第36項 求めるものはアイ
青い光が差し込むベッドの上で、リーリアはぼんやりと目を覚ました。
それは見張り窓から吹き込んだ、少々冷えた夜風のせいか、それとも起きた瞬間に忘れてしまった夢のせいなのかは分からない。
枕にしなだれかかっていた身をゆったりと起こして、寝ぼけ眼を優しく擦る。
「……アル?」
焦点の合っていない瞳で、薄暗い部屋の中を一瞥した。
リボンを解いた水色の髪がさらりと肩口に流れ、薄い胸の上に乗る。
「……アル」
もう一度、その姿を探しながら名前を呼ぶ。
しかし、冷え切った部屋の中に目的の人物の姿はなく、リーリアは小さく首をかしげた。
「お手洗いかしら――」
彼がいない事にそれほど疑問も覚えず、虚ろな眼が部屋の入口の方を向く。
そこに誰かが立っているのが見えて、リーリアはふと視線を止めた。
月明かりに照らされたその人物は、ぼんやりと闇の中に輪郭を浮かび上がらせている。
そして、少なくともそれがアルバートのものではない“女”であることに気付くと、ハッとしてシーツの淵を握り締めた。
「だ、誰……!?」
彼女がようやく気付いたことを喜ぶように、その女は微かに口元に笑みを湛えると、自ら光の中へと躍り出るように数歩、足を踏み出した。
その姿を夜目の中で捉えると、リーリアはハッキリとその表情を引き攣らせた。
「――ごきげんよう。そんなに驚かれなくても良いではありませんか」
女は、張り付いた仮面のような笑みのまま、聖歌隊のコーラスのように澄み渡った声で語り掛ける。
その身を包むのは格式の高さを感じさせる、黒いベールとローブの装束。
いわゆる“修道女”の姿だ。
「いきなり部屋の中に見ず知らずの女が現れれば、誰だって驚くわ……!」
「見ず知らずだなんて、数日前にお会いしたばかりではありませんか。それに、昼間もご挨拶までいたしましたのに……」
「すれ違いざまにあんな言葉を掛けるのが挨拶だと言うのなら……私が今までどれだけ教会の人間たちに優しい挨拶をしていたものか語って聞かせてやりたいものね」
「あら、それは実に興味深いことですね」
精いっぱい嫌味に、シスターはのほほんと調子を合わせてみせる。
だから調子を掴むことができずに、リーリアは掴んだ枕を胸に強く抱きかかえた。
「私の名前は、覚えていて頂けていますか?」
「私、自分の“障害”にならない女に興味なんかないのよ」
「なら、きっとこれから私の事は覚えてくださることでしょう」
そう言って、シスターは両の人差し指を重ねて小さくリーリアへと祈りを捧げる。
リーリアにはその姿が神々しいどころか、どこか皮肉めいて見えていた。
「改めまして、私はベル――いえ、ララベルとお呼びください」
そう言ってララベルは「あなたの名は?」とでも言いたげに、リーリアへと手のひらを差し向ける。
それに対してリーリアはぶすっとした表情で視線を泳がせるが、やがて観念したように口を開く。
「……リーリア・アシュフォートよ」
「よろしくお願いしますね、リーリアさん」
「仲良くする気なんか、こっちにはさらさらないわ」
トゲのある言葉に、流石に少し眉を下げるララベル。
そんな姿に気を良くして、リーリアは矢つぎ早に畳みかける。
「昼間のアレは何のつもりよ。そもそもアンタ……何者?」
流石に名前は覚えていなくても、彼女が辺境の村にいたシスターであることくらいはリーリアも覚えていた。
しかし、そのシスター・ベル――ララベルがこんな所にいるのか。
そして、何故昼間にあんなことを――
「あら、思いのほか堪えていらっしゃるのですね」
「ばっ……そんなわけないじゃない! そもそも、何であんたみたいなポッと出の赤の他人にあんなこと言われなきゃならないのよ!?」
声を荒げると共に、リーリアの脳裏に昼間の言葉が蘇る。
あの雑踏の中で、ララベルがすれ違いざまに呟いた一言。
――彼は、決してあなたを愛することはありません。
それが、まるで鼓膜に張り付いたかのように、その息遣いまでハッキリと、リーリアの耳の奥でこだまする。
「堪えているじゃありませんか。そうでなければ、どうして気になさっているのです?」
「それは……」
思わず、言葉が詰まる。
「……アンタが、こんなところまで現れてくるからでしょう」
「それは失礼をしました。ただ、こちらとしても昼間のあれだけではかえって失礼かと思い、こうして馳せ参じたのだということは、ご理解して頂けると嬉しいのですが」
