスカで購入したものが大半で、今日一日でずいぶん消費された。

 そういえば、緋色にチョコクッキー買ってやるって約束したしな……。


 考えた末、俺と海咲、緋色の三人は書道教室を施錠してから橙色に染まりつつある道をコスカへと向かった。



 北門を出て、白線が消えかかっている横断歩道を渡ってちょいと歩けばすぐそこに。あなたの町のスーパー『Coscaコスカ』!!


 はい、いらない宣伝でした。


「うん、ほんっとーにいらない。ついでに昌國もいらないよねぇ、アクマちゃん?」


「えっ!? た、たしかに排除されるべき、ろりこん変態キ……だとは思うけど」


 お二人の言葉が痛いです。俺、なにかしたっけ?


「現在進行形で。あたしとアクマちゃんの愛のらぶらぶデートを邪魔立てするとは」


「なにがデートだ。だいたいおまえが言い出したからついてきたんだよ、俺と緋色は」


「え~、もしかしてまーくんとアクマちゃんでお買物? 邪魔者はアタイなの? いやーん、らぶらぶ~」


「違うわ! そろそろ黙れ海咲」


 そろそろ夕飯の買い出し時なのだろうか、だんだんと車や自転車が増えてきた広い駐車場に声が響く。海咲との言い合いになるといつも、声のトーンを抑えるのを忘れるんだよな。


「……昌國」


 あれ? なにやら緋色から怒りのオーラが。ちょっとうるさかったか、と反省していると、


「早く『かりかりぱんだ』十箱、買ってきなさいよ。それとも殺さ――」


「あれれぇ~? 二倍になってねーか?」


 とっさに、体は子ども頭脳は大人の名探偵みたいな、わざとらしい高めの声で遮る。

 ……なんか、どんどんキャラ崩壊してないか、俺。


 悲しくなって、ひとり夕焼け空を見上げる。漂う薄い雲が淡いピンク色に染まっている。

 そんな俺をよそに、緋色と海咲の二人はさっさと自動ドアを通っていった。


 いや、せめてツッコんでくださいよ、お嬢さんがた。俺がイタい子みたいじゃないか。


「はいっ、かりかりぱんだ。さっさと買ってきなさいよね。買ってこないと殺させてもらうわよ」


 クーラーの効いた店内にもかかわらず、心なしか頬を紅潮させた緋色。その手から、チョコクッキーのちいさな箱をどどーんと積み上げた山をどさりと手渡される。よ、よく持ってこられたな。


 その多さのせいなのか、さっきから人目を引いている。

 なんとなーく興奮してるっぽいけど……よほどこのマイナーな菓子が気に入ったらしい。

 思い返せば緋色が居候を始めた日の夜、たまたま買ってあった唯一の菓子がこれで、食べさせてみたところ予想以上に喜ばれたのだ。本人は平静を保っていたつもりのようだが、頬がピンク色に染まり、瞳がきらきらガキみたいに輝いているのを、俺はこの目で見た。


 というか、数えたら本当に十箱あるんですけど、緋色さん。多くない?


(こんなに買わんでも……)


 そう思いながら目線を緋色に向けると……相手は唇を尖らせ、一心に箱の山を見つめていている。俺が見ていることに気づくとはっとして顔を背けるが……しばらくするとまた横目で見てくる。不安と期待の混じった視線に、出かかった「却下」の一言が喉で止まる。


 ……なんだろう、この、子どもの期待を裏切っちゃいけないような、無垢にして圧倒的なプレッシャーは。


(しゃーねーな……)


 結果、諦めてしぶしぶレジに向かっていると、


「あ、村崎」


「よっ、パープル」


「ん?」聞き覚えのある声。知り合いが声をかけてきた。


「柳川。吉井先輩も。買い物っすか?」


 振り返るとそこにいたのは、黒髪を長めのショートにした美人な女子と、明るい色の髪をした、これまた整った顔の背が高い男子。


 同じ書道部で、同学年の柳川と二年生の吉井先輩の二人は立ち止まると、


「ああ。新婚さんみたいだろ」


「誰が新婚なの。黙れ変態」


 吉井先輩のふざけ半分の軽い口調に、柳川は冷えた無表情で容赦なく罵倒を口にする。吉井先輩は気にする様子もなく、飄々とした笑みを浮かべている。


 いつ見ても美形カップルな二人だ。周りの視線がよけいに集まってくるのを感じる。

 ただ、付き合っているのか、それとも先輩が柳川につきまとっているだけなのかは、よくわからないが……。


「昌國。なにやってるの、さっさと帰るわよ」


「あ、悪ぃ、緋色。書道部の柳川と、吉井先輩」


 ぱたぱたと駆けてきた、お菓子コーナーを物色していたはずのメイド服姿の緋色に、俺は二人を紹介し……って。アレ?


 メイド服?


「は、はじめまして……阿久間緋色、です」


 初対面の人間は苦手なのか、俺の背中に隠れるようにして挨拶をする緋色。

 その格好は露出度の高いメイド服。柳川と吉井先輩は、目を丸くしている。


「おい、緋色」


「な、なに?」


「おまえ、なんでその格好のままなんだ?」


「…………え?」


 言われて、やっと気づいたのだろう、自分の服を見下ろす。


 そして、


「うにゃあああぁ!?」


 猫のような悲鳴をあげると、穴があったら入りたいとでも言うように、俺の背中にぎゅうっと抱きついて顔をうずめた。


「おい、緋色!?」


 恥ずかしいから離れなさい!


「うぅー……」


 スーパーのど真ん中でばたばたと騒ぐ俺たちを見て、


「やっぱ、村崎ってそんな趣味あったんだ……最低」


「いや、メイド服は男のロマンだろー。……あれ、柳川? ちょっと待て、なんでそんな殺気をはらんだ目で見てくんの?」


「表に出ようか」


「ちょ、待て柳川あぁぁ」


 柳川に嫌われているのはわかってたけど、さらに悪化した気がする……。


 吉井先輩が柳川に引きずられていくのを視界の隅に入れながら、俺はうなだれたのだった。

 背中の“これ”、どうしよう?


