003.仮の身体に仮の名を
「そういえば、キミの名前をまだ訊いてないや」
時刻は昼を少々過ぎていた。留置場から解放されたおれが、自由の身にならずに次に連行された場所は、街中のあまり混んでいないカフェであった。そこのテラス席に三人で腰掛け、遅めの昼食としてサンドイッチを楽しんでいると、砂糖たっぷりの紅茶を一口飲んでからジュジュがぽつりと呟いた。言われてみれば、まだ自己紹介というものをしていなかった。
「確かにまだ教えてもらってなかったね。」
食べかけのサンドイッチを皿の上に置き、ロロットはジュジュの方を一度見てからおれの方に視線を移した。
「何ていうの?」
「名前。う~ん、なまえ、ねぇ……」
二十数年生きてきているから、名前というものはもちろんあるし、忘れるなんてことは普通あり得ないことだ。あり得ないことなのだが、しかし、どうにもおかしい。自分の名前を訊かれたのに、ぱっと出てこない。そんなに珍しい名前ではなかったはずだが。どうも頭の中に、もやがかかっているような感じで上手く思い出すことができない。
いや、名前だけではない。“ここ”に来る前の、逞しい二十代後半男性の身体だった頃の記憶、すべてが上手く思い出せなかった。仕事の疲れ、実家にいるペット、家賃、〆切、同窓会、友人との旅行の計画。そういった断片的なことのいくつかは思い出せるのだが、どれもこれもバラバラといった感じで、全体としての記憶はぼやけてしまっていた。
確かに言えることは、現実社会で平々凡々な生活を送っていたら、二ヶ月前のある日突然、子どもの姿として“ここ”に存在していたということである。藍色のさらさらショートボブの髪に白のパーカーと黒いズボン。そして茶色の革靴を履いているこの子どもの姿に、当然見覚えはなかった。以来、今日までの二ヶ月間の記憶はきちんと頭に残っている。
また不思議なのは、自身のこれまでの人生や体験については記憶が曖昧になっているものの、経験や学習を通して身につけた知識はちゃんと覚えているという点である。たとえば、テレビやスマートフォンといった家電についてや、ニューヨークやパリ、日本といった地名についてなどはこの姿になってからも鮮明に覚えていた。
「人に名前を訊くなら、まずは自分の方から名乗るのがマナーってやつじゃないか?」
とりあえず、彼女たちの方から自己紹介をさせる流れに持っていくことにした。話を聞いている間に自分の名前を思い出せるといいんだけれど。もし思い出せなければ、その時はなんか適当に名乗っておこう。
「ああ、そっか」と言ってもう一度紅茶を飲んでから、ジュジュはおれと目を合わせてきた。彼女の獣の耳はランチの時でも時々ぴくぴく動いていた。
思うに、遠くの方でしている誰かの話し声や物音に反応しているのだろう。そういうところは動物っぽい。また、彼女の心模様に合わせて尻尾も動くようである。やはり、そういうところは動物っぽい。
「わたしがジュジュ。んで、こっちがわたしの幼馴染みのロロット」
「えと、賢者見習いのロロットこと、シャルロッテ・フォン・シェーンブルクです。これからしばらくの間は一緒に旅することになるから、よろしくね! 何か困ったことがあったらお姉ちゃんたちを頼っていいからね!」
「え~っと……以上っ!」
えっ、以上?! これでお終い? 「じゃあ、次はキミね!」と銀髪ケモ耳娘のジュジュがおれに促すが、これで自己紹介が終わりとは、いくら何でも雑すぎやしないか。そう思ったおれは、留置場にいたときから疑問に思っていたことを尋ねてみた。
「金髪の君の本名は“シャルロッテ”というのに、どうして“ロロット”って呼ばれてるんだ?」
「ロロットは愛称だよ。それがどうかした?」と、ジュジュがすぐに答えた。
「いや、“シャルロッテ”の愛称なら“シャル”とか“シャルちゃん”とかになりそうなもんだけどなーって、ふと思ったから。“ロロット”ってなんか不思議じゃないか?」
別に“シャルロッテ”の“ロ”に中心を置かなくてもいいのに、という疑問である。
「え~? そうかなぁ。わたしは別に“ロロット”って呼ぶことに特に違和感感じないし。ロロットは? 呼ばれる立場的にはどうなの?」
「私? う~ん……そんなこと考えたこともなかったよ。でも特に違和感とかは感じないなぁ。“シャルロッテ”を“ロロット”って呼ぶのは普通だと思う。“エリザベス”って名前の子を“ベティ”って呼ぶのだって普通のことだし」
「そうそう。“ミトコンドリア”を“ミーコ”って呼ぶのと同じだよ!」
「それは違うと思う」
すかさず、ロロットが否定した。
「え?」
ジュジュはきょとんとしている。ミトコンドリアのことを“ミーコ”と呼んでいるのは、たぶん世界でお前だけだと思うぞ、ジュジュ。しかし、この世界にもミトコンドリアはいるんだな。おれのいた世界の生物で、この世界にも存在している生物はまだ他にもたくさんいそうだ。
「まあでも、時々いるよ。私のこと“シャル”って呼ぶ人も」
ロロットは皿に置いた食べかけのサンドイッチに手を伸ばす。二口ほどで残っていた分を食べ終えた。そういえばおれもあと一切れ残っているので、適当なタイミングで口に運ばなくては。
