042.君と過ごした宝石のような日々と、地獄の始まり
三年前のあの日まで、僕は身を焦がすほどの恋というものとは無縁の人生を送っていた。誰とも付き合っていなかったわけではない。自分で言うのもなんだが、僕は結構女性にモテていたので、今日までに何人かとはお付き合いをさせて頂いていた。だから一通りの経験はしてきている。けれど、これまでの恋ではいつだって僕は、どこか遠くの方から女性と床を共にする自分を眺めていたように思う。
友人たちや市井の人々から聞く色恋話では、もっとドラマチックでロマンチックな雰囲気があったものだが、一度経験してからは常に、「しょせんこんなものか」という感想しか僕は抱いていなかった。全くもって味気ないことこの上ない。しかし僕にとってそれは自らの体験から得られた知見であり、だからどれほど退屈な感想だったとしても、酷く現実的な感覚だった。
そんな僕だったが、三年前のあの日、彼女を一目見て、自らの考えが間違っていたことを知った。彼女との出会いはまさしく、“キューピッドに胸を射られた”という表現が似合うほどに心臓を高鳴らせた瞬間だった。
この日僕は、トリコロール連合国ホワイトラス領からいらっしゃる客人を迎えるため、花を買いに町を訪れていた。町一番と評される花屋に足を運んだ時、店先に一人の女性が立っていて、丁度今、花を買い終えた婦人を見送っているところだった。容姿端麗ながらもまだ幼さを顔に残す彼女が僕に気付き、亜麻色の髪を振って柔らかく笑った。僕は彼女のその太陽のように煌めく笑顔に、自身の顔がカッと熱くなったのを感じ、そして————恋に落ちた。
「あ、またいらして下さったんですね、アンクル様。今日はどのようなお花をお求めでしょうか?」
あの日から僕は、仕事の隙を見ては例の花屋を訪れるようになった。怪しまれないよう毎回違う種類の花を買うようにしていたが、真の目的は彼女に会うためである。もっと言えば、彼女と親しくなるためだった。
「こんにちは、可愛い看板娘さん。今日はこの花をいくつか頂けるかな」
「かしこまりました。すぐ準備致しますので、少々お待ち下さい」
このようなやり取りを何度も繰り返した後、僕と彼女の関係は“店員と客”から“友人同士”に変わった。もちろん、自然にそうなったわけではない。僕の方から彼女を食事に誘ったのが切っ掛けだった。
花屋で働く麗しの彼女は、名をピスラといった。性格はいたって真面目でしっかり者だ。彼女は父も母も幼い頃に事故で失ってしまったとのことだから、その影響なのかもしれない。しかしその割には、楽しさや嬉しさで感情が昂ぶるとそそっかしい一面が顔を覗かせた。可憐な十九歳が見せるそのギャップに、六つも年上の僕はいつだって夢中だった。
最初は昼食、その次も昼食、三回目あたりで昼食の後に湖畔を少し散策するようになった。徐々にではあったが、僕とピスラが会う回数は増えていった。
デートの内容は、なにも食事やルフォン湖の散策だけではなかった。様々なところに彼女を連れて行ったものだ。ロジューヌの町からそう遠くない、ブルーフォントの玄関とも呼ばれる交易都市、銀白色が美しいホワイトラスの真珠宮殿、天へと延びる岩石が幻想的な絶景を成すガルドレッドのサンタ岬。遠いところでは、西方の中心地として君臨するヘリアポリス帝国の首都ヘルトポルト、世界最大の湖であるシードロップにも足を運んだものだ。
「ねえねえ、アンクル! 次はどこに行きましょうか?」
会う度にピスラは、満面の笑みでこう尋ねてきた。彼女のそのあり余る行動力の高さに、僕はいつも「どうしようか」と苦笑いを返すばかり。これが僕と彼女のお決まりのやり取りだった。
そんな幸せに包まれた日々が影に覆われたのは、彼女を知ってからだいたい一年後、今から約二年前のことだ。ピスラの喀血は、ある日突然始まった。最初の頃はただの風邪みたく、ゴホゴホと乾いた咳をするだけであったのに、気付けば少量の血が混ざるようになっていた。症状が急激に悪化することはなかった。だが、一週間、一月、半年と時が経つにつれ、ピスラは目に見える形で確実に衰弱していった。彼女は、何万人に一人という難病に冒されていた。
さらに一年後、彼女はもうほとんどの日をベッドの上で過ごすようになっていた。病により肺がやられ、身体を動かすことが難しくなったためだ。動かないから体力が落ち、体力が落ちるから動くことが大変になるという悪循環だった。