「いやーん、ちょっとそこのカップル、らぶらぶ~。失せろ昌國」


「な……っ! だ、誰と誰がカップルなのよ! どきなさい、昌國!」


「いや、くっついてきたのおまえ……なんでもありません」


 とまあ、海咲の登場により、おんぶお化け緋色の奇行は収まったのでしたとさ。


 ……つーか海咲、今さりげなく『失せろ』って言わなかったか?


 落ち着きを取り戻した緋色もぎろりと睨んでくるし……俺、女難の相でも出てるのかな。


 そんな四面楚歌の空気のなか(周りのお客さんたちの視線が痛い)、俺はかりかりぱんだを購入したのだった。……店員さんがめっちゃ不審そうな目で見てこられるんですが、いかがいたしましょう?


「ほいよ、緋色」


「……ん」


 箱がたくさん入ってごつごつした袋を差し出すと、緋色は口を尖らせちいさくうなずいた。


「……いや、ほら」


「なに?」


「だからー、受け取れって」


「はあ? あんたが持つんだから、渡す必要ないでしょ」


「俺は荷物持ちじゃないぞ」


「いいでしょ、どうせ帰るとこ一緒なんだし」


「わーっ!? 黙れ緋色!」


 海咲がすぐそこにいるのに、なんて発言をしやがりますか!


「なっ、黙れってなによ!?」


「なあにー? 痴話ゲンカ? あたしも混ぜてー」


 さいわい緋色の爆弾発言は聞こえなかったらしい海咲が、にゅっと割って入ってきた。


「いらん! そこらへんの雑草と仲良くおしゃべりでもしてろ」


「まーくんのイジワルー」


「気色悪い声を出すな!」


「いやぁんばかぁん」


「もう土に還れおまえ」


「……私、着替えてくるから。先に帰ってて」


 テンポよく言い合っていると、いつの間にか数メートル先を歩いていた緋色が立ち止まり、こちらを振り返らずに言った。気づけば、昇降口への曲がり角を少し過ぎていた。


 着替えなんてたいして時間かからないだろうし、待っていようと思ったのだが……なんだか声が、怒ってる?


「え? いやでも――」


「帰れって言ってんの!」


 鋭く叫ぶと、緋色はアスファルトを蹴って校舎に向かって走りだした。


「なんで怒ってるんだ、あいつ?」


 困惑したまま、ちいさくなっていく背中を見送っていると、隣で海咲がおおげさにため息をついた。


「あーあ。まーくんってほんと、女の子の気持ちわかってないよねー」


「どういう意味だよ」


「さあね? でも、今は追いかけないほうがいいかもよん。――バカ昌國」


 海咲はそう言い残すと、店用の菓子が入った袋を持ったまま、自転車置場へと歩いていった。大股歩きはやめようぜ、女子高生。


「なんなんだよ……緋色も海咲も。わけわかんねー」


 夕暮れの校舎を見上げ、ひとり立ちつくす。緋色を待つべきなのか――いや、帰れって言われたし。


 よく考えろ俺。そもそも緋色は俺を殺しに来た魔女で。俺と緋色が一緒に帰るのは、おかしいよな。

 ふつうの高校生どうしみたいに、一緒に帰るだなんて。どうして、考えたりしたのだろう。


 噂に聞く玄武祭マジックというやつだろうか。いつもと違う、高揚感や熱気に満ちた、非日常なこの三日間。誰しも、フツウじゃないことをしたり、考えたりしてしまう。


 そう、俺は玄武祭の魔法にかかっただけだ。それだけだ。


 校舎に背を向けながら、頭のなかで出した結論は、我ながらひどく言い訳めいていて。それこそ、“らしくない”言葉だった。


 かりかりぱんだ十箱が入った白いレジ袋が、急に重みを増したような気がした。



 ―*―



「……緋色? 帰ったのか?」


「……」


 先ほど玄関のドアを開ける音がしたので、リビングを出てさっそく緋色の部屋の襖を軽くノックしてみる。予想通り返事はない。ため息をついた。


 すす……と、静かに少しだけ襖を開け、ふくれたスーパーの袋を滑り込ませる。緋色は部屋の隅でこちらに背を向け、体育座りをしているようだ。


「ぱんだ、置いとくからな」


 ちいさく丸まった背中に声をかけ、襖を閉める。


 ごそ、ごそ……っ、と緋色が動く気配がした。がさり、と袋の音も。


「……ぱっんっだっ、ぱっんっだっ、かーりかりっ」


「へ?」


 ……なんだ、今のすっとんきょうな節がついた声は?


