033.領主様のオモテナシ
「このような湖と森林が美しい所には観光で訪れたかったものですね、お嬢様」
小高い丘を登り終えた私は、頭の左右に結った黒髪を靡かせて後ろを振り返り、依頼を受けて訪れたロジューヌの町を一望しました。曇天のせいでぱっとしない景色ではありましたが、それでも見る者に美しいと思わせる観光地らしい景観に、いたく感動したことは鮮明に覚えております。私に並び立つお嬢様もまた、湖の方から私たちの後方へと吹き抜けていく風に、長くやわらかな金髪を遊ばせながら、淡い水色の目をいつも以上に輝かせておりました。
「そうね。こんな曇りの日じゃなくて、晴れの日にゆっくりしたいところね」
そんな一言を零しながら。もっとも、依頼主の屋敷を背にして一息つくお嬢様に私は、
「お嬢様が今以上にゆっくりなされたら人間として終わってしまいますよ。今日だって、朝のずぼらぶりときたら、ダメ人間のそれでしたのに」
と、からかいの言葉を送ったのですが。私、高貴な方であるお嬢様であそ——いえ、お嬢様と親密なコミュニケーションを取ることも従者の務めと心得ておりますので。
しばし観光地らしい景色を楽しんだ後、私たちは屋敷へと向き直り、歩くことを再開しました。
「お待ちしておりましたよ、『水曜の賢者』様方。さあ、こちらへどうぞ。歓迎の準備ができております。話はそこで」
屋敷の大扉を通った先には依頼主であるコバルト様が使用人を伴って立っており、私たちを食堂へと案内して下さりました。事前に伺っていたお話では、この屋敷には領主様の息子であるアンクル様も生活しておられるとのことでしたが、出迎えにはいらっしゃいませんでした。後で伺ったことですが、アンクル様は私たちが訪れた時点で既に仕事の関係で外泊の方が多かったそうです。
時刻は昼を過ぎて少々、といったところだったと思います。私もお嬢様も既に町で昼食を取っており、これ以上は流石に頂けないなと思っておりましたが、食堂の長テーブルに用意されていたのは少し大きく切り分けられたケーキと茶菓子類だったのでホッとしました。もっとも、“体重”という乙女的問題からすると、ケーキについては複雑な感情を抱かざるを得ませんでしたが、それはひとまず置いておいて、きちんと美味しく頂きました。
「飲みやすいよう、砂糖も入れてきましたぞ。普通に飲むと少し苦みがあるのでね。ささ、こちらでくつろぎながら私の話を聞いて下され」
そう言いながらコバルト様が持ってきたのは、高級そうなカップに注がれた紅茶でした。今にして思えば、既にこの時から始まっていたのだと思います。ともあれ、当時はそんなことを考えもしない私は、お嬢様と二人、その紅茶で喉を潤しつつ、またケーキを楽しみながらコバルト様から今回の依頼内容を改めて伺いました。
内容は書類で頂いた時とさして変わらず、ただ“原因不明の倦怠病を鎮めて欲しい”ということだけでした。色々と訊いたのですが、「書類に記した以上のことが分かっていないため何も説明できない」、との答えが返ってくるばかりで、この場では詳しいことは分かりませんでした。
「確か書面には霧が倦怠病を引き起こしているのかも、という記述がありましたよね? その霧というのは今晩も……?」
お嬢様も問い掛けにコバルト様は「ええ、おそらく」と答え、窓の外へと視線を向けました。「夜に」という言葉とともに。
「今日はもう移動で疲れちゃったし、まずは夜出てくるって言ってた霧についてから調べ始めましょう!」
コバルト様からざっくりと依頼内容を確認し終え、私たちの部屋に戻ったお嬢様が自信ありげな顔で言いました。調査中はコバルト様の屋敷に厄介になる契約でしたので、二人で寝泊まりできるくらいの広い部屋をあてがわれていたのです。
「移動で疲れておられるのではないのですか、お嬢様? 私は、今日はもうお嬢様の手伝い——失礼、子守りをするつもりはなかったのですが」
「……失礼って言っておきながら、言い直した後の方が酷いこと言ってない?」
「お気になさらず」
「その言葉、今の流れで使うものじゃない気がするんだけどな」
「お嬢様、お言葉ですが言葉というものは生き物でございます。時の流れとともに新たな意味が加えられたり、新たな使い方をされたりするのが世の常です。私のも、そういうことでしょう、きっと」
「ん~? 肝心の自分の発言をフォローする部分が投げやりになっているけれど、それでいいのかしら……?」
とまあ、こんなやりとりをしつつ、私たちは部屋で夜まで過ごし、霧が立ちこめるのを待ちました。そうして夕食後にやっと出てきた霧は予想以上に濃く、夜の暗闇と合わせてほとんど先の景色を見ることができないほどでした。
