039.思惑
今にして思えば、犯行を認めてからのアンクルの行動は不自然であった。いくら囲まれていたからとはいえ、住人に催眠を仕掛ける手口をあの場でペラペラと喋るものだろうか。不必要に音の鳴らない鈴を揺らし続ける意味があっただろうか。
どうということはない。全ては、広範囲にわたって町人の複数に催眠を掛けるための時間稼ぎであり、おれたちに気付かれないよう奇襲を仕掛けるための準備であったのだ。
「ええい、重いんだよ!」
マスターは呻きながらおれに覆い被さってきている。非力な子どもの体格ではやはり見た目通りの力しか出せないようで、おれは地面に倒されてから未だに彼をはね除けて起き上がることができずにいた。
しかし、右手から琥珀色の杖ポーンが離れていなかったことは幸運だった。肉体的な力では到底現状を脱し得ないおれでも、魔法が——まだ、“もどき”という呼称を剥がすには少々不安が残るような代物とはいえ——扱えるなら話は別だからだ。
「早くどけっ!」
おれはじたばたと暴れるのをやめ、杖と己の身体に意識を集中し、魔法を発動した。ショコラとの防戦一方の戦いにおいても活躍した障壁魔法である。触れた物を弾くという性質を持つ光の膜を瞬時に自身の周りに展開すると、障壁に触れたマスターが少し離れた地面へと弾き飛ばされた。
魔法の使用は体力を消耗する。平均的な男性の重さから解放されたおれは、そのことに気を配って、立ち上がるとすぐに光の鎧を消した。
ようやくといった具合で周りの状況に注意を向けると、同行者たちはあの手この手で襲い掛かる住人を無力化していた。ショコラは魔法のブーツによる高速を駆使して住人たちに一撃を入れて立てなくし、モルフォは『アラクネの糸』を絡ませて動きを封じ込めていた。成平についても彼女が守っている様子だった。
「とりあえず、今襲ってきていた人たちはこれでなんとか無力化できたわね」
アンクルの鈴により、我を忘れておれたちに迫ってきていた住人の一団を片付けると、モルフォはふうっと一息吐いた。
「これで全てとは限りませんよ。もたもたしていたら次の集団が霧の中から襲って来るかもしれません。早いところアンクル様の後を追いましょう」
しかし、動き出そうとするショコラを成平が呼び止める。
「ちょっと待って。確かにアンクルさんは町とは反対方向——禁足地と時忘れの塔の方角へ走って行ったけれど、アンクルさんはすぐに霧に紛れて姿が見えなくなってしまった。本当に塔へと向かったのかは分からないんじゃないかい? もしかしたら、僕たちにそう思わせるためのフェイクだった可能性もある」
「モルフォ、屋敷での時と同じように、あのペンでアンクルさんの居場所を突き止められないか? 紙はないけど……ほら! 地面に描くとかして」
「残念だけれど、それは無理な相談ね。地面に描くのが無理という話ではないわ。できないのはこの魔導具の契約条件によるところよ。『ペナビゲーター』は一度使用すると、時間を空けないと再発動できないの。必要な期間は位置を特定する物や描く枚数によって変動するけれど、今回の場合はおそらく二、三時間は空けないと難しいと思うわ」
おれの提案にモルフォは残念そうな顔で首を振った。
それならば、フェイクでないことを祈ってアンクルを追いかけるしかない。そして行動をするのであれば早い方がいいだろう。町の人に危害を加えていた彼がいったい何を企んでいるのか、時忘れの塔で彼が何を行おうとしているのかは分からない。だが、彼の様子からして、どうにも厄介なことを起こそうとしているのだけは確かなようだった。これ以上、このロジューヌの町に被害を出さないためにも、彼の行為は止めなくてはならない。
白いもやに阻まれた視界の中、おれたちは湖の縁に沿って禁足地の森へと走った。空気中を漂う細かな水滴が、身体を動かす度に重く纏わり付く。町と森とを隔てる木の柵が霞んで見え始め、その柵をすぐに越えて夜の禁足地へと足を踏み入れる。
昼間なら巻貝の塔が木々の合間から乳白色と橙色の顔を覗かせているのだが、霧深い夜ではそうはいかなかった。それでも進む方向を間違えずにいられたのは、何度も何度も町から塔へと足を運んでいたモルフォのおかげである。
今まさに霧が出ているせいだろうか。以前に来た時よりも地面のぬかるみが酷く、足下に注意を向けていないと転びそうだった。実際、走っている途中でおれとショコラが足を滑らせて転び掛けていた。また、森の中は町付近と違って地面の凹凸が大きく、ところどころ木の根が顔を覗かせてもいた。その上に霧による視界の悪さである。必然、おれたちの走る速度は大きく低下していた。
