005.少女たちの想い出
「私ね、お父様の計らいで下町で育てられたんだ」
こちらを見ていたロロットが再び視線を人だかりのある掲示板の方へと戻した。その瞳にはきっと、大きな掲示板や消えることのない人の群れが映っているはずだが、彼女が見ているのはもっと遠くの景色のようだった。たとえば、幼いときの記憶の風景とか。
「『庶民の気持ちが分かる貴族になって欲しい』っていう想いがあったんだって。小さいときに訊いたら、お母様がそう言ってた」
想い出の中に向けられていた彼女の目が、今度は下を向いた。表情が、さらさらとした金髪によって隠される。
「だから普通の子が通う学校に通ってて」
「大公の娘じゃあ周りの目とか大変そうだけどな。よく庶民の学校に入れたもんだよ、大公さんは」
それだけ、『庶民の気持ち』の分かる貴族になって欲しかったんだろう。次代のシェルバ公国を担う者として、民を大切にする人間に育って欲しかったんだな、きっと。そして大公様のその想いは、ヘンにねじ曲がることなく、しっかりと彼女に届いているようにおれには思えた。
「うん、じろじろ見られてたなぁ~。でもジュジュはね、どんな時でも私に普通の子と同じように接してくれてたんだよ。他の子は距離を取っているなか。これって凄くない?」
「それは確かに凄いな。あいつ、どことなくアホの子っぽさが出てるけど、意外とカッコいいとこもあるんだな」
「うん。本当に大切な友達だよ。仲良くなった日のことは今でもハッキリ覚えてる。一番最初に声をかけてくれたから」
周りのことなんて全然見てないように感じられるけど、実はちゃんと見ている。そんな人って誰の周りにも一人くらいはいるものだと思う。きっとジュジュもそういう人間なんだろう。そういえば、飲み物を買ってくるなんて言い出したのは彼女だった。さりげない気遣いのできる優しい女の子。それが、ジュジュなのだろう。
こんな風におれの中でジュジュの株が上がっていたところ、水を差すようなロロットの言葉が耳に届いてきた。
「まあでも、私が大公の娘だって気付いてなかったみたいだけどね。気付いたのは知り合ってから一年後だったって、本人が言ってたし」
そう言ってまたクスクスと笑い出した。
「いやそれ、ただのアホの子じゃん。おれの褒め言葉、台無しじゃん」
おれの脳内で急上昇していたジュジュの株価指数は大暴落である。願わくば、いいエピソードのままで終わって欲しかった。いやしかし、これはこれでムードメーカーのジュジュらしいといえば、らしい。
ロロットとジュジュの昔話を聞いていると、遠くの方から駆け寄ってくる人影が目に入ってきた。行く時同様、身体が動くのに合わせて肩まである髪も右に左にと揺れている。もちろん、白銀の尻尾もふさふさゆらゆらとしている。三つの飲み物を両手で器用に支えながらこちらに走ってきているのは、紛れもなくジュジュであった。噂をすればなんとやら、というやつか。
「おまたせ~! なになに? 何の話してたの?」
おれたちの座っているベンチに戻ってくると、ジュジュはホットなミルクティーをロロットに手渡しながら開口一番にそう尋ねてきた。おれとロロットが交わしていた会話の内容がもの凄く気になっているようで、目がキラキラと輝いている。本当に分かりやすい娘だ。
「ジュジュはバカだなぁ~っていう話」
端的に言うとこうだろう。大きく間違ってはいないと思う。言い方に問題はあるかもしれないけども。
「誰がばかだっ! 買ってきてやったコーヒー渡さないぞ!」
「はいはい、悪かったって」
口を尖らせてそっぽを向くジュジュに平謝りをしてコーヒーを引ったくった。手のひらにじんわりとした温かさが感じられた。芳ばしい香りが鼻を通っておれの中に広がる。すこぶる気分がいい。やはりコーヒーの香りは落ち着くな。
