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寒空に浮かぶ月  後編  作者: 河東 鶚
1/1

後編 月下慟哭

 ついにここまでたどり着けたことをうれしく思います。

 人生初の小説がついに完結。初心者なりに全力を尽くしました。

 新たな妖、新たな龍。出現する恐怖。

 大きく揺さぶられる唐堂の精神。苦戦を強いられるリヴァ。

 

 やっとこぎつけた後編です。前編、中編の後にお読みいただければ幸いです。


  七、激動


    1


「トードー危ない!」

 僕はリヴァの声で我に返る。すると僕の目に黒く変色した異様に長い爪が僕の眼球をめがけて、躊躇なく伸びてくるのが移った。しかし僕はそんな状況であっても目の前の真実を許容できずに、ただただ茫然と立ち尽くすばかりだった。

 カキンッ!

 僕の鼻先でリヴァの剣と神崎の異形の爪とが激突し鋭い音を立てる。リヴァは例のごとく一瞬で何本もの剣を形成し、その背後にさながら光輪のように展開されている。心なしかその刃渡りがいつもより短いと感じるのは、今回の戦いの場が広い海中ではなく室内であるのを考慮した結果なのだろう。その代り剣の本数は多いように感じられる。

 僕がそんなことを考えている間にも、僕の目の前では蒼い剣と黒い爪が火花を散らす。いつの間にかリヴァは僕と神崎の間に入るような形で、神崎と激闘を繰り広げている。

「トードー!ボーとしないで!」

 リヴァが叫ぶ。

「リヴァ・・・・これは一体?」

 しかしまだ僕の頭はエラー状態のままである。

 神崎がリヴァの言う人外の『何か』そんなはずはない、だって神崎は僕の幼馴染で、外面はいいけど果てしなく野生の、現代版アマゾネスではあるが、なんでこんな・・・。僕はまだ一歩も動けない。僕の脳みそは真っ向からこの現実の受け入れを拒否する。

「トードーは神崎を助けたくないの!今ならまだ間に合う!早く!」

 そのときリヴァが怒鳴った言葉が、僕の頭からクエスチョンマークを一掃する。

 そうだ、そんなはずはない。神崎はれっきとした人間だ。ならば神崎が『妖』本体であるのではなく、神崎こそ『妖』の被害者だとしたら。僕の頭はさっきとは裏腹に高速で回転する。

 そうだ、なんで気が付かなかったんだろう。僕は神崎への心配が裏目に出て、正常な判断力を完全に失っていたらしい。神崎は僕の大切な友達だ。彼女は誰よりも粗暴で大雑把だが、同時にほかの誰よりも優しく、よく気が回り、輝いているじゃないか。そのことは他ならぬ僕―唐堂悟―本人がこの世界で一番わかってるじゃないか。神崎は僕がリヴァに遭遇した時も親身になって話を聞いてくれた。神崎は僕の唯一にして最大の理解者であり支えだ。僕の頭はここまでの思考から、素早く答えを決定する。今の僕から見れば当たり前すぎる決定だが、混乱していたとはいえ、今回この結論に達するのにこんなにも時間がかかってしまったことが恥ずかしくてたまらない。


 神崎を助けたい。


 僕は凍気を構え、その重さを確かめるかのように素早く一振りする。そしてそのままリヴァの背後から横に飛び出す。すると神崎がその動きに反応して大きく踏み込み、僕に爪を振り下ろす。船幽霊のように腕が伸びることはないが、大きく踏み込んだ神崎は僕の予想を超えた速さで、僕に接近していた。僕は凍気を横にしてそれを受ける。爪の一撃は思いのほか重く腕にビリビリと衝撃が伝わるが、どうにか受け止める。受け止めた衝撃で黒い油がビチャビチャと飛んでくる。非常に生臭い油だ。

 僕はそのまま神崎の横を駆け抜ける。幸運にも僕が神崎の攻撃を受け止めた時に、神崎はなぜか踏み込んだまま姿勢を崩し、大きく蹈鞴をふむ。僕は素早く神崎の後ろに回り込む。ちょうどリヴァと僕とで神崎を挟むような立ち位置だ。

「リヴァ、神崎を助けよう」

 僕は叫ぶ。神崎を助けるために僕が事は何であろうするつもりだ。

 リヴァは即座に答える。

「もちろん。トードーは神崎の攻撃をどうにか受け止めて!でも注意すべきことは、神崎はこんな姿になってもまだ人間だから、凍気で傷つけないようにすること!」

「わかった!」

 僕ははっきりと答える。

 神崎は完全に体勢を立て直し。僕と正面から対峙する。その眼は虚ろで何の像も結んではいないようだ。犬のように半開きの口からは、激しい呼気の音が聞こえる。

 そのとき初めて神崎の目に感情が現れる。それはどす黒い炎の様な、冷たく燃え盛る明確な敵意だった。

 神崎が腕を素早く振りかぶり、勢いよく振り下ろす。

 僕はとっさに後ろに飛んでよける。しかし躱されるのを確認するや否や、神崎は一歩踏む出しながら今度は横なぎに爪を振るう。僕はとっさに体を反らせるが、神崎の爪が僕の胸を掠る。

「・・・ゲッ」

 たまらず僕の喉はうめき声をあげる。

 神崎の攻撃は掠っただけ、おそらくちょっとした擦り傷程度のものだろう。確かに痛い上に、その爪の鋭さからすれば多少の出血は避けられないだろう。しかし僕は神崎の攻撃で恐ろしいダメージを受けた。冷たい、いや寒いのだ。神崎の爪が僕の身に傷を作った瞬間、僕はその爪の冷たさにギョッとした。『冷たい』と言っても、それは凍気やリヴァの剣にあるような身を切るような冷気とは明らかに異質のものだ。それは、もっと陰湿な、腹の底に響く、背筋が凍るような寒さだった。それは、背骨から腹の奥底に伝わり、暖かい気持ちを凍結させる。瞬く間にさっきまでの闘志の炎は小さくなり、僕は訳もなく惨めな気持ちになる。

 そうして今度は僕が体勢を崩すと、その僕に向かって神崎が爪を袈裟に振り下ろそうとする。僕は思わず目を瞑る。神崎の爪が食い込む痛みへの恐怖と言うよりは、その爪の陰湿な冷たさに身構えたというほうが正しい。

カキンッ!

 僕の目と鼻の先でもうこの数分で何度目かの音がする。目を開けると六本もの短剣が神崎の爪を正面から受け止めている。僕はそのすきに体勢を立て直し、再び凍気を構える。

 蒼い短剣は僕が大勢を整えた瞬間に、神崎の爪を押し返しながら、神崎の後ろ、リヴァの所へと戻っていく。

 僕と神崎が戦っている間、リヴァが何をしていたかと言うと、さっきから僕に注意を飛ばすや否や、お馴染みの呪文のようなものを唱えだしていた。今回は僕のピンチと見るや、己の周りに展開した短剣で援護をしてくれたようだ。しかし理由は解らないが、三十本以上展開していたはずの短剣はその数を減らし、今は十本ほどがリヴァの周りを高速で周回しているだけだ。当のリヴァは僕を援護している時も呪文を休むことなく紡ぎ出している。その影響だろうか、リヴァの周りに蒼い光が集まっていくのが見える。

 一瞬押し返されて後ろに下がった神崎だが、すぐに僕に再び接近する。大上段から勢いよく放たれた斬撃を僕は横にした凍気の腹でガッチリと受け止める。一瞬両者の力が拮抗して膠着したように見えたが、神崎の馬鹿力が凍気をジリジリと押し返す。神崎の力はもともと女子とは思えないほど強いが、今の力はそれをはるかに上回る大変な筋力だ。

 僕は凍気を傾けて攻撃を横に反らす。

 しかし神崎は瞬く間に次の斬撃を繰り出す。その矢継ぎ早の攻撃に僕は一歩また一歩と後退し、気付けば背中が壁に当たっていた。

 神崎は流れるように攻撃を繰り出す。

ガキンッ

「マズイッ!」

 神崎の攻撃が必死に防戦していた僕の凍気を大きく跳ね上げる。これでは動画がら空きだ。神崎はそのまま腕を体に引き付け、もう後ろには下がれない僕に向けて一歩踏み込み、体重の乗った刺突を、がら空きの胴目掛けて繰り出す。

 今度こそ僕は痛みに備えて、眼こそ瞑らないながらも、体を硬直させて身構える。

 爪が吸い込まれるように僕の腹部に達しようという瞬間、部屋が突然眩い光で満たされる。そのおかげだろうが、一瞬神崎が硬直し、爪の動きが止まる。そのすきに僕は体を横にずらす。すぐに動きを再開した爪が僕の脇腹を抉る。しかしあまり深い傷ではなさそうだ。

 僕の脇腹を傷つけた爪はその勢いのまま壁に突き刺さる。僕はその間に神崎の攻撃圏内から外れて息をつく。脇腹にドクドクと脈打つような痛みを覚えるが、あまり出血はしていないようだ。どうやら『深めの切り傷』程度で済んだらしい。

 神崎は爪が引っ掛かったのか、壁から動けない。僕は僕の命を救った光を見る。

 そこにはリヴァがいた。まだ呪文は唱え続けているがそれもそろそろ完成するらしい。と言うのも、リヴァの前にはバスケットボール大の球体が形成され、それが蒼く鋭い光をあふれさせている。その明るさと言ったら、目を細めても直視できないほどだ。リヴァの周りには、いわゆる魔法陣だろうか、ヒエログリフだかルーンだかの文字や複雑な図形が描がかれた蒼い光る円がリヴァを中心として描かれている。その文字はリヴァの詠唱に合わせてどんどん加速し、勢いよくその円周上を回転する。

 そしてリヴァが何語かを吠えるかのように言い放ち呪文が終了する。その瞬間蒼い光球は爆発するがごとくふくらみ余りの明るさに、何も見えなくなる。

 やっと爪を外した神崎も振り向いた瞬間にその光に巻き込まれる。

 世界を塗りつぶした光の中、魔法陣が拡大するのが見える。それに続くパキパキと言う重い音。

 光が消え、僕の目がまともに戻ったとき、僕の目の前には一本の柱が立っていた。

 その蒼い柱の中には、神崎が閉じ込められていた。神崎は目を閉じてピクリともしない。その横顔はおおよそ生気と言うものを感じさせない。

「凍柱之技」

 リヴァが息を切らしながらも、僕が質問する前に先手を取って解説を始める。

「神崎の時間を完全に止めた。文字通り完全に。これで少なくとも数日は神崎の身が脅かされたり、逆に暴れることもない」

「・・・・・神崎はどうなっちまったんだ?」

 僕はリヴァが言い終えると間髪を入れずに質問をする。凍り付いた神崎の今の状況も心配ではあるが、それよりも神崎が異形と化した理由のほうが僕には気掛かりだった。

 リヴァは不快そうに眉を顰め、少しためらうかの様なしぐさを見せたが、静かに告げる。

「『妖憑き』。神崎は『妖』に憑りつかれたんだよ」

 僕は自分の顔から、サッと血の気が引くのを感じた。


    2


 僕らはとりあえず神崎妹と神崎母をそれぞれの部屋のベットの横たえる。体についた油はリヴァが洗浄済みだ。

 運ぶために抱き起した時も、リヴァが洗浄のために決してやさしくはない水流を浴びせた時も、彼女らが起きることはない。

 リヴァ曰く、『カンザキを止めようとしたんだろうけど、たぶん妖に憑かれたカンザキに返り討ちにされたんだろうね。そのときにカンザキに精力を吸われたんじゃないかな。たぶんあと二日ぐらいはこのままだろうね』とのことだ。

 リヴァの説明によると、神崎に取りついたのは『精力を吸い取ることもある妖』らしい。僕らと戦ったとき、神崎はほぼ完全に妖に乗っ取られていたらしいが、神崎家の人々が立ち向かったときはまだ神崎は乗っ取り切られてはいなかった。そのことが神崎母、神崎妹が僕らのように襲われて、八つ裂きにされなかった理由らしい。運が良いと言えなくもないが、その変わり神崎母子はこうして眠りにつかされたのだ。

「なあリヴァ」

 僕はとりあえず一通り洗浄が済んだ部屋で、リヴァに問いかける。目の前には蒼い柱が一本。中には異形と化した神崎が封じこめられている。

 こうして改めて観察すると神崎の体には予想以上の変化が見られた。まず第一には鱗だ。リヴァの鱗は蒼く小さく、体を美しく彩り、同時に外からの攻撃を防ぐためのものだが、神崎の鱗はそれとは対照的だ。黒く薄い鱗は端が外側に向き、しかもそのヘリにはギザギザとした棘の様な細かい突起がびっしりと生えている。触れる者を傷つけることが目的なのは、ボロボロになった神崎母、神崎妹の手を見るまでもなく明らかだ。

 次に目につくのは爪、そしてさっきは気付かなかった牙だ。どちらも黒く濁った色をしている。爪は長く、細いながらも、その切れ味は僕が身をもって体験した通りである。半開きの口から覗く牙は、決して長くはないが、前歯・奥歯に限らずすべての歯が犬歯のようにとがった物に変形している。わずかに反射する光がその鋭さを示している気がする。

 僕はそんな神崎を見ながら、

「そろそろ説明してもらえるか」

 リヴァは同様に神崎を見ながら、

「神崎は妖に憑かれた。その妖の名は『いくち』という」

 リヴァは僕にそう告げた。


  『いくち』


 文献によってはただ『妖』と呼ばれることもある。

 その姿は鰻に似る。しかしただの鰻ではない。ものすごく長いのだ。

 『いくち』は西海によく出没したと言われ、一説では『海で死んだ者の魂が仲間を恨んで現れる』とされている。

 船乗りたちはこの『いくち』が船に入ってくるのを恐れた。船が沈むからである。『いくち』自体は船に悪さをする気はない。しかし問題はその体を包むヌレヌレとした油である。『いくち』は船が進路上にあるとその船の上を越えていくらしい、そのときこの油が船の中に落ちるのである。その量が半端なものではないらしい。そこには『いくち』のもう一つの特徴である長さが関係してくる。