しかし、意識しなければならなかったのは視界や大地の状況だけではなかった。深い闇が佇む森の奥、思わず震え上がってしまいそうな暗黒の中から、明らかにおれたちに対して視線が向けられていた。前に入った時にも感じられた、あの突き刺すような鋭い視線である。それは前回同様、複数のようであり、四方の暗闇から放たれている物だった。以前と違うのは、視線に殺気が混じっており、時間が経つにつれて殺気の圧が増してきていることだ。
気味悪く感じていたが、おれたちに何か危害を加えてくることはなかった。そのため、足場と視界の悪さを除けば、スムーズに前へと進むことができた。
おれたちが塔の入り口を視界に収める頃にはすでに、先を行くアンクルの後ろ姿も捉えていた。激しく揺れる右肩にはマスターが飼っていたリスがしがみついている。どうやらアンクルは、おれたちよりもぬかるんだ大地に苦戦していたらしい。
蹴り出すための地面に若干の難があるものの、この距離ならば、ショコラが目にも留まらぬ速さで彼を捕捉することも可能かもしれない。あるいは、モルフォの『アラクネの糸』でも捕まえられるかもしれない。あの糸の射程距離がどれほどかは知らないが、結構遠くまで飛ばせそうではある。
おれたちとの距離が順調に縮む中、塔の内部へと駆け込んだアンクルは、身体ごとこちらを振り返って不敵な笑みを浮かべた。ほとんど追いつかれているも同然であり、拘束されるのも時間の問題である。その彼が口元を歪ませるのに疑問を抱きつつも、おれは足を止めずに進み続けた。
アンクルは上着の内ポケットから、赤い液体の入った細長いシルエットの小瓶を取り出すと、それを地面に叩き付けて割った。意味不明な行動に、おれや成平たちは走る速度を緩めて警戒心を高める。アンクルはこちらを一瞥すると、塔内の闇へと姿をくらました。
「アンクルさんはいったい何を……?」
成平の呟きにおれが、「今はとにかくアンクルさんの後を」と答えようとして口を開きかけた、まさにその時であった。禁足地に入ってからずっと、忌々しく付きまとってきていたあの殺気が一気に膨れあがり、塔の魔力とは全く異なる極めて攻撃的な魔力がこちらに向かって急速に迫ってきていた。
「————身を隠してっ!!」
モルフォが叫び、側に立つ木の幹に身を寄せた。それを合図に、ショコラ、成平も近くの樹木に隠れる。全身至る所に怪我を負っているおれは、俊敏に動けないことを自覚していたため、彼女の声を聞いて真っ先に光の障壁で身を包んだ。
結論から言えば、この判断は正解であった。モルフォの警告の直後、紅に輝く光の弾が横殴りの雨の如くおれたちに襲い掛かってきたからだ。小さな光弾と思われるそれらは残像を造り出すほどの速さで動いており、おれの目には細い針のように見えた。ザアアアッという音とともに木の幹を抉るその様子は、まさしく赤い雨という形容が似付かわしい。
障壁の強度をなんとか最大限に保ったおれは、赤い針の猛攻にどうにか無傷で耐えることができた。しかし、魔法の使用には心身の疲労が伴う。屋敷でのショコラとの対峙から数時間経っているとはいえ、治癒魔法の恩恵を受けていないおれはだいぶ疲弊していた。同じことをあと二度三度と繰り返せるとは思えない。
魔法を解除し、地面に突き立てたポーンに身体を預ける。走っていた時よりも息苦しい。
訂正しよう。最大強度の障壁はあと一回が限度であり、おそらく三度目はない。
「大丈夫ですか、ひだり? あなたは万全の状態ではないのですから、あまり無茶をなさらないで下さい」
駆け寄ってきたショコラがおれの身体を支えてくれた。
「傷を負わせた張本人がそれを言うか。まあでも、ありがとう」
ショコラに支えられながら、幹の太い樹木の陰へとおれは移動した。木の幹にもたれ掛かり、深呼吸を数回して息を整える。
別の木の陰へと身を隠したショコラが、険しい表情で攻撃が飛んできた方向に目を向けている。少しばかり落ち着きを取り戻したおれも同じ方へと目をやるが、弾を飛ばしてきたと思われる存在はどこにも見当たらなかった。
奇襲を仕掛けてきた正体不明の存在へと全神経を集中させていると、成平が何かを見つけたようで声を上げた。
「機銃蟻だ。それも、かなりの数がいる」
彼は地面を指差していた。おれはもう一度光る弾が飛んできた方向に顔を向け、彼が指し示す地面へと目線を下げていった。するとそこには、小さきものどもがざわざわと蠢いていた。霧の夜では暗くて見え難かったが、目を凝らすと辛うじてそれらが蟻であることが確認できた。
「そうか……! さっきアンクルさんがぶちまけたのは血だったのね」
「血、ですか?」
今の状況に一人得心が行った様子のモルフォに対して、ショコラは首を傾げていた。
「ええ。あれが人のものか動物のものかは分からないけれどね」
モルフォはおびただしい数の蟻を睨み付けながら言った。
「アンクルさんはこの森に機銃蟻がいることを知っていた。そして、あれを隠し持っていたからこそ、私たちをここまでおびき寄せたんだわ。機銃蟻に私たちを襲わせるために!」
つづく




