032.少女、紅の瞳に何を秘めるか
夢を見た。長期旅行から帰ってきた時のような、妙な懐かしさと安心感のある、夢を見た。
……いや、夢から醒めたのだろうか。そこは、見慣れた安アパートの一室。ところどころに汚れが目立つ白い壁と、うっすらと水垢が浮かぶ窓に囲まれた、六畳ほどのスペースの端にどかっと置かれたベッド、その上におれは座っていた。目の前にちょこんと置かれた小さな丸テーブルには描きかけの原稿が置かれ、床にはあちこちに水彩絵の具のチューブが転がっている。ザ・片付けの苦手な男の部屋といったところだ。
寝癖の付いた頭を少し掻き、立ち上がってみる。自身の等身がなぜだか高く感じられた。そういえば、夢の中では小学生くらいの子どもになっていたんだっけか。身の丈以上ある琥珀色の杖を抱えてあっちにこっちにと旅をしていた気がするが、それもなんだか遠い昔のように感じる。
突如、玄関のドアを乱暴に叩く音が聞こえてくる。男の野太い声がするが、投げ掛けられるその言葉はぼやけていて何を言っているのか分からない。ただ、酷く気味が悪く感じられ、汗がぶわっと噴き出してきておれは身体を震わせた。先ほどまでの安心感はどこに行ったのか。今のおれを占めるのは、ドアの向こう側に対する底冷えのような恐怖感だった。
「————ぁり君! ひだり君! ねえ、聞こえてる? ひだり君ッ!」
「あっ、え、あ……?」
何度も呼び掛ける声にハッとする。視界がはっきりとし、モルフォが心配そうにこちらを覗き込んでいるのが理解できた。今の状況を把握しようと思い、おれは上体を起こす。
「いってててて」
「ちょ、無理はしないで! 毒はショコラの解毒剤でもう何ともないはずだけど、まだあちこち怪我してるんだから」
体中がズキズキと痛む。なるほど。やはり全身に色々と怪我を負っているらしい。
モルフォに気遣われながらもおれはゆっくりと部屋を見回した。どうやらここは領主の部屋の中であるらしく、おれはソファに横たわっていたようだった。部屋の端にはコバルトが縄で縛られて逃げられないようにされており、その側には汚れてしまったメイド服に身を包むショコラが、まるでコバルトを監視するかのようにして立っていた。また、部屋の扉近くにはジュジュと成平が、ピンピンした様子で立っているのが窺えた。目の合ったジュジュなんか、軽く笑っておれに手を振ってきてくれる。
「ちゃんと気が付いたみたいでよかったわ。目を開けたはいいけれど、私の呼びかけにはずっと応えてくれなかったから心配しちゃったわよ」
「あ、ああ。ええっと、状況がよく分からないんだけど……。とりあえず、ジュジュと成平の怪我は大丈夫なのか? 特に成平なんか、どっか骨を折っていたと思うんだが」
「あの二人は大丈夫よ。私のこの魔導具で傷は完全に癒えているから」
モルフォが白いブラウスの胸ポケットから取り出したのは一つの小瓶だった。儚さ漂う淡い瑠璃色のガラスに囲われた空間には、今は何も入っていない。その栓には天使を象った銀細工があしらわれており、その天使は両の手で大層大事そうに赤い宝石を抱いている。その宝石から感じる魔力は並々ならぬものであったが、不思議と怖い気配は微塵もなかった。
「これは?」
手渡された小瓶をしげしげと観察しながら尋ねると、彼女はフフッと笑って答えた。
「『祝福のラファエル』。私のコレクションの一つよ。この小瓶の中には天使ラファエルの慈愛に満ちた聖水が溜まるの。その聖水には傷を癒やす力があり、骨折はもちろん、量次第では瀕死の重傷でもすっきり爽やかに回復させることができるわ」
持っていた小瓶はモルフォが伸ばした右手で簡単に取り上げられてしまった。貴重な魔導具の鑑賞時間はもう終わりということだろう。彼女が奪った、もとい取り戻した小瓶をブラウスの胸ポケットに再びしまう様子を、もうちょっとくらい見せてくれてもいいのになと惜しく思いながら、おれはじっと眺めていた。
「ネックなのは、月明かりのある夜の間にしか聖水が生み出されないってところね。人ひとりを癒やすのに十分な量が溜まるまで、多少時間が掛かってしまうの。それで今は、成平さんとジュジュの治療で聖水を使い果たしてしまったから中身はすっからかんよ。もっとも、聖水が残っていたとしても、ひだり君を癒やすことは適わなかったでしょうけれど」