「あー、緋色?」


 とりあえず気にしないことにし、襖に寄りかかったまま言う。


「なんか、さっきはごめんな?」


「……なにが?」


「いや、ほら、いきなり『黙れ』って言ったり……」


 緋色という少女に対して威圧的な態度をとったり、声を荒げてはいけないことはわかっていた。


 アムリタから聞いた過去。いつもはツンツンしてるくせに、本当は人一倍傷つきやすいこと。知ってるのに――ついつい忘れちまうんだよな。


 あまりにも緋色が、強いから。


「……50点よ」


「え?」


 背中を浮かせた、ちょうどそのタイミングですぱーん、と襖が開いた。


「50点よっ。まだまだ、わかってないわ」


 仁王立ちして腕を組み、つんと澄ました表情で偉そうに俺を見上げる緋色。

 そのいつもの態度に、ほっと胸を撫で下ろして――ちょっとからかってやりたくなり、


「ところで緋色?  っきの声はなんだ?」


「うっ……歌、よ。なにか文句ある?」


「いやいや、実に個性的でユニークな歌だっいってぇー!」


 にやにやする俺の足は、あわれ緋色のちいさな足によって踏み砕かれかけたのだった。


 女の子ってほんと、強いよね。


「で、あれなんの歌なんだ?」


 緋色が赤い顔で答える。


「かりかりぱんだの歌」


「もう一回歌ってくれないか」


「い・や。さっきのは出血大サービスなんだから」


「じゃあ、俺の誕生日にでもお祝いの歌ー、って感じで」


「……いつよ」


「ああ。5月の――」


 言いかけて、はっと口を閉じる。そうか、もうその頃には、緋色は――。

 すぅっと胸が冷たくなる。


「……ぁ、飯! 飯、つくるか」


 わざとらしく、ぽんと手を叩く。


「ん、さっさと作りなさいよ」


 ……手伝う気ゼロだな、おまえ。


「おまえも手伝わないと、料理上手くならねーぞ」


「よけいなお世話よっ!」


 いつもどおりの言い合いになる。緋色が来てからずっと、同じようなやりとり……。


 何故、さっきの話を途中でやめたくなったのか。


 この時の俺には、まったくわからないし、わかる必要もないと思っていた。



「ごちそうさまでした」


「お粗末さまでした」


 オムライスの夕食のあと、いそいそと洗い物を済ませてリビングへ向かおうとする緋色に、あることを思い出した俺は声をかけた。


「緋色、ちょっとおまえの部屋に用あるんだけど。はいってもかまわないか?」


「別に、いいわよ」


 先週発見してすっかり気に入ったらしい、猫だらけなサスペンスアクションファンタジーバラエティー番組よくわからないのチャンネルを押しながら、緋色が了承する。


 ソファーに陣取り、テレビをわくわくしながら見つめる背中にくすぐったいものを感じながら、俺はリビングをあとにした。


 緋色に使わせている和室には、彼女のトランクだけがでんと鎮座している。


 まだこっちに来て一週間程度だから当然なのかもしれないけれど、殺風景な部屋の眺めはあまりにも生活感がなくて……一瞬だけ、緋色という少女は本当に存在しているのだろうかという、くだらない考えが胸をよぎった。


(……ほんとに、くだらないな)


 頭をがしがしと掻いて、襖に手をかける。横に引き開け、上下に仕切られている押し入れの下段をのぞき込む。上段には緋色用の布団一式が収納されている。


「お、あったあった……」


 脚の低い茶色机を引っ張りだし、畳の上にゆっくりと置く。埃が積もっていたので、ティッシュで軽く拭いた。その上に自室から持ってきた毛氈(もうせん)を広げ、墨液を注いだ硯に紙、文鎮とこまごましたものを並べれば、書道の用意が整った。


 久しぶりに使う筆を手にとる。


「さて……」



 窓の外から虫の鳴き声が聞こえる。


 けれど俺は、すっかり秋だなーなんて風流を味わう気にもならない。


「……ちっ」思わず舌打ちがもれる。


 夏休みはほとんど部活に行かなかったからな……ブランクってのはなかなかのもので、筆が思うように運べない。


 新聞紙の上に積み重ねた失敗作の数々に、気持ちが萎えそうになる。大きくため息なんぞついていると、


「昌國、さっきからなにしてるのよ?」


「ぅおっ! つー……ああ、緋色か」


 いきなり真後ろから声をかけてくるもんだから、けっこう驚いた。襖に背を向けて書いていたから、緋色がはいってきたのに気づかなかったのだ。


「なんだと思ったのよ」むっとしたように唇を尖らせた緋色は、気になったのか俺の手元をのぞき込んできた。黒髪がさらりと揺れ、ほのかに甘い香りがした。


「えっと……書道?」


「ああ、そうだ」


「なんて書いてるの?」


 失敗作の山から一枚を抜き取り、示してみせる。


「『満員御礼』。海咲に頼まれたんだよ。ったく、自分で書けばいいのに……」


『やあやあ店長。明日の朝、満員御礼って紙に書いてくること。もちろん筆で書けよ(´∀`)』


 夕飯をつくっている最中に届いたメールに書かれていた文面を思い出し、げんなりした。顔文字の笑みが逆にこわい。


 あいつのほうが上手いだろ、絶対……とぶつくさ言っていると、


「ふーん……ねえ、わ、私も書いてみていいかしら?」


「え?」


 緋色を見ると、怒っているような表情で、けれど眉をちょっぴり自信なさげに下げながら「だ、だめ?」と訊いてくるので、いやだめじゃねえけど……とぼそぼそ言いつつ筆を手渡した。


 ったく。たまに気弱そうな顔をするから、調子狂うんだよな……。


 俺と交代した緋色はきちんと正座をして、筆をかまえた。


「……おーい、緋色」


「なっ、なによ!?」


 真剣な表情で勢いよく振り向く緋色に、


「持ち方違う」


 指摘すると、「えっ」と焦ったように筆を握った手をぱたぱたと振る。墨が跳びそうだ。

 そうか、初心者だよな、緋色は……。


 俺はふうと息をつくと、緋色の後ろにまわり膝をついた。


「ちょっと手ぇ貸せ」


「え? っひゃ」


 そっと、緋色の手ごと筆を握る。その白い手のちいささに驚く。


「まず親指と人差し指で持って……で、真ん中の指で支える。よし、左手は紙の上……ここに置いて、押さえとく」


「は、はいっ」


 なんで敬語なんだ、と笑いそうになったが緋色の横顔が真剣そのものだったので、茶化さないでいることにする。


「なにか書きたい言葉あるか?」


「え? えっと、えっと……かりかりぱんだ」


「ぶはっ」


「なっ、なに笑ってんのよ!」


「ごめんごめん。じゃあ書くぞ」


「え、このまま……?」なにやらごにょごにょ呟く緋色の手をしっかりと握り、筆に墨液をしみ込ませると書きはじめ――ようとして、


「緋色?」


「な、なによっ」


「力を抜いてくれないか?」


 筆が動かせない。


「ほら、もっと力抜けって。動かせねーぞ?」


「そ、そんなこと言ったって……む、むり、近……」


「ん?」


 緋色の顔をのぞき込もうとすると、「な、なんでもないわよっ!」と怒鳴られた。


「じゃあ書くぞ」


「え、待っ……ひゃうっ!?」



 緋色の初作品『かりかりぱんだ』は、線が震えたり途切れたり、よれよれしていたりと、なんとも言えない出来に仕上がった。


 ……げ、芸術的、だな?


