到着
到着した目的地は、保育施設というには余りに豪華な造りをしていた。敷地は塀で囲まれ、出入り口には門があり警備員が見張りをしている。塀の向こうには巨大な建物の外壁が見えており、敷地内の全体像は自分の目線程度の高さでは伺えない。空撮ドローンが欲しいところだ。門の横に「私立認可保育所」と銘打ってなければ、誰もここが保育施設とは思わないだろう。呆気にとられて外観を眺めていると、こちらの様子を不審に思ったのか敷地の中から警備員が近づいてきた。我に返って施設見学のアポイントを取っていることを伝えると、警備員はそのまま敷地の中まで案内してくれた。
背丈の2倍はある厳かな門をくぐると、そこには高級ホテルさながらの景色が広がっていた。整備された天然芝の広場の中央には噴水があり、その周りに子供用の遊具がずらりと設置してある。デザインと色合いがあまりに品のあるものだから、初めは子供用の遊具と気付かなかった程だ。この雰囲気の中で子供達は果たして年相応な無邪気さを持てるものなのだろうか。すぐ近くの遊具の一つに触れてみる。手に触れた質感で、それがその辺の公園のものとは別格だとすぐわかった。要するに、大層金がかかっている。
「うひゃー、凄くリッチな感じですね」
「お前の肌には合わないんじゃないか?」
「失礼ですね。合いまくりです。リッチは女の子の憧れなんですよ?」
「子供用の遊具だがな」
そう言いながら、目をキラキラさせて辺りを見回す相澤の頭を軽く叩く。この施設の客層とあまりかけ離れた反応をするな、と。
「でも、今の時代ホログラフィックじゃない実物にお金かけるって珍しいですね」
叩かれたせいで乱れた髪を直しながら、相澤が呟く。
「見て楽しむだけならそれでいいだろうが、子供は実際手に触れるからな、粗雑には作れんだろう」
「確かにそうか。それにホロってちょっと夢がないですもんね」
「夢?」
「そうです。すごーーーくリッチな見た目したホログラフィックと、ちょっぴりリッチな実物なら、私は実物の方が幸せになれます」
「どのみちリッチじゃなきゃ嫌なのか。金に目が眩んでフラフラと男を股にかけていきそうだな、お前」
「かけません。私は一途ですよ。あとセクハラです。それと… 、そういえば先輩」
「なんだ?」
相澤が急に声のトーンを落としたので、前を行く警備員から少し距離をとって顔を相澤に寄せる。
「呼び方と言葉遣い、どうします?」
「そうだな、話すのはタメ口でいい。呼び方は好きにしろ」
「じゃあ名前呼びでもいいですか?」
「さん付けならな」
「えーー。古臭いですよ。今時、下の名前にさん付けなんて」
「ならそれも好きにしろ」
「はぁーい。じゃあ、こーちゃん」
相澤がそう口にして、たっぷり3呼吸分の沈黙が流れた。… まさか今呼ばれたのは自分か? 事態を飲み込めず、しばらく呆けて相澤を見つめ返していると、耳まで赤くした相澤が「好きにしろって言っといてその反応はなくないですか!?」と殴りかかってきた。
「悪かった。今度からちゃんと反応するから。そんな風に呼ばれた事なかったんだよ。いて。悪かったから」
「慣れてもらうために、内緒話でもタメ口呼び捨てで行きますからね、こーちゃん!」
「わかったわかった。それでいいから」
相澤の羞恥と怒りはなかなか収まらず、一向についてこない自分達に痺れを切らした警備員が、そろそろいいですかーと声をかけてくるまで続いた。
「もーー!警備員さんに見られちゃったじゃないですか!」
「ありのままの自分だろ。気にするな」
「私にも恥と外聞くらいありますから!」
「そう育ててくれた親に感謝しろよ」
「先輩の人でなし!」
「ほらほら、これ以上待たせてどうする。行くぞ」
腕を引くと、相澤はそっぽを向きながらも不承不承という様子でついてきた。これは機嫌が直るのに暫くかかるかもしれないな。あぁ面倒くさい。心の中で悪態をつきながら、警備員の生温かい視線をやり過ごして建物の中へと入った。
✴︎
「ようこそおいで下さいました。本日ご案内します成瀬です。まずはどうぞこちらへ」
自分達を迎えたのは上品な紺地のスーツに身を包んだ、それはもう大層美人な女性だった。隣にいる相澤も相当目鼻立ちの整った顔をしているが、成瀬と名乗ったスタッフはそれを凌ぐ造形をしていた。しばし惚けて芸術品を嗜む様に成瀬の顔を眺めていると、横腹にズキッと痛みが走った。見ると、相澤が自分の脇を服の上から抓り、鋭く睨みあげてきている。
「なんだ?」
「わかってるくせに」
「ヤキモチか?」
