第7項 眠らない夜のはじまり
それからというもの、夕食の間もリーリアの機嫌は絶好調だった。
それに引き換えアルバートは、時間を追うごとに気持ちを沈めていく。
「そうだ、ベッドいっぱいにお花を敷き詰めましょう。まるで天国のような気分になれるわ」
「やめよう。明日の朝には部屋中茶色に染まって掃除が大変だ」
「掃除ならおばさんに任せればいいわ。でも、寝起きの景色が悪いのは確かに嫌ね」
目を輝かせながらコロコロと笑う彼女を前に、アルバートはチーズの欠片を突きながら大きなため息をつく。
「どうした坊主、浮かない悪い顔をして」
ため息を見られていたのか、酔っぱらった男が1人、カウンターからふらふらと歩み寄ってアルバートの肩に手を回した。
「すみません……降りかかった災難が『神の試練』なのか『悪魔の囁き』なのか、途方に暮れてまして」
こめかみを抑えながら、アルバートは息も絶え絶えに答える。
心労のせいか、普段はたしなむ程度のお酒も、今日はすすんでいた。
「そうかいそうかい。まあ、生きていれば人生いろいろあるもんだ」
アルバートの肩をポンポンと叩きながら、男はぐいっとエールをあおる。
「ちょっと、あんた! 今、いい雰囲気なんだから邪魔しないでくれる?」
今にも噛みつきそうな表情でリーリアが男をにらんだ。
「おー、悪いね。邪魔するつもりはなかったんだ。ただ、あんまり景気の悪い表情をしてるもんだから、こっちにもその景気がうつりゃしないか心配でさ」
「景気……昼過ぎに到着した商隊の方ですか?」
「おうよ!」
男は身に着けた茶色いベストをバチンと叩きながら、高々とジョッキを振り上げる。
「金の匂いがすりゃ西から東、北から南へ。どんな困難もチャンスに変えて、行き着く先には金にする。それが商売人ってモンよ。神も悪魔も、降りかかるなら儲け話に変わりはねぇ。これからだって、『戦場』に『市場』をかけて、国境の砦を目指すところよ。なぁ、お前たち!」
「おうよ!」
「そのために、はるばる山を3つ越えて来たんだ!」
周囲の喧騒に負けないくらい雄弁に演説する男と、それに呼応して声を荒げる仲間の男達に、アルバートは僅かに困惑の色を浮かべる。
言わんとしていることは分かっても、聖職者である手前、神と悪魔を同列に並べる事はできない。
「何に直面してるのか分からねぇけどよ。つまるところ、ヤるしかねぇってことで――」
困ったような笑みを浮かべることしかできないアルバートに、不意に男がグラリともたれかかった。
ジョッキが手から滑り落ち、中のエールをぶちまけながらゴトリと床に転がる。
「おっと……大丈夫ですか?」
慌てて男を受け止めると、アルバートはその身を支えるように抱き起す。
飲み過ぎたのだろうか。
小さく体を揺すってみるが、起きる気配はない。
アルバートが異変に気付いたのはその時だった。
――静かだ。
あれだけ賑わっていた酒場の中が、まるで夜明け前の街のように静まり返っている。
弾かれたように辺りを見渡すと、大宴会を開いていた男達は一様に机や床に突っ伏していた。
まるでタイミングを見計らったかのように、操り人形の糸が一斉に切られたかのように、数多の男達の寝姿が死屍累々と広がっている。
「な……なんだい、こりゃ」
カウンターの奥で、女将が怯えた表情で声を震わせる。
アルバートは慌てて抱えた男の腕をとる。
脈はある。
口元に耳を添えると、呼吸音も確かに聞こえる。
眠っているだけのようだがこれは――嫌な空気を肌に感じつつ、リーリアと視線を合わせた。
彼女は揺れる瞳でただ一言、しかしながら断定的に言い放った。
「――《魔女》よ」
その言葉を聞いてからのアルバートの行動は早かった。
男をそっと床に寝かせると、借りた部屋に駆け上がり、小さい革のポーチを掴んで慣れた手つきでベルトにくくり付ける。
それから同じベルトにしっかりと《剣》が差されているのを確認して、飛び降りるように階段を駆け下りた。
「女将さん、この人たちを頼む!」
「た、頼むったって何を……?」
「とりあえず部屋でも床でも、安静にして貰えれば良い! リリー!」
名前を呼ばれてリーリアは瞬きをひとつすると、開いた瞳孔もすっかり戻って、いつもの表情でアルバートを見上げた。
「行くぞ!」
「わかったわ!」
そうして、矢継ぎばやに宿を飛び出した。
辺りはすっかり暗くなって、ついた灯りはそれぞれの家から漏れる僅かな光のみ。
しかし、どの家からも人々の談笑の声は聞こえず、不気味なほどの静寂が通りを包み込んでいた。
「どこへ行くの!?」
「まずはミザリーのところだ。彼女の『無事』を確認する」
昼間の道を辿って、西にあるミザリーの家を目指す。
人を疑う――憎しむことはしたくない。
だからこそ、違っていて欲しい。
アルバートの願いは、ただただそれだけだ。
そうして、それほど時間のかからないうちにたどり着いたその家に、生活の光はなかった。
「ミザリーさん! いらっしゃいますか!?」
少々乱暴にドアを叩くが、反応はない。
若干の戸惑いの末に、思い切ってドアノブに手を掛け、玄関を開け放つ。
独特の薬の匂いが漂うその部屋の先に、彼女の姿はなかった。
「留守みたいね。逃げられたかしら……《魔女》の気配もないわ」
「……そうか」
最大の懸念が無くなったところで多少おちついて、部屋の中を見渡す。
昼間掛けられていた鍋はとっくに竈から降ろされており、残り火も見えないほどにしっかりと後始末がされている。
机の上も片付いているとは言い難いものの、出されていた植物や包丁、まな板といった道具はしっかりと台所に戻されていた。
「逃げたというよりは、はじめから外出するつもりで出て行ったようにみえる」
「どこに?」
「それは……」
考えるより早く、答えは示された。
2人の背後――大通りの方角から、強烈な光が空にあがったのだ。
夜中だというのに、昼間のように村を照らしたその輝きは、葡萄酒でいっぱいの革水筒が飲むにつれてしぼむように、徐々に小さくなって、やがてすっかりと見えなくなった。
アルバートは扉を閉めて、焦燥感に駆られるように、光の見えた方角へ歩み始める。
歩みはやがて早歩きに、早歩きはやがて駆けるように。
彼の中の不安を表すように、次第に速度は増していく。
「ね、ねえ、アル。ちょっと待ってよ……!」
リーリアは、どんどん加速していくアルバートの背中になんとか追いすがりながら、その息を弾ませた。
「今の方角って……!」
彼女も子供じゃない。
アルバートに確認を取らなくても、その方向に何があるのか分かっていた。
なぜなら今、走っている道も、昼間に通った道なのだから。
だからこそ彼女はアルバートに尋ねた。
それは、アルバート自身の不安を確認するかのように。
アルバートもそれを分かっているのか、唇を噛みしめながら、眉間に皺を寄せて、それでも不安を確信に変えるために、強い意志でもって口にする。
「間違いない――教会だ!」
暗い通りの先に、ほんのりと光を放つ教会の姿が、2人の目にハッキリと映っていた。