「……」


「練習すれば上手くなるもんだから、な?」


 というか、終止「ひゃっ」とか「ああ……!」とか、驚いたり絶望したりと、奇妙な声をあげていたのが原因じゃなかろうか。


「……書くわよ、昌國」


「え」


 瞳に闘志の炎を燃やす緋色の宣言に、背中を冷たいものが流れた。



 どれくらい時間が経ったのだろうか。


『緋色』、『アムリタ』、『猫』……色んな文字が、畳の上に広がる。


 どれも不恰好だけれど、途中から緋色が一人で書きはじめたからだろうか、雰囲気が変わっている。


『書く人間によって、文字は無限大に変化する』……昔聞かされた言葉がふっとよみがえる。


 自分の『満員御礼』を手にとる。整った文字が、体裁よく並べられている。


「……つまんねぇ字だな」


 自嘲のつぶやきをもらして――机に頭を載せて眠る緋色をちらりと見る。

 人形のように整った顔は眠っているからか普段よりもさらにあどけなく、つややかな髪が畳にこぼれ落ちている。規則正しくかすかに上下に動く、ちいさな背中。


 それを見ているだけで、少しだけすさんだ心が晴れるような気がした。黒蜜のような髪に引き寄せられるように手が伸び、指先が触れる――寸前で手を引っ込めた。


「こんなに無防備に寝て……」


 恨めしくすら思いながら、眠る少女に聞こえないとわかっていて囁く。


「俺がどんな人間か、なにも知らないんだろうな……」


 机の上で携帯が震えた。電話の着信……非通知?


 なんだろう、とりあえず出てみるか。


『ぼうや、こんばんは~。アタシだけど。元気してる?』


「アムリタさん……?」


 そういえばここ数日、姿を見ていない。緋色は気にしていないふりをしているけど……


「緋色がさみしがってる……ように見えるんだけど。どこにいるんだ?」


『ヒ・ミ・ツ。女は誰しも秘密を持つものよん。――で、なにしてたのん?』


「はい?」


『そっちの様子がわかるように、いちおう緋色の部屋だけ音声が聞こえる魔法かけてるんだけどね――』


 盗聴じゃねえか。


『緋色のフシギ~な声が聞こえてきたんだけど……なにかしたら……わかってるわよねん?』


 ふしぎ~な声?


 そういやあの奇声の数々、今日海咲に襲われてたときと似た声だったな……って。


「なに勘違いしていらっしゃるんですか!?」


 携帯に向かって思わず敬語で絶叫する俺を無視し、アムリタは『じゃあね~』と一方的に通話を切った。


 ツーツー、と無機質な音を鳴らす携帯を、脱力しながら閉じる。


「はあ……とりあえず、片付けるか」


 散らばった紙を拾い集める。


『昌國』とたどたどしく書かれた紙をしばらく眺めて――ふっと笑みがこぼれた。


「へたくそ」



 一通り片付けがすんだところで、緋色がむくりと身を起こした。


「緋色、先に風呂はいってこいよ。明日も早いぞ」


「ん~……?」


 うつらうつらと舟を漕ぎ、まだ寝呆けているようだ。今日は接客でだいぶ疲れたみたいだしな……。


「……っしょにはいりゅ……」


「ん?」


 耳を寄せた、ちょうどその時に緋色がはっと目を見開いた。どうやら目が覚めたらしい。


「えっ、あ、いや、今のは違っ……」


「へ? なにがだ?」


 うろたえる緋色に尋ねると、かあっと顔を赤くし、


「な、なんでもないわよ、ばか!」


 立ち上がり、ばたばたと部屋を出ていった。なんで怒られたんだ?


 緋色といると、わからないことばかりだ。


「でも、不思議と悪い気はしないんだよな」


 本当に嫌な奴だったら、とっくに追い出してるだろうし……。なんてことをぼんやりと考えながら、机を押し入れにしまい込んだ。毛氈を丸める。


はたと気づく。


「……あいつ、着替え持っていったか?」


 案の定、風呂場から緋色の焦ったような声が届く。


「昌國! その、私の着替え持ってき――だ、だめ、やっぱりだめっ!」


「どっちだよ」


「う、うるさぁいっ!」


 騒がしかった文化祭の一日目の夜も、また騒がしく過ぎていった。



 次の日。


「それでは、文化祭二日目っ! みんな、盛り上がっていこー!」


「おーっ!」


 メイドな副店長さまの掛け声とともに、玄武祭二日目にして文化祭最終日がはじまった。

 文化祭がメインとはいえ、明日の体育祭もあるんだから、あまりハメを外すなよとは思うんだが……まあ、みんな楽しそうだし、いいか。


「あ、緋色」


 長いツインテールを揺らすちいさな背中に近寄って耳打ちする。


「1時半から、部活の当番な」


「ん」


 当番といっても、四人分しかない作品の展示場所の受付(見張り)係だから、ほとんどやることは無いのだが。


 緋色はなんと、けさ書道部に入部したのだ。だから当然作品はないものの、部員としての仕事は割り振られたのだ。やっぱりちゃっかりしているな、吉井先輩は。


「だって、仕方ないでしょ。私は昌國を殺さなきゃならないんだから、ずっと一緒にいないと」


 平然とこう語った緋色。

 俺も「ああそうか」って返して……。普通の高校生どうしの会話じゃないよな、あれ。


 考えれば考えるほどヘンなやり取りを思い出し苦笑していると、


「なんか、昌國おまえ……楽しそうだな?」


 小松がいきなりそんなことを言ってきた。


 厨房(書道室となりの狭い部屋だが、素晴らしきかな、ガスコンロとシンクが備え付けられている)でエプロンを着けて包丁を握る姿は、将来いい主夫になるんじゃないかと思うほどさまになっている。褒めてるみたいだから言ってやらんが。


