第33項 《虚空の魔女》
夜の帳が室内に降りて、アルバートは静かに掛けていた椅子から立ち上がった。
ベッドの上では、リーリアが安らかな息を立てて眠っている。
壁の小さな窓から差し込む月明かりが、ベージュのシーツ越しに彼女の輪郭を浮かび上がらせる。
アルバートは彼女が深い眠りについているのを目視だけで確認すると、壁に掛けていたローブに身体を包み、音も立てずに部屋を後にした。
ブーツの底が廊下代わりのテラスの石畳にコツリコツリとリズムを刻んで、思わず呼吸もそれに合わさる。
つい先ほどまで外は煌々と松明の炎が燃え盛り、どんちゃんわらわと傭兵達の宴が繰り広げられていた。
それもいつの間にかひっそりと静まり返り、松明も燃え尽きた暁にはいく筋かの煙だけを雲一つない星空に靡かせて、虫の音色だけが新たな夜の支配者として世界を包み込んでいた。
月明かりの下で、アルバートは懐の書状を取り出して開く。
――宴の席に遅れることなかれ。今宵、赤い月が昇る。
何度読み直したか分からないその文面にもう一度目を通し、そしてテラスの柱の間から覗くまばゆい月明かりを見上げた。
見事に輝く中秋の名月は、金色と表現することはできても決して“赤”いようには見えない。
赤い月――その意味を推し量ることはできなかったが、その前の“宴の席”には心当たりがあった。
その言い回しは、師と修行に明け暮れていたころにファルメアの王都で彼女がよく使っていた表現であり、ある一定の場所を指す言葉だ。
アルバートは頭上高く昇る月から僅かに視線を下げて、石造りの城塞都市へ視線を巡らせる。
そして“宴の席”にアタリを付けると、足早に宿棟を後にした。
向かった先は、この街で最も高い塔の入り口。
砦としての見張り塔なのであろう、無骨な造りの建造物の根本で、アルバートは自分の勘に間違いがなかったことを確信する。
入口の木製の扉が、まるで来訪者を歓迎するかのように半開きになっている。
そもそも見張り塔であるなら誰かしら兵士がいるわけで、彼が閉め忘れたという可能性だってあるが――そんな考えは杞憂であることを、扉の傍らで倒れる2人のファルメア正規兵の姿が教えてくれた。
「大丈夫か……!?」
アルバートは駆けよって、兵士の1人を抱き起す。
赤い制服に身を包んだ兵士は昏倒しているようながらも、しっかりと息はあった。
どこかへ連れて行くわけにもいかず、アルバートは2人を塔の外壁にもたれるように座らせてあげて、自らは半開きの扉へと手を掛けていた。
傍らにあった燭台を手にして真っ暗な階段を昇ると、頂上の見張り台らしいひらけた小部屋へとたどり着いた。
薄暗かった塔の中と違い、大きな見張り窓が四方に開いたその空間は、空の煌めきを部屋のなかいっぱいに取り込んでいた。
周辺には小さな樽の中に立てかけられた大量の矢や、立てかけられた弓。
そして、入口と同じように打ち倒された2人の正規兵の姿が転がっている。
そんな中で、窓辺に手を突いて月の光をいっぱいに浴びる女性の姿が、アルバートの目に焼き付いた。
吹き込んだ秋夜の風が彼女の印象的な赤い長髪を揺らし、その切れ間から覗く横顔は、自信に満ちた微笑みを湛えていた。
「師匠……ッ!」
思わず声を荒げて、アルバートは足早にその姿に駆け寄る。
が、彼女は手の平を向けてそれを制すると、視線は窓の外へ向けたまま小さく吐息をこぼす。
「――何度も言っているだろう。我々の“宴の席”じゃ、騒ぐのは禁物だ」
「っ……サボっているのがバレるから――ですか」
“宴の席”とはつまるところ、彼女にとっての呈の良いサボり場だった。
いけ好かない上司の呼び出しから逃れる時――弟子に無理難題を問いかけて、その答えを待っている時――依頼の後のちょっとした余暇を過ごす時――彼女は必ず、その街で最も高い場所で物思いにふけっていた。
その場所をあえて名前を付けて呼ぶ際に、彼女は“宴の席”とちょっと皮肉めいて口にするのだ。
「もっとも、ここには口うるさい司祭もいなければ、私はもう教会に名を連ねる人間でもないのだけれどね――」
そう言って、流れた視線が自分のそれと向き合い、アルバートは思わずドキリとする。
そんな様子に彼女は小さな笑い声をあげると、くるりと窓を背にするようにアルバートへと向き直った。
彼女の身を包む、身体のラインがハッキリと出るような紺色の細身のドレスが、動きに合わせてゆらりと紫雲のようにゆらめく。