文献によると『いくち』の太さはそれほどでもないが、その長さは数キロ、長い物では数十キロにもなるらしい。そのため『いくち』が船を越える時、長いと数日がかかり、その間油が絶えず船に流れ込む。そのままにしておけば、船は瞬く間に重みで沈んでしまう。そこで『いくち』に逢った船乗りは、ただただ無言のまま油を傘で受けて、船外へ流しながら、この最悪の鰻が過ぎていくのを待ったとされる。

『いくち』が現れるのは日がない間と決まっているらしい。そのためだろうか、『いくち』の全体をはっきり見た者は一人としていない。


 これが、僕がリヴァから聴いた、『いくち』の情報をまとめたものだ。

 リヴァが『いくち』について話し終わってからしばらく、僕らは一言も言葉を発しなかった。ただ沈黙だけがその部屋を支配する。

 そのとき、僕はリヴァから得た情報とこの現状を懸命に結び付けようとしていた。しかし、そこで僕はまだリヴァが開示していない情報があることに気付く。

 僕がそれを聞こうと顔を上げると、リヴァも何やら考え事をしているらしく、目を閉じて尾を不規則に揺らしている。しかし今の僕にリヴァの用事を気にする余裕なんかない。

「なあリヴァ」

 僕が話しかけると、リヴァは一瞬ビクッと体を緊張させてから、慌てて目を開き僕の方にその眼をむける。よっぽど集中して考えていたようだ。

「なあリヴァ、なんで神崎なんだ?」

 僕の質問にリヴァは即答できなかった。しかし、そもそもこんな状況になった原因を知らないと今後の計画が立てられない。リヴァ曰く、柱に封じている間、神崎は安全らしいが、神崎を元に戻すこと、すなわち『神崎を助けること』という目標には遠く及んでいない。目標の達成のためにも、そして二度と神崎がこんな思いをしなくて済むために、加えて僕も二度とこんな思いをしないために、神崎が憑りつかれた原因は必要不可欠な情報だった。

 リヴァは何かを言おうとしてか、口を開いては閉じ、開いては閉じ。しかし肝心の言葉はなかなか出てこない。やっと出てきたセリフも全く頼りにならなかった。

リヴァが言ったのはただ一言、

「・・・・・・・・わからない」と。

僕は、リヴァを睨み付ける。神崎への心配や、まったく見えてこない解決策のせいで、僕は自分で思っているよりも緊張していたらしい。そんな中でリヴァの『分からない』発言。情報のすべてをリヴァに頼っている以上、僕がリヴァを怒るのは筋違いであるということは理解できるが、それでもリヴァの発言にムッとしてしまったのはある程度仕方のないことのようにも僕は思う。

 リヴァも流石に自分の発言で僕がどう思ったか感じ取ったのだろう。慌てて追加の説明をする。しかしその声は柄にもない弱弱しいものだった。

「えーっと・・。そもそも『いくち』って妖は本来、人に憑りつく様なものではないんだよ。『いくち』は海で死んだ魂の集合体。でも船幽霊みたいなのとは違って、『いくち』は悪意のない妖なんだよ。妖の本体はこの世に未練のある魂、その多くは自殺者の魂。本来死んで消滅するはずの魂がこの世に残って凝って固まったもの、自然の歪みの集合体。これが妖だってことは、トードーも理解してると思う。でもね、同じ『妖』でも、船幽霊を形作るような魂は、この世に、社会に、もしくは特定の個人に、怨念がある魂。それに対して『いくち』を形成するような魂は、この世に未練があって、死んだことを無念に思ったり、後悔したりしている魂なんだ」

リヴァの説明は滔々と続く。

「だから船幽霊は人に敵意をもつ。そして人を襲って喰らう。でもいくちは基本的に海を彷徨うだけなんだよ。だから船幽霊に行き会うと悪意をもって襲われるけど、いくちはただ障害物として越えていくだけなんだよ。まあ結果としてはどちらも船を沈めちゃうことに変わりはないんだけどね」

 そうはいえども。リヴァはそう言って僕に力説する。最初とはうって変わって大分音量も大きくなってきた。

「もしいくちが超巨大化したら、いくちの負の属性とでもいうべきものに引きずられる人間が出る可能性はなくはない。いくちに限らず多くの妖において、集まった魂の数がそのまま妖の力、妖力になる。厳密にいうと多少の例外はあるけど・・・。また、いくちの場合、魂の数が多いほど体が長くなる。つまり体が長い物ほど力が強い。もし人間が引きずられるほどの力を持ったいくちがいるとしたら、その長さは十五キロは下らないと思うよ。」

 リヴァは生き生きと、とは言えないまでも、マシンガンのように話し続ける。

「でもそんないくちがいたら、神崎以外にもいくちに引きずられる人間がいて然るべきだし、第一そんなものを自然の監視者たる僕ら龍が気付かずに、ほっとくなんてことはありえないよ」

 リヴァは胸を張って答える。最初の自信のなさはどこへやら、リヴァは龍であるということの誇りを全身から滲ませている。

「一般人に影響を与え、あまつさえ異形に変えるほどの力を持つ妖。僕ら龍がそんな妖の存在を許すことは決してないだろうね!」

 リヴァがそう言い切った瞬間だった。

 ズーン   ズーン 

 低い音が断続的に聞こえる。腹の底に響く音。花火が遠くで打ちあがったときの音に似ている。僕がそう感じている間に、リヴァは弾かれたかのように窓に駆け寄る。リヴァによって綺麗に洗浄された窓からは、夜の闇が見える。

 『闇』と言っても町の中だ。街頭なり人家の電灯なりのお陰で、道やそこにいる歩行者もおぼろげながらも見ることができる。しかしその先には、もっと深い闇が見える。海だ。だがそこも、星や月のお陰で、暗いことに変わりはないがうっすらとその存在が見て取れる

今、神崎家の窓から家々の隙間を縫って見える海の、ちょうどその一角で、青白い燐光が踊っていた。


     3


「リヴァ!あれは・・・・」

 僕は弾かれたように振り返り、リヴァを見る。しかし・・

「おいリヴァ!」

 リヴァは僕が振り返った時には僕の目の前まで接近していた。ぶつかると思ったのは一瞬、リヴァはそのまま僕の横をすり抜けた。リヴァの目指す先には、件の海の見える窓。リヴァは窓に接近しながら、手段は分からないが一瞬で窓を開ける。そしてそのまま、窓の外へ飛び出した。その間、リヴァの蒼い双眸は燐光に張りついている。

 僕はリヴァの突然の行動に少々面食らっていたが、硬直したのは一瞬。

「待て!説明しろ!」

 リヴァの後を追いかけて、開いた窓から外へ踊り出す。そして全力で、前を飛ぶリヴァを追跡する。僕が硬直していた時間が、ここにきて思いのほか重く響く。リヴァを視認は出来るものの、僕とリヴァとの間には結構な距離があった。しかし今の僕にそんなことを考えている余裕はない。とにかく必死で家々の隙間を縫ってリヴァ目指して疾走する。


 リヴァに追いついたのは、もうお馴染みの海岸だった。リヴァは止まることなく飛び続けていたが、僕は何とか追いつくことができた。いや、リヴァが全速力を出すとどのぐらい速いかは知らないが、僕が走るよりは速いはずだから、おそらくリヴァなりに僕が追いつけるように速度を制限してくれたのだろう。

 やっとこさリヴァに追いついたとき、僕は完全に息が上がっていた。しかしリヴァにはそんな僕を気遣う余裕はないのだろう。手早く僕に『水龍の加護』をかけ、まだ声の出ない僕を待つことなく海中に飛び込む。僕も必死にそのあとを追う。

 僕とリヴァは矢のように海中を進む。海なら簡単にリヴァに追いつける。リヴァは僕が横に並んだのを確認して口を開く。

「巨大な妖がこの先にいる」

 僕はギョッとした。リヴァはそんな僕に構わずに続ける。

「ものすごい大きい。たぶん数キロの長さがある」

「おいじゃあそれって・・・」

 僕が言い終わる前に、リヴァが発言を引き継ぐ。

「『いくち』だろうね。というか今の状況からするとそうじゃないと困るよ」

「じゃあそれを倒せば神崎は治るのか?」

 僕の頭はさっきからずっと、氷漬けの神崎の事でいっぱいだ。

「倒さなくとも、追っ払えば大丈夫」

 リヴァは答える。しかしまだその眼を燐光から離すことはない。

「じゃあさっさと僕たちで神崎を・・・・」

 僕は凍気を抜く。しかしリヴァあの話はまだ終わっていないようだ。

「トードー、『僕たちで』って言ったけど、もしかしたらそうじゃないかもしれない」

「リヴァどういうことだ?」

「もう一匹龍がいる」

「なに!」

「どうも『いくち』と龍が交戦してるみたい」

 リヴァが不可解そうに首を捻る。リヴァにも今の状況は把握しきれていないようだ。


 話している間も僕らはかなりの速度で泳いでいる。それに伴ってだんだんと燐光がハッキリ見えるようになる。

 青白い炎と言うのが一番近いだろう。『青白い炎』と言っても船幽霊のそれとは別種のものだ。船幽霊の『青白い』は色が限りなく希釈された、『薄い』とか『弱い』に近い色だった。しかし今目の前にあるものはその対極、こちらの方が実際の炎のイメージに近しい物だろう。燃え盛る、活発な炎だ。しかも両者は『大きさ』と言う点でも大きく異なる。船幽霊のものはこぶし大、せいぜいハンドボールぐらいの大きさだが、僕らの前にあるものは明らかに半径にして一メートルはあるものだ。加えて船幽霊の炎は上に三十センチほど火炎が立ち上っていたが、これはもっと球に近い形をしている。少々説明が長くなったが、とにかく僕らの前に見える炎は、今まで見たことがないような強そうな印象のものだった。

 近づくにつれて、その動きも見えるようになる。火球は何かに向かって飛んでいき、そして消える。それを延々と繰り返していた。

「これは・・・・・」

 リヴァが溢す。思わず口から出てしまったという感じの声だ。

 僕は聞き逃すまいと耳をそばだてる。しかし次の瞬間には僕の思考も目に前の光景に完全にとらわれてしまった。


 最初に見えた時は、黒い渦だと思った。しかし近づくにつれそれが高速で回転する生き物の体だと分かる。いやそれを『生き物』と言うのはいささか無理があるだろう。

 太さ三メートルほどの黒い体は蛇に似て長く、手足はない。しかしその身は黒い鱗、鋭く逆立ったその鱗に余す所なく覆われている。しかもその全身は怪しくヌラヌラと光り、今もその身から海中に黒い液体をまき散らす。そしてその長さは・・・・。僕は言葉を失う。海底が見えないほどの深い海の、海底から海面まで、その体はとぐろを巻く要領で渦を巻いている。まだ幾分か距離のある僕のところでも、水が恐ろしい勢いで逆巻いているのが感じられる。遠くから見るとその様は、巨大な竜巻にも似る。

リヴァが重々しく告げるまでもなく、誰の目にも明らかな異形の竜巻の名。

「トードー、あれが『いくち』。ただただ『あやかし』と呼ばれることもある巨大な妖だよ」

 『神崎を助ける』そう誓った僕だが、目の前の光景は僕の決心をいともたやすく打ち砕けるとこは明白なように思える。

「・・・・おいリヴァ。こんなの・・・」

 僕はたまらず悲鳴にも似た声を上げる。

「こんなのどうしろってんだよ!」

 僕は絶望が一回回って頭に血がのぼってしまう。

 そこには絶望だけが横たわってるように僕は思えた。

 そのとき、僕らの右手から例の燐光が走る。火球はいくちに当たると爆発し、周囲を一瞬明るく照らし出す。炎はいくちに触れるとその周囲を一瞬で焼く。すぐさま僕の鼻腔には髪の毛が焦げたような独特の匂いが届く。

 燐光は次々と発射される。爆発するたびにいくちが描く螺旋が一瞬ゆがむ。どうやら多少の効果はあるようだ。

「リヴァ、あれは何」

 僕はさっきリヴァに八つ当たりしてしまったことがなかったかのようにリヴァに尋ねる。

 リヴァもいつも通り答える。

「龍だね」

 そういうや否や、こちらに向かって青い蛇の様なものが泳いでくる。

『どなたですか』

 唐突に声が響く。いつかと同じく、頭の中に直接響く声だ。その声は低い響きを持った声で、お寺の鐘を連想させる。

 答える間もなく声の主が姿を現す。

 青い龍。長さは五十メートルと言ったところだろうか、リヴァよりは薄い体色の龍だ。その全身からは青い霞の様なものが立ち上っている。

 龍は僕とリヴァを見るとスッと目を細める。

「久しぶり、イサリビ」

 僕はサッと自分の傍らに目を向ける。そこではリヴァが龍に対して笑いかけている。どうも面識があるようだが・・・。

「ご無沙汰しておりますミクマリ様」

 龍がリヴァに対してあいさつを返した。しかも今のやり取りからリヴァが格上であることが感じられる。

 どうにも僕にはわからないが、二人いや二龍は顔見知りのようだ。

 問い詰めたいのも山々だがここでそれをするわけにはいかない。

 僕らと話している間もイサリビと呼ばれた龍の全身からは、青い霞が立ち上る。それは頭上で集まって球になる。青白い火球だ。そしてある程度の大きさになると、いくちの方へ飛んでいき爆発する。その動作が絶え間なく繰り返されていた。いくちは少しづつだが外海の方へと後退する。

