実態
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「一体なんの冗談なんだ…?」
思わず呟いた晃一の視界の先には透明なアクリル製の壁がある。透明なのでもちろん壁の向こう側が見えるのだが、そこには目を疑いたくなる光景が広がっていた。
「ん?誰かいるのかね?」
暗い廊下の先、機材の陰から身を乗り出した影の主には見覚えがあった。先程、保育施設の見学時に保育士から″先生″と呼ばれていた初老の男だ。
そして同時に思い出す。その顔は、数年前に辞職し天下りした役人だった。天下り先は確か…
「ここの職員ではないね」
咄嗟の出来事で身を隠すことが出来なかった。男はカツカツと踵を鳴らして歩み寄ってくる。
「さて、どうやってここに忍び込んだのかは置いておいて、自己紹介を頼めるかな」
偽りの名前や肩書きはすぐに思いつかない。それに、取り繕っても逃げ場がない。ここは腹をくくるしかない。
「一ノ瀬晃一だ。週刊芸秋の記者だよ」
「最近の記者は不躾だな。立ち入り禁止の区域に入ってきて、それでいて敬語も使わず睨みつけてくる」
「この状況じゃ誰でもそうなるさ。」
晃一は語気を強める。だんだんと記憶が鮮明になってきた。
「怯えた仔猫だな」
「なんとでもいえ。元厚生労働省 国立感染研究所所長 峯田雅敏
「記者の記憶力は侮れんな」
「この施設はなんだ」
「答える必要がどこに?」
「あの人達は一体なんだ!」
晃一が声を荒げて指差す先には、アクリルの壁を挟んで数人の人が横たわっている。生活施設と呼ぶには明らかにプライバシーの配慮が欠けているこの空間は、さながら実験動物を観察する飼育器だ。
中の人々は皆一様に苦痛の表情を浮かべ、虚ろな目でこちらを見つめ返してきている。はっきり言って異常だ。
それを眺めながらも片時も表情を崩さない峯田は、まるで目の前の人を人として認識していないかのような印象を受けた。暫しの沈黙が流れ、峯田は大きく息をつくと、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「NTAIfウイルスによるアウトブレイク。ここ日本はその危機を免れた数少ない国の一つだ」
「一体… なんの話だ?」
晃一の疑問には答えず峯田は進める。
「日本中、いや世界からもそう認識されているが、実際は感染が認められている」
「なに……!?」
「入国規制とワクチンの流布は完璧…な筈だったんだがな。感染が蔓延する大陸から亡命してくる難民までは追い払うことが出来なかった。結果として、日本海沿岸から感染者が発見された」
この国は軍隊を持たない。難民に対して武力を行使し追い返したとなれば、国内だけでなく世界中からの非難に晒される。止む無く上陸を許し、その後不法入国として拘束するしか術が無かったのだろう。
しかし、全盛期より人口が半減した日本において都心から離れた海岸部全域を隈なく警戒するなど不可能だ。当然、包囲網を逃れた者がいた。
「ワクチン自体に効果はあった。だが、ワクチンの接種を拒否する連中がそこらじゅうにのさばってたから、政府は焦ったわけだ」
「答えに辿り着きつつあるようだな。その通りだよ。我々は深刻な問題に直面した。人口が少なく、世界中で類を見ないほど人口率が過密したこの国で集団感染が起きれば、確実に経済が破綻する。それだけは防がなくてはならなかった」
「だからこんな施設作ってワクチン非接種者を隔離したのか」
「それだけじゃない。君は耐性というものを知っているか?」
生物学で聞く『耐性』であれは、聞いたことはあった。しかし、話の流れが掴めない。頷くでも首を振るでも無い晃一の反応を一目し、峯田が続けた。
「菌やウイルスは抗体を持つ宿主が多く存在する環境下において、その抗体に対し抵抗性を獲得する事がある」
「突然変異か」
「その通り。MRSAやインフルエンザなど多くの感染源達が我々人類の叡智を凌駕してきた。もし今回、NTAIfウイルスが同じ道を辿れば、人類に未来は無い。それを防ぐのが国政を担う者の務めであり、避けては通れない決断を我々は下した。ウイルスが繁殖する環境そのものがなければ、ウイルスのDNA転写も起きず、当然ながら突然変異は起きない。心苦しくはあったが、ウイルスの繁殖を助長する存在は社会から摘み取らねばならなかった」
「じゃあこの先にいる人達は… 」
「発症者だ。本人達の意思でワクチンを拒んだのだ。この結果も本望だろう」
峯田が目を細めてアクリル板の向こうを見遣る。まるで自殺者を眺めるような冷酷な目つきに、腹の底が煮えるような怒りを感じた。
「この施設の人達は″健康″である事を望んだんだ。ピラニアの水槽に喜んで飛び込んでいく奴は1人もいなかった筈だ!」
「なんだ、この施設の入居者の肩を持つのか。トンデモ医学を盲信する愚か者だと、さぞ心の中で詰っていただろうに」
「確かにそうだ。それは否定しない。だが、そんな事がどうでもよくなる程の悪事が目の前で起きてる。食わねば殺すと脅されればヴィーガンだって肉を食べるさ」
「面白い例えだが、それを言うなら、知らぬ間に自爆テロ犯に仕立て上げられた一般人が街中を歩くのを、君は良しとするのかな?」
「詭弁だ」
