055.『世界の壁』——それは世界と世界とを隔てる境界線
「見たところひだり君はこちらに来てまだ日が浅いようじゃが、いつ頃この世界に——」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
おれは右手を突き出してゲコ爺の言葉を遮った。色々と気になることはあるが、最優先で気にしなければならないことが一つあった。モルフォのことである。
ゲコ爺と成平はおれが来訪者であることを知っているが、彼女は知らないはず。だから、この場でおれの身の上話をするのは避けておきたい。異世界との関わりがある来訪者はこちらの世界ではあまり好ましく思われない、という話を以前に成平から聞いていたからだ。
もう手遅れかもしれないが、まだ誤魔化せるだろうか。嫌な汗をかきつつ横目でモルフォの顔を伺ってみるが、彼女はいつもと変わらぬ様子でおれを見ていた。ほっと胸を撫で下ろした——のも、一瞬だけ。
「安心していいわよ、ひだり君。私はキミが来訪者であることを出会った当初から知っていたから」
彼女は予想外のことを口にした。
「ひだり君が知っているのかどうかは分からないけれど、来訪者には独特の気配があるのよ。ま、かなり微妙なものだから来訪者と何度か接したことのある人で、かつ感覚の鋭い人にしか判別できないくらいの違和感なんだけれどね」
「へぇ、じゃあ僕もゲコ爺も感覚が鋭いってことなんだね」
「あら、成平さんもひだり君の纏う雰囲気で来訪者だと気付いたクチだったのね」
どうやらおれは感覚が鋭いわけではないようで、彼らの言う“来訪者特有の気配”なるものは分からない。だが、それを感じ取った彼女は、来訪者だと分かった上でおれに近づいてきたということらしい。
「モルフォは、おれが怖くはなかったのか?」
確か、過去に来訪者絡み、異世界絡みで相当な何かが起きたはずだ。今もなお世界中の人々の心に陰を落とす何かが。
「“りぼん戦争”の爪痕に苦しむ人なら怖がったでしょうけど、私は特には。むしろやっと出会えたって感じよ。来訪者の中でもキミは特別だったから」
「“りぼん戦争”? おれが特別?」
「ああ、気にしないで。今は関係のないことよ」
モルフォの言葉が理解できず質問したが、彼女はひらりとそれをかわす。気にはなるが、そう返されたら仕方ない。また別の機会に尋ねることにしよう。
「で、話を戻すけれど、ひだり君がいつ頃こっちに来たのかって質問だったかしら?」
確認をするモルフォにゲコ爺は喉をひと鳴らしして答えた。
「モルフォちゃんの言う通りじゃ。ひだり君よ、そこんところどうなんじゃ?」
「約四ヶ月ほど前、知らない森ん中で目を覚ましたんだ。傍らにこの琥珀色の杖があった。こっちに来てからの最初の記憶はそれだけ。どうやってこちらの世界に来たのか、何故来ることになったのかはおれにも全く分からん。というよりも、元の世界の記憶も断片的にしか覚えてない状態なんだ」
「それって、記憶喪失ってやつかい?」
おれは成平に顔を向けて頷き、肯定の意を示した。
「とりあえず今はこの杖の持ち主を探して旅をしてるんだ。ロロットたちに付いていきながらな。不思議なことに、拾った当初からこの杖は借り物で、元の持ち主に返さなくてはって意識があったからさ」
「ほぉ~う。なるほどのぅ。じゃがおぬし、元の世界に帰ろうとはしないのか? わしはもう歳じゃけぇ、帰ろうとは別に思わん。じゃが、おぬしはまだ若いんじゃろう?」
え? 元の世界に帰る?
ゲコ爺の言葉は電流のようにおれの体を駆け巡った。
「か、帰れるのか……? こっちに来て、知らない子どもの姿になってしまっていたから、てっきり元の世界には帰れないものかと」
「来訪者に姿形は関係あらん。元の世界に戻ればまた元の姿に戻るらしいしの。ま、この言葉は受け売りじゃが。しかしカエル姿のわしが言うんじゃ! 少しくらいは信じられるじゃろ?」
ご老体のアマガエルが快活に笑う。
「わしが知っているのはあくまで、“元の世界に帰れるかもしれない方法”だけじゃ。それでも良いのなら教えてやるが、どうする?」
「是非、お願いします!」
懇願するおれにゲコ爺が聞かせてくれたのは、この異世界の端に存在するという謎の境界線についてだった。それは世の人々から『世界の壁』と呼ばれ、壁の向こう側には別の世界が広がっているのだと噂されている。
世界と世界とを隔てる境界線というわけだ。つまり彼が言うには、この『世界の壁』を越えることができれば、元の世界に帰ることができるかもしれないということだった。
「『世界の壁』ね……。確か、現在確認されているのは二つよね? 北の果てにある『北壁』と、南の果てにある『南壁』。『南壁』は禁足地の奥深くにあって危険だから、行きやすいのは『北壁』の方ね。まあこっちも北限から少し禁足地を通らないといけないけれど、南に比べたら危険は少ないはずだし」
「なあモルフォ、北限ってのは何なんだ?」
「地名よ。西方諸国や東方諸国の北にある広大な地域のことでね、険しい山脈に囲まれているの。北限に入るにはその山脈を越える必要があるのだけれど、その山脈自体が禁足地だから峠越えは結構キツいのよ。私もまだ行ったことがないから知っていることはそれだけね」
