邂逅
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どこをどう曲がってきたのか、皆目見当がつかない程パニックに陥っていた。煙草と加齢に蝕まれた肺がギブアップの声を上げるまで、晃一は施設の廊下を走り続けた。追いかけてくる足音はない。警報の類も鳴っていなかった。
自分を迎えにきた成瀬が、エントランスの騒ぎをみたらさぞ驚く事だろう。壁に手をついて息を整える。廊下はこの先で行き止まりになっており、突き当たりには非常階段と書かれた戸がある。
同じフロアを逃げ続けるのはリスクが高い。といっても、潜入取材はここで失敗だ。どうにか相澤と連絡を取ってここを脱出したいものだ。顔と名前が割れたことで今後一切当施設の取材が出来なくなるのは惜しいが、自分で招いた失態だ。編集部に頭を下げる以外ない。携帯端末を取り出すと圏外の文字が見えた。このご時世に建物内で圏外になる状況があるのかと目を疑ったが、念じて電波が捕まえられれば世話はない。諦めて端末を仕舞う。
舌打ちをしながら煙草を取り出すが、今しがたこいつのせいで大失敗したところだ。当然廊下には火災報知器が付いているだろう。なに馬鹿に馬鹿を重ねてんだと独りごち、乱暴に煙草とライターをポケットに突っ込んだ。
非常階段は、廊下の穏やかな照明と打って変わって、無機質な蛍光灯で照らされていた。入居者が階段を使う機会は少ないのかもしれない。ちらりと見た施設の案内図を思い出そうとするが、施設の形が朧げに浮かぶだけで、現在位置もわからない現状では何の助けにもならなかった。
上に登るか下に降りるか。エントランスは同じフロアだが、素知らぬ顔で出ていけるとは思わない。となれば別の出口を探さねばなるまい。
地下には駐車場があるのではないだろうか。大型ショッピングモールよろしく、立体駐車場が併設されていれば各階と連絡している可能性もあるが、どのみち地上階までは降りて行かなければならない。
今は地下まで降りて、駐車場になっていればそこから地上に出るのが最善の選択だ。駐車場を車にも乗らず歩き回っていては不審がられるだろうが、出会った入居者がそれだけで何処かに通報するとは思えない。後は降りた先が駐車場になっていることを祈るばかりだ。
非常階段を降りて行く。1フロア分降りたが、出口はない。さらに降りて行く。3フロア分降りたところでドアが見えた。生体認証等の警備システムは見当たらない。そっとドアを押し開ける。
残念ながら車がズラリと並ぶ光景ではなかった。排気ダクトや発電設備と思われる大型の機械が見える。オレンジのライトが照らす薄暗い空間だ。人の気配はない。
ゴウンゴウンという無機質な音に自分の足音がかき消される。人のいなくなった世界に取り残されたかのような、足元がなくなってしまったかのような、得体の知れない不安に襲われる。
見つかってはいけないという本能と、誰か人に会いたいという願望がせめぎ合う。何とも奇妙な時間だった。
通路をクネクネと通り抜けた先、照明の様子が変わる一角があった。覗き込むと、エレベーターホールになっていた。先程通ってきた通路の埃っぽさを思うと、気味が悪いほどに清潔感のある空間だ。関係者用と書かれた看板が立ててあったが、人がいないことを確認してエレベーターホール入る。
エレベーターに近づいて気づいた事がある。周りの壁やエレベーターの扉に対して、ボタンのデザインが非常に古臭いのだ。デザインだけでない。ボタンの周りの塗装は剥げて、腐食が窺える。
他にも不審な点がある。確認できるエレベーターは1機だけだが、それに対してホールが広すぎるのだ。加えて、エレベーターの位置がホールの中心から外れている。
試しに壁を叩いて回ると、エレベーターから少し間を置いたところで音が変わった。コンクリートを叩くような芯のある音ではなく、何か奥に空洞を感じるような軽い音が出る。そのまま暫く壁を叩いてまわり、疑念が確信に変わった。
恐らくここはエレベーター4機分のホールであったが、何らかの理由で残り3機分のドア部分を壁で塞ぎ、塗装して隠したのだ。
一体何のために…?