「ミクマリ様、そして龍護様。少々お待ちください。今いくちを片づけますので」

 そういうやいなや、青い龍はいくちの方へ向き直る。決して特別なことはないが、その動作にはなぜか迫力を感じる。

 青い龍はなにやら唱え始める。その旋律はリヴァのものとは微妙に異なる質感を感じさせる。

 呪文が進むにつれ、龍の体からほとばしる霞の量が増える。最初は糸の様な容姿だったのに、今やその流れは濁流を連想させる。

 流れ出た霞は龍の頭上に集結し球となる。見る間見る間にその大きくなり。すぐに家が何軒か入りそうな、巨大な火球に成長する。

 そこで呪文が終わる。すると火球はフッと掻き消える。いや掻き消えたように見えた。

 文字通り、目で捉えられないほどの速さで打ち出された火球は、僕が真相を理解した時にはいくちに命中し爆発。一瞬太陽の様な鋭い光が僕の目を射る。その明るさはとても直視できるものではない。僕が眼を開けたとき、いくちの全身は青い炎に覆い尽くされていた。

 僕は茫然自失の態でそれを見る。

「さてこれで今晩は問題ないでしょう」

 青い龍が呟く。

 それは僕が本当の意味で龍の権能を目撃した最初の瞬間だった。


「お初にお目にかかります。私はイサリビと言うものです。どうぞお見知りおきを」

「えっと・・、唐堂悟です」

 青い龍―イサリビは僕に頭を下げた。僕はそれに面食らいながらもなんとか自己紹介をして、頭を下げかえす。

 ここは例の海岸。僕らの情報交換の場所として選ばれたのはここだった。

 僕の前にはイサリビが首を出している。イサリビの体は五十メートル超、とても海岸に収まり切らない長さだ。そのためイサリビは海岸から上がらずに、鎌首を擡げるようにして水面から首を出している。

「そして改めて。ご無沙汰しておりますミクマリ様」

 イサリビはその眼を僕の傍らに浮かぶ蒼い龍に向ける。さっきそんなのを観察する余裕はなかったが、イサリビの目は白い眼だ。くりくりとした眼球は月光を反射して、独特の七色に輝いている。たとえるなら螺鈿と言うのが最も近いだろう。しかし、イサリビの目には得も言われぬ迫力がある。これは、その螺鈿細工の真ん中にある黒い瞳が、縦長で細いその瞳が、爬虫類を連想させることに起因するものだろう。端的にいうと、大きな力を持つ大蛇に見つめられるというのは、恐ろしく緊張するということだ。

「ホントに久方ぶり」

 リヴァが返答する。僕はここでやっと今まで悶々と燻らせていた疑問を口にする。

「リヴァ、この方はお前の知り合いか?」

 しかしその質問に答えたのはイサリビの方だった。僕の方へ首を曲げ、イサリビは僕をまた正面から見据える。僕の背筋はスッと冷たくなる。

「失礼しました。私は以前ミクマリ様の配下だったものです」

「配下⁉」

 リヴァがその後を引き継ぐ。

「龍の社会では、若いうち・力のないうちは他の強い龍に弟子入りして力をつける必要があるんだよ。イサリビはまだまだ若い龍で、僕の・・もちろん龍神だった時の僕の弟子だったんだよ」

「ああそれで、リヴァをミクマリって呼んでんだ」

「そういうことだね」

 しかし・・・・。僕は目の前に聳え立つイサリビの首を見つめる。脳裏にはさっき見た青い業火がよぎる。

「こんなに強くてもまだ若くて弱い部類なんだな」

「まあね」

 僕は龍の世界の広さに改めて驚いた。

「さてミクマリ様、いやリヴァ様」

「うんそうだね」

 そこでリヴァとイサリビが纏う雰囲気が一変、和気あいあいとしていた雰囲気が一瞬で乾く。

「状況を説明いたします」

 イサリビが深い声で淡々と語りだす。


     4


「最初あの『いくち』が発見されたのは約二週間前です。その時はまだサイズも小さくほとんど力も持っていなかったので、危険度は低いと判断しました」

 イサリビの声は波音の中でもはっきりと響く。

「ご存知の通り、そもそも『いくち』と言う妖は海を彷徨うものです。実際本個体も、ひとところにとどまることはなく、絶えず回遊していました。そのままなら自然に影響を及ぼすはずがありませんでした」

「『でした』ね」

 リヴァが傍らで溢す。

「はい。しかし異変があったのは一週間前。この町の沖十数キロに本個体が差し掛かった時、いくちが唐突に進路を折り、この町目指して泳ぎ始めました。運悪くその道中に何らかの妖が存在し、いくちはその個体を取り込み、飛躍的にその妖力を上昇させました」

「いくちがほかの妖を取り込んだ⁉」

「ええ」

 リヴァが首を捻る。しかしいつも通りにと言うか、そもそもの知識量・経験が二匹の龍に遠く及ばないところの僕は、リヴァがなぜ首を捻っているかは分からない。しかし、イサリビはそんな僕に気付いたのだろう、

「唐堂様。いくちと言う妖は他者に影響を及ぼそうとすることがない妖なのです。いや、他者に全く興味がないと言っても良いかもしれません。いくちにあるのは悲しみだけ、そのために永遠に徘徊することを運命づけられています。そのいくちが他者、すなわち他の妖に対して何らかの反応を示す、あまつさえ吸収するというのは本来絶対に考えられないことなのです」

「だから今回は異質なんですね」

「はい」

 イサリビの説明はなんとなく理解できた。しかしイサリビと話すのは緊張する。

 そこでリヴァが何かに思い当たったように『あっ』と声を漏らす。

「リヴァ様、何か心当たりでも?」

「イサリビ、その吸収された妖のモノってなんだかわかる」

「いえ、しかし廃船に憑りついていた妖のようです」

 僕にもリヴァが気付いたことが分かった。

「・・・・・もしかして」

「・・・・消し飛ばしておくべきだったね」

 イサリビが眼を瞬く。

「えっとイサリビ、いくちが散り込んだのは『妖』ではなくて『妖だったもの』だと思うよ。そうすれば辻褄が合う」

「根拠をお聞きしても?」

「一週間前僕とトードーでこの沖の船幽霊を討伐したんだよ」

「『船幽霊』ですか。しかしまたどうして」

「ちょっと事情があってね」

 僕とリヴァは顔を見合わせる。

「と言うかリヴァ、もうあの船幽霊は死んでたんだろ?」

「それは間違いないね」

「じゃあなんで」

「死んだからこそ、かな」

 リヴァが少し言いにくそうに話す。

「あの船幽霊は僕らが討伐した。でも船幽霊の体、いくちと同じく霊魂でできたその体はあそこに残った。覚えてるよね」

「もちろん」

 僕らの初陣、と言うか初めて戦いなんてものに参加して、対象を撃破した体験だ。そうしたくとも、簡単に忘れられるモンじゃない。

「いくちは他の妖にも全く関心がない。でも、全ての妖は、その本質である歪み、すなわち迷える霊魂を引き寄せて体を大きくする。それはいくちであっても例外じゃない」

「つまり?」

「僕らが船幽霊を討伐したせいで、『船幽霊』は『霊魂の集合』の状態に戻った。そこに運悪くほかの妖が行き会えば・・・・」

「その本能により、『船幽霊だったもの』を吸収する・・・・てこと?」

「正解」

 正解してもこんなにうれしくない質問は珍しい。

「そういうことでしたか」

「ごめんイサリビ、続けて」

「では、その後いくちは強力になり、偵察・確認のために私が派遣されました。しかしここでも不可解な現象が確認されました」

「と言うと」

「いくちの力が減少したのです。妖は例外なく夜にその力が強くなり、太陽が昇ると減退します。しかしこの町に接近した際、いくちの力の一部が突然減少しました」

 僕は夕方に感じた嫌な予感を感じる。イサリビの言葉は何個もの点を描き出す。そして今、僕の脳内で様々な点が何かの図形を描かんとしている。

「それが四日まえの事です」

 点と点が繋がって線をなす。

「力が減退したため、いくちの存在は日を追うにつれて薄くなり、龍でも感知しにくいほど弱くなりました」

 ちらりとリヴァを見ると、リヴァは目を閉じてイサリビの言葉に耳を傾けている。その眉間には何本もの皺が刻まれている。

「しかし先ほど、ちょうど日没の瞬間、いくちが突然暴れ出しました。こちらも原因は不明です。しかし減少したはずの力でも、暴れると影響が大きいと判断されたため私がとりあえずいくちを一時的に撃退する運びとなり、その作業中にミクマ・・、失礼しました、リヴァ様と唐堂様にお会いした、と言うのが私が把握していることです」

 イサリビが語り終わった時、僕の中でも最後の点が打たれ、頭の中にすごいスピードで図形が現れる。

 四日ほど前に減少したいくちの力。四日前。

「ごめんリヴァ一個質問」

「・・・なに」

 リヴァも難しい顔をしながらも、何らかの仮説にたどり着いたのだろう。眉間の皺はもう見えない。しかしその代り、僕を映したリヴァの目は哀れみにも似た色一瞬見せた。

「もし妖の力を取り込んだら人はどうなるの?」

 リヴァは即答する。まるで僕がその質問をするということが分かっていたかのように。

「量が少なければ倦怠感、頭痛など。量が増えると、発熱、強い頭痛、ひどいと意識が飛んだりする。もっと増えると錯乱。・・・・・・・・限界量を超えると、人の体が妖のそれに置き換わる」

 質問をしておいてなんだが、僕もそう答えられることが心のどこかではもうわかっていた。

 全ての点は結ばれた。そこに現れたのは見知った人物。信じたくないがリヴァと答えあわせをする。

「神崎か?」

「たぶん」

 僕は空を仰ぎ見る。

「クソが」

 僕の口から言葉が飛び出す。何もかも投げ出したいような気持に襲われる。胸は今まで感じたことのない気持ちでいっぱいだ。悲しさとも違う、怒りとも違う。押しつぶされるような不安、いや不快感が全身を苛む。

 しかし僕がやることは変わらない。超えるべき壁の存在はもうわかってたじゃないか、いま壁の全体像がやっと見えた、しかし僕のやるべきことはどちらにせよ一つだ。

「神崎を助ける」

 僕はそう呟くと、顔を前に戻す。

 リヴァが僕の横顔を確認してから、イサリビに向き直る。

「今度は僕とトードーの話を聞いてもらわないとだね」

 月は僕のちょうど正面に。浪がその光をいろいろな方向に反射して、ちょうど僕からは、海面に月光の道が伸びているように見えた。


      八、大戦


     1  


「なるほど、町でもそんなことが」

 リヴァと僕の話を聞き終えるとイサリビは深く頷いた。

「しかしなぜその少女・・・神崎殿にそんなことが」

 イサリビが首を捻る。

「そうそこなんだよね」

 リヴァもうなずくと、両者とも難しい顔をして黙り込む。

「リヴァ!今はそんなことより!」

 僕が声を懸けなければ、納得する結論が出るまで二龍でいつまでも額を突き合わせていただろう。

「そうだねトードー。イサリビ、しかも僕の龍護はカンザキを助けるって言って、たぶん誰がどう言おうがその意思を変えることはない。その上、カンザキはどう見ても妖の影響を受けた。これは僕ら龍としても到底見逃せることじゃない」

「そうですね」

 イサリビもバツの悪そうな顔で賛同する。

「そこでだイサリビ、僕らと協力していくちをどうにかしないか?」

 イサリビはそれを聴くと一瞬きょとんとした表情を見せる。が、すぐに堂々と言い放つ。

「リヴァ様、いまさら何をおっしゃいますか。私は最初からそのつもりでしたよ。龍として、あの妖を放置するなど言語同断です。ぜひとも協力させていただきます」

 