「ふ~ん。ちなみに『南壁』はどうなんだ? 名前的に南端諸島からそんな離れていなさそうだし、禁足地さえ攻略できれば実は『北壁』よりも行きやすいんじゃないか?」
「ひだり君の言う通り、確かに『南壁』はここからそう離れてはいないわ。でもね……」
モルフォは視線を伏せて首を横に振った。
「『南壁』に向かうために通らなくてはいけない禁足地というのは、現在確認されている中で一番危険だとされている場所なの。『南端限界区域』とも呼ばれていてね、死者数も他の禁足地とは桁が違っているわ。伝え聞くところによると凶悪な魔物がうじゃうじゃいるそうよ」
「なるほど、それは確かに『南壁』よりも『北壁』の方が行きやすそうだな」
おれはまだ魔物に出会ったことがない。会ったことがあるのは、戦ったことがあるのは魔獣だけだ。だから魔物の恐ろしさをちゃんと知っているわけではないのだが、しかしモルフォが以前魔物とは戦わず一目散に逃げ出したと言っていた。ロジューヌの一件で一番功績を挙げた彼女がだ。その情報だけで、魔物という存在が非常に危険だと言うことは感じ取ることができた。
そんなヤバい奴が跋扈しているとなると、『南壁』に向かうのは断念する方がいいだろう。もし万が一行かざるを得なくなったとしても、おれが本当に賢者並みに強くなってからでないと、この命、簡単に消し飛んでしまうことだろう。
「ま、『北壁』の向こう側にしろ『南壁』の向こう側にしろ、そこがお前さんの故郷の世界だとは限らんのだがの。もしかしたら別の異世界に通じておるのかもしれんぞ」
ゲコ爺はゲコゲコと笑いながら言った。
「笑い事じゃないだろゲコ爺。ダメだったらおれ、元の世界には戻れないってことじゃないか」
「いやいや、悲観することはないじゃろ。今見つかっておる『世界の壁』がその二つのみというだけじゃ。もしかしたら西や東の果てにも壁はあるのかもしれんぞ?」
「西や東はともかく、今壁の存在が有力視されているのは確かシードロップの底でしたっけ? 『暦法の賢者』が調査しているとか、私は聞いたことがあるけれど」
「シードロップ?」
「超巨大湖のことだよ」
頭上にはてなマークを浮かべたおれに、成平が簡単な説明をしてくれた。
「西方諸国と東方諸国の間に位置しているんだ。そのあまりにも大きすぎる湖を大昔の詩人が詩に詠んでいてね。その詩の中で『まるで海の落とし物のよう』と表現したことが、“シードロップ”という名前の由来になっているんだ」
流石は本好きな上に世界図書館の関係者である成平だ。色んなことに精通している。
「まあ気に掛かるのはシードロップだけではないがの。あちこちの禁足地でわしの世界に関する物が時折発見されておるんじゃ。最近わしが見たのは壊れたドライヤーだったかのぅ」
「あ……実はおれも、ガルドレッド領に向かう途中の禁足地付近で変な紙切れを拾っていたんだ。何故かおれのいた世界の国の名前が書かれていて、酷く不気味な内容だったんだけど」
「そりゃあ奇妙じゃのう。しかし、それもまた禁足地付近か。……ふ〜む。…………わしが思うに、禁足地内にも小さな『世界の壁』が存在しており、そこから別の世界に連なる物が出てきているのではないじゃろうか。全くもって推測の域を出ない話なんじゃがな」
「なるほど、そういう可能性もあるのか。というか、“ドライヤー”って。もしかしたら、おれとゲコ爺は同じ世界出身なのかもしれないな」
「ほぅ!お前さん、ドライヤーの意味が分かるのか。うむ、同じ世界の住人じゃったら愉快じゃの!」
嬉しそうな声をあげるゲコ爺におれは歩み寄り、その小さな頭を優しく撫でた。ぬめぬめとした気色悪い感触がするも、ゲコ爺自身に対してはそんな気持ちにはならなかった。
「ポーンを持ち主に返すのが第一目標だけど、元の世界に帰ることも第二目標として掲げておくよ。本当にありがとう、ゲコ爺」
「うむうむ。気を付けて旅を続けなされよ」
「ま、私たちの旅には他にもロロットちゃんの、“一人前になるために三人の賢者からサインをもらう”っていう目的もあるけどね。というか、直近の目標はそっちの方かしら? 二つ目のサインのためにも九人目の賢者捜しをしなきゃだし」
「そうだな」
おれはモルフォに答え、その後に洞窟の入口へと目を移した。
「そろそろ九人目探しの方を再開するか! ちょっと長いことロロットたちを待たせているし」
「だね。じゃあゲコ爺、僕たちはこれで。また遊びに来るよ。その時までお元気で!」
「おうおう、その時を楽しみに待っとるぞい。お前さん方も達者でなあ」
成平に続いて各々が別れの言葉を言うと、ゲコ爺は喉を大きく鳴らして優しく送り出してくれた。
自分以外の来訪者との初めての交流。それは非常に興味深いもので、この異世界についての知識を広げてくれるもので、そしてまた、数々の疑問も抱かせてくれるものであった。いつの日か、おれはこの世界の謎に触れることになるのだろうか? 洞窟の外に出て太陽の光に目を細めながら、おれはふと、そんなことを思ったのだった。
つづく