「へぇ~、そうなのか! 幼馴染みだけど、それは初めて知ったな。誰がそう呼ぶんだ?」
「兄様だよ。いつも遠くにいるから普段は会えないけど、会ったときは必ず私のことを“シャル”って呼ぶんだよ! 前に理由を聞いたことがあるんだけどね、兄様的にはみんなが呼んでるように“ロロット”って呼ぶのが恥ずかしかったみたい」
食事中にはほぼ飲んでいなかったミルクティーを、半分ほど喉に流し込んでから彼女は答えた。ロロットの言葉に、ジュジュは「可愛いお兄さんだな!」と言ってケラケラと笑った。その様子を見ながら、おれは残っていたサンドイッチに手を伸ばす。
「兄様のこと言えるの? ジュジュ~」
不適な笑みを浮かべたロロットがジュジュの顔を覗き込む。ジュジュの笑顔が少し引きつった。なんだ? 何かあるのか? そう思っていたら、ロロットがおれの方に顔を向けて訳を話してくれた。
「この子の“ジュジュ”っていうの、実は愛称なんだよ」
「ちょ、ちょっと、ロロット!」
「へぇ、そうだったのか。じゃあ本名は何ていうんだ?」
丸い白テーブルの上に手をつき身を乗り出して立ち上がったジュジュが、ロロットの話を遮ろうとしている。そんなに慌てることなのだろうか。
「ジュジュの本名はね、“ジュリ——」
「あー! わー! わああああああーーーーッッ‼︎‼︎」
本気で叫んだジュジュの声が、おれの鼓膜を痛いぐらいに振るわせた。耳の奥がキーンとなる。ロロットは彼女のこの反応を予測していたのか、素早く両耳を手で塞いで事無きを得ていた。おれも次の機会があったらすぐに耳を塞ごう。
あんまりにも大きな声だったため、周囲の人々がこちらをじろじろと見てきた。同じようにテラス席に座って軽食を取っていた細身の女性、通りを歩いていた小太りの男性、小さな子どもと一緒に買い物をしていたお母さん等々から、何事だろうといった感じの、不思議に思っているような視線があちこちから向けられた。
大勢の人たちから注目を浴びていることに気付いたジュジュは、頬と獣耳を真っ赤にし、恥ずかしそうにしながら席に座り直した。
「うるせぇよ……」
「はい。すんません」
「そんなに照れなくてもいいのに~」
「黙ればかっ。ばかばか、ロロットのばか」
子どもかっ! と心の中で思わず突っ込んでしまったが、見た感じ十三、四歳の女の子なのだから、反応が子どもっぽいのは当たり前かとすぐに思い直した。
「ごめんごめん」と笑いながら謝るロロットには目もくれず、ジュジュはもうぬるくなってしまったであろう紅茶をごくごくと勢いよく飲み干した。彼女のその、まさにふて腐れているといった様子が年相応で可愛らしい。
空になったカップを、ソーサーの上にガチャンと音を立てて戻したジュジュがこちらを見てきた。ぶすっとした表情でおれの顔をじーっと見てくる。
「わたしたちのことはもういいでしょっ! キミの名前、そろそろ教えてよ!」
「あー、うん。名前、な……」
彼女たちの話を聞いている間に思い出せれば良かったんだが、結局おれは自分の名前が分からずにいた。困ったおれは咄嗟に目を伏せてしまう。視界に入ってきたのは、食べかけのサンドイッチを摘まんでいる左手。子どもの身体だからか、やけに肌が綺麗だった。
「…………ひだり」
これといって良い名前が浮かんでこなかったおれの口からは、気付いたらその言葉が零れていた。とても小さな声だったと思うのだが、どうやら獣の耳は見た目通りの性能をしているらしい。おれの呟きを拾い、最初に反応を返したのはジュジュであった。
「ん? ひだり? 左がどうかしたか?」
自分で言っといてなんだが、名前を訊かれて“ひだり”と返すのは如何なものか。だがしかし、名前の案はいっこうに浮かんでこない。第一、この仮初めの身体に対する名前なのだから、どんな名前であっても別に困らないような気がする。そういうことを思ってしまったおれは、自分の名前についてあれこれ考えるのをやめた。
「おれの名前。もう“ひだり”でいいよ」
「は、はあ?」
「今後おれのことは“ひだり”と呼んでくれ」
「ひだり君、本名は? ちゃんとお姉ちゃんに言いなさいっ!」
ロロットにそう言われてしまったが、本名が思い出せているならさっさと名乗っている。とりあえずジュジュの方を見て次のように答えてやった。
「ジュジュだって本名言ってないじゃん。ま、おあいこだよ、おあいこ」
「んなっ!? そ、それとこれとは……」
ジュジュがたじたじになったことを確認してから、おれは食べかけのサンドイッチを一気に口に頬張った。ロロットが「も~!」と言っているのが聞こえるが、名前についての話はこのくらいで終わりだ。完全に冷め切った紅茶で口の中の物を流し込む。
そういえば、これから先どこに向かうのかなどについてはまだ全く聞いていない。地面に置いていた杖を手に取って立ち上がってからそのことに気付いた。まあ、それは歩きながらにでも聞けばいいだろう。ロロットとジュジュも席を立ち、おれたちは会計を済ませに店の中へと入って行った。
つづく