031.見落とし
障壁魔法と呼ばれるものは、その名の通り防御系の魔法である。ロロットから聞いたところによると、術者の保有する魔力の量によって強度はまちまちであるが、だいたいの危険からは身を守れるらしい。障壁に触れたものをバチッと弾くので、それこそナイフであろうと大抵は障壁を破れないそうだ。
「魔導具のブーツ使って闘ってたのに、この期に及んでただのナイフ取り出すとはどういう了見だ?」
「蹴りと違って当たればスパッ、ですよ。十分に脅威でしょう? 身体中から血がドクドクと流れ出ていくのですから」
冷静で挑発的な言葉とは裏腹に、ショコラを覆う二重の膜の外側の方、魔効抵抗力は不規則な揺らめきを止めない。動揺ではないだろうが、何らかの意味で心が動いている証だろう。
しかし、彼女の心の揺らぎは当てにすることができない。先ほどの蹴りは感情が高まった時のものだったが、その威力は前までのものと比べても劣ることはなかった。彼女がこの戦いで手心を加えてくれる可能性はまずない。
「出血死狙いか? じゃあこれまで以上に気張ってないとな」
「それだけで私の攻撃を防げると? その中途半端な障壁魔法で? 私も随分と舐められたものですね」
「倒れなければおれにもまだ勝機はあるさ」
というか、そう思っていないとやってられないと言うのが正直なところだ。ただこの場合の勝機は、文字通りの意味での「おれが勝つ」というわけではないのだが。
けれどショコラの言う通り、おれのこの未完成の障壁でナイフによる斬撃、あるいは刺突を防げる気はしない。光の壁が砕け、自身が傷付く姿だけが鮮明に思い浮かぶ。
「避けに避けまくってやるよ」
おれは強度を保ちつつ、障壁の膜を拡大させた。身に纏う光の鎧をできる限り肉体から遠ざけ、障壁にナイフが触れた瞬間に回避行動を起こせるようにするためだ。実際にできるかはなんとも言えんが、この状況下ではベターな選択肢ではないだろうか。
もちろん、素人に毛が生えた程度の腕前なのでさほど大きく膨らむことはなかったが、こんなものでもやらないよりはマシだ。慣れない戦場、そこにおける気休めはとても心強い。
「さて、無駄話もこのくらいにして——」
ショコラの脚を覆う光の炎が膨れ上がる。その青白い光を反射して、彼女が右手で握るナイフが怪しく光った。
「一方的な暴力行為を続けましょうか」
瞬く間にショコラが消える。魔道具の蹴りではないため、魔力の増幅から攻撃箇所を特定することはできない。彼女がナイフに魔力を集めてはいないためだ。だから、限界まで広げた光の膜にナイフが当たる感覚だけが頼りだった。
ハッキリと見ることのできないショコラの突きを紙一重のところで交わしていく。右肩、左脚、胸、首筋、右脇腹。激しく振るわれる攻撃に対し、体を捻って避けていく。回避が間に合いそうにないものは攻撃箇所に魔力を集中してナイフを弾き、避ける時間を稼いだ。
蹴りと違い、ナイフによる攻撃では吹っ飛ばされない。神経をすり減らすが、これならばなんとか立ち回れそうだ。
「————ッ!」
そう思ったのも束の間、鳩尾を思いっ切り蹴飛ばされる。身体が後方へと飛んでいき、食堂入り口からは遠ざかっていく。床に何度もぶつかり、跳ね、滑って止まった。
このタイミングでブーツによる一撃とは。おれは咳き込みながらも杖を支えにして急いで立ち上がる。唐突なキックに十分な対応が取れなかった。
だが、そんなことを考えている余裕はないようだ。ショコラが再び視界から消え去る。それは、次の攻撃の合図だった。
気付けば、障壁の強度が著しく下がっていた。ナイフの猛攻をスレスレで回避しつつ、時折放たれる蹴りの一撃で吹っ飛ばされるという流れを、いったいどれほどの時間行なっているのだろう。おそらく、おれが思っている以上に短い時間なのだろうが、そんなことは大したことではない。重要なのは、おれがすでに集中力を切らしているということだった。
そしてとうとう、おれは脆くなった障壁を破られてしまった。左脇腹を切り裂かれ、鋭い痛みがおれを襲う。部屋の隅の方でジュジュが息を飲む音が微かに聞こえた。付けられた傷は決して深くないが、自らの血が傷口を押さえる右手の甲を伝って床にポタポタと落ちる様を見ていると背筋に悪寒が走った。
「十五分、といったところでしょうか。思った以上に粘りましたね」
ショコラはつまらなそうに刃に付いた血糊をハンカチで拭き取る。視線を彼女のスラッとした脚へと落とすと、先ほどまで揺らめいていた青白い炎は掻き消えていた。
「まるで、もう闘いは終わったみたいな言い方だな。……ふざけんなよッ! おれはまだ戦え——」
喋っている途中、いきなり視界がぐらついた。突然のことに真っ白になった頭の中、「えっ」という言葉だけが浮かび上がって広がる。上手く身体が動かせず、おれは床に思い切り倒れ込んだ。左手で持っていた杖も、カランというやけに軽快な音を立てて手からするりと抜け落ちた。
なんだ?