 それはともかく、小松の問いに俺はげんなりと答えた。


「そんなわけないだろ。毎日毎日、大変なんだぞ?」


「阿久間さんのことか? さいきん昌國、いっつもそればっかだよなー。本当につきあってないのか?」


「んなわけねーだろ、このリア充め。キタミー先輩とうまくいってんだろ?」


「な、ななななな……っ!」


 話をそらそうと彼女の名前を出したところ、あからさまに動揺した。包丁を取り落としそうだ。


 思い起こせば夏休み、いつの間にか彼女なんてつくっていやがったのだ、こいつ。ひやかすと「やめろよー」と言いつつへらへら笑う。幸せそうでなによりだ。爆発しろ。


 せっかくの高校時代なんだし、他人が惚れたの腫れたのと騒ぐのは否定しない。

 ――どうせ、恋も愛も友情も……関係なんて、笑えるほどあっけなく、壊れるのだから。


 黒くゆがんだ本音は隠して、俺は笑う。


「ふっ、俺に勝とうなんざ百年早いわ、小松」


「早く戻ってこいや店長。包丁でkillぞ」


「はいすみません副店長」


上には上がいるんです。



 それから。


「7番テーブルからオーダーね! 『愛情たっぷりふわふわオムレツ』!」


「いえっさー!」


 メニューに甘めの料理が多いせいか、甘ったるい空気が満ちている。少し焦げ臭いけど。


 俺は特にやることもないので、厨房に居座っていた。


 店長って、よく考えたらすることないな。

 昨日は初日ということもあってかみんな勝手がわからず、右往左往していたんだが……今日は手馴れてきたのか何事もなく、時間が経っていく。俺の仕事がないのだ。


「えー、クレームとかクレームとかクレームとかの処理もあるんだから、ちゃんと待機しといてよ、まーくん?」


 それしかないんかい。


「……はあ。緋色の様子でも見てくるか」


 厨房を出て、店のほうへ。入り口にはいつのまにか、昨夜俺が書いた『満員御礼』が掲げられている。


 昨日から接客に奮闘している緋色は、ツンデレメイドとしてすでに名物と化していた。


 また、「そ、そのオーダーでいいのよね……っ!? 文句はなしよ!」なんて言ってんのかな、なんて想像していた俺は、


「……ん?」


 ちっちゃな背中を見つけ、近くに行こうとして――その様子がおかしいことに気づいた。


 他高生なのか、私服らしき黒いパーカーのフードを目深に被った男が、いま緋色が接客している相手だ。

 ただオーダーを取っているだけのはずなのに、緋色のオーダー表を持つ手が小刻みに震えている。


 近づいていって、息をのんだ。緋色の顔は白いのを通り越して真っ青になり、額には汗が浮かんでいる。


 客の男は、ただ頬杖をついて緋色を見上げているだけだ。

 声をかけるべきか迷っていると、


「ご……っ、ご注文はどうなさいますか、ご主人さま?」


 メイド根性なのかなんなのか、緋色が震える声を出した。


「……んー、おまえ」


「ッ!」


 中性的な声で吐き出された冗談にしか聞こえない言葉に、緋色はびくっと身を震わせた。


(どうしたんだ……!?)


「ひさしぶりだね、『汚れた娘』。元気だった?」


「……ぅ」


 緋色は息をするのもやっとといった様子だ。


「お客様、どうかなされましたか?」


 ただならぬ様子を見かねた俺は営業スマイルを浮かべ、男に声をかけた。さり気なく、緋色を後ろに押しやる。


「んー、きみはなんだ?」


「ここの店長の村崎です。うちのメイドが、なにか?」


 男は興味なさそうな様子で俺を一瞥し、ついで緋色をじっと見る。顔をあげたときに、フードの下の髪がちらりと見えた。


(金髪……?)


 地毛なのだろうか、ときどき見る染めたものとは違う、綺麗な色。


 緋色から視線を離すことなく、男は口を開いた。


「ぼくはルシファー。まあ、偽名だけど。くくっ。おとめ座AB型の十四歳で、好きな言葉は天上天下唯我独尊。よろしくね、ムラサキ」


 いや、誰が自己紹介をしろと言いましたか。しかも偽名かい。


「えーっと、ルシファー、さん? 緋色――いや、メイドにヘンなことを言わないでくれませんか? この子、あれですよ、うぶなんで」


「……」


 緋色はいまだに真っ青だ。


「ウブ? ムラサキ、きみ、なに言ってんの? そいつはただの『汚れた娘』。キレイなわけないだろ」


 笑みすら浮かべた薄い唇から、呆れたように、冷たく激しい言葉が紡がれる。


「っ!」


 目元は隠れていて見えないのに、怜悧な視線が皮膚に突き刺さるような感覚に背筋が震えた。


「ムラサキ、どうやらきみがその娘の『堕落』を引き起こした張本人のようだね? これは忠告だよ。そいつは、廃棄されるべき穢れた存在だ。関わらないほうがいい」


 すらすらと出てくる言葉は意味がわからなくて、俺は眉根を寄せた。


(“廃棄”……? ひとに対して、なに言って――)


「あらん、ルシファーくんじゃない。久しぶりねん」


 甘い響きを持った女性の声に、ルシファーはうげっ、というように顔をゆがませた。目元は見えないがそれははっきりとした変化だった。さっきまでは、笑顔か無表情だったのに……。


「ア、アムリタ……!」


 緋色がほっとしたように、その名を呼ぶ。


「最近ちょっと用事があって、『あっち』に戻ってたのよん。ゴメンネ、緋色」


 何故かビジネスウーマンばりの黒いパンツスーツに身を包んだアムリタは、そう言ってウインクしてみせた。


 ピンク色の髪をしたスーツ姿の美女に、さっきまでの騒ぎには気づいていなかったらしい周りの奴らも、さすがにこちらに注目している。


「目立ちたくはないでしょう、ルシファーくん? さあ、帰るわよ」


「あっ、離してよ、アムリタ!」


 そのままずるずると、ルシファーはアムリタに連行されていった。


 ドアを出ていく直前、アムリタがそっとウインクをよこした。どうやら、助けてくれたらしい。


「……」


 緋色を見ると、まだ顔が蝋燭のように白かった。瞳がひどく虚ろで、目の前のなにも見えていないような……。


 胸の内に渦巻く疑問をひとまず抑え、声をかける。


「緋色、大丈夫か?」


「……大丈夫よ。仕事、続けるから。どいて、ジャマ」


 うつむいてオーダー表をぐっと握りしめると、ぱたぱたと駆けていった。


(ルシファー……何者なんだ? 緋色とアムリタを知ってるってことは……魔界の奴か?)


