044.そして世界は歪み、彼女は目覚める
「この場所……通常ではあり得ないくらいに歪んでいる。ひだり、これはいったい、何があったというのですか? それにあの人は……?」
台座に座る一人の女性を凝視したまま、ショコラは不安げに声をあげた。この場所が「歪んでいる」と彼女は言うが、おれの目にはすでに何の変哲もない光景に戻っていた。けれど、どうにも胸の奥が気持ち悪くなるような、そんな違和感だけは残っていた。
「アンクルさんの恋人のピスラさんだ。病で亡くなっていたんだが、『ソウルドレイン』というあの注射器型の魔導具でたった今生き返ったんだ。ロジューヌの住人から吸い集めた魂を注ぎ込まれてな」
「魂を、吸い上げる? そんな規格外な……まるであの禁書じゃないか!」
「死者の蘇生に成功したということですか?!」
おれの手短な状況説明に、成平とショコラがそれぞれ驚愕の声をあげる。無理もない。一部始終に立ち会っていたおれですら、この目で見た現実をまだ受け止めきれていないのだから。
「にわかには信じられないだろうが、事実だよ。アンクルさんが言うにはあの魔導具は禁書『ソウルイーター』の模倣品らしい。実際に液状化した魂がピスラさんに入れられ、彼女が目を覚ますのをおれも見ていたし」
おれが口にした『ソウルイーター』という単語に成平がピクリと反応したが、彼は難しい顔をしたままで何も言ってこなかった。対照的に、ショコラがあり得ないものでも見たかのような声でおれに今一度の確認を求めてくる。
「『ソウルイーター』の……? では、本当に死者の蘇生がなされたと?」
「ああ」
「そう。だから、異常なまでの“世界の歪み”が発生しているのですね」
現実に起きた、あまりにも非現実的な事態を受けて動けなくなっているおれたちをよそに、アンクルは片足を引きずりつつもゆっくりと壁画の下の台座へと歩き出していた。へらへらと薄ら笑う彼とは反対に、永き眠りから目覚めたばかりのピスラの面差しは石膏像のように無表情だ。
「ピスラ……。ああ、僕の愛しのピスラ! 僕のことが分かるかい?」
「…………」
アンクルの呼び掛けに対してピスラは何の反応も示さない。
「なあショコラ、“世界の歪み”ってのは何なんだ? 今おれが感じているこの——表現しがたい異物感、みたいな感覚と関係があるのか?」
アンクルが動く様子を見つつ、おれは先ほどから話に出てきている“世界の歪み”について尋ねた。おそらく“世界の歪み”とは、ピスラが起き上がった時に自分が感じた、あの空間が曲がりくねるような感覚のことであり、その時から今この瞬間に至るまで継続的に感じている奇妙な居心地の悪さのことであると思う。
けれどそれは、いわゆる“空間が歪む”という事象とは全く別物のような気がする。おれが知る“空間の歪み”は物理学的な意味の方で、質量により引き起こされ、時間や物の長さなどにも影響を与えるような感じだったはずだ。だが、ショコラが口にした歪みはそのような影響を及ぼしてはいなさそうである。
そんなおれの疑問に答えてくれたのはショコラではなく、緊張を目に宿したモルフォであった。
「世界の規律をねじ曲げて崩壊させ、混沌を引き寄せる事象が“世界の歪み”と呼ばれるものよ。この事象自体は昔からあって何度も解消されてきたものなの。けれど、最近は発生頻度が増え続けていて解消の手が追いつかず、あちこちで深刻な状況を招いていることが世界的な問題になっているわ」
「混沌を引き寄せる? いまいち何を言っているのか分からないんだが、ともかくそういう歪みがこの場所で発生したってことか? あそこに座ってるピスラさんが蘇ったことで」
「十中八九そのようですね。“世界の歪み”を放置しておけば魔獣の発生に繋がりかねませんし、その他の悲惨な出来事の原因にもなりかねません。歪みの解消は英雄にしか果たすことができないため、基本的な対策としては“世界の歪み”を発生させないよう、事前に動くことが重要になるのですが……」
「今回はすでに歪みが生じてしまったから。私たちにはどうしようもないわね」
ショコラの言葉尻を引き受け、モルフォが今の状況を口にする。それはつまり、現状に対するおれたちの無力さを宣言するものだった。
ことはすでに起きてしまった。事態の収拾はもう、おれたちだけでつけることができない。
「でも、すでに亡くなっているはずの人間が生き続けているってのも、歪みを引き起こし続けるんじゃないか?」
「ええ。ピスラさんがこの場に留まるにせよ、どこか別のところに移動するにせよ、彼女の生存そのものが歪みを生み出すことになる。それを防ぐために、対症療法的な行動を取ることなら私たちでもできるけれど、でも……」
