046.見るべきは過去ではなく未来
琥珀色の大杖ポーンでふらふらの身体を支えながら、おれは階段を登る。文字通りの重い足取りとはまさにこのことかという、しょうもない感想が心の表層を滑った。成平に肩を担がれながら前を行くアンクルの背中を見ていてもこんな思考が浮かぶとは。つくづく、人の考えは三百六十度あらゆる方向に同時多発的に伸びていくらしい。
台座の上で最後の口づけが終わった後、ピスラはアンクルにすぐこの場を離れるようにと言った。それから彼女は初めて、おれやモルフォなどに声を掛けてきた。その内容はアンクルに言ったのと同じであり、早くここから去って下さいというものだった。
『私はこの塔とともに再び眠りにつくわ。人間として、自分の死を受け入れる』
『時忘れの塔』という巨大な魔導具は、契約者の寿命を代価にすることにより、その命尽きるまで塔の中にあるものを塔の中に入った時点のままで保存することができる。
そんな、ある種夢のような魔法を発動できるお宝があったから、心優しきアンクルは極度に利己的な人になってしまったのだ。この塔がロジューヌの町のすぐ近くに建っていたから、彼は“私という過去”に囚われてしまった。だから二度目の死を迎えようとする自分はこの塔と共に消えなくてはならないのだ。
彼女が直接的にこう言ったわけではない。おれたちに向けて喋ったのは、さっきの言葉も含めてほんの二言、三言だ。けれど、ああいう想いが言外に隠れているだろうことは容易に想像できた。
そしてまたアンクルが、本心では彼女に生き続けて欲しいと願っていることだって、きっと泣き腫らして目が赤くなっているだろう顔を見なくとも容易に想像できた。彼女のためにでき得る限りのことをし尽くした男である。彼女の想いに賛成の言葉を口にするも、その胸の内には未だ複雑な気持ちがのたうち回っているはずだ。
「空が白んできているね。もうすっかり夜明けが近いようだ」
階段を登り終え地上に出た成平が言った。彼に続いて暗くじめっとしていた地下から抜け出てきたおれは、塔の入口から注ぎ込む光に思わず目を細めた。外はまだ霞がかっており、遠く離れたところに立っている木々はその輪郭を曖昧にしていた。
「——うわあっ!?」
突然の縦揺れが身体を襲ってきた。身体が少し宙に浮く。天井からは塵がパラパラとこぼれ落ちる。ついに始まったのだ。『時忘れの塔』の崩壊が。
「ピスラさんが塔の宝石を壊したんですね。私たちも早くここを出なければ」
徐々に激しさを増す揺れに足を止めず、最後尾にいたショコラが階段を登り切った。彼女はそのまま塔の入口へと進んでいく。おれも再び入口の方を向き、縦揺れで動きにくい中、外へと足を動かした。
どんな魔導具にも核となる宝石がある。魔導具は、宝石に宿る魔力を人間が上手いこと利用できるようにした装置だからだ。これはもちろん、『時忘れの塔』にも当てはまる。
逃げる道中アンクルが聞かせてくれた話によると、この塔の宝石はあの祈りを捧げる修道女の壁画に埋め込まれているのだという。確かにあの絵には修道女の胸のあたりに赤く光る宝石が存在していた。しかし、まさかあの宝石が『時忘れの塔』の核だったとは驚きである。
「よし、全員外に出たわね。……崩落による瓦礫がこの辺にも落ちてくるかもしれない。もう少し離れたところに移動するわよ!」
モルフォによる「皆こっちよ!」の合図で、おれたちは薄い霧のカーテンに覆われた森の、さらに奥へと進んでいった。途中少しだけ振り返ると、小刻みに震える塔の姿形が先ほどよりもぼんやりとしていた。
あの宝石には至る所にひびが入っているのだとアンクルは言っていた。おそらくピスラは、床に転がる手頃な石でもって宝石を砕いたのだと思われるが、その時彼女は何を思ったのだろうか。自らの生命線を自らの手で壊す時、人は何を思うのだろうか。
轟音と共についに崩れ落ち始めた塔を、おれは額に皺を寄せながらでしか見ることができなかった。塔のシルエットが完全に消え去るまで、おれは、『時忘れの塔』とその中に留まったピスラへと想いを馳せていた。
食堂に入ると、そこにはすでに大方の人が揃っていた。席に着いていないのは言い訳のしようもないほどに寝坊したおれと、まだ朝食の配膳が全て完了していないために動き回っているショコラだけだった。塔が崩壊してから数日経っており、緊張感が和らいでしまったことが寝坊の原因だと思うのだが。うん、やはりおれが一番どうしようもない。
「遅刻だよ~、ひだり君。病み上がりの私よりも起きるのが遅いなんて、だらしなさすぎるんじゃない?」
ホムラグルイの毒が消え、人をからかえるほどに元気を取り戻したロロットがケラケラと笑う。
