068.世界に矛盾する者はさらなる闇を隠すか
無色透明と化した魔導具『ポーン』の宝玉。そこには禍々しいという形容が似合うほどの漆黒な闇が浮かんでいた。
空間自体がぐにゃぐにゃと捻れるような不快感が、船酔いに似た吐き気を伴って襲ってくる。『時忘れの塔』での記憶が鮮明に蘇る。あの時と同じ奇妙な感覚。
あれは間違いなく、“世界の歪み”だった。
「……………………“世界の歪み”があるってこたぁ、ソレは宝神具。要するにそのガキぁ鬼ってことか?」
「否定はできないが、私は別物だと考えている」
「は?」
グリムの滾らせるギラギラとした殺意は、おれを射殺すような威圧感に溢れていた。今にも攻撃を仕掛けそうな勢いだ。
それを制するようにミュフィルは冷めた態度のまま言葉を続ける。
「確かに宝神具には“世界の歪み”が内在している。それは彼の杖ポーンとも共通する点だ。しかし、不可解なことに相違点もまたある」
ミュフィルは再び何らかの魔法を唱え、ポーンの宝玉を琥珀色へと戻した。彼女が言っていた隠蔽の魔術式とやらを有効にしたのだろう。不愉快な気分も少し落ち着く。
彼女はグリムだけでなく、出席者全体に向けて話を続ける。
「それは、ポーンには宝魔がいないという事。宝神具であれば宝石の自我が実体化した宝魔がいるはずですが、あらゆる調査をしてもこの杖からはそれらしき存在が出てきませんでした」
あらゆる調査? もしかして彼女は、ポーンを壊そうとでもしたのか?
宝魔は宝石の自我の実体——宝石を破壊されかければ、当然それを防ぐために実体を現すだろう。存在を確認するのであればその方法が手っ取り早い。
ちらりと隣に立つ騎士を見上げポーンを確認するが、宝玉に傷らしい傷は見当たらなかった。
宝石を壊そうとして宝魔の存在を確認する手法を用いなかったとは思えない。なら、攻撃を加えても傷一つつかなかった、ということか?
並の使い手がダメであれば、賢者のミュフィル自身が攻撃していることだろう。それでもなお、傷一つつかない? そんなことがあるのか?
おれはこの時初めて、自身の持つ杖を不気味に思った。
「英雄レイヴンの報告によれば、彼はポーンを自在に操り、十分に戦闘をこなしておりました。障壁魔法のみの使用にとどまっていたようですが、その力は『星の杖』と同等の魔力だったと聞いています。そして、杖を手放している今でさえ、彼の魔力、魔効抵抗力は賢者に匹敵しています」
「……なるほど。僕の目は確かだったって事ですか。これまで触れられていなかったので、もしや錯覚ではとも思っていたのですが」
ハロルドは絡まった思考を吐き出すかのように、溜息をひとつ吐いた。
「鬼であれば宝魔と同化していなければ賢者レベルの力は得られない。にもかかわらず、通常時のひだり君は僕らと同等の力を有している。ゆえに鬼とは考えにくい……そういう事ですね?」
「な、なら、ひだり君は…………? ひだり君は何者なんですか……? ポーンはいったい何なんですか?」
ロロットの瞳は、まるで救いを求めているようであった。
ミュフィルが首を横に振って答える。「分からない」と。
「彼は我々と同じくらい強大な力を持つが、賢者とも呼べなければ鬼とも呼べません。同じく、彼の杖ポーンも『星の杖』と呼ぶにはあまりにも異なりますが、宝神具であるとも断言できない。異端であるとしか言えません。彼らは世界に矛盾している。そしてそれは、九人目の賢者にも言える事」
「つまり彼ら二人は、世界の規律から根本的に反している。……………………あれ?」
何かに気づいた様子のアリスを見てミュフィルは口元を歪めた。
「なら、彼らが生み出しているはずの“世界の歪み”はどこに? これほどまでに異端でありながら、“世界の歪み”が発生していないとは思えません。もしかして、宝玉の時と同じように彼ら二人にも隠蔽の魔術式が働いている……?」
「可能性としては考えられますが、現実的ではないでしょう。この世界で最強の魔法使いは我々賢者です。もし彼らにも隠蔽の魔術式が施されているのであれば、ポーン同様に無効化できているはずです。そうでないのなら、我々賢者の中に魔術式を組み込んだ者がいるということになりますが……」
「それは…………考えられませんね。賢者は人類の守り手ですから」