すると相澤が自分の耳に手を伸ばし、そのままぐいっと引っ張ってきた。いだだだ、と為すすべもなく相澤の方へと身を寄せる。相澤は成瀬が前を歩き始めたのを確認してから、最小限のトーンで自分の耳に囁きかけた。
「ここで、私達は、夫婦!他の女を見て鼻の下を伸ばさない!」
「… すまん」
そんなつもりはなかったんだがなぁと、ありきたりな言い訳を言えば火に油だ。短く謝ると相澤も自分の耳から指を離した。下心は一切なかったのだが、女というのは連れが他の女を眺めていると心地が悪いものなのだ。以前、女性誌のコラムで目にしたことがある。或いは、自分達の関係性が嘘偽りだと見抜かれることを危惧した相澤の、有難い忠告という可能性もある。そうであれば頼もしい限りだが。
さて、成瀬に案内され長い廊下を進んでいると、途中でいくつかのオフィスルームを通り過ぎた。ドアのガラス部分から中を覗き見ると、20人強の男女が、大学の講義よろしく壇上の講師らしき人物の話をノートに書き留めていた。いや、大学の講義よりも余程熱量がある。皆食いつく様な姿勢だ。
「成瀬さん、あれは?」
こちらの問いかけに、成瀬が足を止めて振り向く。
「あぁ、あれは休日に開催している勉強会です。利用者様はもちろん無料で参加できます。外部から参加される方もいらっしゃいますよ?」
「熱心ですね」
「それはもう皆様お子様のためとなれば。相澤様ご夫妻もそうでしょう?」
「そうですね。とても興味があります」
詳細は問わなかったが、勉強会なるものの内容には凡そ見当がつく。嫌悪感が顔に出ないよう、″熱心に取り組む姿″に関心を持つフリをした。成瀬を見遣ると満足そうに微笑んでおり、その表情は子供の好奇心を見守る母親の如く、楚々として慈愛に満ちていた。そこに人を誑かす嘘偽りはなく、信じてこの茶番を推し薦めているのだと、そう感じて背筋が寒くなる思いがした。品行方正、理路整然とした見目麗しいこの女も、自分が泥沼に漬かっているとも知らず、世のため人のためを想って道行く人の足を掴み、同じ沼に引きずりこむのだ。
人々に思想を芽吹かせ傀儡を造り上げるやり方は、いつの時代であっても諧謔に過ぎる。かつての宗教戦争の歴史を学んだ時に覚えた腹立たしさを思い出し、奥歯をグッと噛んだ。まぁここに足を運ぶ人間は結局ハナから同じ穴の狢だ。そう気取ってみる事で気持ちに整理をつける。ここに堕ちた者たちを案じて自分の心を傷める必要はない。
不必要な感情を振り切って、成瀬の後に続き歩を進めようとすると、不意に重心が後ろに引かれた。
「ねぇ待ってこーちゃん」
「どうした、… 沙希?」
声を落とした相澤の呼びかけに応える。一瞬、下の名前はなんだったかと迷った事は内緒だ。
「今、あの人、相澤様ご夫妻って… 」
「俺の本名だとどっかで素性バレるかもしれないからな」
「だからってなんで私の苗字!?」
「適当な偽名だと咄嗟に反応できないだろ。大丈夫、俺は婿養子だ。今の時代珍しくもない。よろしく頼む。な、沙希」
「馴染ませる様に名前を呼ばない」
先程の微妙な間に気付いていたらしい。相澤がすっとヒールを脱いでこちらの足を踏んできた。靴のまま踏まない気遣いは有難いが、上司の足を踏むとはいい度胸をしている。しかし、せっかく夫婦の役に″入って″いるのだ。ここで説教するような無粋を計れば、今後自然な演技が務まらなくなる。不服ではあるが、この仕事が終わったらこってり絞り倒してやると心に誓って、今のは鬼嫁のスキンシップだとでも思う事にする。
「実際馴染まん。なんでそんなに呼びにくい名前なんだお前」
「呼びにくくないし。2文字でめっちゃスムーズでしょ?」
「いや、そういう呼びにくさじゃなくてだな」
「じゃあ何?」
「響きが綺麗すぎるというか。わかるだろ?」
「わかんない」
ああもうこれだから充実した人生を過ごしてきた女は嫌いなんだ。きっと学生時代、特別な関係でもない異性と何気なく名前で呼びあっていたに違いない。名前を呼び捨てにされることになんの戸惑いもない態度がまさにそれを証明している。しかし、異性の名前を呼び捨てるのは躊躇われる、などと懺悔してはこちらの社交性のなさを披露する様なものだ。教育係を務めた上司として、その後輩に鼻で笑われる事態は避けたい。
「まぁいい。職場が同じなんだから、プライベートで苗字先輩で呼び合ってても誤魔化しが効く。たまに間違えても自然体で行こう」
「調子のいい奴」
「臨機応変と言え」
「はぁ。早く成瀬さん追いかけよ。とっても美人の成瀬さんを」
「そうだな。両手に華で今日は幸せだな」
「そんなフォローはいらない!」
再び相澤に足を踏まれながら、長い廊下の先を往く成瀬を追いかけた。