不穏
廊下を突き進むと、初めに訪れたロビーに戻ってきた。成瀬と相澤の姿はない。さて、どうして後を追いかけようか。ショッピングモールよろしく案内板でもあればよかったのだが、生憎それらしいものは見当たらない。
フロントに案内係が立っているのが見えたので正直に事情を説明する。
「すみません、こちらの施設見学に来た者ですが、案内の方と逸れてしまいまして」
「お名前をよろしいですか?」
「相澤です。相澤晃一」
「相澤様ですね。少々お待ちください。… 担当は成瀬でお間違いありませんか?」
「はい。ちょうど最後に住まいの見学をする所だったんですが… 。居住スペースはどちらに?」
「成瀬が迎えに参りますので、お掛けになってお待ち下さい」
「あ、いえ。場所を教えてもらえたら自分で探せますよ」
「行き違いになるとご迷惑をおかけしますので、どうかご容赦ください」
案内係の女性はそう言うと深々と頭を下げた。そこまでされるほど駄々をこねたつもりはなかったのだが、致し方ない。ロビーのソファまでトボトボ移動して腰を下ろす。確かに、入居希望者とはいえ部外者に勝手にうろつかれたら気が悪いだろう。
なにせやっていることが清廉潔白とは言い難い施設だ。部外者が入居者に出会って「ここでやってることは根拠のないトンデモ医学ですよ」と吹き込みでもしたら、この施設の地盤が揺らぐ事に成りかねない。それを思えば案内係の対応もやむなし。郷に入っては郷に従えだ。余所者はしゃしゃり出ない方が良い。
手持ち無沙汰を紛らわそうと、ポケットの中でタバコを転がす。皆中毒性の少ない電子タバコを吸う中、今時紙タバコを吸っている酔狂はバンドマンかヤクザ、あとは物書きくらいなものだ。自分は人をこき下ろす記事を書くストレスを、こうでもしないと発散できないから吸っている。まともな精神ではやっていけない仕事だと、そう感じる。相澤のようにメンタルが強ければどれだけ良かったか。
有毒性の高い紙タバコは指定の場所以外で吸うと罰金刑になる。健康志向が無駄に高いこの施設の中に喫煙スペースがあるとは思えない。
しかし、一抹の望みを託して辺りを見渡してみると案内カウンターの隣に施設の見取り図が貼ってあるのが見えた。あれで喫煙所の有無を確認できる。案内係に喫煙所があるか聞くのは憚られると思っていたところだ。まさに渡りに船。無ければ無いで構わない。吸いたい気持ちを抑え込む理由だけが欲しかった。自分でも幼稚だなぁと思いつつ、立ち上がって案内図の方に歩み寄る。
その瞬間、ポケットが僅かに軽くなった。
「あ、何か落とされましたよ」
女の声に呼び止められる。知らない声だ。ここの入居者か。先程まで誰も通らなかったのに、なんと運の悪い。振り返ると、女は″落し物″に手を伸ばしたそのままの姿勢で固まっていた。驚愕した様子で、目を見開いている。
そうだ。ここはワクチンの僅かな副作用ですら有害と言ってしまう健康狂者達の集いだ。元から体に害を為すものを受け入れるわけがない。喫煙所など、あるわけがないのだ。
そもそもタバコなど持ってくるべきでなかった。役作りのために子供の名前を必死に考えていた相澤を笑っていたが、自分もそれくらい真摯にこの潜入と向き合うべきだった。
しくじったと、そう思った時にはもう遅い。ロビーに女の悲鳴が響いた。
「あ、あんた!なんてもの持ち込んでるのよ!アタシは妊婦よ!?お腹の子に何かあったらどうするのよ!!」
女の癇癪を聞きつけた案内係や警備員が身を乗り出して様子を伺ってくる。ここで詳しく話を聞かれては潜入取材だということがバレる。それはマズイ。
「ま、待て。これは俺のじゃ…」