 ざわざわと胸騒ぎがして、落ち着かない。


「店長、ぼさっとしない!」


 海咲の叱咤にも、すぐに返事ができなかった。



 ―*―



「おーい、緋色。悪ぃ、遅れた」


 制服に着替えた緋色は、書道部の作品展示会場である武道場の入り口の隅に、ちょこんと座り込んでいた。


「遅い。昌國のくせに遅刻なんて、いい度胸ね」


 普段どおりのつんとした物言いに、ほっとする。


「ごめん、海咲に捕まっててさ」


 昼のかき入れ時がようやく一段落し、交代時間になったもののお菓子が切れたから買ってこい、と副店長さまに言われコスカに行ったせいで、予定の時間を過ぎてしまった。


 尻ポケットから取り出したケータイで時間を確認すると、すでに1時54分だった。すぐに時計代わりのそれをしまう。うちの学校は携帯電話の校内持ち込みは禁止なので、教師に見つかるのは避けたいのだ。

 ま、禁止って言っても、ほぼ全員持ってきてるだろうけど。


「吉井先輩たちは?」


「さっさと腕組んでどっか行ったわよ」


 俺たちの前の当番だった吉井先輩と柳川は、すでに見当たらない。


 きっと柳川は、心底嫌そうな表情だっただろうなあ……。いや、無表情か?

 柳川と無理やり腕を組んで歩く、上機嫌の吉井先輩が目に浮かぶ。


「……人、来ないわね」


「……ああ」


 校舎から少し離れた場所にある武道場は、見事に人気がなかった。


 来場した人の数を『正』の字で紙に書いて数えていくのだが……昨日からの合計人数は、十数人ほど。

どうしてうちみたいな弱小部が、だだっ広い武道場を独占して使わせてもらえるのか不思議だったのだが、どうやらこういうことらしい。


『どうせ客なんてほとんど来ないんだから、隅にある武道場にすればいいじゃん』


 ……うーん、なんで海咲の声で脳内再生されるんだろうか?


「暇だなー」


「……」


 緋色は黙っている。

 そっと観察していると、ちいさくため息をついた。腕どうしを絡め、両膝を抱え込むようにしている。


 ……やっぱり、さっきのこと引きずってんのかな。


「――暇だな。ちょっとそこら辺見に行ってくるわ、緋色」


 返事はなかった。俺は立ち上がった。


「――えっと、これなら飲めるか?」


 購買部の前に置かれた自販機を前に、俺はひとりごちた。百円玉を二枚入れ、ボタンを押す。釣りが落ちてくると、今度は120円を入れ、また同じボタンを押す。


 早足で戻ると、緋色は同じ場所で、体育座りのままぼんやりとしていた。


 解いた髪の先や、スカートの裾がときおり思い出したように少しだけ揺れるが、整った顔も、ちいさな手も足も、ぴくりとも動かない。まばたきするたび動く、長く生えそろった睫毛は扇のようだ。丸いちいさな膝小僧。見えそうで見えないスカートの奥――いや、見てない見てない。やわらかそうな太ももに目を奪われたりなんてしていない。


 まるで人形が独りぼっちで置き忘れられたようなその光景に、俺はしばらく声をかけるのをためらった。深呼吸をひとつして、人形のような少女に近づき、右手に持ったものを差し出す。


「ほい、緋色」


「……え?」


 近づいてきたことに気づいていなかったらしく、ぼんやりした瞳で見上げてくる。


「休憩だよ、ほら」


 目をぱちぱちさせ、俺の手と顔を何度か交互に見比べてから――ちいさな両手をのばし、緋色は差し出した缶ジュースを受け取った。


「ジュース……」


 少しだけ、瞳が輝いた気がした。


「飲めるか? りんごジュース」


 好みがわからないので、無難なものを選んでみたんだが……。


「ん」


 こくりとうなずき、ボトル型の缶のふたを取り、ゆっくりと飲む。強ばっていた表情がほどけ、ぱあっと顔が明るくなる。


「旨い?」


「……うん」


「ならよかった」


 俺も蓋を開け、甘い液体を喉に流し込んだ。ゆるやかな風が、憩いの時間を吹き抜けてゆく。

 やがて空になった缶を傍らに置くと、こちらも缶を床に置いた緋色が俺のほうを向き、口を開いた。


「ま、昌國」


「ん?」


 蚊の鳴くような声に、身を乗り出すと緋色はびくっとしたように身を引き、目をそらしながら、


「あ、あり……。ありがとう」


 つっかえながらもそう言った緋色に、俺は思わずくすりと笑った。


「どういたしまして」



 しばらく時間が経ち、まったく人が来ないため、俺は寝転んでいた。


「……ねえ、昌國」


「んー?」


 風が出てきた。文化祭の喧騒から離れた武道場は、まるで秘密基地のようだ。


(昼寝してーなー)


 目を閉じた俺に、緋色が近づいてくる気配がした。


 しゃら、と髪の揺れるかすかな音。耳元に吐息がかかって――


「私に殺されなさい」


「やだ」


 一気に目が覚めた。


「……むぅ。やっぱり手強いわね」


 静かなムードぶち壊しの緋色に、俺はため息をつくのだった。


(そういや俺、こいつと勝負してたんだっけ)


 緋色のフェイントも、だんだんレベルアップしてきている気がする……。


 不機嫌そうに頬をふくらませた緋色が、


「昌國のケチ」


「誰がケチだ」


「あんたよ!」


「まーくんだよ!」


「「……え?」」


 俺と緋色の声が、見事にハモった。おーすげー、じゃなくて!