ピスラを苦しめる難病は治療法が確立されておらず、町の医者も他国の医者も総じて対症療法で進行を遅らせるのが関の山だった。僕と会う時は気丈に振る舞っていたのだが、彼女の友人たちの話からするに、普段は相当辛い思いをしているようだった。そのことを知ってからの僕は、当時はあまり自覚できていなかったけれど、おそらく見苦しいほどにぎこちない笑みを彼女に向けていたのだと思う。
なんとか——。なんとか、彼女を救うことはできないだろうか? 医療では無理でも、何らかの魔導具ならば可能性はあるんじゃないのか? 次第にその想いに駆られた僕は、領内外、国内外の魔法使いや魔導具使いを片っ端から訪ね歩くようになっていった。しかし、有益な情報を掴むことなく数ヶ月が経ち、僕の心は荒れ果て、ピスラは長い時間眠るようになった。衰弱した身体から不必要に失われる体力を減らすためだったのだろう。彼女の死は、現実的な問題として、ひたひたと迫ってきていた。
「命の灯火が消えようとしている恋人から、どうにかして死を遠ざけたい。その想いで四方八方を駆け巡っている若者というのは、貴方のことでしょうか?」
刻一刻と近付く終わりを目の端に据え、絶望の淵に立っていた僕の前にあの男が現れたのは、今から約三ヶ月ほど前のことだ。真っ黒なコートに身を包み、頭にはウサギの被り物をした男で、そのウサギの左耳には銀製のフープピアスが二つ付けられていた。意味不明な被り物のせいか、男の身長は二メートルを超えている。宿屋の一室で対面したこの異様な装いの男からは、なんとも恐ろしい威圧感が感じられた。
「なんでも彼女……ピスラさん、と言いましたでしょうか? 治療法が見つかっていない難病に冒されているそうですね? 寝たきりになってしまってもう長くないとか」
「え? ……ぁえ、ええ、そうですけど。えっと、どうして、それを……?」
「いえいえいえ! 貴方が彼女を助けたくて奔走していたという話をつい最近耳にしましてね。ほら、ワテクシって両耳ともこぉ~んなに長いものですから」
男はわざとらしく被り物の耳を指で叩いてみせると、懐から一枚の紙を取り出して僕の方へと差し出してきた。渡された紙には巻貝のような形の塔の絵が描かれており、それはロジューヌ付近の禁足地内に建っている『時忘れの塔』であった。
「ピスラさんの病の治療法は、残念ながらワテクシにも分かりかねます。もっとも、知っていたとしてももはや手遅れでしょうが。ただ、しかしですね。彼女を“死なせないように留めておく方法”は存じ上げております。今日は貴方にそのことをお伝えしたくお伺い致しました」
「……はい?」
「ワテクシは、地獄の様相を呈するこの世に、救済と祝福をもたらす慈悲の使徒。人生に喰い殺されようとしている貴方に、希望の光を届けましょう」
そう言って男は僕に、絵に描かれた塔の秘密を教えてくれた。地下への隠された通路のこと。最奥にある壁画と祭壇のこと。そしてこの塔の————『時忘れの塔』という魔導具の使い方のこと。いずれについても男は出し惜しみをせず、無償で語り聞かせてくれた。
もちろん、魔導具であるからには塔の使用には塔との契約が必要だった。男の話によると、塔の使用条件は“僕の寿命を捧げること”だった。それは非常に重い代償であり、契約を交わしてからどれほどの月日で自分の命が尽きてしまうのか不安ではあったが、他に何の手段も講じられていない僕には、使用者の命を喰らう塔に縋るしかなかった。たとえそれで、自分が長く生きられなくなるとしても。
「こんなによくして頂いて……ありがとうございます。ありがとうございます! えと、貴方のお名前は……?」
何度も深く頭を下げる僕に、男はくぐもった声で答えた。被り物のせいだった。
「名などただの記号にすぎません。どう呼ばれても構わない。それはワテクシではありませんから。ワテクシはただの、慈悲の使徒であるだけです。ワテクシはしばらくの間、この街に留まっておりますゆえ、何かありましたらどうぞ遠慮せず会いにいらして下さい。その時には再び、貴方のお力になりましょう」
男にそう言われてからも僕は繰り返し何度もお礼を述べた。後で知ったことだが、この男は妙な噂が立つくらいには有名のようだった。世間はこの男のことを、『死神兎』と呼んでいた。