「…………いくらなんでも、即断即決で『やろう』とは言えないことだな」
アンクルがもうすぐ台座のもとへと辿り着こうとしていた。台座の上に座り、“世界の歪み”を起こし続けている彼女のもとに。
事態を収めることはできないが、それでもおれたちには、現状をこれ以上悪化させないために取ることのできる最善策が一つだけある。人道的に許されるとは思えないその策とは、“ピスラを死者に戻すこと”である。モルフォが言い淀んだ通り、これはつまり蘇ったピスラをおれたちの手でもう一度殺すことを意味する。
確かにピスラはすでに亡くなった人——現在、存在していてはいけない人間だ。しかしまた同時に、彼女が今、“生きている”ということも事実である。たとえ以前に一度亡くなっていたとしても、現在は“生きている人”としてあの台座の上に座っているのである。
そうであれば、いくら事態の悪化を防ぐためとはいえ、生者を殺すことを正当化していいのだろうか。自らの欲望のために他人の魂を勝手に吸い集めていたアンクルに対し、おれは嫌悪感を抱いていた。それは、自分の目的のために人の生命を弄んでいるように思えたからだった。
だが、ピスラを殺すことを肯定してしまえば、自分もあの嫌悪したアンクルと同じにならないだろうか。彼女を死者に戻すのを認めるということは、自分の目的のために人の生命を弄ぶことと同じにはならないだろうか。どうも、おれにはすぐに答えられそうになかった。
「ピスラ……まだ、僕のことが分からないかい? なあ、ピスラ」
ついに壁画の下へと歩き着いたアンクルが、台座の上にのぼってピスラの頬に触れた。
そっと指を這わせ、彼女を優しく撫でる。すると、虚無のみを宿していた彼女の瞳にゆっくりと光が戻っていった。
「……………………アン、クル……?」
「ああピスラ! やっと僕のことが分かるようになったんだね?! よかった……ピスラ、本当によかった。ピスラ、本当に」
「ここは、どこ? 私は、どうして、ここにいるの? ……アンクルは、どうしてここにいるの?」
亜麻色の髪をわずかに揺らし、ピスラが尋ねる。
「私は……確か、治らない病に冒されていて……それで……そう、意識が朦朧とし始めて……アンクルに、抱き抱えられていた? 私はアンクルに何かを言って、その後は…………何も覚えてない。ねえ、アンクル。あなたはどうしてここにいるの?」
「君は、死の淵から還ってきたんだよ。今さっき、ね」
「還ってきた……? じゃあ私はあの時、あのまま目を瞑って亡くなったのね?」
「ああ。あの時は本当に悲しかった。でも、今君は生きている。ぬくもりを伴って、生きている。この塔と、この魔導具のおかけで」
言って、アンクルはポケットの中から注射器のような外観をした『ソウルドレイン』を取り出した。
「『時忘れの塔』の魔法を使い、こと切れた君を当時の姿のままで保存したんだ。それから、ロジューヌの人々の魂をこの注射器型の魔導具で集め、君に注ぎ込んで蘇らせたんだよ」
「————えっ?」
「町の人から魂を集めるのが大変でね。もう一つ別の魔導具を使ってさ、住人たちに催眠を掛けてなんとか集めていたんだよ。あと、ひとりひとりから集めていたんでは時間ばかり掛かってしまうから、あの手この手を使って効率よく作業ができるようにしていたんだ。ほら、この部屋に転がっている瓦礫のようなものが見えるだろう? あれは魂集めを最適化するためのものだったんだ。まあ、最後の方はこの場所での魂集めが難しくなったから、注射器型の方だけを使って野外で集めていたんだけれどね。色々と邪魔が入ってしまって……君の命を取り戻すのが、こんなにも遅くなってしまった。待たせてしまって、本当にごめん」
「私の、この身体には……ロジューヌの町の人たちの魂が入っているの……?」
ピスラは震える指でそっと自身の胸に触れた。
「心配しないでくれ。町の人たちは誰一人亡くなっていないよ。各々から魂の一部を頂戴しただけだ。その影響で、大半の人が大なり小なり倦怠感に苛まれることになってしまったけれど、しかし、君がもう一度生を手にできるのであれば、そんなことは小さな犠牲だろう?」
「小さな犠牲って……アンクル、あなた……関係のない人々を傷つけたことには変わりないのよ?!」
「町の人の魂が自分の中に入っているなんて、君は気持ち悪く感じているかも知れない。けれど、それは許してくれ。こうでもしなければ、君を生き返らせることは————救うことはできなかったんだ!」
「そんなことは聞いてないわ! 私の質問に答えてよっ!!」
つづく