「アンタが今ポケットから落としたでしょう!!しかもこれ… 、電子じゃ、ない!? …ひっ、人殺し!アンタ癌を撒き散らすつもり!?」
なんとか騒ぎを大きくせずにやり過ごしたかったのだが、どうして人はテンパるとどうしようもない言い訳しか浮かばなくなるのだろうか。更にはいきなり人殺しと言われて、次の言い訳も真っ白に飛んでしまった。
女は血相を変えて喚き続ける。タバコに対する知識が歪みきっているが、そんな事を指摘する余裕はない。尋常ではない女の様子を見て、警備員も刺股を担いで駆け寄ってきた。このままでは取り押さえられる。
その思いが反射的に体を動かした。後先など考える暇はなかった。気付けば詰め寄る女を振り切って、誰もいない廊下の方へ走り出していた。
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先輩、遅いなぁ、とそわそわ後ろを振り返る。先程から何度もこうしているが、一向に晃一の姿は見えない。先導する成瀬はつかつかとリズムよくヒールの踵を鳴らし、立ち止まる様子はない。
すぐに追いつくはずだと伝えはしたが、暫くして追いついて来なければ何処かで立ち止まって待機するものではないのか。晃一と合流する気が一切ない成瀬の様子にだんだんと不安を覚える。
加えて、晃一の事が気になっていたせいで現在地の検討がつかなくなっていた。どこをどう曲がってここまで来たのか、ここは巨大な施設のどの辺に位置しているのか、全くもってわからない。暫く歩いた事は確かだが。
「あの、ちょっと待ちませんか…?」
「晃一様でしたら他のものが引き継いでご案内致しますので」
「あ、いや、でも一緒に見学したいんですけど」
「先程連絡がありまして、晃一様はロビーの方にお戻りになってしまわれたようです。時間の都合上お迎えに上がるのは難しくなります。ご了承くださいますか?」
成瀬の語尾は辛うじて疑問形になっていたが、他の選択肢を選ぶことは出来ないという口ぶりだ。勝手に逸れたこちら側に落ち度があるのは確かだが、見学にきた客人への対応にしては少し強引ではないだろうか。歩みを再開した成瀬の後頭部を見つめながら首を傾げる。
そのまま暫く進むと、廊下が段々と明るくなってきた。先に目をやると、廊下の両側が窓になっており外の景色が見える。既視感を辿ると、その正体は学校にあった渡り廊下だ。所謂、別館や別棟というやつに続いているものだろうか。
敷地の玄関からみた施設の全体像を思い出すが、それらしい建物や廊下には覚えがない。というより、全体像が一望で収まるスケールではなかったので恐らく視界に入っていなかっただけ。或いは敷地の奥側、正面の建物の裏ということになる。そんな奥まった所まできたのかと、感慨深いため息をつく。
そこでふと疑問が浮かんだ。
最後に見学するのは居住スペースの筈だ。その居住スペースが、駅や幹線道路から離れた敷地奥に位置していては不便ではないのだろうか。確かに保育園を利用する外部の者の出入りがあるので、入ってすぐ居住スペースという訳にもいかないのはわかるが… 。
「こちらになります」
成瀬が立ち止まってドアの横についた小さな装置に触れると、ドアノブのランプが赤色から緑色に変わる。ドアには『関係者以外立ち入り禁止』と書かれている。
居住スペースへの出入り口にしては物々しい雰囲気だ。きっと入居者用の玄関は他にあるのだろう。
「晃一様もすぐこちらに向かわれるとの事です」
成瀬のにこにことした微笑みに不気味さを感じたが、晃一の名前が出てホッと安堵する。別の担当者が遅れて連れてくるなら初めからそう言ってくれればいいのに。
やさぐれた気持ちをヒールの踵に込め、リノリウムの床を鳴らしてから相澤はドアを通り抜けた。