049.存在するはずのない『存在』
「九人目の賢者、ですか……? 冗談ではなく? まさかそんな、本当にあり得るんですか……?」
ロロットは目を丸くしてダンカークの言葉を繰り返した。二人は新しい賢者が現れたかもしれないことにとても驚いているようだが、何が彼らをそんなにビックリさせているのだろうか。もちろん、新しい賢者が増えることで世界情勢がガラッと変わったりするのかもしれないが、しかしそういうことへの対処は他の賢者たちが上手いことするのではないかと、素人のおれには思えてしまう。
「そこの可愛い顔した坊や。あなた、九人目の賢者出現の異常性が分からないって顔をしているわねぇ」
ダンカークのゴツくて太い人指し指がおれに向けられる。
「へ? ああまあ、確かに理解は出来ていないかな」
喋り終えた時、ダンカークと目が合った。瞬間、彼が可愛い子ぶった仕草でウインクをしてきて、肌が粟立つほどの精神的なキツさがおれを襲った。
勘弁してくれ。オカマ爺のウインクは色々な意味で破壊力が高すぎる。
「この世に賢者が生まれてから今まで、ず~っと八人のままだったんだよ。それで世界の均衡は保たれていたの」
ロロットの説明に、ダンカークがさらに詳細な補足を加える。
「史上初の九人目が登場してきたってことはね、世界の根幹をなすルールが崩れ始めてきたってことなのよぉ」
「世界の根幹をなすって……賢者ってそんなに重要な存在だったのかよ……」
知らなかったぞ、おれは。けれど思い返してみれば、賢者と呼ばれる人間が何のために存在し、何を担っているのか、そのことについておれは全く何も知り得ていなかった。
そう。おれはまだ、ロロットのことを何も知らない。彼女が背負わなければならないものの大きさについて、おれは何一つ理解していなかった。
「色々と役割はあるんだけれどぉ、ザックリ言うとね、アタシたち賢者は『守護者として災厄から人類を守ってる』のよ。ほんと、ザックリ言うとだけど」
……は?
何を言われているのか意味が分からなかったが、ダンカークはぽかんとするおれを気にも留めずに話を続けた。
「繰り返すようだけれど、賢者の人数が増えたってことは世界のルールが変わっちゃったってことなのよぉ」
「それはつまり、かなり大規模な“世界の歪み”が発生しているってことなんだよ、ひだり君! 世界の約束事を変えられるのなんて、歪みだけしか考えられないからね!」
隣に座るロロットがおれに顔をぐいっと近づけ、熱のこもった声でそう言った。
“世界の歪み”——ロジューヌでアンクルがピスラを蘇らせた時にも発生していた現象と同じやつか。あの時は発生する瞬間に立ち会っていて、目の前が、というよりも全身で感じる世界全体が一回転したような、とても奇妙な感覚に襲われたのを覚えている。そしてそれは、むせ返るほどに居心地の悪いものであった。
「そんな大規模な歪みが発生しているだなんて、僕にはにわかに信じられないな」
おれから少し離れた席に座っていた成平が、誰に言うでもなく呟く。
彼の言葉を、ダンカークの隣に腰掛けていたモルフォが引き取った。
「実際のところ、その大規模な歪みがどこで発生しているのかは把握しているんですか?」
「残念ながら、全く。世界で何かが起きていることは確実なのに、どこからも大規模な歪みに関する情報が上がってこないのよぉ。不気味なくらい静かで困っちゃうわ」
こちらから視線を外したダンカークの瞳に、薄く影が落ちた。彼の様子に同調したらしく、ジュジュの長い銀色の耳が、彼女の心模様を表すように下に垂れ下がった。
「なんだよそれぇ……気味悪いな……。もしかして、わたしたちにお願いしたいことって、その大規模な歪みに関する情報収集、とかですか?」
「ああ、ごめんなさいねぇ。随分と話が逸れちゃったみたいで。ジュジュちゃんが言うほどに関係しているわけではないけど、でも無関係と言うわけでも——」
“世界の歪み”から本題の依頼の話へと戻ろうとしていた時、ダンカークの言葉を遮るように扉をノックする軽快な音が室内に響いた。みんなの視線が部屋と廊下を繋ぐ白い扉へと集中する。入室の許可を求める少しくぐもった声に、ダンカークは今喋っていた時よりも一段と大きな声で返答した。
「失礼します。暑い中お越し下さったみな様にお茶を持って参りました」
人数分の飲み物が乗るプレートとともに中に入ってきたのは、線が細くてさっぱりとした印象の、長身の男性だった。少しもうねりのない茶色の髪は肩ほどの高さまですとんと落ちており、細い黒縁眼鏡の奥から覗く切れ長の目とシルバーグレーの瞳が、彼に知的な魅力を与えていた。
