060.宝神具
大きく、長く、鋭い鉤爪の斬撃が、幾重にもなって襲い掛かる。器用な身のこなしでかわすアンドリューが早撃ちで反撃するも、必ず片方の爪で弾かれ、攻撃は成功しない。
“世界の歪み”を解消する魔導具にしてこの戦いにおける切り札、『理の調べ』の一撃を入れるタイミングも依然訪れていない。アンドリューの攻撃に合わせてレイヴンが何度かオルビスの背後に近づくも、彼の持つ宝神具『絶爪』の一振りでいずれの場合も失敗していた。
仕掛けるチャンスをレイヴンが待ち続け、おれやロロットがサポートし続けることすでに五分。数的有利を取ってはいるものの、戦況がこちらに傾く気配は未だない。
————宝神具『絶爪』。
森の奥から戻ってきたオルビスが憤怒に顔を歪め、愉悦を帯びた声で語ったところによれば、その爪は“何でも切れる”のだそうだ。
理解しがたい様子で叫んだ彼の声が脳内をリフレインする。
『オレ様の宝神具『絶爪』はすべてを切り裂くッ! さっきはそこのクソなクソガキにクソみたいな魔法で止められたが! オレ様の本気はこんなもんじゃねぇッ!! オレ様の宝神具はすべてを切り裂くんだよッ! テメェらの武器も、魔力も、魔効抵抗力も! 胴体も首も命もッ! すべてをなぁああぁ!!』
服の中から大蜘蛛を掴み出したオルビスがどす黒い光に包まれたのは、彼が喚き散らしたすぐ後のことだった。
光が消え、オルビスが再び姿を現すと、彼が同化したのだということがはっきりと分かった。禍々しい黒い腕が背中から生えていたからだ。鋭い爪を持つその第三の腕は、どう考えても人間のものではない。彼は紛れもなく怪物になっていた。
今思えば、背中に人間の口のついたあの気持ち悪い大蜘蛛が、『絶爪』の宝魔だったのだろう。「同化する前に倒した方が良い」と博文から忠告を受けていたけれど、まさかこんなに早く同化されるとは。
「さっっっすがは同化だあぁぁあ! こんこんと湧き出る泉のように、力が溢れてくるぅうぅぅうう‼︎‼︎」
吠えるオルビスがレイヴンを切り裂こうと左爪を振り下ろす。宝魔との同化により身体能力まで向上しているのか、彼の一跳びは馬鹿みたいに大きい。
魔剣ユリアをしまい、『理の調べ』発動の機を伺っていたレイヴンではオルビスの攻撃を避けられそうもなく、かといって防げそうもなかった。
オルビスの魔効抵抗力が一際大きくなり、それに伴って左爪に魔力が集まっていく。魔効抵抗力は感情の影響を受けやすい。彼が今高揚しているのは明らかだ。
高揚——。彼は確信しているのだ。このままいけば、今まさに振り下ろしている鉤爪がレイヴンを仕留める一撃になることを——。
だからおれは急いで五重の障壁を展開した。前線で戦うレイヴンを守る、それがおれの仕事だからだ。障壁一枚一枚の強度には手を抜いていない。おれが絶対にレイヴンを傷付けさせない。
普通の攻撃ならば、この五枚で容易に食い止めることが可能だっただろう。しかし、今のこの狂人にそんな普通は通用しなかった。多重結界はまるで紙切れのように切り裂かれ、光の粒となって空気中に消えた。
跳躍の速度を乗せたオルビスの攻撃からレイヴンを守ることはできたが、このままではもう片方の爪による第二波は防げない。
「ッ?!」
と、その時、空中に突如現れた銃弾が、オルビスの肩の肉を少し抉り取った。突然のことで防御を取ることのできなかった彼が顔をしかめる。
おれ自身、何がどうしたのか把握し切れていないが、アンドリューの策が成功したことだけは理解できた。今の面子で遠距離攻撃しているのは彼しかいない。さっきとは反対にオルビスの魔効抵抗力が縮こまっているのが、奇襲成功を物語っている。
「今だッ!!」
驚きのあまり動きが止まったオルビスに対し、アンドリューの側にいたロロットが墨色の魔法球を放つ。
オルビスは同化してからこの五分間、全く動きを止めずに暴れ回っていた。その鬼が今、ほんの少しの間とはいえ動きを止め、なおかつ不意打ちを受けた動揺から魔効抵抗力を弱めている。そのチャンスをロロットは見逃さなかった。
魔法球に気付いたオルビスは避けきれないと判断。両腕を顔の前で交差させ、ガードの姿勢を取る。
「ぬぅうぅッ!」
ロロットの魔法はオルビスに直撃し、シャボン玉が割れるように弾けた。
あの魔法は、随分前にロロットが鳥型の魔獣に使った“感覚を支配する魔法”だ。上手くいけば、オルビスの行動を制限することができるはずだ。
「……」
辺りが緊張に包まれる。おれは唾を飲み込み、今度こそ上手くいってくれと祈った。
実はこの鬼が同化して登場した直後、既に一度ロロットがこの魔法を使用していた。同化した鬼がヤバいというのは博文も言っていたから、先手必勝で沈めてやろう、という魂胆だった。
が、それは失敗に終わった。原因は単純明快だった。焦りから生じたケアレスミスだ。
同化した鬼は賢者と同等の魔効抵抗力を持つ。それは、並大抵の魔法が効果を発揮しなくなることを意味する。見習いで、まだ賢者としての魔力を最大限に活かすことのできないロロットでは、だから、同化したオルビスに魔法を掛けることができなかったのだ。
しかし今回は、アンドリューが不意打ちを仕掛け、オルビスの魔効抵抗力は一時的に弱まっていた。ロロットが今扱える魔力の方が相対的に大きくなっていた可能性は十分にある。
「…………」
おれはただ、心の中で彼女の魔法が成功することを祈ってオルビスを見ていた。彼は俯き、その場から微動だにしていない。
無事に感覚を支配することができていれば、魔獣の時のようにパニックに陥っていそうなものなのだが。あるいは感覚が支配できているからこそ、彼は今動けないでいるのかもしれない。いずれにせよ、まだ何とも言えない状況だ。
「……………………ヘヘッ」
俯いたまま微かに笑い声を漏らしたオルビスが、唐突に鬼の形相でロロットへと跳んでいった。三本の腕の爪を振り上げて驚くほどの速さで近づいていく。彼女を切り裂き、肉片を飛び散らせ、宝神具『絶爪』の爪を鮮血で染め上げようとしているらしい。
気付いたおれが大杖をオルビスに向けて多重結界を展開しようとするも、彼はすでにロロットの目の前に到達していた。邪悪に黒光りする三つの鉤爪が一点へと収束していく。
目を見開くロロット。汚らしく笑うオルビス。彼女の名を叫ぶおれ。
————ダメだ——間に合わない————ッ!!
