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先生

「おじさんだあれ?」

「おじさんじゃないよ。お兄さんだよ」

「えーー、無理だよー」


 膝丈くらいしかない女の子が、円らな瞳に困惑の色を浮かべている。隣で相澤が腹を抱えて笑っており(殴りたい)、成瀬は資料を取りに行くといって席を外している。

 見学コースはこの保育園内と居住スペースを残すのみ。保育園は昼寝の時間なので落ち着いて見学できると説明を受けていたのだが、トイレに起きた子だろうか、寝ぼけ眼を擦りながらぽてぽてと歩いてきた少女と鉢合わせして、今に至る。


 小さい子の相手などした事がないため何をどう言い返せばいいか分からず、「ひどいなー」と残念がるフリをしていると、ひどく慌てた様子の保育士がやってきて、平謝りした後すぐさま女の子を抱きかかえて去っていった。


「あんな小さい子にムキになって返します?普通」


 相澤がにやつきながら見上げてくる。


「別にムキになってない。あと敬語」

「あ、すみま…… ごめん。でもあの子、無理とかウケる…… ぶへっ、あはははは」


 なんとはしたない笑い方だろうか。幼女に悪意がないのはわかるが、こいつは悪意の塊だ。入社したての頃から小憎たらしいきらいはあったが、初めは素直で真面目な奴だったのに。顔と社交性がいいからといって周りがちやほやするからこうなる。教育係の俺が厳しく指導しても、次第に生意気さが顔を覗かせ、今となっては何を言っても暖簾に腕押しだ。


 まだ間違えて敬語が出てきているだけマシか、とひとしきり笑い終えて涙を拭いている後輩を睨みながら本日3回目の溜息をついた。


 成瀬が戻ってもまだ思い出し笑いを続ける相澤を、渡されたパンフレットで叩きながら見学を続けていると、廊下で先程の女の子が保育士に抱っこされた状態で寝かしつけられているのが見えた。保育士が優しく背中を撫で、リズムよく身体を揺らすものの、女の子は一向に眠りにつく気配がない。


「怖いおじさんに出会って眠れなくなったんじゃない?」


 その様子を見た相澤が揶揄ってくる。


「アレが怖がってるように見えたのか」

「ううん、全然。アレはナメてた」

「ナメてるのはお前だろう」

「バレたか」


 パンフレットをくるくると丸めてもう一度相澤の頭に向けてスイングする。なかなかどうして小気味良い音が鳴り、それを聞きつけた女の子がくるりとこちらを向いた。


「さっきのおじちゃーん!」


 宥め賺す保育士を尻目に女の子はブンブンと手を振ってくる。


「呼び方、ちょっと可愛くなったね」

「さんもちゃんも同じだ」

「あの子なりの気遣いだよ。きっと」


 そんな気の遣われ方は御免被る。保育士が寝かしつけようとしている手前、呼ばれたからといって女の子に絡みに行くのも忍びない。知らぬふりを決め込み、先を行く成瀬に追いつこうと目を背けた時、「あぁ、先生こちらです」という声が耳に入った。

 相澤に目配せをして先に行かせる。成瀬にはトイレに行っただとか適当に合わせてくれる筈だ。


 手近な廊下の柱の陰に背を預け、携帯端末を操作するふりをして聞き耳をたてる。

 声のトーンが暗いせいか、柱の向こうの会話はなかなか聞き取れない。ポケットから集音イヤホンを取り出してスイッチを入れる。耳につけた瞬間風の音やら衣擦れの音が大音量でで鼓膜を叩いたが、ノイズキャンセラーが作動してそれら環境音は一瞬で止んだ。先程はぼそぼそと聞き取りにくかった話し声が明瞭に届く。


「先生、今月は5人です。そのうち2名の家族はまだ… 」

「お客様がいらしているから、その話は後でしなさい」

「すみません」

「いいんだよ。君も辛いだろうからね」

「いえ、自分は… 」


 一体なんの話だろう。自分や相澤が目の前にいるわけでもないのに、部外者が敷地内にいるというだけで話を避けるとは、余程外に漏らしたくない情報とみえる。


 携帯端末のカメラを起動し、フロントカメラに切り替えて柱の背中越しを映すと、保育士の隣にスーツと白衣を重ね着した初老の男が見えた。恐らくこいつが先程先生と呼ばれていた人物だ。脳内で、事前に調べた″トンデモ医学を振り撒く医者リスト″の顔と照合するが立ち位置が悪くて横顔しか見えず、見覚えがあるようなないような、釈然としない印象しか持てなかった。


「ところで、その子は?」


 初老の男が保育士の抱く女の子を指差す。


「この子は、昼寝の時間に眠れないと起きてしまいまして」

「ふむ、最近ホロスクリーンが流行りだからな。VDTの興奮状態じゃないのか?」

「それが、その… 」

「なんだはっきりしなさい」

「確証はありません。根拠も乏しいので、先生にお話しするのは恐縮なのですが」

「気にしなくていい」

「以前、発症前に躁状態になる症例があるという論文を読みました。もしかして、それではないかと」

「過去半年同じような症例は?」

「昼間に寝付けなくなる、という点においては何件か」

「成る程。しかし、手筈は変わらない。いつも通り頼むよ」

「はい、先生」


 初老の男は保育士の肩に手を置き、ゆっくり頷いた後、廊下の奥に歩き去った。廊下に一瞬静寂が訪れたので、集音イヤホンを耳から外す。どうも腑に落ちない遣り取りだった。先程の2人は意図的に言葉を伏せていたため、会話は半分も理解できなかったが、きな臭いなんてものじゃない。

 胸ポケットに挿していたボールペン型のレコーダーをイヤホンと同期させ、録音を再生する。やはり2人とも途中から主語がなく、なんの話をしているのかわからない。


 ″発症″ とは一体なんの事だ。途中で出てきたVDT症候群は確かビジュアル・ディスプレイ・ターミナルシンドロームの略名で、ディスプレイの光などが原因となり眼精疲労からなる肩こりや頭痛、或いは交感神経系の不調による不眠症などを引き起こす病態だった筈だ。液晶の有害光カット処理が標準化されてからめっきり聞かなくなった病気だが(昔は人が有害光をカットする眼鏡を掛けていたらしい)、最近はホログラムの普及により再び話題となっており、丁度今朝もニュースで取り上げられてた。しかし、これが躁状態にまで陥るとは聞いたことがない。


 躁は、鬱の真逆といえば簡単だ。とにかくハイになる病態。あるだけ金を使って果てしなく羽振りがよくなったり、中には借金してまで物を買ったり、人に奢ったりする者もいる。あの少女がとてもそんな状態だったとは思えないが、これ以上の深追いは危険だ。のこのこと追いかけて見つかりでもしたら、トイレを探していたという言い訳では効かなくなる。



 相澤達が歩き去った廊下まで戻って後ろを振り返ると、そこにはもう女の子の姿はなかった。

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