男はおれたちの座るテーブルのもとへと歩み寄ってくると、「ジャスミンティーです」と一言を添えてそれぞれの前にガラス製のコップを置いていった。
「ありがとう、ヒュー。丁度良かったわぁ。折角来たんだからあなたの口からお伝えしてあげてぇん?」
「は? 一体何をです、ダンク様?」
一角の主に、ヒューと呼ばれた男が怪訝そうな目を向ける。
「最近その存在がにわかに噂になっている、あの九人目の賢者についてよ」
眼鏡男の耳元でねっとりと囁いてから、ダンカークは大きな手の平で彼を示した。主の急な対応に、眼鏡男はまだ状況がよく飲み込めていない様子だ。
「はぁいみんな、ちゅ~もぉ~っくっ! この可愛いアタシの隣にいる、長身で知的で食べちゃいたいくらい可愛い男の子がぁ、アタシの専属アシスタントのヒュー・リッツマンちゃんでぇす。よろしくね~」
…………うっ……わぁ…………。
「誰が食べちゃいたいくらい可愛い男の子ですか。私はもう三十二歳の立派なおじさんですよ。まったく」
ヒューは呆れ顔で眼鏡の位置を直し、ため息を一つこぼした。
「あらぁ、いいじゃない別に! 四十も後半に突入したアタシから見れば、三十代なんて熟れ頃の食べ頃よぉ~ん。ヒューの奥さんには黙っててあげるからぁ、アタシの中にあなたの暴れん坊将軍をねじ込んでもいいわよぉん。あなたが放出した溢れ出るパッションの全てを、アタシの愛の洞穴が全力で受け止めてみせるわぁ~!」
「汚らしい話をしないで下さい。年頃のお嬢さん方もいらっしゃってるんですよ! 彼女たちが変なことを覚えてしまったらどうするんですか。場を弁えて下さい、場を!」
「んっもぉう。固いこと言っちゃってぇ~。固くするのはアッチだけにしておきなさい。まったく、ヒューったら相変わらずいけずぅ、なんだからぁ」
……色んな意味で『土曜の賢者』はヤバい奴だな。うん、ヤバい。相当に。間違いなく。
ほんとの本当に、こんな奴がまともな部類の賢者なんだろうか。アリスはとても良い娘だったし誠実で真面目な印象があったが、この一角のオカマ野郎に関する言葉の全てがやはり信じられない。いや、もう信じたいとも思えない。
初対面の時からドン引きだったけれど、まさかそれを上回るほどのドン引きをここで、しかもこの短時間で味わうとは思わなかった。そしてダンカークの卑猥発言を淡々と切り捨てるヒューについても、節々からこなれている感じが出過ぎていて全く同情できない。おいこれ、お前らの日常風景なのかよ。
気になったので思春期真っ盛りの連中をチラッと見てみると、ジュジュは翡翠色の目を細めながら、
「はぁ? 食べ頃ぉ? ねじ込むぅ? 放出した溢れ出るパッション? ……ダンカーク様は何を言ってるんだ?」
と言っていて、セクハラ賢者の言葉の内容をこれっぽっちも理解していない様子だった。ある意味安心である。そんなジュジュのあまりの初心っぷりに、モルフォが優しい声音で嗜める。
「ジュ~ジュッ! あんまり乙女が『ねじ込む』とか口にしちゃダメよ。意味が分かってなくても、未来の自分のためにも言っちゃダメ。あとで穴に埋まりたくなっちゃうくらい恥ずかしい思いをすることになるわよー」
ジュジュより二歳も年上の彼女はやはりお姉さんで、品のない下ネタについて全てを分かった上で受け流すという、非常に大人な対応をして見せた。流れるような所作だったためか、十六歳の少女がなんだか経験豊富な女性に見えてくる。頼もしい限りだ。
一方でジュジュと同い年のロロットはというと、
「………………」
身体を縮こませ、顔だけでなく耳までも真っ赤にして一人俯いてじっとしていた。まるで頭から煙でも出ているかのようだ。……どうやら、ダンカークの卑猥な言葉の意味が全て理解できてしまったらしい。
破廉恥な言葉の意味自体が恥ずかしいのか、はたまた分かってしまった自分自身が恥ずかしいのか、それともダンカークの言葉からなにやらピンク色のことを想像してしまって恥ずかしいのか。彼女が照れている原因は分からないが、とにもかくにも彼女は彼女でまた、ジュジュとは違った意味でとても初心なのだということは明白だった。
「それで? 何故私がこの方たちに九人目の賢者の話をしなければならないのですか? ……まさかダンク様、例の件をこの子たちにやらせるおつもりで?」
「流石はアタシの専属アシスタント。勘がいいわねぇ。そのまさかよぉ。神出鬼没な九人目の賢者、その捕獲をこの子たちにお願いしよっかなって考えているの!」
レンズの奥、ヒューの灰色の目が「信じられない」といった感じに大きく見開かれたのを、おれは見逃さなかった。彼の目が、ほんの少し開かれた口元が、強張った表情が、確かに主張している。「正気ですか、我が主……?」、と。
つづく