1機だけ残るエレベーターのボタンを押す。程なくして空っぽの箱が降りてきた。乗り込んで行き先階ボタンを見ると、4階部分のボタンが取り外され、パテで埋められていた。
「杜撰すぎるだろ。いつの時代のやり方だ… 」
押してみるが、案の定ボタンは沈み込まない。このエレベーターホールに非常階段はなく、4階まで通じる道は見当たらない。
この時、自分が先程まで脱出を目指していたことを完全に忘れていた。晃一の頭の中は、地下スペースから通じる謎のエレベーターと閉ざされた4階の謎を解き明かすことで一杯だった。白状すると相澤の事さえも飛んでいた。
それ程までに強烈な違和感を、この状況から感じ取っていた。ジャーナリストの勘。抑えきれない好奇心。自分で自分の事を凡才だと認める晃一が、ここまで滾るものを感じるのだ。きっと、ここには何かがある。
得体の知れない衝動に突き動かされることに躊躇いはなかった。晃一は通路に立てかけてあった角材を持ってきて、先程空洞音がした壁に叩きつけた。大きな音が鳴ったが、それを止める者は誰もいなかった。
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「週刊秋芸の相澤沙希さんね」
「なっ… 、ちょっと離して!」
ドアを通り抜けるや否や、後ろ手に抑え付けられられた相澤は悲鳴に近い叫びを上げた。
「成瀬さん!どういう事!?」
「どういうことかお聞きしたいのはこちらです。施設を見学したいとの事でご案内しましたが、まさかジャーナリストだったなんて」
「なっ… どこでそれを」
「お2人のことは調べさせて頂きました」
成瀬はそう言うと、髪をかきあげて耳を指で叩いた。そこには通信用のインカムがつけられていた。恐らく本部の人間が身元を調べたのだろう。そしてそれが成瀬に連絡された。
「そういうこと… 。でもそれが何?職業は関係ないでしょ!?私達は本心からこの施設を…」
「白々しいですね。では何故ご職業をお聞きした時に校正の仕事などと?」
「そ…れは、」
「何もやましい事がないなら正直に言うはずでしょう。そうでないから嘘をつくのです。そして今あなたは嘘の理由を答えられない。答えは明白です!」
まくし立てる成瀬の声は段々と怒気を帯びてくる。後ろに締め上げられた相澤の右腕がみしみしと悲鳴をあげる。
「いっ… 痛い!離して!一度落ち着いて話を聞いて!」
「そうはいきません。先程貴女の相方が施設内で失踪したと連絡がありました。大方、トイレに行くふりをして施設内を探索する魂胆だったのでしょう?」
「失踪…?どういうこと?私は聞いてない!」
「正直に!」
成瀬が更に腕を捻りあげる。爪先立ちになって肩の脱臼を免れる。
「本当に!これは本当に知らないの!」
「では晃一様の独断行動ですか。だとしたら迂闊でしたね。わざわざ夫婦役を演じて2人で潜入するべきではなかった」
成瀬は耳に手をやり、「お願いします」と呟いた。その直後、電子的なチャイムが鳴り館内のスピーカーからアナウンスが流れた。
『施設見学にお越しの相澤晃一様、奥様がお待ちです。1階正面玄関までお越し下さい』
「私を人質にするつもり?」
「そんなことは一言も言っていませんよ」
「言ってないだけじゃない。そうする気満々のくせに」
「邪推が過ぎます。私達は不審な侵入者に対応しているだけです!何故貴女は被害者のように振る舞うのですか」
「それはっ…」
ここで言葉に詰まった。確かに状況だけを見ると、不義を働いているのは自分達だ。しかし、前提としてこの施設自体が、非科学的な事を嘯いて人を騙し続ける悪意に溢れた場所なのだ。