「そんな様子じゃあ、折角私が手ほどきしてた魔法の修行も疎かにしてたりして?」
「あいにくとそれはねーな。いっぱしに魔法を扱えるように成長して、楽に旅ができるようになるのがおれの目標だ。手を抜くための努力は惜しまないさ」
「あれ? 自分の身を自分で守れるようにするために修行してるんじゃなかったっけ?」
「それはそれで、あれだよ。簡単に口にしないような、ん~っと、そう! 大切な目標なんだよ、うん」
しどろもどろになりつつもなんとか返答し、おれは空いている席について水が注がれたコップに一口付けた。程良い冷たさの水が喉を通り、体中に染み渡っていく感覚に自身の生を実感する。
「全く。ひだりは行儀がなっていませんね。食前の挨拶も済んでいないというのに水を飲むとは。育ちの悪さが滲み出て……ああ、いえ、ドバドバと出ていますね」
おれの前に、ほのかに甘い香りのするオニオンスープがショコラの毒舌と共に置かれた。お前の毒舌の方がよっぽど育ちが悪そうに見えますよ、と心の中で突っ込んでおく。
そんなショコラは配膳が全て完了したようで、爽やかに笑っているアリスの隣に腰を下ろした。屋敷には泊まっていないモルフォや成平に加え、怪我がまだ治っていないアンクルもこの場に同席しており、あの霧と倦怠病の一件に関わった主だった者たちの全てが、今この食堂に揃っていた。
「みな、席に着いてくれたな。では、私から一言」
コバルトは背筋を正して、コホンと咳払いを一つした。
「今回のことは、私の息子であるアンクルの独善的な暴走と、そんな息子を叱ってやれなかった私の父親としての力不足からくるものであった。誰かを傷つけたいというよりはむしろ、誰かを助けたいという想いから起こした行動であったが、結果として多くの人を傷つけてしまった。私は本当に、許されないことをしでかしてしまった。申し訳ない気持ちでいっぱいだ」
「父さん……」
コバルトの隣に座るアンクルが、父親の手に自分の手を重ねる。俯いて話していたコバルトが、アンクルの方へと顔を向けた。
「謝るべきなのは……一番に罪を償わなければならないのは僕の方だ。僕が、ピスラが亡くなったために襲われた喪失感に負けさえしなければ……自分と向き合い、自分の今後の人生から逃げなければ、こんなことにはならなかったのだから」
「あの事件における罪を語るのであれば、私もまた無関係ではありませんね」
「ショコラさん。でも、あなたは父に脅されていたのでは?」
アンクルの質問に、ショコラは首を左右に振った。
「脅されていたからといって、私がロロット様に毒を盛り、コバルト様を庇ってひだりたちに危害を加えたことは事実です。その罪が無くなることはありません。私もまた、今回の件で裁かれるべき人間のひとりなのです」
「本当にすまなかったね、ショコラ」
言って、コバルトはショコラに対して深々と頭を下げた。
「君にはどう贖罪すればよいのやら」
「コバルト様、あなたはアンクル様と共にあの一連の事件の首謀者であることを町で告白し、公的機関で裁きを受けることを決意されました。私にとってはそれで十分でございます。それに、私も祖国に帰った後はお嬢様から今回の処罰を受けることになっておりますし。お互いがそれぞれきちんと罰を受ければ、私はそれで良いのではないかと思っております」
「……なるほど。確かに君の意見はもっともだ。しかし、君を直接苦しめていた私としてはだね、なにかもっと——」
「はいはい、そこまでにしましょ!」
アリスが、止まることの無い反省の流れを断ち切るため、唐突にパンパンと手を鳴らした。左側頭部に着けられた青いリボンの紐を小さく揺らし、彼女は身を乗り出す。ふんわりとした長い金髪に青いリボンは、水曜の賢者である彼女のトレードマークだった。
「今日がこの屋敷にいられる最後の日なんですから、早くご飯を食べて片付けの続きをやりましょ! それに……」
静まりかえった空間の中、誰かのおなかの虫が、ぐぅ~と鳴く音が響いた。
「お、おなかも、空いていることですし……」
「ふふ。そうですな。いつまでも犯した罪のことにばかり言及していても仕方ありませんな。未来に目を向け、これからどうするのかということに集中しなくては」
コバルトは胸の前で手を合わせ、席に着く各人を見回した。
「霧と倦怠病の事件を解決してくれたみな様方に感謝を。それでは、今日一日の活動のためにも、みなで美味しく、楽しく、朝食を頂くとしよう」
やっとこさ食前の挨拶が済んだので、今度はちゃんと礼儀作法に則っておれはコップの水を口に運んだ。もう行儀が悪いとは言わせやしないさ。
つづく