最悪が脳裏を過ぎった時、オルビスに負けぬスピードでロロットへと近づいた一つの影があった。黒い服を纏い、銀色の髪をなびかせるその人物は突進するようにロロットに抱きつき、寸でのところでオルビスの斬撃から彼女を救った。
「ジュ……ジュジュ……ッ!」
「わ、わたしは、み、みんなみたいに、戦え、ないけど。でも……」
転んだ時に付いた砂を払い落とし、銀色の狐耳と尻尾を持つ少女が深く息をついた。
「でもッ! ロロットが殺されるそうになってるのを黙って見てるなんてできない! 怖いけど、でも————ロロットが死んじゃうのはもっと怖いから……だから! 助けに来たよっ!」
かつて、ロロットのことを守れなかったと泣き崩れた少女の姿は、もうそこにはなかった。親友が苦しめられるのを止められなかったあの後悔が、彼女の背中を押しているのだろう。
「多重結界!」
ポーンの杖先を二人の少女へと向け、おれは結界魔法を発動した。彼女たちを中心に光の膜で形成された五重の立方体が顕現する。
あれには自身の魔効抵抗力の限界ギリギリまで魔力を込めている。今のおれにできる最大強度だ。
「それがあるうちに全速力でこっちに来いッ! ロロット! ジュジュ!」
「走るよロロット! わたしの手を離さないで!」
「う、うんっ!」
「クソガキがまた増えやがって……ぁぁぁああぁぁぁぁアアアアアアアッッ!!!!」
力強く地面を蹴って駆け出したジュジュたちを、眉を吊り上げ顔を真っ赤にしたオルビスが追いかける。ロロットと速度を合わせている分、オルビスがぐんぐんと距離を縮めてきていた。
だが、彼女たちをあいつの手に掛けさせるつもりはない。
「頼む、アンドリュー!」
おれが叫ぶのとほぼ同時に銃声が数発、連続して響き渡った。
「言われなくとも、そのつもりでいたさ」
アンドリューの撃った弾は、おれの目では着弾した瞬間しか認識できないほどの超高速であった。同化したオルビスさえその速さには対処しきれなかったようであり、彼の肩、脇からは血が流れ出ている。
オルビスの走る速度が落ち、ロロットたちとの距離が開き始めた。
「二人とも、大丈夫? 怪我はしてない?」
おれのところまで辿り着いたロロットたちをレイヴンが心配した。彼もまた、少女たちの身を案じて駆け寄ってきたのだ。
「はぁ……はぁ……足を、ちょっと擦りむいた程度だから、大丈夫、です」
緊張がほぐれたのか、ロロットはヘヘッと笑ってみせた。
今、激高したオルビスの相手はアンドリューがしてくれていた。そう離れていない場所で、激しい攻防の音が鳴っては消えていく。
「お疲れさま、ジュジュ。お前、あのオルビスよりも速く動けるんだな」
「まあ、ね! わたしもケモミミ族の一人だから!」
「まだ女の子とはいえ、さすがはケモミミ族。俺じゃああいつの速さについていくのが精一杯なうえ、背中の爪に邪魔されてばかりだ。これではいつ、『理の調べ』であいつの“歪み”を抑え込めるのやら」
レイヴンは肩をがっくりと落とした。
この戦いの鍵はレイヴンだ。彼がオルビスの力の根源、内に秘める“世界の歪み”を抑え込んでくれなければ、おそらくこちらの戦力であいつを仕留めることはできない。
思うに、魔剣を振るえない今のレイヴンが一撃を入れるのは、現状のままではかなり難しいだろう。
————だが、
「速度でオルビスを上回るジュジュが戦場を掻き乱してくれれば」
「え?」と、ジュジュが目を丸くする。
「いくら三本腕をぶん回しているあいつでも、隙ができると思う」
「…………でも、ジュジュちゃんは魔導具を持ってないし、戦い慣れてもいないんだろ?」
レイヴンは顔をしかめている。
「いくら運動神経がいいからといって、非力な女の子を戦場に出すのには賛成できないな」
「その点は安心してくれ。言い出しっぺのおれに考えがある」
琥珀色の大杖を操る障壁魔法の使い手として、とびっきりのアイデアがな。
つづく