なにがどうなっている?
回る視界の中、おれには自分の現状が理解できなかった。
「終わったんですよ、私とあなたの闘いは。このナイフがあなたの身体を切り裂いた時点で」
「ぉ、ぉうゆぅ……?」
どういう意味だ、と言おうとしたのに舌が思う通りに動いてくれない。立ち上がろうともがいたが、身体は滑稽にバタつくだけだった。
そして気付く。全身が酷く痺れているという事実に————。
「あなたと会ってまだ間もない頃、このロジューヌに来る馬車の中で言いませんでしたか? 『私はこう見えて薬の調合が得意なのだ』、と」
言ってたっけか? そんなこと。
気が動転する中、おれは必死の思いで記憶を手繰ってみた。だが、彼女のそんな言葉をさして重要だとも思っていなかったのだろう。彼女が言ったという台詞も、それに近いものすらもおれは思い出すことができなかった。焦りからか、それともぐらぐらと揺れる視界のせいからなのか、おれの目は無意識にあちこちを泳ぐ。
そんなおれの様子を見て、彼女は一言、「覚えていないようですね」と漏らした。
「まあでも、あなたは幼い見た目に反して頭が回るようですし、私が何を言いたいのかはおよそ見当が付いているのではありませんか?」
薬と毒は表裏一体だ。用法用量を守らなければ薬は毒に姿を変えるし、少量の毒はむしろ薬として用いられることもある。先ほど彼女は『薬の調合が得意』だと言い、その彼女に切り付けられたおれは身体に異変が起きてこの有り様。ここから考えられること、それは……まさか——。
まさか、彼女はナイフの刃に毒を盛っていたということか? だが、状況からしてそうとしか考えられない。この痺れからして、おそらくは神経毒の類いだろう。あのナイフを取り出した時点で、彼女の目的はおれを出血死に追い込むことではなく、切り傷を付けて毒を体内に入れ、身動きを封じることだった訳か。
「…………ッ」
恐ろしい結論に達し、何かを言おうと試みたが、やはり上手くいかない。ただただ、口が無様にもぱくぱくと開いては閉じてを繰り返すだけだった。
ああ、これは完敗だ。もうどうすることもできない。ジュジュも成平も戦闘能力はほぼ皆無。そんな中、おれまでもが戦闘不能になってしまった。モルフォが戻ってくる前に。
この状況はできれば避けたかった。おれたちが彼女に完全に捕まってしまっては、たとえモルフォがコバルトを連れて戻ってきたとしても、彼女が人質の交換を要求するかもしれない。応じなければ酷く痛めつけるか、あるいは命を奪うという条件を付けてだ。
モルフォは優しい女の子だ。仮にそんな状況になれば、すぐにでもコバルトとおれたちを交換するだろう。しかしそれは、おれたちのここまでの苦労が水の泡となることを意味する。ロロットたちに毒を盛ったのではないか、という疑惑を追求する機会を失ってしまうことになる。
おれは悔しさと惨めさと申し訳なさで胸がいっぱいだった。苦しかった。けれど、沸き起こる感情に身を任せることも、どうやらおれには許されていなかったようだ。身体を襲う痺れは激しさを増し、ぼやけた視界が徐々に暗転していく。
ショコラがおれに言葉を投げ掛けた。けれど、目がバカになっていくのに連れて耳も遠くなっていったため、おれには彼女が何を口にしたのかまるで分からなかった。
もう、意識を保つことも、考えることも難しかった。気を失う少し前のピントが外れた視界の中、何やら細長いものが食堂の入口から凄い速さで伸びてきたように見えたが、それが現実なのか、それとも幻覚なのか、今のおれでは判別などできるはずもなかった。
つづく