『祝福のラファエル』という魔導具のことをいつまでも気にしてたってしょうがないと思い、身体を預けていたソファからよっこらせと立ち上がる。痛みを堪えながら身体を動かすおれに対し、モルフォは申し訳なさそうな苦笑を向けた。彼女のその言葉、その表情の意味は訊かなくても理解できる。以前、ロロットにも似たようなことを言われていたからだ。
——“おれには治療魔法が効果を発揮しない”。それは、不可解にも賢者並みの魔効抵抗力を有していることが原因だった。
「魔法の影響を受けにくいってのは普段なら恩恵がでかいもんだが、こうやって怪我してる時にはただのハンデにしかならねぇな」
「そ。だから無理はしないことよ。ま、そんな話、この場ではどうでもいいことね」
眼差しを鋭くし、彼女は部屋の隅にいる二人の人間を見やる。刺すような視線を受け、締め上げられた憐れな領主は身体を一度、大きく振るわした。彼の様子を氷のように冷たい目でもって見下ろしているショコラが、その小太りの男から視線を一ミリたりとも剥がさずに口を開く。
「この男の話を伺う前に、やはりまず私から事情を説明するべきでしょうか」
「いや、それよりも先にショコラちゃんとひだり君との戦いから今のこの状況に至るまで、いったい何があったのかを簡潔に話すべきじゃないかな? その方が僕は道理に適っていると思うんだけれど。どうかな、ひだり君?」
「意識失ってたからな、おれ。そうしてくれると凄く助かる」
「んじゃ、それについてはわたしから話すよ」
成平の提案を引き受け、ジュジュが部屋の中へと歩を進めておれに近づいた。話してくれたことの顛末をまとめると以下のようであるらしい。
おれが神経毒にやられて身動きが取れず、意識すら朦朧としていたあの時、食堂の中に素早くしなやかに伸びてきた細長い何かは、モルフォの魔導具『アラクネの糸』によって作り出された光の糸であったらしい。つまり、ギリギリのギリギリでモルフォは食堂に戻ってきていたということだ。
自身の警戒網の外から唐突に高速で迫ってきた光の糸にショコラは反応が遅れ、両腕もろとも身体を縛られたのだという。糸はその後にもう一本伸びてきて彼女の両足を一括りでまとめ、完全に身動きを封じた。そうして瞬時に場を制したモルフォは、ショコラ同様に魔法の糸で捕縛したコバルトを伴い、悠然と食堂へと入ってくると一言、こう告げたのだとジュジュは語った。
『今度こそ、すべてを話してくれるかしら?』
「……なるほど。それで今に至ると」
ジュジュの話が終わったところでおれはハッとする。大事なことをまだ聞いていなかった。
「それで、ロロットは? あと、アリス様も! 二人は大丈夫なのか?!」
「お二人は今安静にしておられますよ。コバルト様が十分な量の解毒剤を投与しましたから」
「解毒剤? じゃあ、マジであの子らは毒を盛られてたって訳か」
メイドの少女は一瞬だけおれの方を見てこくりと頷くと、すぐにコバルトへと目を戻した。彼を捉えているのは、今は光の糸ではなく差し渡しの大きい丈夫そうな縄であった。その縄の先端を、逃げる領主側について先ほどまでおれたちと敵対していたショコラが握っている。彼女の紅の瞳には依然、冷たい光が宿っていた。その様子は、領主側に立つことが彼女に強いられていたのだということを示唆するのに十分であり、少なくともおれの目にはそう映って見えた。
「それで、ショコラは何故コバルトさんに付き従ってたんだ? 本来は『水曜の賢者』であるアリス様の従者だろうに。その訳もちゃんと聞かせてくれるんだろうな?」
「ええ、もちろん。私がお嬢様とともにこのロジューヌの町にやって来たおよそ一ヶ月前から今に至るまで、その間に何があったのかをきちんとお話し致します。コバルト様が——いえ、この男が何を企んでいたのかは知りませんが、私が知る限りのことは、すべて」
そう前置きするショコラは、心なしか前よりもどこか気を緩めているように見えた。おれの気のせいかもしれない。ただ、何か事情があってやりたくもないことをやっていたらしい彼女は、きっと今日まで心に重くのし掛かるものを抱えていたんじゃないかと思う。アリスにもおれたちにも相談することができず、ただ、己の心を殺して行動する日々だったんじゃないかと思う。
だから、今は。
そうした憑き物が落ちた今は、久々に、心を落ち着けているのかもしれなかった。
「少々長くなるかもしれませんが、どうぞお付き合いの程、よろしくお願い致します」
最初に一言断りを入れ、ゆっくりと深い溜息を一つ吐いてから、ショコラは己が何を思い、そして何のためにコバルト側に付いていたのかを語り始めた。
つづく