 一通りの情報交換を終えて帰途につく頃には日付が変わってしまっていた。

 僕は家に着くと簡単な飯を食い、さっと風呂につかり、そして寝た。僕は自分で思っていたよりも疲れていたらしい。布団に入るなりすぐさま、睡魔に身を委ねた。


 翌朝。

「ああ悪い。今度は僕が体調崩しちまって」

『あ?ダイジョブか?お前が風邪なんてあんま聞かないな』

「いや、この時期はたまに体調崩しちまうんだよ。もう持病みたいなもんだし、馴れてるから大丈夫だよ」

『まあ、ダイジョブってんならいいけど・・・。あれ、そういえば神崎さんはダイジョブだったか?』

 胸が一瞬ちくりと痛む。

「ああ、元気そうだった。たぶんまだ学校には行けないけど来週にはきっと登校するよ」

『そうか。にしてもお前ら相変わらず夫婦仲良いな、風邪も同時だなんて。はっ!まさかお前の風邪って、神崎さんから移ったモノだったりしないか?』

「?なんでそんなこと聞くんだ。関係ないぞ」

『ホントか唐堂~』

「なんだお前、気持ち悪いぞ」

『いや神崎さんのお見舞いに行って、唐堂がとっても優しく看病してそうな気がしてね!ねっ!』

「なにが『ねっ!』だ。何もなかったぞ」

『いや、たった一日で移るなんてよっぽど、濃密なスキンシップでもしないと有りえないかな~、てねっ!』

 ああ濃密だったとも、お前が想像できないぐらい。

「そんなことはなかったぞ」

『またまた~。しかもお前、神崎さんに振られたばっかりじゃん。良かったな、振られたとはいえ好きな子と腹を割った話ができたんじゃないか』

 ええ、腹を割られそうになりましたとも。

「いやあんまり話さなかったぞ」

『流石だな、二人の間にもう言葉は必要ないってのか⁉』

「おいおい、どこに行くんだお前の妄想は」

『見つめあう二人、そこで唐堂は唐突にオオカミにへんし・・・・。いや唐堂でそれは在りえないな。なにせ天下のヘタレだし』

「かなり悲しい信用だな・・・」

『とするとオオカミになるのは神崎の方か、そしてその餌食になる唐堂。二人はそのままお互いの汗や何かでヌルヌルに・・・』

 あれはオオカミより獰猛だな、うん、危うく餌食になるところだった。しかも油で部屋中ヌルヌルのテカテカだったし。

「お前の想像、いや妄想力には俺も脱帽だよ。小説家にでもなれるんじゃないか?」

『ふっ、やっと俺の才能に気付いたか唐堂』

「馬鹿言え、お前の才能には最初から気づいてたさ。そのたぐいまれなる馬鹿の才能、日本のトップシークレット級だな。絶対に外国には公にできない」

『・・・唐堂、今日は大分遠慮ないな』

「お互い様だろ」

『それもそうか』

「じゃあ連絡のほどは頼んだぞ西岡」

『了解。お大事にな唐堂』

  ガシャッ。

 電話の向こうで受話器が下ろされる音がする。僕はその音が聞こえた後も暫くは受話器を耳にあてたままでいた。

「連絡できた?」

「ああ、問題なく」

 僕の寝室から降りてきた、リヴァが僕に声をかけた。僕はやっと受話器を戻す。

 今日は学校を欠席することに決めた。僕らは昨日神崎が異形となっているのを目撃して、さらにその後、いくちとの邂逅、イサリビとの会談をこなした。

 家に帰ってきたときには、もう夜と言うよりは日の出前の早朝と言って差し支えない時間になっていた。

 今の電話は、西岡に僕の欠席を学校まで伝達してもらうためのものだ。直接学校に電話すれば済む話ではあるが、今はなぜかあの憎たらしい友人の声が聴きたかった。

 西岡に電話をしたのは、日が出てしばらくたってから。その時間まで僕とリヴァは、食事と入浴をした。

 電話が終わった今、することは唯一つ。

 僕は二階に上がると、カーテンを閉め、ベッドに横になる。図らずも徹夜してしまった僕の脳はジンジンと痛む。

 今日の夜はどうしても体調が万全でなければならない。

 目を閉じると同時に、僕の意識は深い睡眠の淵に滑り込む。


 目が覚めると空は茜色。もう日が沈もうという時間だ。

 僕らは手早く準備をして、玄関へ。

「準備はいいトードー?」

「問題ない」

 僕らはそれだけを言い交すと、並んでドアへ向かう。

 もう腹ごしらえも済んだし、服装も動きやすいものだ。リヴァもガブガブと水を飲んでいたし問題はないだろう。

 僕は最後に胸のペンダントに触れる。いつも通りのその冷たさは、僕の頭を落ち着かせてくれる。

 そして僕らはドアをくぐる。外はこの時期らしい、高い晴天だ。今日も暑くなるだろう。

 僕は愛車にまたがり、リヴァは定位置となった僕の肩の上に降りる。

「行こう」

 僕はペダルをこぎ出す、目的地は神崎家だ。


 神崎家は良くも悪くも昨日のままの状態だった。部屋がさらに荒れていたり、せっかく落とした油が復活したりしていることこそなかったが、傷だらけの神崎母・神崎妹がピクリともしないまま各々のベットに横たわっているところや、リビングに屹立する巨大な蒼い氷柱までもが昨日のままであった。

 氷柱の中には神崎が、異形と化した神崎が封じ込められている。氷柱に触れた指が刺すような冷たさを伝えてくる。

「待ってろよ神崎、すぐに出してやるから」

 決意を新たにして僕は背後に浮かぶリヴァに、道を開ける。

「じゃあ行くよ」

「うん」

 リヴァは僕と入れ替わるかのように、氷柱の表面に立つ。そして、『せーのっ』と声をあげながら体を反らす。すると・・・

「こんなもんかな」

 リヴァが満足そうに見つめる先にはさっきと同じ氷柱、しかし神崎の顔の位置がさっきより上にある。

 リヴァは氷柱を浮遊させた。根元から持ち上げられた氷柱は、リヴァと同じく、音もなくさも当然のように空中に静止していた。

「次に行こうトードー」

「そうだな」

 僕らは神崎家の窓から外へ出る。少々行儀は悪いがこの際眼をつぶってもらおう。ここじゃないと氷柱が通れない。そう、氷柱はリヴァの後に金魚の糞のように付き従って外へ出る。氷柱は横倒しになって窓を抜けて外へ出る。

「はやくトードーも」

「ああ」

 僕もその後について外へ出る。そのまま止めてあった愛車にまたがると、今度は海を目指す。相変わらず氷柱が背後霊よろしくその後へ続く。

 次なる目的地は海の中だ。


 沖に数キロの海中。

 そこに立つ影は、全部で四つ。

「さて始めましょうか。皆さま準備はよろしいですか?」

 相変わらずの丁寧な口調。青い鱗の完全な龍。イサリビがそこにいる面々を見渡す。

「問題ないよ」

「大丈夫です」

 リヴァと僕も応じる。

 そして最後の一つの影は、半透明の柱の中。神崎だ。

「さてでは今日の作戦の確認をさせていただきます」

 僕らがこうして、ここに集まった目的。それは、

「今回の目的は、神崎様の開放、およびいくちの討伐または撃退です」

 ここに『神崎解放戦』の作戦会議が開幕した。


「神崎様はどうも妖力を引き付けやすい体質なようです。今回私たちはそれを利用させていただきます」

 イサリビが淡々と説明する。

「まず、陸から十分に離れた海中で現在封印されている神崎様を開放します。解放された神崎様は、恐らく、再びいくちの妖力を吸収なさるでしょう。しかもその量は、いくちとの距離が近い今、以前とは比べ物にならないほど多くなると考えられます」

 イサリビは沖の方に鋭い視線を向ける。イサリビによるといくちは昼間沖で休眠しているらしいから、それを睨んでいるのだろう。

「妖力を吸い取られたいくちは、著しく弱体化します。そこで逃げ出すなら、私がいくちを追撃し、討伐もしくは撃退します。ここでいう『撃退』とは、もうこの町に影響を及ぼさない距離まで追い払うという意味です。『討伐』・『撃退』どちらにしろ、痛い目を見たいくちがこの町に再び接近する確率は低くなるでしょう」

 イサリビはここで言葉を切ると神崎を見る。

「・・しかし、もしいくちが妖力現象の原因である神崎様を亡き者にせんと攻撃してきた場合は、ここで神崎様をお守りする必要があります。この場合、攻めてきたいくちをこの場で討伐もしくは撃退をします。これが今回の作戦の概要ですが何かご質問はございますか?」

「討伐した時にも神崎の中にある妖力は消えるんですか?」

「ええ唐堂様。妖と言うのは妖力の核の様な働きをします。そのため核さえ破壊すれば、妖力はどこに在ろうと離散します」

 イサリビは僕に噛んで含めるかのように説明した。そこに僕は第二の質問を投げかける。ものすごく大切な、聞かないなど到底在りえないその質問、

「神崎がいくちの妖力を吸収する、そして弱体化したいくちを撃破する。その作戦の骨子は十分理解できます。でもその間・・・・、妖力を、莫大な妖力を吸収させられる神崎は大丈夫なんですか?」

 いくちを倒すこと、それは人類全体にとって掛け値なしに素晴らしいことだ。しかし、その結果、神崎の身に何かがあった何てことになったら、僕は耐えられないだろう。

 イサリビはやはり噛んで含めるかのような優しい口調で語り掛ける。

「この作戦の成功の暁には神崎様が完全に開放される筈です。もちろん後遺症の類は一切ない状態で、です。まずそのことについては我々の作戦を信用していただいて結構です」

 僕は心の中でホッと息をつく。しかしイサリビの話には続きがある。

「しかし、作戦が成功しなかった場合。具体的には、いくちが襲い掛かってきたときに、神崎様の身を護れなければ、神崎様が危険にさらされる可能性は大いにございます。加えて、妖力を吸収された神崎様が暴れる可能性がございます。今回の作戦では、リヴァ様に氷による拘束を行っていただき、作戦中の神崎様の行動を制限させていただくつもりです。しかし、もし万が一にも、神崎様がその拘束を破り暴れられた場合は、作戦に支障をきたさないように神崎様をお引き留めする必要がございます」

 『お引き留め』。イサリビはそう表現したが、それが『神崎との交戦』であることは火を見るより明らかだ。

「その際、神崎様がお体に何らかのお怪我をされると、その場合も神崎様の身の安全に問題が生じます。唐堂様につきましては、もし神崎様がお暴れになった場合の交戦をお願いする可能性があります。その際、神崎様に怪我をさせるようなことが無いように注意していただく必要がございます。そのおつもりでいらして下さい」

 イサリビの言葉の端々や、リヴァと目配せをしたその行動から、僕がこの質問をする可能性があることが、僕以外の両者には想定済みだったらしい。

 僕が質問したことで初めて開示された情報、『神崎との交戦の可能性』。恐らく両者は、有るか無いかの可能性で僕が必要以上に気を揉む必要が無いように、僕が自分から質問しない限り黙っておく心算だったのだろう。

 実際その情報は、僕の気を動転させるのに十分な質量を持っていた。しかしそれはあくまでも、『いつもの』僕だった時の話だ。今僕は、良くも悪くも、緊張が突き抜けてどこか超然とした気持ちさえ感じていた。驚いたのは確かだが、恐れはしない。僕は、ほかの両者の気遣いがまるっきり的外れと感じるほど、その情報を事前に知れたことに安心した。

僕は神崎を見る。僕が救うと誓って、そしてこれから刃を合わせるかもしれない神崎を。

神崎とは、物心ついた時からの腐れ縁。気付くとそばで文句を垂れていた相手。歩く醤油卵にして生粋のアマゾネス。そして何より僕の唯一にして無二の理解者にして協力者。

僕が神崎に与えたモノ、僕が神崎から受け取ったモノ。到底数えられる限りではないその数々。そして、今僕が彼女に与えられる、いや与えるべきものは・・・・・

「神崎を助けよう」

 僕は目の前の面々を見回しながら、声を宣言する。

「僕たちがすべきこと、それは彼女を助けること」

「僕が、いや僕たちが彼女に与えられるもの、それは自由だ!神崎を、解放しよう」

 僕は声高々と宣誓する。

 あとから考えてみれば、そんなことを大声で言うなど恥ずかしくてとってもできない。でも、僕はこのとき、僕自身のこの声で気が引き締まった。それは、心なしか神妙にも見えるリヴァも、最初から表情が変化しないイサリビにしても同じことのようだった。


「じゃあいくよ」

 リヴァはそう言うと、もうお馴染みの蒼い気運を纏う。体から湧き出すようにも見えるその気運だが、今回はいつもと違い、目の前の氷柱、神崎の封印された氷柱の表面からも、まるで溶け出すかの如く蒼い気運が染み出して、みなひとところに、リヴァの鼻先に収束していく。

 リヴァの鼻先で蒼い光球がハッキリと形を成し始める。そして・・・、

「始めるよ!」

 リヴァが叫ぶ。と同時に蒼い光球が、最後に目も眩む光を発してはじけ飛ぶ。

 ここに『いくち撃退戦』いや『神崎解放戦』が幕を上げた。


     2


 目も眩む燐光が過ぎ去った後。そこには一人の少女が力なく倒れていた。

「神崎!」

「トードー待って!」

 思わず駈け寄らんとした僕をリヴァの鋭い声が押しとどめる。

 リヴァはそのまま、もう一度気運を纏う。そしてその煙の様な気運を神崎の四肢に伸ばす。

 すると、気運が触れたところからバキバキと音がして、瞬く間に氷が形成される。さっきの柱ともまた違う、白くゴツゴツとした氷だ。見るからに固そうだ。

「唐堂様、始まりましたよ」

 イサリビが細めた目で神崎を観察しながら言う。

 僕も言われるまでもなく、それが分かった。黒い気運、いつかの神崎が纏っていたモノが沖の方から、何本も筋となって流れてきていた。

 同時に神崎の周囲からも、同じ気運が沸々と湧き出す。

 二つの気運は溶け合い、だんだんと神崎を中心として渦を形成し始める。

 瞬く間に、絶えず流れ込んでいた膨大な量の気運が、嵐のように僕らの周りに吹き荒れ始めた。黒くドロッとしたその気運。当たり前だが、見ていて気持ちのいいものではない。

 ・・・と次の瞬間。渦が一瞬で動きを止める。僕は突然のことに少なからずギョッとする。しかし静止していたのもつかの間、瞬く間に気運が逆巻き、怒涛の勢いで神崎に流れ込んだ。

 一瞬の間に神崎は全ての気運をその身に吸い込んだ。

 そして神崎が眼を開けた。

 しかしその眼は切り取られたかの如き黒。いや穴と言うほうが近いかもしれない。神崎の眼窩にいわゆる眼球らしきものは見当たらない。ただただ、瞳も何もなく黒い虚無がそこに宿っていた。

 しかも、神崎が眼を開けた瞬間。沖から絹を裂く様な、割れた笛に乱暴に息を吹き込んだかの様な、高い高い音が聞こえてくる。その悲鳴は海中に長く細く響き渡る。

「リヴァ様、唐堂様、いくちがこちらに向かってきています。私が迎撃、撃退しますので、神崎様はどうぞ宜しくお願いします」

 イサリビはそう言い放つと、沖の方へ、笛が聞こえた方へ泳ぎ出す。

「トードー離れてて!」

 イサリビに気を取られていた僕を、リヴァの切羽詰まった感じの声が引き戻す。

 ハッと振り返ると、そこには早口で呪文を唱えるリヴァと、全身から新たに鋭い鱗を生やしながら暴れる神崎が目に飛び込んでくる。

 神崎はロボットのように、全身をガクガクと動かし、四肢を抑える氷塊を破壊せんと暴れる。そこにリヴァが呪文を唱え、鋭い鱗に削られたり、罅が入ったたりした氷を修復する。

 僕の目には両者の力は拮抗しているように見えたが、リヴァが死に物狂いで呪を唱えているのを見ると、神崎の方が優勢らしい。

 ・・・とまたもやリヴァに気を取られた僕の背後から、低い爆音が轟く。見れば青い業火と黒い奔流が物凄い勢いで激突している。衝突のたびに海水が、そして海底までもがビリビリと振動する。

 遠くに見えるイサリビは、昨日の如く、全身から青い靄を立ち上らせ、その靄は立ちどころに凝って、青い業火となる。

 一方は、黒く長大な蛇。いくちは体を覆う、黒くヌラヌラと怪しく光る液体を、紐のように持ち上げて、それを鞭のように操りイサリビの攻撃を叩き落とす。しかし所詮は油だ。イサリビのなぜか水中で燃え盛る焔と相対しては、流石に分が悪いように思える。火に触れた油は、たちどころに燃えてなくなる。しかし、何分、体の大きさに大きな違いがあるので、今現在、両者は互角にも見える。