死神兎から聞いた話では、塔の魔法は塔の内部でしか効力を持たないということだった。つまり、ピスラを死なせないようにするには彼女を塔の中に閉じ込める必要があった。だから僕の計画を実行するには、彼女を部屋から連れ出さなければならない。しかし、寝たきりの彼女の部屋にはほぼ常に、彼女の友人や看護師たちが彼女に付き添って看病をしていた。故に彼女を連れ去るには、タイミングを見計らわなければならない。そのために僕は、すぐに行動に出ることができなかった。
それが仇となった。約二ヶ月半ほど前のことだ。彼女は容態が急変し、死の瀬戸際に立ってしまったのだ。急いで病室に駆けつけた僕が目にしたのは、友人や看護師に懸命に声を掛けられても反応一つせず、ただ虫の息でなんとか生をつなぎ止めているピスラの姿だった。
「今夜が山場でしょう」
医者の言葉がもの凄く遠くに感じられた。平常心を失っていた僕は、横たわる彼女を抱き抱え、走り出していた。背後から様々な声が飛んできたのを覚えている。
「どこ行くの!?」「何を考えているんだ!」「アンクル様! 気を確かにっ!」
僕は一度だけ振り返って叫んだ。
「僕は必ずピスラを助ける。たとえ医者が匙を投げようとも、僕は諦めない。僕は彼女を愛している。僕は彼女の——家族になりたいと思っているんだ! だから! だから————ッ!!」
言葉が続かなくなって、僕は再び走り出した。目指すは時忘れの塔。もう時間がなかった。手遅れになってしまう前に、彼女が旅立ってしまう前に、彼女をこの世界に繋ぎ止めておかなければならなかった。
「……ア、ンク……ル…………?」
彼女を抱き抱えて禁足地の森を走っている最中、奇跡が起きた。一時的に意識を取り戻した彼女が、僕に呼び掛けてきたのだ。
「ピ、ピスラ……! 待っていろ! すぐに、君を——!」
「アン……ク、ル…………もう、いい……ん、だ……よ?」
「喋るな! 君は必ず、僕が助ける! 助けてみせるっ!」
「わた、し、を……愛し、て、くれ、て……ありが、とう……だぃ……大好き…………よ…………————」
腕に、ずしりとした重さがのし掛かった。駆ける足を止め、彼女へと目を落とす。ピスラは目を閉じ、ぐったりと、僕の腕に抱き抱えられていた。身体が、何ひとつ動いていない。
「…………ピスラ?」
嫌な予感がして、僕は彼女の胸にそっと手を伸ばした。普通であればドクン、ドクンと脈を打つ心臓の動きが、全く伝わってこなかった。感じられなかった。ピスラは、すでにもう、こと切れていた。
「——————ッ!!」
感情が津波の如く押し寄せてきた。視界が涙で滲み始める。唇は震え始めたが、言葉は何も出てこなかった。
次の瞬間、僕は全速力で駆け始めた。塔を目指して。塔の魔法という希望を目指して。それしか今の僕にはできないのだから。それだけが今の僕にできる最善なのだから。考える時間なんていらない。僕はただ、走ればいいんだ。
後のことは正直、あまり覚えていない。塔の地下、今僕とひだり君がいるここのあの場所にピスラを寝かせ、壁画の宝石に触れて塔と契約を交わした記憶が断片的にあるだけだ。
そういえば、この時からだったな。塔の魔法が発動したことで、ここら一帯が毎晩のように霧に包まれ始めたのは。
ピスラを塔に連れて行った次の日、僕は藁をも掴む思いで死神兎のもとを訪れた。『この世に救済と祝福をもたらす慈悲の使徒』と名乗ったあの男ならば、彼女のこともどうにかできるのではないかと思ったからだ。どうにかしてくれるのではないかと、狂ったように信じていたからだ。
会って早々事情を説明すると、彼はコートのポケットから注射器のような物を取り出し、優しい口調で語りかけてくれた。それはまさに、僕が掛けて欲しいと望んでいた言葉だった。
「なるほど。おそらくですが、ピスラさんの身体にはまだ魂の残滓が残っていることでしょう。であれば、こちらの魔導具でピスラさんを死の闇から救い上げることが叶うはずです。この魔導具、かの有名な禁書『ソウルイーター』を模して造られた『ソウルドレイン』と呼ばれる物でしてね。禁書のような性能は持ち合わせておりませんが、しかし、人の魂を吸い取ることができるのですよ。ワテクシの言いたいこと、お分かりになりますでしょうか?」
僕は口元を緩めながら、震える頭で小さく頷いた。
「ええ、そうです。この『ソウルドレイン』を使って人々から魂を奪い、ピスラさんに注入すればよいのです。命を失ったのであれば、また命を注ぎ込めばよいのです。そうすれば、貴方の愛する可愛い可愛いピスラさんは、再び元気にこの世へと蘇ることでしょう」
ウサギの被り物が笑ったような気がした。
つづく