その事実を、既に洗脳された人間に話したところで理解してもらえる筈もない。ましてやこんな状況だ。口から出まかせ、事実無根と謗られて終わりだろう。成瀬の心には届かない。
「イタズラや冷やかしならまだ目を瞑りましょう。でも、貴女たちが悪意を持ってこの施設を記事にしたとして、ここに通いここに住んでいる人達がどれだけ傷付くか想像しましたか?貴女たちのやろうとしていることは、真剣な人々に外野から石を投げて笑う様な行為です。私は断固としてそれを許しません」
「私達は、そんなつもりじゃ…」
「つもりがあったかどうかは誰も気にしていないんです。貴女自身の気持ちとは関係なく、書かれた文字は人を傷付けるんです。私達を攻撃する記事を書けば、どれだけ表現を和らげようと、物の見方が傾いてしまいますから」
「どういう立場で記事を書くか、決めるのはデスクよ。私達は取材をして、それに従って文字に起こすだけ。ここの人達に直接悪意を持ってなんかいない!」
成瀬の言い分は尤もだ。それに反して、自分の言い訳はひどく薄っぺらい。なんて情けない言い訳しか出来ないのだろう。だが、それは当たり前だ。今口にした台詞は本心ではないのだから。
初めから、ここはトンデモ医学を吹聴する悪徳施設なのだと決めつけて取材に臨んでいた。自分達がそれを暴き、果ては正す存在なのだと、無意識のうちに思い込んでいた。嫌な仕事をこなすための方便などではなく、本気で初めからそう思っていたのだ。それは晃一も同じだろう。今回の潜入に罪悪感などなかった。
自分はなんて傲慢な行いをしていたのだろう。恥ずかしいとも悔しいとも言えない感情が渦巻き、口から漏れ出る言い訳に嗚咽が混ざり始めた。
しかし、この施設が謳甘言に絆されて、資金を無駄にする人間がいる。効果のない治療に時間を費やし、病が手遅れになる人間がいる。それは許されない筈だ。
「確かに、私達は間違ったやり方をとった。でもっ、貴女たちは人を騙し続けてる!。それはいいの!?」
「正しさは信念の数だけあります。我々と違う見方をするのは構いませんが、それは私達を見せしめにしていい理由にはならない」
正しさ。物の見方。それを聞いて思い出したのは、晃一から言われた言葉だ。
入職間もない頃、攻撃的な表現を強めるようデスクから書き直しを言われた時、半泣きの自分に晃一は淡々と言った。
『人は多様性を獲得した生き物だからな。物の見方は沢山あっていい。俺たちは、沢山ある物の見方の中で、批評的・批判的な考えを提示するだけだ。どんな情報を得て、どう思うか。それを決めるのは一個人の勝手で、お前が誰かに悪口の共感を迫ってるわけでも、正義を押し売りしてるわけでもない』
この言葉は、私の筆が止まってしまわないようにする為の欺瞞だったのだろうか。成瀬の悲痛な叫びを聞いた後では、幾ら晃一の訓えを反芻しても罪悪感を消す事なんてできなかった。
しかし、そう話す晃一の表情は本物だった。私が惹かれたその眼差しは、真っ直ぐに私を見つめ返していた。正しさが信念の数だけあるなら、私達の行いも正しさの一つだ。勿論成瀬にそれを卑下される筋合いはない。
「方法が間違っていた事は謝るわ。でも、私達の行いを撤回したり、自粛したりするつもりはない」
「開き直るんですね。幻滅です」
「結構よ。私の考えは変わらない。貴女の考えが変わらない限りね」
「仕方ありませんね。反省の色が見えれば、こうするつもりもなかったのですが… 」
成瀬が声のトーンを落とした次の瞬間、相澤は首筋に鋭い痛みを感じて意識を失った。