 その時僕の背後で、バキバキと破壊音がした。ギョッとして振り向く。

 そこには、さっきと同じように、いやさっきより必死で呪を唱えるリヴァと、右手の氷塊を破壊して、その自由になった手で、四肢を拘束する他の氷塊を破壊せんとする神崎がいた。

 リヴァの口は怒涛の勢いで呪を吐き出す。しかし、またもやバキッと破壊音。見る間見る間の内に、神崎は左手、右足、と氷塊を破壊し、そして最後の砦、左足の氷塊もあっけなく粉砕される。

「トードー!来るよ!」

 リヴァはそれを見ると、瞬時に呪文を切り替えたようだ、その背後には悲しきかなもう見慣れてしまった、幾本もの蒼い太刀が形成されている。

 僕も、凍気を抜き、そして正面に構える。

 目の前には、ユラリと、さながら幽鬼の如く立ち上がった神崎と言う名の異形。その全身には小刀の様な鱗がビッシリと生え、四肢の爪は一本一本が一振りの小太刀に匹敵する。その身からは黒い蒸気のようなものが立ち上がり、その煙はまるで意志を持つかのように動く。前方に向いてはいるものの、その眼は切り取ったかの如く暗く、そこには何の感情も見て取れない。

 神崎が僕らに向けて一歩足を踏み出す。一歩。また一歩。

 ユラリユラリと神崎が接近する。僕は気圧されて、少しづつ後ろに足が引ける。しかし、そんな暇はなかった。

 次の瞬間、神崎が唐突に地を蹴り、疾風の速度で僕に肉薄する。同時にいつの間にか振り上げた爪を、僕の脳天めがけて振り下ろす。

 とっさに凍気を横にして受ける。が、爪自体は防いだものの、爪の勢いは尋常のモノではなく、凍気は容易く押し返される。ガンと音を立てて凍気の腹が僕の頭にぶつかる。一瞬目の前が暗転する。

 一瞬飛びかけた意識を必死で引き留める。しかしそれは簡単なことではなく、回復に数秒を有す。その間、僕は無防備、神崎から見ればまたとないチャンスだ。僕は作戦が始まって早々に、死を覚悟する。

が、その間に神崎が追撃してくることはなかった。不思議に思いながらも、まだちかちかする目を開ける。目に飛び込んできたのは爪を振り回す神崎と、その爪のことごとくを受けて押し返す盾の群れだった。

数にして十枚ほどの蒼い盾が神崎の周りを執拗に飛び回り、その前進を阻み、同時に攻撃を無効化する。そうだった、こいつが僕をこんなに呆気なく死なせる訳がない。

「トードー大丈夫?」

 すぐ後ろから声がする。視線は神崎に固定したまま、その声に答える。

「大丈夫。ありがとう」

 僕は凍気が激突した頭を撫でる。熱をもってはいるが、血が出てはいない。

 僕は立ち上がり凍気を構えなおす。

 神崎は盾に苦戦していたが、次の瞬間、体を丸め、そして勢いよく反らす。

 盾は、爆発するかの様な黒き気運を奔流に吹き飛ばされ、散り散りになる。神崎はさっきとは比べ物にならないほどの量の気運を纏う。周囲の海水もそれに引きづられるように逆巻くのが分かる。

 神崎はその虚ろな目を僕らに向け、一歩、一歩と再び接近を開始する。

 背後からの爆音も絶えることはない。と言うかどんどん激しくなっているようにも感じる。

 地は震え、水は逆巻く。天変地異と言う言葉が脳裏に浮かぶ。

 『神崎解放戦』改め『対神崎防衛戦』及び『いくち撃退戦』。まだ戦いは始まったばかりだ。


    3


 神崎は前回よりも強大な姿になっていた。

 爪は言わずもがな、四本の黒い気運が鞭のようにしなりながら僕らに襲い掛かってくる。

 ガン

 一瞬で接近した神崎の爪をリヴァの盾が受け止める。リヴァの周りにある盾は七枚。さっき黒い奔流に押し流されたことを気にしてか、リヴァは戻ってきた盾と、自分防衛用に温存していた盾とを合わせて、新しい盾を形成していた。それらは数こそ少ないが、一枚一枚が壁のように広く厚い。神崎の攻撃もどこ吹く風と受け止めている(ように見える)。

 その間に僕は黒い鞭の方を撃退する。神崎に凍気を振り下ろすことはできないが、気運なら問題はない。僕は迫ってくる鞭を凍気で受け止め、そして両断する。

 切られた鞭の先端は一瞬で消失するが、鞭は立ちどころに再生し、また襲い掛かってくる。

 暫くその状態が続く。リヴァは神崎の爪を完全に封殺し、僕に危険が迫れば、温存している数枚の盾で援護をしてくれる。僕もその援護に感謝しつつ、一心不乱に鞭を切りつける。ここまでリヴァは無傷、僕はかすり傷だけだった。しかし鞭の傷は深くはないが、昨日の神崎の爪と同じく、鞭が触れたところはドライアイスでもあたっているかのように、冷たく痛い。

 膠着した戦局。このままイサリビがいくちを撃退するのを待てば作戦は成功だ。背後からは絶え間のない爆音と閃光。心なしかその音は遠くなったようにも思える。

 僕はやっと終わりの見えた戦状に少し安堵する。しかし現実はそう上手くいかなかった。

 異変が起きたのは、体感時間にして一分ほど後。実際一分だったかはたまた十秒、もしくは十分だったかは分からない。始まりはリヴァの困惑した声だった。

「・・・・・おかしい。多すぎる」

「何が?」

 鞭を切りつつ僕はリヴァの声に答える。

「・・・・これはマズイかもしれない」

 リヴァがまた声を溢す。その声には一抹の不安や焦りが感じられる。

「リヴァ、何が・・・・」

 『何がマズイんだ?』と聞こうとした僕は、目の前にその答えを見つけ出す。

 神崎から沖に伸びる黒い筋。それはさっき神崎がいくちの妖力を吸ったときに見たものと同質に見える。しかしその太さはさっきの比ではない。さっきはあくまで『黒い筋』だったが今は『黒い丸太』と言った感じだ。しかもそれは一定の周期で、ゆっくりと脈打っているのが見て取れる。

 その時突然、神崎の攻撃が止む。神崎は頭を抱えて、膝を地につける。

「リヴァ!何が起こってるんだ⁉」

 僕は傍らの龍に声をかける。しかし返事はない。

 怪訝に思ってリヴァを見ると、リヴァは呆気にとられると言った面持ちで神崎の様子を穴が開くように見つめている。

「リヴァ!」

 僕はリヴァに手を当てて揺さぶる。

 しかし次の瞬間、僕も目の前の光景に茫然と立ち尽くすことになる。

 いまや黒い丸太の数は四本。黒い鞭が生えていた神崎の背中のあたりと沖とをつないでいる。その脈動は瞬く間に早くなり、一つ一つの脈動の大きさもどんどんと大きくなる。

 その時声が聞こえた。聞き間違える筈もない神崎の声だ。しかし記憶にある神崎の声とはかけ離れた、ひび割れた声だ。

 神崎は泣いていた。いつの間にか頭を抱えていた腕は、鱗に覆われた胸を掻きむしって、バリバリと音を立てる。天を仰ぎ見た顔は、悲しみのためだろうか、醜く歪んでいる。その塗りつぶされた目からは、その暗闇と同じ黒い涙が筋となり流れ落ちる。

 深い、暗い、醜い慟哭。神崎は天を仰ぎながら、おいおいと泣いている。それは見る者に無条件で悲しい感情をねじ込む光景だった。僕は腹の底まで冷たく暗い感情でいっぱいになる。

 しかし状況は移り変わり続ける。神崎の慟哭が激しくなる、その涙の筋が多く、太くなるにつれて、背後の黒い血管の脈動も激しくなる。

 そして全てが止まる。神崎の慟哭が、血管の脈動が、逆巻く水が、震える地が、みな一様に息を顰める。僕も思わず呼吸を忘れる。全てが静止した静寂の世界。それは絵画にも見える光景。月下慟哭する黒き異形の少女。それはため息が出るような、儚くそして美しい光景だった。全ての物が水彩にも似た淡い色で輝く。

 凍り付いた瞬間は唐突に終わる。バキバキと、神崎の額の中心が割れ、血ではなく黒い気運が海中に溶け出す。割れ目から現れたものは、そのまま静かに伸び、十センチほどの長さになる。細く滑らかな表面。神崎の額からは漆黒の角が生えた。その角は真っ直ぐに月に向かって生えている。

 神崎の体の各所にも変化が現れた。爪が角と同質の輝きを放ち、より細く鋭いものとなる。牙が、新雪のように白い牙が、唇の間を押し開いてニュッと伸びる。全身の鱗が逆立ち、細くより洗礼された鋭利なものに変化する。黒い血管が生えていたあたりからは、黒い鞭、いや触手が生える。その数四本。先ほどの霧の様なものとは似ても似つかない、鱗に覆われた触手だ。触れれば、人の皮膚など容易く切り裂かれてしまうだろう。

 神崎はそのままゆっくりと立ち上がる。その眼は暗いまま、しかしいまだに滾々と黒い涙が溢れ続ける。

 それは寒空に浮かぶ月の様な、美しく、そして息が詰まるほど冷たい光景。

 そこにいたのは漆黒の鬼だった。


     4


 硬直した時間を最初に破ったのはリヴァだった。

 盾数枚を何本もの鎚に変える。そして僕が止める間もなく、神崎にそれを振り下ろした。

 ガキン

 大きな音がして鎚が跳ね返される。神崎は微動だにしない。

「リヴァ、これはどういう・・?」

 僕はやっと声を出せるようになってリヴァに問いかける。

「・・・・わかんない。でもこれだけは確か、あそこにいるのは確かにカンザキ。だけどカンザキは今人間じゃない。あれは完全に妖だ」

 僕はリヴァの答えに茫然とする。神崎が妖⁉僕は神崎を見る。そこにいるのは漆黒の鬼、確かに人と言う存在からは大きく逸脱しているように見えてしまう。しかし、僕の心は神崎が妖だとは頑なに認めようとはしない。当たり前だ、神崎は僕の幼馴染にして親友だ。それが『人ならざる者』になったなぞ、認められるわけがない。

 しかし、いまだピクリともせず虚ろな目を向けてくるモノは確実に人ではないことはまた事実だ。

 その間にもリヴァは神崎に攻撃を仕掛ける。さっきまでは神崎を傷つけないように気を使っていたリヴァが、太刀で、鎚で、槍で神崎に猛攻を仕掛ける。その行動がもう神崎は人ではないと声高々に主張しているように思える。

 神崎は全ての攻撃を受け、ことごとく跳ね返す。そして何事もなかったかのように立つ。

 リヴァが大きな戦斧で神崎を攻撃しようとした時、神崎に初めて動きがあった。いや正確にいえば神崎本体は動いていないが、その身から生える触手の一本がユラリと動き、迫りくる戦斧にうなりをあげて激突する。

 激突した瞬間、戦斧は音を立てて砕け散る。砕かれた破片がキラキラと輝きながら水に溶ける。触手はそのまま僕らの方へ猛然と向かってくる。

「マズイ!」

 リヴァが声を上げて、当たりを周回していた武器を分解・再形成して一枚の大楯を作り出す。見上げるほど高い、壁の様な楯だ。厚さも三十センチ近い。

 次の瞬間、盾と触手が激突する。僕は盾の裏側にいたが、その衝撃で後ろに弾きとばされる。触手自体は盾に受け止められていたが、衝撃だけで辺りの水が、地が震える。

 そこで僕は違和感に気付く。そういえばさっきからずっとそうだった気もするが、神崎に気を取られて気付かなかったらしい。

 違和感の正体はすぐに表れた。神崎の横合いから、青い火球が飛んでくる。しかし神崎は一瞥もせずに、触手で火の球を叩き落とす。青い業火はあっけなく撃ち落とされる。叩き落とした触手が一瞬青い火に包まれたが、瞬く間に消える。

「お待たせしました」

 イサリビが僕の隣に現れる。違和感の正体、あれほど激しく鳴り響いていた轟音が消えたこと。それが何を意味するのか、僕には分からないが、イサリビといくちとの戦いにも何らかの変化があったということは容易に想像できる。

 またもや神崎の触手が楯にぶち当たる。僕は何とか踏みとどまる。楯がバキバキと音を立てる。次の一撃で砕けてしまいそうだ。

「イサリビ、そっちは?」

 リヴァが声をかける。その声には焦り、そして隠し切れない不安が感じられる。

「いくちの妖力は順調に吸収され、撃破まであと一歩でした。しかし」

 イサリビはそこで一度言葉を区切る。イサリビの声にも隠し切れない不安と困惑とが滲む。

「いくちは消滅しました。跡形もなく」

 イサリビは結論を言った。しかしそれを聞いた僕はこう言わずにはおれない。

「いくちが消滅したなら、神崎の中の妖力も霧散するんじゃないんですか?」

 自分で思っているよりも強い口調になってしまったが、今の僕にそんなことを気にしている余裕はない。

「いくちは消滅しました。しかし、私が討伐したのではございません」

 僕の胸を大きな不安がよぎる。

「いくちは神崎様に完全に吸収されました。神崎様は私の予想を上回り、いくちのすべての妖力を、膨大ともいえるその全てを吸収されました。言い換えれば、神崎様がいくちを取り込みました」

 イサリビは勢いよく言い切る。その口調は僕に負けず劣らず強いものだったが、そこにあるのは怒りではなく、困惑だった。

 触手が再び楯に激突する。楯は触手を受け止めはしたものの、衝撃で砕け散る。

「二人とも話すのは後!まずはカンザキをどうにかしないと」

 リヴァが叫ぶ。

「『どうにか』て、どうやって!」

 僕はリヴァに叫び返すが、リヴァは答えない。と言うか答える余裕がない。

 盾がなくなった今、嵐のように迫りくる触手を受けとめることができる手段はない。リヴァの形成している武器も大分量が少なくなってきた。しかし新たに生成しても、いとも簡単に触手に砕かれる。