「……海咲、なにしに来たんだ?」


「ん? あたしは明日の当番だけど、散歩ついでに二人のイチャイチャラブラブムードをぶっ壊そうと――」


「だれもいちゃいちゃラブラブなんかしてねぇよ」


「えー、でもそんなに顔を寄せあって……いやーん」


「少し黙れ海咲」


「海咲! なに言ってるの!」


 結局いつもの、他愛のない喧嘩になるのだった。


 やわらかな風が吹いて、残夏の終わりを告げようとしていた。



 ―*―



 気分はまるでリング上の椅子にだらりと座ったまま動かず、微笑みを浮かべる某ボクサー。


「燃えつきたよ……真っ白に……」


「燃えつきたついでに殺されなさい」


「…………遠慮します」


「なによその溜めは! ちょっと期待しちゃったじゃない」


「おまえ、元気だな……」


 地団駄を踏む緋色に、椅子にぐんにゃりと座り机に頭を乗せた俺は恨みをこめて言った。玄武祭最終日終了後。


 体の節々が痛い。つーか眠くてたまらない。


 運動部大活躍の体育祭が無事終了し、そのあと二時間超、文化祭の後片付けに追われた。昔からの決まりらしいが、どうして後日にまわさないのか。鬼め。


 ゴミ出しやら調理器具の片づけやら、果ては海咲の呼んだ業者の人たちに交じって書道教室を元通りにしたり(案の定、親方さんに新入りと間違われた)と、準備のときよりも肉体労働が多かった気がする。それに体育祭では海咲の陰謀のために、俺は出場可能な競技すべてに駆り出されたのだ。疲れた。泥のように眠りたい。


「ちゃんと掃除してたわよ」


「……ああ、そうか」


「でも、途中で海咲に止められちゃって」


「はい? なんで?」


「それはだね、我が愛しのアクマちゃんを手荒れという悲劇から守るためなのだよワトソンくん」


「……ああそうか、海咲」


 机の下からにゅっと現れた人物に、俺はたいしたリアクションもしない。疲れたし。


「あれ? 突っ込もうよー、ワトソンくん」


「今の俺に、そんな小ボケを処理するだけの気力は残っていない……」


「そんな……! まーくんの生きてる価値がなくなっちゃうよー。起きろー」


 今、さらっとひでーこと言われた気がする。


「……緋色。海咲に適当にツッコミ入れてやれ」


「えっ!? ツッコミって……ど、どうしろってのよ!」


 なげやりに緋色に無茶振りすると、案の定あたふたしだした。


「さあこい、ワトソンくん!」


 緋色の正面で嬉々として構える海咲。どうして両手を広げてるんだ、おい。


「え、えっと……」


 緋色はしばらくこめかみに右手の人差し指をあてて考え――キッと顔をあげると気合いじゅうぶんな声で、


「私は猫じゃないわよ!」


 と、ツッコみなさった。


 ……緋色さん。いま、なんと?


「緋色、どうして猫なんだよ?」


「え? だって『ワトソン』は魔王さまのペットの白猫で――」


「ああ、親戚のマオさんのペットの名前だって?」


 無理やり魔王をマオに変換する。

 ……てか、魔王なのに白猫?


(だ・か・ら! 海咲がいる前で魔界関係の話すんなって!)


 そんな思いを視線にこめると、緋色はやっと気づいたらしく、はっと口に手をあてた。


「そ、そう! マオのペットなのよ!」


 慌てたように『マオ』を強調する緋色に海咲は、


「そうなんだ~。でもアクマちゃんならペットに欲し」


「ちぇすとー」


「あたっ」


 緋色の妙な気合いとともに繰り出されたチョップが、海咲の頭頂部にヒットする。


「昌國が、海咲がヘンなこと言ったらこうしろって」


「うは、アクマちゃんにだったら殴られてもサイコー」


 海咲はにやけているが、俺のほうにだけ殺気が流れてくる。……満月の夜はうしろに気をつけよう。


 つーかいまの掛け声ってなんだ。椅子?


「ふわーあ……」


 海咲の「覚えとけよ……」と言いたげな視線から逃れるように窓の外を見て「いい天気だなー」なんてうそぶいていると、睡魔が襲ってきた。


 秋晴れの空に、涼しい夕方の風。まだちらほらと人が残る教室は、心地よい空気に包まれている。

 加えて、全身に満ちる疲労感。


「アクマちゃん、まーくん。7時からフォークダンスだから、ちゃんと来てねー」


 海咲の、そんな声が聞こえた気もしたが……。


 いつの間にか俺は、夢の世界へと落ちていった。



 ――――

 ――



『どう、して……?』


 よみがえるのは、誰のものだったか、衝撃と混乱に満ちた声。


 セミの声が、やけに響いていて。汗ばんだ体が、氷のように冷えていた。


『だって――』


 聞きたく、ない。

 それは、絶望の言葉だから。彼女にその気がないにしても、裏切りの言葉だから。


 俺たちにとって――。


「――に!」


 だ、れ?


「――さくに!」


 安心する、声だ……。


「昌國!」


 もっと。


 もっと、呼んで……。



「起きなさい、チャラ國!」


「っ誰がチャラ國だー!!」


「きゃっ」


 あ、緋色。


 机に突っ伏した俺の顔をのぞき込んでいた緋色は、悲鳴をあげて飛び上がった。


「いきなり叫ばないでよ!」


「誰が『チャラ國』だと?」


 聞き捨てならない呼び名に、改めて訊くと、


「え、だって、海咲が言ってたのよ。『チャラい昌國』だから、チャラ國って呼んでいいよー、って」


 平然と答える緋色。無駄に海咲の声真似がうまい。


(あいつめ……)


 チャラ國とは、入学早々つけられた不名誉なあだ名である。


 深夜に帰宅するのは当たり前、授業中は基本的に携帯をいじるか漫画や小説を読むか、という生活が定着しつつある俺は、他の奴らいわく『チャラい』らしい。緋色が来てからは、家にすぐ帰ることが多いし授業は玄武祭の準備で行われていないし、そこそこ『チャラくない』毎日を送ってきたのだ。


 だからすっかり忘れていたのだが……まさか緋色に言われるとは。


「ところで昌國。『チャラい』って、なに?」


 世間知らずって、いいね。


「いや、知らなくていいぞ?」


「そう? 海咲に訊いたら『性犯罪者って意味だよー』って言われたから、もしそうならケーサツに通報しようかと――」


「違うわっ!」


 海咲のアンチクショウ!