「存外に元気そうじゃないか。私はてっきり、もっと絶望に打ちひしがれているものだと思っていたよ」
まるで久しぶりに会った友人に語り掛けるかのように、彼女の朱の注した唇が言葉をつむぐ。
アルバートはそんな無責任な物言いに若干表情に影を差して、だが真正面からしっかりと彼女に向き直り、胸の高鳴りを抑え込んだ。
「……どうしてこんな所に?」
「キミと同じ、旅の途中さ。言っただろう? 私は“《魔女》の生まれた場所”を目指すと」
それは、アルバートが彼女と最後に分かれた王都郊外で耳にした言葉だ。
彼女が作り出した荒野の中で告げられたその言葉があったからこそ、アルバートはこうして旅へ出る事ができた。
「それがどうして、こんな戦場の要塞で――それに、あの“招待状”は何です?」
「ちょっとした用があって立ち寄ったに過ぎないよ。今夜にはもう、発つつもりだ。“招待状”はほら――たまたま手を掛けた弟子の姿を見かけたものだからね」
ギリっと、アルバートは奥歯を強く噛み締めた。
こっちの気も知らないで――歯がゆい想いがその胸を焦がしたが、彼女の人というものを知っている手前、燻った気持ちは腹の底に押しとどめた。
「……発たせるとお思いですか? 俺は今、ファルメア王と審問院の命を受けて、あなたの討伐の任を受けています」
「ほう……?」
ニヤリと、さも楽し気に彼女の口角が僅かに吊り上がる。
「私を討つか……その腰に下げた《剣》で?」
「……はい」
彼女の視線がローブの下で重くぶら下がる《剣》へ向いたのを感じて、アルバートはその柄にそっと手を触れた。
そのまま刃を抜きはせず、それでもいつでも抜ける意を示すよう、柄に指先を這わせたまま僅かに腰を落として臨戦態勢を示す。
「なるほど、だが、それは無理だ。理由は大きく2つある」
きっぱりと言い切りながら、彼女はアルバートへ向けて指を2本立ててみせた。
「1つは、その刃で私を捉えることはできないから――それは、王都で十分身に染みているだろう?」
挑戦的な彼女の言葉に、アルバートは何も答えずただ生唾を飲み込んだ。
それを返事と受け取ったのか、彼女は小さく頷いてもう1つの理由を口にする。
「もう1つの理由は単純だ――今、その刃が振るうべき相手はこの私ではないということだ」
「それはどういう――」
思わず口を開きかけて、不意に痛烈な男の叫び声が美しい夜空に響いた。
「い、今のは……!?」
その言葉に弾かれたようにして、アルバートは見張り窓へ駆け寄って身を乗り出さんばかりに街の様子へと視線を落とした。
遙か下方の街中で、何人かの人間が何やら組み合う様子が目に付いた。
遠目で陰にしか見えないうちは酔っ払いの喧嘩のようにも見て取れたが、遅れて響く鋭い金属のぶつかり合うような音。
その音で、アルバートはハッと気づく。
――戦闘だ。
こんな夜中に、街で戦闘が起こっている。
「こ、これはどういう……」
「書いただろう――“宴の席に遅れることなかれ。今宵、赤い月が昇る”」
彼女はアルバートの隣に立って、同じように下界でうごめく喧騒に視線を落とす。
そうして1つ溜息をつくと、ひらりとドレスの裾を翻してアルバートへと背を向けて歩き出した。
「ま、待ってください……!」
慌ててアルバートがその背中に手を伸ばす。
しかし、伸ばした指先はするりと虚空を切って、彼女の姿は既に夜の色に溶けてしまっていた。
「1つだけ……どうしても問いたかった! あなたは、わが師、ベルナデット・オールドウィンなのですか!? それとも、《虚空の魔女》なのですか!?」
どこに溶け込んだのかもわからない彼女の姿を探しながら、アルバートは声を張り上げる。
やはりその面影を見つけることはできなかったが、美しい夜空に彼女の声だけはアルバートの耳に届いていた。
「……強いて答えるとすれば、両方YESだ。私はベルナデット・オールドウィンであり《虚空の魔女》である。そして――」
最後に、彼女は不出来な弟子に最大の譲歩と助言を囁くように、その一言を付け加えた。
「――これからキミが相対する相手は、私と同じ“境地”を授かった、理の外の存在だ」
そうして今度こそ完全に彼女の気配がなくなったことを、アルバートは紛いなりにも肌で感じていた。
同時に、下界ではテント群に放たれた真っ赤な火の手が上がる。
それに加えて、苦悶の断末魔が街のいたる所から煙と共に彼の世界を包み込んでいた。