 その時、僕の隣から青い煙が立ち上り、凝って火球となる。火球はそのまま矢のように神崎に向かう。しかし先ほどと同じく、触手に叩き落とされる。しかし僕の隣ではどんどんと煙が湧き出す。イサリビは次々と業火を形成し、矢継ぎ早に神崎に向けて発射する。その様はまるで流星群のようだ。

 さしもの神崎も手数が追いつかない。次々に襲い来る、蒼い太刀と、青い業火をさばき切るのは四本の触手には荷が重い。神崎は防戦に手いっぱいだ。

 しかし、こちらもこれが最大火力。二匹の龍が全力でその権能を行使している。しかし、大半の攻撃は神崎に届きさえしない上に、運よく荒れ狂う触手を掻い潜って神崎本体に到達しても、その鱗に覆われた体が呆気なくはじき返す。僕も何かできることはないかと考えるが、それこそ嵐のように攻撃が激突する神崎に、一般人類であるところの僕は全く近づくことさえかなわない。

 場面は再び膠着する。神崎は防戦で手いっぱいだが、こちらは最大火力。少しでも手を緩めたら、神崎の触手に頭を砕かれることになるだろう。

 ここにいる誰もが、もう無事では済まされないことは火を見るより明らかだった。


      5


 硬直していた戦局はだんだんと傾いてきた。

 リヴァの攻撃に切れがなくなってきたのだ。いかに龍と言えどもリヴァは転生してまだ一か月もたってはいない幼体。神龍だったと自負してはいたが、この状況で戦闘を続けることは容易ではないらしい。

 リヴァの攻撃が緩んだ途端、神崎の触手の内一本が弾かれたようにリヴァに伸びる。リヴァは鎚や斧で触手を攻撃するがその進行を止めることはできない。

 しかしリヴァがダメもとで振り下ろした鎚が、ガンッと鋭い音を立てる。そして初めて触手がその軌道をずらした。リヴァの隣にいた僕の方へ。

「えっ」

 突然軌道を変えた触手が僕目掛けて一直線で向かってくるのを、僕は茫然と見つめた。

 今度こそ死を覚悟した。しかし体は頭が働かないままでも反応する。

 咄嗟に持ち上げた凍気に触手が当たる。硬直していたのが救いになって、一応触手の攻撃を受け止める。リヴァの攻撃で触手の勢いがそがれていたのも幸いしたようだ。

 腕に衝撃が伝わり、全身が殴られたような衝撃を受ける。僕はそのまま後方へ吹き飛ばされる。

 が、すぐに背中に衝撃を食らう。見れば氷塊が海中に生成されている。リヴァが自分から僕が離れすぎるのを心配して、僕が吹っ飛ぶのを防いだようだ。

 ありがたいのは確かだが、衝突の瞬間、背中に氷塊が食い込む。

「グッ・・」

 僕は痛みに顔を顰める。背中も強い痛みを報告する。しかし今の状況ではゆっくり痛みに呻いている余裕もない。

 僕は素早く、リヴァの横に戻る。

 僕を攻撃した触手は、リヴァたちの攻撃を受けて、引っ込んでいる。

 僕は凍気を見つめる。触手と激しい勢いで衝突したが、刃こぼれ一つしている様子はない。さすがはリヴァをして特別と言わせしむ剣、と言ったところだ。しかし、凍気の鋭い刃に突っ込んだ触手も傷一つない。

凍気は水からできた恐ろしく鋭い剣だが、その本質が水であるが故にいくちを切ることはできなかった。なぜならいくちの全身は油に覆われ、いくちも凍気に傷をつけられないが、同時に凍気はその油を切って、いくちに傷を負わすことはできない。

 今回、神崎の触手もヌラヌラとした油に覆われていて、凍気では歯が立たないようだ。

 これは凍気を武器にする僕と、同じく水から武器を生成するリヴァのとってこの上なく不利な状況だ。

 と、またリヴァの攻撃の合間を縫って触手が飛んでくる。

 今度は最初から僕を狙っているようだ。

「トードー!」

 リヴァが叫び声を上げて、触手に猛攻を加え、何とか軌道を逸らそうとするが、今度は触手がぶれることはない。

 イサリビも僕の、ひいては僕の生命に依存するリヴァの命の危機を察知して、触手に業火を投げる。その火力は、今までの火球とは比べ物にならない激しいものだ。触手は青い業火に包まれて、かろうじて僕の目の前で止まり、炎にのたうつ。触手にも感覚はあるようだ。僕は目の前で炎に包まれる触手に、反射的に凍気を振り下ろす。

 すると、『グブッ』という嫌な手ごたえがして、触手がぶっつりと両断される。

 僕はそれを信じられない思いで見つめる。

 状況が飲み込めない僕の隣で、イサリビが口から火を噴く。勢いや大きさは火の球に劣るが、より強い輝きを放つ炎だ。その白い炎の舌が触手の切り口を焼く。僕の目の前で切り口は黒く焼き固められる。

「唐堂様、お手柄です」

 イサリビが声をかけてくれる。その声には確かに喜びの色が見て取れる。

 僕は手をそして凍気を見つめる。凍気では触手を切れないとさっき確認したばかりなのに、今度は触手を見事に両断した。訳が分からない。

 リヴァにはそんな僕の疑問が分かったのだろう。触手に傷を負って他の触手の攻撃が一度止んだのもあってか、僕に解説をしてくれる。

「僕らの武器では油に包まれた、いくち、ひいてはその力を取り込んだ神崎を傷つけることはできない。なにせ水と油は本質的に相反するモノだから。でも今、トードーは触手を両断した。なぜなら油がなくなっていたからさ」

 何を言うのか、僕にはまだ話の先が読めない。

「トードーが今切った触手。その触手はイサリビの炎に包まれていた」

 ここでやっとリヴァが言わんとしていることが分かる。

「イサリビの炎は、少々特殊だけどその本質は火。ならば火は油を焼くことができる。あの触手が纏っていた油が、あの瞬間イサリビの業火で消失していたんだよ。油さえなければ凍気に切れないものは無い。僕ら誰もそれには気付かなかったけど、これであの忌々しい職種に対抗できる」

 リヴァは力強く言い放つと、この激闘の間微動だにしない神崎とその周りでのたくる触手を見つめる。その声には久しぶりに希望の色が見て取れる。

「しかも!」

 リヴァが口から泡を飛ばしながら話す。この発見によっぽど興奮しているらしい。

「イサリビが傷口を焼き固めた。そうしておけば触手は簡単には再生できない」

 リヴァはひとしきりはしゃいでから、フッと気を引き締めなおし、どっかにほっぽってあった龍の威厳を取り戻す。

「さあ反撃だ!カンザキを止めるよ」

 リヴァは高々と宣言した。


     6


 そこからは僕らの動きは目に見えて良くなった。

 さっきの攻撃が止んだ時に休めたというのもあるが、何よりこの戦いの終わりが、希望が見えたことが大きいのだろう。

 ただただ暗い空間で手探りをしていた時間は過ぎ去り、やっと見つけたトンネルの出口へ、光差し込むその場所へ、手を取り合って向かう。

 迫りくる四本の触手。そのうち三本をリヴァとイサリビが押し返す。残った一本にイサリビが業火を当て、火に包まれた触手に僕が切りつける。

 唸りを上げる触手をとらえるのは至難の業だ。うまく攻撃が通ることは少ない。しかし、僕らは確実に触手にダメージを与えていった。そしてその傷口はすかさずイサリビに焼かれる。

 触手はドンドンと短くなる。それにつれて僕らは、少しづつ神崎との距離を詰める。

「リヴァ!神崎を開放するにはどうしたらいい?」

 僕は燃え盛る触手を両断しながら、だんだんと近づく神崎本人を救う手立てを求める。

「うーん。僕もあんまりこんな事態にあったことがないから分からないけど」

 リヴァも触手を攻撃しながら答える。リヴァにも大分余裕が出てきたようだ。

「得てして鬼の力の根源はその角にあるものだから、角を折れば解放できるかもしれない」

 僕はそれを聞いて前方で立ち尽くす神崎を見る。神崎から生えた、触手は猛威を振るっているが、なぜか神崎は初めから微動だにしていない。ただ黒い涙を流すばかりだ。

「私もそれしかないと思います」

 イサリビもリヴァの意見に賛成らしい。そうとなったらやることは一つだ。

「角って簡単に折れるもんなの?」

 僕は再びリヴァに問いかける。

「固いことは確かだけど、たぶん凍気なら簡単に折れると思うよ。僕がたくさん力を込めて武器を作れば、たぶんその武器でも大丈夫」

 それだけ聴ければ大丈夫だ。僕はもう数メートルまで近づいた神崎を見る。額には漆黒の角が一本直立している。

 僕がまた触手を両断した瞬間、チャンスは訪れた。

 痛みに硬直する触手。その攻撃の空白に僕は飛び込む。同時に凍気を大上段に振りかぶる。

 神崎に肉薄し、その宝石の様に輝く角に凍気を振り下ろさんとした瞬間。

「ゲフッ」

 横合いから触手が僕を殴る。痛みを引き摺ってか勢いはないが、空中にいた僕は簡単に吹き飛ばされる。

「トードー!」

「唐堂様!」

 リヴァとイサリビが声を上げ、吹き飛んだ僕を追撃しようとしていた他の触手を押しとどめる。

 僕は海底を転がったが、何とか起き上がる。

 全身に擦り傷、打撲を負ったが、いまさらそんなもの問題にはならない。

 しかし僕は致命的なミスに気が付いた。

 吹き飛ばされた瞬間。触手が狙ったのは僕ではなく凍気だったらしい。触手は凍気を遠く弾きとばしてしまった。僕だけ離脱して取りに行くにはあまりにも遠い上に、時間がかかる。

 しかし、凍気が無ければ神崎の角を折ることはできない。リヴァが時間をかけて武器を作れば代用出来るらしいが、もちろんそんな余裕はない。

 完全に手詰まりだった。凍気が神崎に対抗できる唯一のモノだった。それが失われた今、神崎に対抗しうる術はない。僕の頭はどうにかして現状を打開しようと全力で回転するが、まったく思いつかない。

 神崎の触手もそれをわかってか、少し勢いを盛り返しつつある。しかもいくら傷口を焼いたからと言って、触手の再生を抑えられるのは少しの間だけだ。こうしている間にも、さっき切った触手がユックリと再生する。

 しかし僕らには対抗しうる手がない。丸腰の人間、幼体の龍、一匹だけの成龍。完全にゲームオーバーだった。


      7


 その時だった。

「トードー、あれ!」

 リヴァが触手と相対しながら、必死で海面を指し示す。

 リヴァの指し示す先には一振りの大槍。船幽霊を縫い留めていたものだ。

 僕の頭はそこまで考えると、速やかに行動に移る。

 海面に上がり槍を掴む。忘れもしない僕らの初陣、船幽霊に止めを刺した。あの大槍だ。

 僕はそのまま神崎の真上に移動し、一直線に降下する。

 目指すは漆黒の角。

 『僕がたくさん力を込めて武器を作れば、たぶんその武器でも大丈夫』脳裏にはリヴァの言葉が繰り返し再生される。この武器なら十分条件を満たすだろう。

 僕は神崎に見る見る接近する。触手が僕の行く手を阻もうと躍起になるが、リヴァとイサリビが封殺する。

「あああああああああ」

 僕は知らず知らずの内に雄叫びを上げる。

 目標は目前。ここにきて仕損じることはないだろう。

 カーン

 振り下ろした大槍は狙いたがわず、角の根元に命中する。

 僕は反動で後ろに押し出され、偶然にもリヴァたちのところに降り立つ。

 再び時間が止まった。全てが硬直した。

 変化はたちどころに現れた。神崎の爪が、鱗が、牙が見る見る縮んでいく。その下には、紛うことなき人間の、神崎本人の爪が、醤油卵の様な肌が現れる。

 全身の変化は末端から始まり、徐々に上へ上へ、頭へと向かう。触手も溶けて黒い煙のようにユラユラと頼りなく揺れる。

 神崎から溶け出した黒い気運は、海中に漂い。傍目からは、神崎が黒い豪奢なドレスを纏っているようにも見える。

 そしてその全て、神崎を異形たらしめていた黒い気運の全ては、ユックリと神崎の額に、その角に集まり吸収される。

 すべてが終わった瞬間。黒い気運が跡形もなく角に吸い尽くされたその瞬間。角はカンザキの額からポロッと落ちる。なんだか呆気なさすぎるようにも感じるが、今そんなことは関係ない。

 角は静に海中を真っ直ぐに落ち。海底にぶつかる。

 同時に最初から最後までただ立ち尽くしていた神崎の目が閉じられ、膝から崩れ落ちる。

 僕はとっさに駆け寄って抱き留める。暖かい体だ。もう触れた手が傷つくことはない。

 僕は神崎を固く抱きしめた。



    九、結末


      1

 あの激闘の後。僕らは神崎を陸まで運び、そこからは僕とリヴァで神崎を彼女の家まで送り届けた。

 イサリビはその大きさゆえに町に入れないのに加え(イサリビはリヴァのように飛ぶことはまだできないそうだ)、海中であれだけ暴れてしまったことの後始末をすると言って海岸で僕らと別れた。イサリビには改めてお礼が言いたかったので、後日また会う約束をした。

 幸運なことに、神崎の身に大きな外傷はなかった。しいて言うなら、角があった場所は額が裂け、抉れたようになっていて痛々しいが、リヴァによるとそんなに深い傷ではないらしい。血もほとんど出なかったところを見ると、見た目ほど心配する必要はないだろう。