せっかくジュジュが買ってきてくれたのだ、熱いうちに頂こう。そう思い、受け取ったコーヒーをさっそく啜った。当然、口の中には程良い苦みが広がるものとばかり思っていた。けれど、実際に感じたのは違和感であった。なんだこの激甘な泥水は……。
「ああ、苦いままだと心配だったんで、砂糖たっぷり入れてもらったよ! ジュジュねーちゃんからの優しさだぞっ!」
微妙な顔をしていたおれに向かって、バチッとウインクを決めるジュジュ。飲み物を持っていない左手の人差し指も立てており、ポーズもしっかり決まっている。だからどうした。
別におれはストレート原理主義者というわけではない。ブラックのまま飲むこともあるが、それと同じくらいミルクを入れて飲むこともあるし、疲れている時には砂糖を入れて飲むこともある。だから砂糖が入っていることはさほど問題ではない。
問題だったのはその量である。このエグいほどの甘さから考えるに、おそらく通常の三倍は砂糖が入れられているのではないかと推測できた。もはやこれはコーヒーではない。コーヒーのような何かであり、糖尿病を招きそうな何かである。
余談だが、東南アジアではコーヒーといえばこんな感じの砂糖たっぷりの激甘な黒い飲み物のことを指すらしい。因みに、砂糖を拒むとシロップを入れられたという話を友人から聞いたことがある。もっと言えば、甘いのはコーヒーだけでなく緑茶もそうであるようだ。東南アジアの人々はすこぶる甘党ということか。
とはいえ、ここは東南アジアではない。ましてや、おれの元いた地球でもない。たぶん。おれが飲みたかったのは、コクと苦みのハーモニーが疲れた身体を癒やしてくれる、ごくごく一般的なコーヒーだった。この黒い砂糖水ではない。
「う~ん……。それにしても掲示板前の人、なかなか減らないね」
手に持った飲み物をちょびちょび飲んでいたジュジュが、視線を未だ消えぬ人だかりの方へと向けて言った。このベンチに座ってずーっと見ていたが、人だかりが消えることはおろか、小さくなることもなかった。何かあったのだろうか。
「あ、あそこ!」
ロロットがある一つの場所を指差した。つられておれもそちらの方へと目をやる。大きな掲示板からそれほど離れていない所だった。
「ん? ああ、似顔絵書いてる人がいるな」
そこにはある一人の男が座っていた。手にはスケッチブックと思しきものを持ち、もう片方の手に握られているペンが滑らかに動いていた。その動作は止まることがない。彼の前には若いカップルが並んで座っている。状況から考えて、彼が描いている物は似顔絵のようだ。
「似顔絵-? あっ、ほんとだ! ねえねえ、わたしたちも似顔絵描いてもらおうよ!」
「え? いや、いいよ別に。似顔絵なんて貰っても困るし」
「そー言うなって! どうせここにいたってヒマなんだしさ、行ってみよっ!」
言い終わらないうちにジュジュの足は動き始めていた。おれはちゃんと断ったんだが、どうやらおれの意見など最初から気にするつもりはなかったらしい。じゃあ訊くなよって思う。もしかして、こういうところが乙女心ってやつなのだろうか。おれは生粋の男の子なのでよく分からないが。
「あ~……。行っちゃったねぇ」
やれやれといった感じでロロットがそう呟いた。
「しょーがないなぁ……」
ジュジュの言う通り、ここにいてもヒマなだけだった。それならば確かに、あの似顔絵師の所に足を運ぶのも悪くはないのかもしれない。ロロットはもう既にベンチを離れており、ジュジュの後を歩いて追いかけている。ここで座っているだけというのも飽きてきたので、おれも彼女たちの後を追うことにした。
激甘のコーヒーを気合いと諦めの気持ちで一気に飲み干したおれは、ジュジュが置いていった黒いリュックを掴んで立ち上がった。中に何が入っているのかは知らないが、持ったリュックは意外と重い。ロロットがこちらを振り返って手招きをしてきた。早く来いということだろう。掴んだリュックの肩紐を右肩に掛け、おれは彼女のもとへと急いだ。
つづく