「よく聞けよ緋色。チャラいっていうのはだな――」


「そんなことはどうでもいいの! 昌國、後夜祭始まっちゃったわよ」


 どうでもいいんかい。


 一抹の寂しさを覚えながら時計を見ると、すでに7時半をまわっていた。窓の外からはがやがやと生徒たちの話し声が聞こえてくる。まだ音楽はかかっていないようだ。


「あー……そうだな。帰るか」


「えっ! 帰るの?」


 思いがけず残念そうな声をあげた緋色に、


「なんだ、緋色、後夜祭出たかったのか。じゃあ俺のことは放っておいて一人で行けばよかったのに」


 今からでも行けよ、俺は帰るから。そう言ってやると緋色は逃がすまいとするかのように、立ち上がった俺の制服の袖を掴んだ。


「だめなの! 昌國と、一緒じゃないと」


「へ?」


「……海咲にきいたの。『ふぉーくだんす』のこと」


「え」


 俺から視線をそらし微かに顔を赤らめる緋色を見て、固まる。


 な、なんだと……!?

 海咲まさか、有名な玄武祭フォークダンスの伝説を話したのか?


 玄武祭の後夜祭で催されるフォークダンスにはとある伝説がある。なんでも、踊りの輪に入らずにこっそり二人だけで踊ったカップルにはなにかが起こるとか。……曖昧すぎる伝説だな。


 ところが一部の奴らはラブハプニング的な、青春の一ページになる展開が待っているのではないかと期待し、毎年フォークダンスの時間に行方をくらます生徒も数名いるらしい。


(でも、緋色がそんな……)


 緋色がそんな、頭の中がお花畑の女子みたいなことを考えるわけが――。


 だいたい、俺なんかと――。


 ところが緋色は、困惑する俺にずい、と近づいてきた。ちいさな顔がじっと見上げてくる。


 電気の点いていない薄暗い教室のなか、緋色の瞳だけが、そこにないキャンプファイヤーの炎を映したように輝いている。


 その美しさに一瞬、呼吸が止まる。


 南棟の向こうのグラウンドから聞こえる歓声が遠ざかっていって――。


「わ、私と、踊ってくれない?」


 さくらんぼ色をした薄い唇から紡がれる声に、酔ったような気分になる。

 おかしいな、俺、酒には強いはずなのに……。あ、未成年者の飲酒は法律で禁止されています。よい子は真似しないように。


 なんてことを考えながら、俺は気がつくとうなずいていたのだった。


 次の瞬間、緋色がそれはもう満足気な笑みを浮かべ、目をきらりんと輝かせた。


「ふふん。私の勝ちね!」


 ……はい?


「海咲にきいたのよ。『ふぉーくだんすの誘いを受け入れた人は、相手の願いを一つ聞き入れなきゃいけない』って。だから昌國、私に殺されなさ」


「待て待て待て待て」


「? なによ」


 興奮気味にしゃべっていた緋色は、話の腰を折られて不機嫌そうに眉尻を跳ねあげた。


「あのな、緋色」


「ん」


「フォークダンスにそんな決まりはない」


「…………え」



「おーい、緋色ー」


「…………」


「そろそろ元気出せって。海咲の冗談だよ、冗談」


「……うっさいわよ、チャラ國」


 はあ、どうしたもんか。


 先ほどフォークダンスに関する誤解を解いたところ、緋色はまさに真っ白な灰と化してしまった。


 今は教室の隅にうずくまり、頭にキノコが生えそうなほどじめじめしたオーラを放っている。


「……昌國のバカ」


「……」


「もとはといえば、あんたが悪いのよ。私は、あんたを殺して魔女になりたいのに。昌國が私に殺されてくれないから……」


「……だから、10月31日までに俺を説得してみせるんだろう?」


「っ!」


 緋色の前にしゃがみ込み、目線を合わせる。


「まだ一ヶ月以上もあるじゃん。諦めんなって」


 俺、なんで励ましてんだ? まあいっか……。


「……お、始まったみたいだな」


 グラウンドのほうから、おなじみの陽気な音楽が流れてくる。


「せっかくだし、踊るか」


 音楽を聴いてウズウズしている緋色に、もしやと思い言ってみた。


「……いいの?」


「ああ」


 少し気恥ずかしく思いつつ右手を差し出すと、赤い顔で立ち上がる。


「……しょ、しょうがないわね! 踊ってあげるわ!」


「はいはい」


 そっと触れてきた左手は、驚くほどちいさくて、冷たかった。


 ターンするたびに、緋色の長い髪が夢のようにふわりと広がる。


 決まった動きなんて無視して、リズムに合わせて回って跳ねてでたらめに、緋色の細い体躯が躍動する。子どものように楽しげな――無邪気な笑顔を見て、胸が高鳴った。

 

 きっとそれは、祭りの高揚感からくるもので。

 この日このときだけの、魔法のような時間……。


 それから、陽気で明るいメロディーが消えるまで、俺たちは二人でフォークダンスを踊っていた。



 ちなみに、伝説どおりなのかなんなのか、鍵がかけられた校舎内に閉じ込められる、という事件が起こったのでしたとさ。真面目な緋色は内側から鍵を開けて出ることを了承してくれないし。


 ……『移動魔法』には二度とお世話になりたくないです、はい。

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