030.たとえ敵わないのだとしても
成平は相変わらず横になったままぐったりしており、ジュジュはその場にへたり込んで小刻みに身体を震わせていた。彼らはもう戦えないだろう。それは明らかだ。
では自分はどうか。もの凄い速さを伴ってショコラにぶつかった右肩も、その後激しく地面に叩き付けられた左肩も痛む。けれど、立てないわけでも動けないわけでもない。両手でしっかりと握りしめているポーンを振るうことも難しくはない。状態としてはまだ戦える。だが、戦力としては絶望的だった。
おれを包む障壁まがいは、今の自分にできる最大限の強度をまだ保てている。しかし、だからといってショコラの高速の一撃を、ブーツ型魔導具から繰り出される蹴りの一閃をどこまで耐えられるというのか。反撃なんてまず無理であろうこの負け戦に、いつまで耐えられるというのか。体力は尽きないだろうか。心は折れないだろうか。そんな不安が頭を過ぎる。
「安心して下さい。苦しみは長くは続きませんよ。私がこの闘いに早々に幕を降ろして差し上げますから」
抑揚のない声でそう告げるショコラは、脚に纏う青白い光をより一層輝かせた。揺らめく光の炎が激しさを増し、ブーツから放たれる魔力が濃くなる。おれは無意識のうちに己の足を一歩引いてしまう。実力の差に、思わず逃げ腰になってしまう。
「あっ」
その時、おれは大切なことを思い出した。
魔力と、魔効抵抗力。魔法を扱う際の基本要素にして、魔法の規模・質を決定するもの。特に魔効抵抗力は事実上、魔法の使用範囲を制限するものであり、それはその人の精神状態と深く結びついている。魔導具を使った闘いでは相手の魔力と魔効抵抗力を把握することが大切なのだと、以前ロロットが言っていた気がする。自分と相手のパワーバランスを見極めることが大切なのだと。
そうだ。おれはまだ、ショコラの力量を把握していない。たとえ負け戦なのだとしても、相手の戦力が分からなければ、最善の策を取り、長時間立ち続けることなど不可能だ。
この状況を切り抜けるには、モルフォがコバルトを捕まえて戻ってくるまでおれは耐え続けねばならない。彼女に負けてはならない。まだ全てを諦めてはいけないのだ。
「————ッ!!」
突然走る腹部への衝撃。身体が後方へ飛ばされる。鈍い痛みがじんわりと広がった。
背中から地面に落ち、バウンド。何回転かして壁にぶつかり、おれは止まる。激しく動いた視界が落ち着いた時、おれの思考も少しばかりの冷静さを取り戻した。
速い。ショコラが消えたと思ったらすぐだった。全神経を傾けていないと、まるで何をされたのか分からなくなる。今のように身構えていないと、吹っ飛ばされて身体が止まってからでないと自分がキックされたことにさえ気付けない。
「くっ、うぅ……痛ってぇな」
杖を持っていない左手で腹を抱え、なんとか立ち上がるが、これはなかなか先が厳しそうだ。やはりおれの障壁まがいではまともにダメージをカットできないらしい。それでも一撃を喰らってなお、まだこうして立てている状況は良しとしておくべきか。
「見た目に反してなかなかやりますね。一発入れれば終わりかと思っていましたが」
言葉とは裏腹に、ショコラは大して驚いていなさそうな感じで言った。おれから目を離すことなく、ゆっくりとこちらに近づいてくる。
「悪いけど、そんなあっさりと倒れるわけにもいかねぇんだよ。あんたらからキチンとした説明を聞くまでは、な」
乱れた呼吸を整えつつ、おれは彼女の魔力に意識を集中した。ぼんやりとだが、彼女を覆う膜のようなものが二重見えてくる。ロロットと一緒に実践練習をやり始めたあの日から、おれは毎朝欠かさず自分の魔力と魔効抵抗力を感じる瞑想トレーニングをしてきた。言い付け通り、なるべく速く感知できるよう意識しつつ。その成果が今に活きていると感じる。
目の前の彼女が再び消えた。マズい————。
突如、左半身に何かが食い込む。青白い光が視界の端をちらつく。考える間もなく、身体は回り回って宙を飛び——壁に思いっきりぶつかり、止まる。口の中を切ったらしく、鉄の味が感じられた。
——クッソ。反応できない。彼女の力はだいぶハッキリと感知できるようになったが、さて、どうしたものか。正直、何をどうすりゃいいのかまるで分からん。
「本当にしぶといですね。下手くそな魔法のくせに中々見事なものです。賢者クラスの魔力があるというのは伊達ではないのですね」
「ゴホッ、ガハッ。さ、さっきも言った通り、簡単にくたばるつもりはねぇよ」
目の前にショコラ、おれの右そこそこの距離に食堂の入口がある。次に吹っ飛ばされるとしたら右側の方、あっちの端の壁あたりかもな。もしくは天井の方に蹴り上げられるかもしれない。なんにせよ、こんな“おそらく”レベルの推測では彼女の攻撃を捌けない。どうにかして糸口を見出さないと。