そんなところに出て行くことが、倦怠病という謎の病を発症させる可能性のある濃霧の中に飛び込んでいくことが、私にはとても恐ろしく感じられました。けれど、賢者である自分に誇りを持っておられるお嬢様は、
「じゃあ私はちょっと外に出てみるね。ショコラは危ないからここで待っていて」
屋敷の玄関の前に立つ私に一声掛けると、大扉を押し開けて霧に包まれた外に出てしまわれました。お嬢様が霧の中に入り、霧について調べておられたのは別に長い時間ではありません。部屋に時計を置いてきてしまっていたため正確には分かりかねますが、お嬢様は十分も出てはいなかったと思われます。ただこれもまた、今考えれば私がコバルト様の策略に嵌まってしまった一因を担っていると言えなくもありません。
『水曜の賢者』であられるお嬢様は、“情報と交流を支配する魔法”を得意としています。情報収集はお手の物であり、だからこそお嬢様のもとには世界各国から様々な事物に関する調査依頼が届くのです。今回の件もその一つでした。そのため、基本的にはお嬢様の魔法を使って有力情報を集めるのが定石だったのですが……。
「ごめんなさい、ショコラ。なんだか体調があまり優れなくて。魔法が上手く扱えないの」
私から見れば顔色は普段と変わらぬものでしたが、本人がそう仰っている以上、従者として無理はさせられません。散々な悪口がうっかり口をついて出てしまう私ですが、これでもアリスお嬢様の従者なのです。その辺はしっかりしていますとも、ええ。
仕方なく、霧と倦怠病に関する調査は足で稼ぐという方法を取ることになりました。結果、お嬢様の魔法で調べられれば一日で終えることができたであろう作業に数日間が費やされました。途中、町で何やら住民の方とお話をされていたアンクル様と一度お会いすることができましたが、彼からも実りのあるお話は伺えませんでした。
調査作業は地味で持久力を要するものでした。昼は町へ降りて住民の方々に聞き込みを行い、夜は毎晩不可解に発生する霧を、自らもまたそれに包まれながら調べる。まあ、私は相変わらず霧が不気味に思え、夜はお嬢様に任せっぱなしだったのですが。もっとも、私ごときが霧の中に入っていっても、何か重要な情報を掴めるとは露にも思いませんけれど。
調査が長引いていることをコバルト様に伝えると、無理をしないようにと言ってくれ、朝夕の食事も屋敷の方で用意してくれました。トリコロール連合国ブルーフォント領の領主であり、かつロジューヌ調査の依頼主であり、そしてまたこのように優しく接して下さるお方を、お嬢様はもちろん、私も完全に信用しておりました。それが間違いだったのだとも知らずに。
「コバルト様? こんな時間に厨房で何をなさっておいでなのですか?」
ある夜のことです。この日も嫌な濃霧が現れており、お嬢様は外に出ていらっしゃいました。喉に渇きを覚えた私は、お嬢様が頑張っているのを心の中でちょっぴり応援しつつ厨房に向かったところ、コバルト様に出くわしたのです。
領主の屋敷ですから使用人の方は何人もいらっしゃいました。それにも関わらず領主自らが厨房にいるということ、そして彼が飲み物の注がれた三つのマグカップを前にしているということが不思議に思えました。
「これかね? 喉が渇いたから紅茶を煎れていていたのだが、そういえばアリス様たちは夜も頑張っておられたなと、ふと思い出しましてな。お二方への差し入れとしてこうして二つ、用意しておるのですよ」
「それはそれは、領主様自ら煎れて下さるとは。お心遣い頂きありがとうございます」
「依頼をしているのはこちらの方です。もてなすのは当然のことでしょう」
コバルト様は和やかに笑って、砂糖と思われる白い粉を一つのマグカップに注ぎました。そう、一つのマグカップにのみ、“ソレ”を入れたのです。私は彼のその行動を、砂糖を入れるのはそのマグカップで最後なのだという風に思ってしまいました。事実、コバルト様はそのマグカップの中身を銀のティースプーンで軽く混ぜると、今度は茶菓子の用意に取り掛かりだしたのです。そう解釈しても無理はないと、恥ずかしながら、今ですら思えてしまいます。
しかし私はこの時気付くべきでした。薬学や薬理学を囓っていて薬の調合を自らの特技だと自負している私は、この時点で感知するべきだったのです。この小太りの彼が——ブルーフォント領の領主であり、かつ今回の依頼主であるコバルト様が、お嬢様に毒を盛っていたのだということに…………。
コバルト様の煎れた紅茶を、何の疑念も抱かず美味しそうに飲み干したお嬢様は、翌朝、口も利けないほどの高熱に苦しみ、汗でぐっしょりとなったベッドの中から起きてきませんでした。
つづく