「…………」
無言が、リーリアの返答だった。
ララベルは小さく肩をすくめると、開いた窓枠へと歩み寄る。
そうして、静まり返った街を見据えながら、もう一度リーリアの姿を見据えた。
「……あなたも、分かっているはずでしょう? あなたの“愛”は、決して報われるものではないと」
相変わらず無言のリーリアに、ララベルは返答を待つことなく独り言のように続ける。
「私は何も、あなたを虐めようというつもりはないのです。ただ、その報われない願いの行方があまりにしのびなく、どうにかお力になれればと――ただ、それだけの想いなのです」
枕を握り締める腕に、力が籠る。
ララベルの瞳を見つめ返すリーリアの瞳は、どこか強く深い戸惑いで揺れていた。
そんな彼女の様子にララベルは気を良くしたかのように、いっそう流暢に“独り言”を続ける。
「だって、そうでしょう。“愛憎”という言葉があります通り、“愛”と“憎しみ”とは表裏一体の感情です。愛する事は憎む事であり、憎むことはまた愛すること。そして、彼は人を憎むことができません。それは、彼が生きていくために――“あなたを憎まずにいるために”、彼自身が選んだ生き方です」
じっとりと、嫌な汗がリーリアの鎖骨の辺りを濡らす。
思わず飲み込んだ生唾の熱さが、まるで喉の奥を焼き焦がすようにさえ感じていた。
「彼はあなたを憎まない。つまるところ――“彼はあなたを愛さない”。違いますか――」
ぽふんと乾いた音がして、ララベルの頭を飛んできた枕が打つ。
枕は彼女をよろめかせるどころか、何の影響も与えないまま無意味に床に落ちて転がる。
ララベルもまた、突然の反撃に眉ひとつ動かすことはなく、何事も無かったかのように張り付いた笑顔をリーリアへと向けなおす。
そして、無言の笑みを向けられたリーリアは――対照的に、目元にいっぱいの涙を浮かべて奥歯をぎゅっと噛みしめていた。
「……はじめから素直になっていれば、傷つかずに済みましたのに」
どこか鼻で笑うように、トーンを1つ落とした声でララベルが呟く。
「だから、あなたに何が分かるって言うのよ! これは私とアルの問題でしょう!? いい加減、部外者はすっこんでくれないかしら!?」
上ずった声で叫ぶリーリアに、ララベルは口元に人差し指を当てて、うーんと小さく喉を鳴らす。
それからまったくもって真面目な様子で、ただ一言、答えを添えた。
「1つだけ分かることがあるとすれば、“あなたが彼に愛される方法”……でしょうか」
「……え?」
思いもよらぬ返答に、リーリアは思わず真っ赤に充血した瞳を大きく見開く。
そんな彼女へ、ララベルはより朗らかな、文字通り天使のように優しい表情で歩み寄ると、口元に当てていた人差し指で、リーリアの起伏の無い胸の谷間をそっと突いた。
「それは、あなたが一番よく知っているハズです。いえ……違いますね――」
リーリアが驚きで声も出ないのをいいことに、ララベルは谷間を突いた指をそのままつつーっと上へと這わせていく。
そして、リーリアの唇へと優しく触れて、ぐっと顔を近づける。
お互いに相手の吐息を感じる距離で、ララベルの言葉がリーリアの耳へと心地よく響いた。
――あなたはもう、その資格を持っている。
ドクンと胸が大きく高鳴って、リーリアの頬がさっと朱に染まる。
それを間近で確認して、ララベルは満足したようにひらりと距離を取る。
いつからか、青白い月の光の差し込む見張り窓から、真っ赤な影と熱気、そして男達の叫び声が吹き込んでいた。
再び窓辺によってそれを眺めるララベルと、どこか惚けた様子で焦点の合っていない瞳を宙に泳がせるリーリア。
ララベルが窓の「さん」を手で触れながら、視線だけをゆらりとリーリアへ戻す。
「――あなたが望めば、あなたの“アイ”はきっと手に入る。その想いは、誰のどんな願いよりも強く、あなたの心を支え続けるでしょう」
そう予言めいた言葉を残して、ララベルは動きにくそうなローブ姿とは裏腹に、軽快な身のこなしで窓枠を飛び越えた。
そのままちらつく炎の中へと溶け込んで、いつしか姿は見えなくなる。
部屋へと残されたリーリアは相変わらずの惚けた表情のままだったが、その瞳に映る外の炎の輝きが、彼女の胸の内にある一途な願いを激しく照らしつけていた。