 身体的に大きな問題はないと分かった神崎だが、海から家までの間、ついに目を覚ますことはなかった。リヴァ曰く『深く眠っているだけ』とのことだったが、僕は神崎が目を覚まし、僕に声をかけるその瞬間まで、気を抜くことなどできる筈もなかった。

 神崎家につくと、ドアから鍵を開けて入る。この鍵は昨日神崎母のポケットから拝借させていただいたものだ。無断で女子の家の鍵を拝借するのは気が引けたが、かといって神崎母と神崎妹が眠ったままの神崎家に鍵をかけないなど、そんな無防備なことはできない。リヴァにまた鍵の開閉をお願いすることはできたが、そんなことをするぐらいなら、最初から鍵を借りる方が早いと思った。

 当たり前と言えばそれまでだが、神崎家は暗く、寒かった。神崎を彼女の部屋のベッドに下ろす。部屋の反対側のベッドでは、神崎妹が、やはり僕が昨日横たえた姿のままで眠っている。

 僕にとって神崎家は明るい家だ。神崎本人に加え、神崎家の人々はみんな騒がしく元気な人だ。だからこそ、今のこの家の静寂が、人のいない冷たさが、今大役を終えた僕の心に『まだ終わっていない』と言っているように感じた。

 リヴァが神崎家の人々の様子を見て回った結果、全員後数日の間に目を覚ます筈らしい。神崎もあれほどのことがあったが、多少精気が失われているだけで、他の二人よりも健康なぐらいだそうだ。

 僕は眠る神崎を、その額を見ながらポケットからあるものを取り出す。

 漆黒の角。例えるならオニキスの様な、見ていると吸い込まれそうな黒だ。長さは二十センチほどだろうか。こうしてみると、全体に微妙な反りが見られる。表面はつやつやとしていて、手触りも非常に滑らかだ。しかしその先端は鋭く尖り、裁縫の針など目じゃないだろう。しかも、僕はあの時、リヴァが作った大槍で力いっぱい角の根元を殴った。しかしどこを探しても、その時の傷は勿論、ほんの少しの傷さえ見つけることはかなわなかった。

 僕は神崎家の中を見て回り異常がないことを確認する。そして、最後にもう一度神崎の顔を見てから、神崎家を出て、そのドアに鍵をかける。

 僕は自転車にまたがり、未練がましくもう一度神崎家を見る。できれば神崎の近くで、彼女が目覚めるまで付き添いたいような気もしたが、神崎は無傷だったからいいが、僕とリヴァは全身傷だらけだ。僕の服もいたるところに切れ目、焦げ目が入り、たいそうみすぼらしい。僕らはあの激戦の傷を癒すために、十分な休息を必要としていた。

 後ろ髪引かれる思いで神崎家を後にした僕らは、間もなく僕の家に到着する。家を出たのは数時間前だが、その数時間があまりに濃密だったせいか、物凄い懐かしさを感じる。

「ただいま」

 いつも通りの挨拶。しかし今回は特にその『いつも通り』に言いようのない安心感を覚える。

 どうもあの戦いのせいで、僕は多少感傷的になっているらしい。あの激戦、神崎を救う戦いは僕の常識を大きく変容させた。だからこそ、『いつも通り』と言うよりか『今まで通り』と言うことが、新鮮に感じるのかもしれない。

 とりあえず風呂につかる。息ができているのでそんな実感はないが、僕らは延々と水(ただし海水)に浸かっていたから、あれだけの激戦の後でも汗は気にならない。しかし、風呂とは不思議なもので、自分の慣れ親しんだ湯釜で湯に浸かっていると、あらゆる緊張や心配事が洗い流されて、とても落ち着く。もし『あなたは家の中なら、どの場所にいる時が一番落ち着きますか?』と聞かれたら、自分の部屋か風呂迷って、きっと答えに窮するだろう。

「ああ・・・・・落ち着く」

 僕は、無意識に緊張していた筋肉が徐々に解れていくのを感じる。

「ああ・・・・・気持良いー」

 今度は風呂に浮かぶ蒼い縄が喋る。言わずもがなリヴァだ。今日は珍しく風呂に『浸かりたい』と言ったから、『水を吸収しない』と言う条件付きで入浴している。

 だらしなく伸びた体は、縄もしくはユニークな入浴用タワシに見える。ふにゃ、と半開きの目、だらしなく開いた口。・・・これを見ていると龍の尊厳もへったくれもあったもんじゃない。

「まあこれで一件落着だし、まあ良かったかな~」

 リヴァが湯の温かさに溶けたまま喋る。戦闘時からは到底想像できない間の抜けた、緊張感のない声だ。

「まだ、終わってはいないだろ。神崎家の人たちが目覚めるまで」

 僕はその声に答える。僕の声もリヴァに負けずを取らず間が抜けている。全身の筋肉は完全に弛緩している。

「まあ確かにね。でももう終わる。元凶は取り除いたからね」

「まあ確かにね」

 僕らは気の抜けた会話をする。

 二人の戦闘で被った精神的疲労が、少しぬるくなってきたお湯に溶け出す。

「そういえば」

 僕はリヴァに目を向けながら、気になっていた事を尋ねる。

「なんであの時、神崎はいくちの妖力を吸い尽くすなんてことになったんだ?」

 神崎は唯でさえ、いくちのせいで『妖に憑かれた』状態になった。しかしあの時、神崎はイサリビやリヴァの予測を超えた量の妖力をいくちから吸い取り・・・・、鬼となった。

 『いくちが消滅したら、核を失った妖力は離散する』。たしかイサリビはそんなことを言っていた。しかし、いくちが消滅しても神崎は解放されなかった。そればかりか、神崎はいくちの妖力を絞り尽くし。いくちを消滅させ、そして変容した。あれは明らかに『妖になった』と表現して差し支えない光景だろう。

 リヴァは困ったように眉根を寄せながら考え込む。

「う~ん」

「・・・・・・」

「う~ん」

「リヴァ、なんで?」

「う~~~~ん。・・・・・分からない!」

 リヴァはいきなり大声で、開き直る。

 しかしただ『分からない』では体裁が悪いのだろう。

「わかることは神崎が、理由は解んないけど、異様に妖力を引き付けやすい、てことぐらい。そもそも単なる人間が、下手すれば龍をも凌ぐ妖力を所有して、あまつさえそれを使用して攻撃するなんてできる筈がないんだよ」

 リヴァはそこで言葉を一度切って、鎌首を擡げて僕と向かい合う。さっきまであんなにだらしなかったが、こうしてその蒼い眼を見るとなぜか威厳を感じるのが不思議だ。

「そもそも妖力は人間とは相いれないものなんだよ。分かり易く言うと毒だよ。『妖力に当てられる』ことはあっても『妖力を取り込む』ことは在りえない。神崎家での神崎はいわゆる『妖憑き』、これは強い妖力に当てられた状態だよ。このことだけでも神崎が以上に妖力に弱いということになるけど。でもあの海では、神崎は鬼になった。あれは『人』が『人ならざる者になった』ということだよ」

 リヴァはそこでまた、体の力を抜き、バシャンと水に倒れる。しかし水中から声だけは聞こえてくる。

「僕はそんな例、全く聞いたことがないし、何度も言うけど『人』と言う生物の性質上有りえない」

 リヴァの声は水中からでも変わらずはっきり響く。だからこそ、その言葉からはリヴァ自身の困惑が簡単に読み取れる。

「僕には分からない」

 リヴァはため息をつくようにもう一度そう呟く。

 僕はもやもやとした不満を抱えながらも、リヴァにわからないことが僕にわかるはずもなく、今真相を知るのはあきらめた方がいいと思った。


     2


「私にも分かりかねます」

 イサリビも仏頂面でそう答える。

 時は翌朝。何とか重い頭を起し、学校に行くべく支度をして、いつもよりかなり早めに家を出た僕らは、浜辺でイサリビと対面していた。僕の全身にはまだ細かい切り傷やあざがあったが、登校に支障はなかったため学校に行けると判断した。

 一晩ぶりに顔を合わせた僕は開口一番、リヴァにしたのと同じあの質問をした。

『なんであの時、神崎はいくちの妖力を吸い尽くすなんてことになったんですか?』

 その質問への答えがさっきのだ。

 イサリビにも分からないとなると、本格的に真相を解明することが難しく、というか不可能に近くなってしまった。

 イサリビは僕の質問に答えられないのが釋なのだろう。リヴァと同じく弁解にも聞こえる説明を始める。

「神崎様はおそらく何万いや何百万分の一の特殊な体質の持ち主なのでしょう。妖気を引き付け、それに耐える体質。程度は違いますが人間にもそのような特性が現れる例は確かに存在します。最初の時点で、神崎様にその傾向があるのは私も重々承知していました。しかし、予想外だったのはその強さです。神崎様はそれこそ妖や一部の龍に匹敵するほどの妖力吸引力を保有していらっしゃいました。私も生まれてこの方数百年、同じような例はまったく耳にしたことがございません」

 イサリビは一気にまくし立てた。言い終わってから、自分がかなりの勢いで話したのに気が付いたのだろう。イサリビは居心地悪そうに身をよじる。

 神崎の体質。そんなことであの現象は説明がつくのだろうか。僕は首を捻る。

 しかしここでどんなに考えても結論は出ないだろう。

「イサリビ、今回は本当にありがとう」

 リヴァが憮然としていたイサリビに声をかける。

 そこで今日イサリビを呼んだのはお礼をするためだったと僕は思い出す。

「ありがとうございました」

 僕もリヴァに続く。

「いえ滅相もございません。龍の使命ですから」

 イサリビはそういうと、踵を返して海に目を向ける。

「海は様々な可能性を内包しています。それを見極め修正するのも我々の使命です」

 イサリビは目を細めて朝の海を見る。その眼には海がどのように見えているのだろう。

「では失礼いたします。また何かございましたらご連絡ください」

 イサリビは海に入りながら言う。後半はリヴァに向けての言葉だ。

「了解」

 リヴァがそう答えるのを確認すると、イサリビは海に消えていった。

 暫くは波の間に青い背中が見え隠れしていたが、潜ったのだろうか、そのうち完全に見えなくなった。

 僕らはそのまま無言で海に背を向ける。まだ一日は始まったばかりだ。


     3


「唐堂!おめでとう!ついにお前も彼女持ちか!俺を差し置いて!爆死しろリア充!」

 さてどうコメントしたらよいか。

 教室に入るなり、耳の奥まで響く大音声。しかも内容がコレ。前半で『おめでとう』で後半が『爆死しろ』という盛大な矛盾。こいつの国語力が心配になってくる。

「西岡、お前ダイジョウブか?熱でもあるんだよな?さあ保健室へ・・・」

「唐堂!俺を排除しようとするな!幸せで脳みそまで蕩けたか!」

「蕩けてんのはお前の脳みそだ!」

 とりあえず西岡を穏便に排除しようとしが失敗。しかしこいつを野放しにしておくと、ただでさえこいつが破壊してきた僕の社会的認識がさらに大変なことになる!

 僕が状況を分析している間にも、西岡の口からはあることないことが間欠泉の如く噴き出す。

「お前が神崎さんといちゃコラするのは自由だが、そのまま色ボケして学校を休むのはさすがに・・・」

「だから違うて!」

「うるせー!俺には分かってんだよ!どうせヌルヌルの神崎さんとあんなことやこんなこと・・」

 確かにヌルヌルではあったな。・・・・・・なんて考えたのが運の尽き。

 即答しなかった僕を見る西岡の目がドンドン大きくなる。

「お前まさかほんとにヌルヌルの神崎さんと!」

 どうやら西岡の声の大きさは、目の大きさに比例するようだ。耳が痛くなる大音声。廊下どころかこの階にビンビンに響いている。

 僕は僕の社会的地位と楽しい高校生活を死守すべく、西岡を睨む。しかし西岡にはまるで効果がない。

「西岡!なんでお前だけそんな恵まれ・・、もとい、不謹慎な!」

 西岡の口から一瞬本音らしきものが飛び出しかけたが、西岡は自分の社会的信用は大事にするようだ。・・・どこまでも性悪な奴だ。

 その間にも西岡マシンガンは絶好調だ!

「ヌルヌルと言ったら、触手か?唐堂、お前神崎さんと触手で・・。まあ触手なんて存在しないからそれは無いにしても」

 そういえば神崎の触手は、どこに消えたんだろうか?