「では彼らの生み出している歪みはどこに発生しているのか。この問題に対し、私はある一つの仮説を提示致します」
彼女の言う仮説——おれとノエルが騎士団に拘束されたあの日に彼女が口にした残酷な想定が脳を過る。
喉の渇きを覚えてゴクリと唾を飲み込んだ。今のおれには、彼女の意見を否定することも肯定することもできない。おれには自分自身がよく分からない。
「ミュフィルさん、あなたの言うその仮説とは?」
ハロルドの問い掛けを追いかけるように、緊張を帯びた幾多の視線が涼しげな顔で佇むミュフィルへと集中した。
「“魔獣化”、“鬼の暴走”、“多発する世界の歪み”————そして世界の根本に反する、“『星の杖』まがいとその使い手”、および、“あり得ないはずの九人目の賢者”。起こるにしてはあまりにもタイミングが良すぎる事象たち。だからこの事象たちの裏にはある一つの共通項が存在すると考えている者も多い。私もその一人です。そして多くの者が存在を信じる共通項とは、もっとも大きく、もっとも深く、それゆえもっとも歪な“世界の歪み”のこと。一般に、“大いなる歪み”と呼ばれているもの」
「…………我も“大いなる歪み”の存在を疑っていた者の一人じゃが、其の話と彼ら二人の生み出している歪みについての話はどこがどう繋がるのかのう。我としては、あまり論点をずらさないで欲しいのじゃが?」
海遥の目が怪訝そうに細められた。
「まあ最後まで聞いていただきたい。共通項の存在を信じる者はまず間違いなく、それによって世界の異変全てが引き起こされていると考えているでしょう。しかし彼ら二人の出現に限っては、私は“大いなる歪み”が原因だとは思っていません。むしろ、その逆なのではないか、と」
「逆、じゃと……?」
「私は、彼らこそが、世界各地に異変を招いている元凶、“大いなる歪み”を生み出していると考えています」
驚きに目を見開く者。眉一つ動かさない者。衝撃に顔を歪める者。
ザワザワと大講堂内がどよめく中、ロロットは————彼女の近くに座るジュジュ、成平、モルフォは————『日曜の賢者』が発した言葉の意味を受け止め切れていない様子だった。
「それはどうにも、おかしな話じゃないかしらん?」
最初に口を開いたのはダンカークだった。この男はミュフィルの言葉を聞いても何一つ表情を変えていない。
「確かにあの子たち二人は、通常の“世界の歪み”によって発生する事象に比べてかなり特殊だわ。通常の事象は世界の枠組みから指先がちょっとはみ出る程度のものだけれど、あの子たちの存在は身体ごとひょいっと枠を飛び越えたようなもの。でもだからこそ、あの子たちの出現は“大いなる歪み”によって引き起こされたものなのではなくて? だって“大いなる歪み”って、世界の基礎すらぶち壊す力があるって考えられているじゃなぁい?」
「であれば、“大いなる歪み”が彼ら二人を出現させたと考えた方が理に叶うと?」
「少なくとも、アタシにはそっちの方がよほど現実的だと思えるわ」
口調や声音とは裏腹に、ダンカークの表情は険しく、彼の姿勢は真剣だった。
「……彼らを拘束した一週間前の私だったら、あなたの意見にも同意し、その可能性も捨て切れないと言ったでしょう。しかし、今は違います。自身の主張を強固にする根拠が、今の私にはある」
「その根拠ってのはなぁに?」
「“『星の杖』まがいの使い手”たるひだりが、来訪者だということです」
「なっ…………⁈」
彼女の思わぬ発言に、口の端から声が漏れた。
————どうしてそれを?
彼女に捕まってから今日までの一週間、おれは彼女や騎士団に対して自身が“来訪者”であることは一言も言っていなかった。もちろん、それと勘付かれそうな単語も口にしていない。
この世界では来訪者はあまりよく思われていない。成平曰く、過去に何かがあったことが原因らしいが詳しいことはおれも知らない。ただ、世間一般でよく思われていないのであれば、わざわざ来訪者であることを正直に話して自分の立場を悪くしようとは思わない。
だから話さなかった。ただの記憶喪失者だという体を貫いた。
それなのにどうして…………。
隠し事がバレていたことを疑問に思う気持ちが顔に出ていたのだろう。おれと目が合ったミュフィルは余裕を感じさせる微笑を湛え、色素の薄い唇を開いた。
つづく