「ああそうだ。我々は互いに益のない水掛け論をしている。だが、私達は断腸の思いで行動に移し、対して君は苛立ちを口先だけで私にぶつけているに過ぎない。君は、何も為していない」
峯田は一度言葉を区切り、突き放すように言い切った。
「だったら、成し遂げてやる。この事を世間に… 」
「それはやめたほうがいい」
「今更及び腰か?」
安い挑発を飛ばしたが、峯田は全くそれに取り合わず、淡々と続けた。
「確かにこれは、非人道的な行いだ。それは私も認める。しかし、これを暴いて君はどうする。正義の救世主だと持て囃されてさぞ光栄な事だろうが、その後世間はどうなるだろう。この施設の人々の解放を願うだろうか。そもそも建前が別にあったにせよ、この施設は強制的に収容しているわけではない。ここの人々はあくまで、自らの意思でここに居る。君の正義は酷く身勝手じゃないか?」
「好き好んでここに来たからそれでいいとでも言いたいのか。嘘も方便だな。皆ここが火事場だと気付いていないだけだ。煙と火に気付けばどうなるかわからないぞ」
「そうなれば我々の負けだな。全国の施設から大量のワクチン未接種者が解き放たれる。晴れてこの国は大感染を引き起こして滅亡する。我々の手腕に賭けてこの事実に目を瞑るか、或いは早々に己が手でこの国を潰したいか。好きに選べ」
感染する可能性があると知っていたのだから、それで死んでも自己責任じゃないか、ともう1人の冷酷な自分が心の中で叫んでいる。恐らく、考えとしてはそちらが正しく、駄々をこねている今の自分は子供みたいな喚き方をしているだけだ。峯田の考えは、綱渡りだがこの社会を守る為に機能している。代替案がないまま声を荒げても戯言にしかならない事は重々承知だ。しかし、易々と引き下がることは出来ない。
日本で感染者が出ていないという体裁ならば、ここで亡くなってゆく人々の死に尊厳はない。この施設の理念に共感し、入居した者の中で、こんな実験動物の飼育ケージの様な環境で最期を遂げたいと思った人などいた筈がないのだ。
「それでも、こんなやり方… もっと他にあっただろう!強制的にワクチンを接種させるなり、もっと他に!」
「エホバの証人達に輸血をする様なものだよ。そんな事をすれば彼らは生きながらに殺される。それが正解だと?」
反論はできず代替案も出てこない。峯田の表情は固まったままだ。まるで人の心を失ってしまったかのように。
きっと、ここにたどり着くまで気が狂いそうなほどの葛藤があったのだろう。何か別の方法はないか、死ぬ気で探した日々があったに違いない。断腸の思いで、と彼は言った。見つからなかったのだ。この悪魔の様な所業を回避できる妙案が。
それは理解出来ても、晃一は納得することができなかった。
「こんな、人を欺いて見殺しにする様な真似が許されるわけがない… 」
「赦しを乞うつもりはない。私はこの業に死ぬまで苛まれ続けるだろう。だが、それでいい」
「それはあんたのエゴだ!」
「エゴイストで結構! 私にはこの国を守る責務があった! あの大感染で世界中どれだけの人が死んだか! 私は現地で見てきた。既存の抗ウイルス剤が効かず、対症療法も功を為さず、苦しみと絶望の果てに荼毘に伏す多くの人々を!あの惨劇をこの国で繰り返してはならない」
「じゃあこの部屋はなんだ! 自分のエゴに巻き込んだ自覚があるなら、なぜこんな部屋に閉じ込める! 人間らしい最期を用意してやろうって気は無いのか!? 口先だけ感傷に浸って、やってることはマッドサイエンティストと変わらない」
「この部屋は特別だ。ここで生涯を終える事はない」
全ての苛立ちをぶつけたいという気持ちを抑える。感情が暴走しかけていた。彼の言葉全てを否定して罵倒していては、真実に辿り着けない。
「今の流行終息は小康状態に過ぎない。いずれあのウイルスはワクチンに対する抵抗性を獲得し、世界はもっと恐ろしい事態に陥る。その時、ワクチンより効果的な抗ウイルス剤を用意していなければ、人類は破滅だ。しかし、それを開発するためには検体が必要になる。彼らは全てを悟り、受け入れた協力者だよ」
「ここで治験を…? この部屋は、モニタールームなのか?」
「そうだ。そして、完全隔離を余儀なくされた彼らが、外界の人間とコンタクトをとれる唯一の部屋だ」
「面会を許可してるのか!?」
「この施設に居住し、箝口令を遵守できるものだけだがな」
峯田がアクリル板の向こう側に横たわる被験者に向けてゆっくり頷く。驚くことに、被験者は苦痛に歪む顔を少し和ませ、微笑み返した。
「抗ウイルス剤の開発に成功すれば、感染後の治療が可能になる。致死率95%と言われるNTAIfウイルスを無力化出来れば、世界は感染と死の恐怖から解放される。これはここの人達だけでなく、世界の希望だ。私の行いをエゴと呼ぶのは構わない。しかし、君のエゴは人を救うのか?」
答えられなかった。薄々わかってはいたことだ。自分の仕事の浅はかさを。詭弁で誤魔化し続けてきたのは自分の方だということを。
自分にできることは、この国の安寧のため、ひいては今後の世界のために沈黙を守る事だけだ。
晃一は峯田の目を見つめ返すことなく、静かに首を横に振った。峯田は責めるでもなく、「そうか」と呟いただけでそのまま黙り込んだ。