「なあ、ショコラ。おれたちはコバルトさんのさっきの様子から、あの人がロロットたちに毒を盛ったんじゃないかって思ってる。そんなことしてあの人に何の利益があるのかは知らないが、あの人は明らかに怪しいだろ。そんな奴を庇ってるってのは、いったいどういうことなんだよ! お前それ、自分の大切なご主人を裏切ってるってことになるんじゃねぇのか? アリス様だって高熱出してんだろ?」
おれはとにかく、まずは彼女の様子をよく観察することに決めた。そのために彼女に言葉を投げ掛ける。幸い、彼女には聞きたいことがたくさんあった。もっとも、コバルトを追い掛けるおれたちを邪魔した時点で、事情を話すつもりなど一切ないというのは明白であり、今この場で問いただしたところでまともに返答するとは思えないのだが。
「あなたに何が分かるというのですか。私の、お嬢様の、何が——ッ‼︎」
相対して初めて、ショコラは内に秘める激しい感情を見せた。苦悶とも取れるその表情は、すぐに先ほどまでの凍えるような無表情に戻ってしまったが、彼女を覆う魔効抵抗力は感情に素直だ。まだ心がざわついているのだろう。魔効抵抗力を示す外側の膜は大きく波打っていた。
魔効抵抗力は心の状態に深く影響を受ける。上機嫌の時には最大限の大きさに膨らみ、落ち込んでいる時には著しく萎む。平常時は穏やかな海面のようであり、焦っている時や気が動転している時には嵐の時のように激しくうねる。故に、魔効抵抗力の状態を見ればその人の大まかな精神状態を計ることができる。だから魔力操作に関してまだ初心者の域を出ないおれでも、なんとなくは察することができた。
「ショコラ、やっぱりお前も何か知ってるんだな?」
彼女の膜の揺らぎが、怒りからくるものなのか、動揺からくるものなのか、はたまた別の感情から来ているものなのかは計りかねる。だが、そういった細かい分析は置いておくとしても、おれの言葉で心が動いたことは確かだ。些細な情報かもしれないが、何か裏の事情を知っているとみていいだろう。少なくともおれはそう判断している。
「うるさいです少し黙ってて下さい。……いえ、黙らせて差し上げますので少し待ってて下さい」
吐き捨てるように言うショコラ。その彼女の両足を覆う二重の膜が膨れ上がっていく。魔力と魔効抵抗力がそこに集まっているということだ。次いで、一瞬で彼女の姿が掻き消える。
————来る。でも、どこから? 分からない。なら、とにかく全身の障壁まがいを——いや、左——か?
僅かな時間で思考が頭の中を駆け巡る中、おれは自身の左側の空間から感じる魔力が濃くなったことに気付いた。直後、自身の左脇腹に強烈な打撃。思考は途切れ、身体が宙を滑る感覚だけが意識にのぼる。何度目かの床への激突、壁への激突を経て、おれは横たわる。
だが、一度目や二度目に受けた時ほどのダメージは負わずに済んだ。咄嗟すぎる状況だったが、それでも少しは左半身に魔力を集中させることができていた。障壁の強度をそこに偏らせることに成功していた。ついに、初めて、僅かばかりではあるがショコラの強靱な一撃を防御することができたのである。
すくっと立ち上がると、ショコラは赤い瞳をちょっぴり丸くした。
「三度目に受けた攻撃なのに、あなたは……」
「上手くできたんだよ、今のは」
「上手く?」
「この障壁まがいによる防御だよ」
「嘘、ではなさそうですね。でも、完全に防げてるわけではないでしょう? いずれは限界が来て立ち上がることができなくなるのではないですか?」
「まあな。だけど、少しだろうが威力を押さえられたんだ。それはさ、立ち続けられる時間が延びたってことだろ? それで十分だよ」
ショコラは怪訝な顔をする。何を意味不明なことをといった様子だ。端から見ればおれの負け戦。その反応は当たり前のものと言える。だって継戦力が上がったっておれの勝ち目はないのだから。
けどな、おれにとっては本当にこれで十分なんだよ。戦っていられる時間が、立っていられる時間が延びるだけで十分だ。モルフォが戻ってくるまで耐え抜くことがおれの役目だからな。
おれはずっと、勝負事ってのは基本、勝ちか負けかという二つにハッキリ分けられるものだとばかり思ってきた。もちろん、引き分けとかも時にはあるだろうけれど。だが、ルールなき勝負においてはそうではないと知った。勝ちか負けかだけではないのだ。それ以外に、戦況を変える一手というものがあり、それを打つことで戦場の支配権を握ることも可能なのだ。勝負に勝っても相手が戦況を変える一手を打っていたのなら、その勝利が仮初めになり得る可能性も出てくるだろう。おれは今まさに、そうした一手を取りにいっている。
「何を企んでいるのかは知りませんが、悠長に戦っていると問題になりそうですね」
ショコラはミニスカートのポケットから手の平大の何かを取り出し、カバーを引き抜いた。短いながらも鋭さのある刀身が光る。カバーを床に投げ捨て、ショコラは手にしたそれをおれに突き出した。
「使いたくはありませんでしたが、このナイフの出番が来たようです」
つづく