『・・・トードー』

 右腕の腕輪から、諫めるような声が聞こえる。

 マズイと思って西岡に反論しようとするが後の祭り。西岡の顔が『無いにしても』と言ったままの形で硬直し、否定しない僕を見て、どんどんと上気する。しかも運が悪いことに、クラスメイトの顔がドンドン青くなるのも目に入る。

「唐堂っ!お前!何を!」

 西岡が怒りか羨望か分からないギラギラとした目で僕を見ながら口をパクパクする。家にいる金魚を連想させるしぐさだ。興奮してか、ただでさえ壊滅的な西岡の言語能力が、星の彼方まで吹き飛んだらしい。

 僕の首は社会的に飛ぶ寸前。もう形振り構わず西岡を物理的に止めに入る。いや入ろうとしたが。

「唐ど、ナンデ、お前、そん、・・・」

 限界まで赤くなって関東ローム層よろしく赤茶になった西岡。言語能力が完全に西岡の脳を引き払ったと同時に、西岡の血圧も限界を迎えたらしい。鼻からツツッーと赤い血が・・・。西岡の目が裏返る。そのまま

 バタン

 西岡の脳はあまりのショックにショートした。彼の脳みそが何を想像して限界を迎えたのか、悍ましくって願わくば一生知らずにいたいものだ。

 僕は僥倖とばかりに、隠そうともせずにニヤニヤ。僕の体面をいたずらに引き裂いていたマシンガンがやっと沈黙した。

「わー、にしおかくん。だいじょうぶー?ぼくがほけんしつにはこんであげるよー」

 僕は硬直する(なぜ硬直しているかは考えたら負けだ)クラスメートがモーションを起こす前に、有害情報発生器を担いで、保健室に向かう。

 運がいいことに保健の先生は出払っているらしく、保健室は無人だ。

 僕は西岡をドアに立てかけると、保健室から早退届を拝借し、勝手に記入。

「リヴァ、こいつを頼む」

「うえっ?何いきなり」

 リヴァがするすると僕の腕から離れ、西岡を見下ろす。

「こいつの家教えるから、運んでくんない?頼んだ!」

 僕は一方的にそこまで言うと、リヴァの返事も聞かずに飛び出す。

 言い訳をするなら、今にもチャイムが鳴りそうで急いで教室に帰る必要があったから。本音を言うなら、一刻も早く西岡を視界から抹消したかったから。

 西岡はその後、リヴァがオロオロしている間に、保健室に返ってきた養護の先生に発見され。そのまま熱があるという理由で、自宅に強制送還になったらしい。

 教室で『西岡は熱があったから、錯乱してたみたいだなー』とわざとらしく大声で独り言を言い、西岡に壊された信頼の回復に努める。なぜ僕がこんなことをする羽目に・・・。


    4


 待ち望んだその日は、件の戦いの三日後となった。

 学校に登校し、そのまま神崎家に様子を見に行くというのがだんだん日課になってきたころ。

僕が神崎家について、各部屋の様子を見る。その日も何の変化もなく。ある意味平和であるような気がしていた。

が、僕が神崎家を出ようとした時、神崎姉妹の寝る部屋でガタっと言う大きい音が!僕は鞄を放り投げ、みっともなくドタドタとその部屋に飛び込む。僕の頭の中はやっと神崎に、元気な神崎に会える、と言うことでいっぱいだった。

ガチャリとドアを開け、部屋に侵入。そこには・・・。

神崎美月が布団の上で上体を起こしていた。その眼はまだ寝起きでトロンとしているが、紛れもない人の、神崎の目だった。当たり前のことだが、件の騒動の間、神崎の目は一度としてまともでなかったので、僕はそんな当たり前の事実に意味もなく安心した。

これだけの安心を感じられるということは、僕がまだ心のどこかで、もう神崎に会えない可能性を自覚していたということだろう。僕の心から最後の緊張がスルスルと抜け出るにしたがって、僕の膝からも力が抜ける。

 僕はドアを開けたままヘナヘナと座り込んでしまった。

 神崎はそんな僕をトロンとした目で不思議そうに見て・・・・。

「!!!!!」

 見ていたのだが、目の前の光景がやっと神崎の脳に正しく伝わったようだ。

 神崎は電光石火でベッドから降りると、鋭く踏み込みパァンと僕の頬に平手打ちをかました。

「グヘ」

 僕の全身は完全に力が抜けていたので、神崎のゴリラハンドから繰り出される平手打ちにたまらず吹っ飛ぶ。しかし運悪く、吹っ飛んだ先には神崎のベッド。図らずも彼女のベッドに突っ伏す結果となり、神崎の怒りの炎が一層元気になる。

 ゴス

 神崎の蹴りが突っ伏す僕の背骨に命中。

 バス

 神崎が僕を蹴り上げる。

 なす術もなく仰向けになった僕の前に神崎が仁王立ち。かろうじて角は生えていないし、いちおう目は人間のもの。しかし全身からは赤黒い気運が立ち上っている(ように見える)。

 最初に言っておく、僕は特殊性癖の持ち主ではない。しかし、初っ端から神崎にボコられた僕は、そこにいつもの神崎を感じて、やっとここまでこれたことに喜びを感じていた。

 神崎はそこまで僕をシバいて、そこでやっと自分の置かれた状況を確認したらしい。

 部屋の反対側に寝る神崎妹。その全身には鱗で切った細かい傷がまだ無数に残っている。

 神崎本人の頭にも包帯が巻かれている。頭を触った神崎は、一瞬痛そうに顔を顰める。

 そして僕。みっともなくKOされ地面で倒れ伏しているが、僕の全身も至る所に包帯、湿布、絆創膏。

「唐堂、これなんかあったの?」

 神崎がやっとその質問にたどり着く。

「僕を〆る前にそれを言え!」

 僕の叫びは神崎家に響き渡った。


    5

 

 リヴァが事の顛末を具に説明する。衝撃的な話ではあるが、神崎にはありのまま話そうと僕らは決めていた。

「へ、へえ~・・・。それはそれは」

 神崎の目はさっきから泳ぎっぱなしだ。

 机の対岸に腰掛ける僕の顔には張り付けたような満面の笑み。

「え、え~と。はあ」

 神崎は決心したかのように一度息を吐くと、さっきまで頑なに合わそうとしなかった目をやっと僕に向ける。

「唐堂、いや唐堂君。そしてリヴァちゃん。ご迷惑をおかけしました。そしてありがとう」

 神崎は彼女らしく、僕と机の上で蜷局を巻くリヴァにきっぱりと頭を下げた。

 ここで僕が言うべきことは一つ。

「神崎、いや神崎さん。・・・・・・・・一発殴らせろ!」

「嫌!」

「だってあまりにも理不尽だろ!なんでここまでしてお前を助けて、あまつさえ今日も見舞いに来た僕が!何でお前にボコボコにされなきゃならないんだよ!」

 神崎は流石に一瞬すまなそうな顔をするが、あくまで一瞬。

「仕方ないじゃない!唐堂が!変態でチキンな唐堂が!ついに家に侵入してきたと思ったんだから!」

「なにも仕方なくねえ!お前、僕をどんな人間だと思ってんだよ!せめてボコる前に確認ぐらいしろ!鬼か!」

「仕方ないわよ!だってベッドから起き上がったら、クラスメートの高校男子が!ハアハア言いながら!ドアを開けて飛び込んで来て!変態以外の何者でもないじゃん!・・・・しかも唐堂だし」

 今度は僕が『ムグッ』と黙る。確かに冷静にさっきの行動を鑑みると、そういわれても致し方ないような気もしてくる。リヴァが『鬼だっただけで今は人間』と言っていたのは無視。

「『唐堂だし』じゃねえ!お前を鎮めて!家の人とお前の手当てもして!どんだけ心配したことか!」

「知らないわよ!そんなこと!しかも、やってること家に不法侵入して、女子三人の手当てなんて!は、まさか唐堂、意識のない私に何もしなかったよね~」

 神崎の目がドンドン剣呑な光を帯びる。しかし彼女の言葉は僕最大のウィークポイントを正確に打ち抜いていた。

 最初に言っておく。これは本当に仕方がない。解放された神崎が全裸だったのが悪い。僕はその事実を闇に葬り去ろうとするが・・・・。

「大丈夫、トードーは何もしなかったよ。海の中から全裸のカンザキを家まで運び、全裸のカンザキに包帯を巻き、全裸のカンザキにパジャマを着せ。その間僕が責任をもってトードーを監視したから」

「おいこらリヴァ!」

 僕は傍らでとんでもないことを吐き出した龍を睨む。が、

 ゴスッ、ガス、メキャ、バキ、グシャ

 怒りと羞恥で茹蛸のようになった神崎は自動運転で僕をシバき、大分音がマズくなった頃にリヴァが静止に入ったが、残念ながら僕の意識はお空に飛び立った後であった。


「ハイ。アーン」

 神崎が感情のない眼で、無造作にスプーンを差し出す。

 昨日の出来事から一夜明けた朝の事である。

 ここは僕の家。ベットで寝るのは僕。見舞いに来たのは神崎。

 何も言うな。考えたら負けだ。

「まさかトードーがこんなに弱いとは。よくあの戦いにたえたね」

「だから何も言うなって!」

 僕はまたもやイランことを言うリヴァを睨む。

 お恥ずかしいことに、神崎の拳はただでさえひびが入っていた僕の腕にクリーンヒット。骨が折れた。しかも両腕。もとはと言えば罅を入れたのも神崎だ。

 僕は神崎宅で失神し、目が覚めたらここ。両腕は包帯で完全に固定され、動けない僕を見舞いに来たのか、神崎が朝飯を作ってくれた。そしてさっきの場面。

「ハイ」

 神崎は無造作にスプーンを突き出し、僕の口内に白飯を入れる。絶え間なく、話す暇がないぐらい。白飯を。

 腕が動かせない僕を慮っての行動だろうが、神崎の目に感情が感じられないのが異様に不気味だ。

「あの神崎。おかずも一緒のほうが・・ムグ」

 神崎は白飯をまた突っ込む。

 朝飯を食い終わると、神崎は食器を下げ、すぐに階下から洗い物の音が響く。

「みっともないねトードー」

「お前昨日からイランこと言い過ぎ!」

 リヴァはどこ吹く風と聞き流す。

「唐堂が貧弱で脆弱で虚弱なのは昔から」

「おい神崎、その説明には悪意を感じるぞ」

 神崎は素早く、後片付けをして僕の部屋に帰ってくると、ベットのそばの椅子に腰を下ろす。

 その手には洗濯物。どうやら洗濯までしてくれたらしい。

 神崎の家事スキルには目を見張るものがある。昔から炊事洗濯掃除その他もろもろをそつなくこなす。類人猿みたいな性格からするとかなり意外。いや神様の間違いを疑うレベル。

「唐堂、あんた良くないこと考えてるでしょ」

「ウゲッ」

 どうやら神崎には僕の感情がお見通しらしい。

「そんなことはない」

 僕はとりあえず弁解するが、

「唐堂。あんた顔に出やすいし、何より私とあんたは何年付き合ってるんだか」

 神崎はため息を吐きつつ首を横に振る。他の女子なら『付き合ってる』と言うワードに反応するところだが、それこそ物心ついてからずっと一緒に歩む僕らの間にそんなことはない。

「じゃあ学校終わったらまた来るから」

「ああ分かった」

 神崎は席を立ち、学校に向かう。神崎家の人々が眠っていた時間は悪性の風邪としてすましたらしい。神崎母と神崎妹も昨日、目を覚ました。幸か不幸か、彼女たちの記憶は数日まえでぱったりと途絶え、神崎が暴れたことは覚えていないらしい。神崎は、どうやってか知らないが、それを風邪で三人とも寝込んだということで終わらせたようだ。

 神崎がドアを出て学校へ向かう。僕は欠席だ。なにせ全身がそのままの意味でバキバキだ。数日休んでも文句は言われないだろう。

 昼間ではあるが月はいつもと変わらず空に浮かぶ。僕はそれを見て、その不変性にたまらない安心感を覚えた。

 

    6


 神崎はその後も僕の腕が治るまで僕の家に通い、僕の世話をしてくれた。本人は何も言わないが、それは神崎なりの恩返しなのかもしれない。

 神崎はポツポツと学校の話をしてくれる。数日前には、熱が下がって登校してきた西岡の『誤解を正した』らしい。神崎の溢れんばかりの満面の笑みを見ると、西岡のご冥福をお祈りしたくなる。

 リヴァも僕の隣でまどろみながら、僕の相手をしてくれる。その体は最初より数センチ成長しているらしい。

 僕の目の前に龍が落ちてきた。

 龍は小さな姿に転生し、僕がその世話をすることになった。

 僕とその龍は、骸骨の化け物を討伐した。

 僕とその龍は、妖となった僕の幼馴染と戦った。

 僕とその龍は、また別の青い龍と出会った。

 僕らは、油でヌルヌルの蛇と相対した。

 僕らは、鬼と化した親友を開放した。

 思えばここ数週間で、かつての数日を軽く凌駕するほどの様々な事態に遭遇した。恐らく世の中の大半の人が想像だにしないことが、僕の身に次々と降りかかった。

 しかし僕は今も変わらず、親友とくだらない会話を楽しみ。龍と普通に軽口をたたき合う。

 どんなに変化しても、どんな現実を知っても、変わらないものはある。どんなに望まなくとも、どんなに抵抗しても、時間は流れ、人生は先へ先へ。

 僕は今が楽しい。

 僕がこの一連の事件で得たものは何だろうか。恐らくその答えが出るのは、もっとずっと、遠い未来の事だろう。もしかしたら一生でないかもしれない。しかし僕は同時にそれでも良いと思う。答えが出るということは、大切だ。しかし答えが出たら、その事象がそれ以上飛躍することはない。答えを出すということは、何かの正体を決定するということだ、裏返せば、それ以外の可能性を捨象するということだ。

 僕はこの事件の答えを知りたいとは思わない。

 よくわからない。見えない。だからこその面白さ、深みを僕はここと良いと感じる。

 そして答えの先にあること、今の楽しい現実。僕の手には確かにそれが残った。これ以上何を望めよう。

 僕は今日も笑い、明日も笑う。世界がどうなってるかは分からない。しかしそれは数学の問題のように論理立てて解けるようなお固いものではないだろう。

 僕が見ている世界は未知に満ち溢れている。そこに生きる人間もまた未知なるものだ。自分が何か、目の前で笑うものが何か、はっきりとわかる者は恐らくこの世にはいないだろう。

 知らないということ。それは知っているということよりも夢がある。しかしいつかはなくなるものだ。息を吸うたびに知らないは知っているに変わる。しかしそれもまた、どうしようもなく必要なことだ。

 ここまで言っても、自分でも自分が何を考えているか分からない。

 しかしこれだけは言える。


 こんなにも、この世界は知らないことだらけ。だからこそ生きるということは面白い。



 知らないこと、知っていること。どちらも限りなく大切なことだと僕は思います。

 知らないを知っているに変えるということは、世界の真実を一つ自分のモノにするという行為です。それは自分の成長、ひいては社会の発展に必要不可欠な大切なものです。

 知らないを知っているに変えるということは、世界の未知が一つ解き明かされるということです。それはこの世界にある夢を見る余地を少しづつ狭める行為でもあると私は思います。


 さて、ここまでお読みくださった方、本当にありがとうございました。初めて書いた物語。至らない点も多くあったと思います。しかし、もし物語を少しでも面白いと思っていただければ、私の努力も報われるということです。

 もしよろしければ、感想をいただきたいと思っています。良かった点、良くなかった点。これからの人生で生かしていきたいと思います。

  

 ここまでお付き合い下さり、本当にありがとうございました。

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