第29項 “城塞の街”グルグダン
5mはゆうにあるかと思われる厚みの城壁を抜けると、降り注ぐまばゆい日の光に視界を奪われるなかで、戦地というおよそ日常生活とはかけ離れた場所に築かれた街の様子が目の前いっぱいに広がっていた。
「すっご……」
目を丸くして思わずため息を漏らしたリーリアにつられて、アルバートも驚いた様子で辺りを見渡す。
なるほど、確かに戦地らしく、構内の大きな広場を歩く人は、誰もかれも兵士――正規ではない、傭兵ばかりだ。
とはいえ、戦地特有のしめっぽさは微塵も感じられず、みながみな生き生きとした表情を浮かべている。
陽気に酒を酌み交わす者。
腕試しか訓練か、道端で刃を交わす者。
ごてごてに着飾った重厚な装備を自慢げに見せびらかす者。
もちろん、中には威勢よく喧嘩する者も。
そんな光景を取り囲むようにして、沢山のテントが広場の外縁沿いに何棟も連なる。
そのどれもが目の前に机や御座を広げ、食料やら嗜好品やらの品物を陳列していた。
店だ。
沢山の店が、そこには立ち並んでいた。
物を売る見せだけではない。
テントの外で、作業台に固定したプレートメイルに槌を打ちつけ、整備を行っている鈑金屋。
鍛冶とまではいかないが、刃こぼれした剣等の手入れくらいは行えるのであろう鍛冶屋。
こんな所でどんな需要があるのか分からない仕立て屋など。
職人質の店も多く見受けられる。
それも、それぞれ1つ2つの話ではない。
競合するように、また、示し合わせるように。
この“城塞の街”グルグダンに、集まっているのだ。
「なるほど……確かに、これは“街”と言っていいくらいだ」
感心したような声が、アルバートの口から零れた。
傭兵の街というから、偏見だとは分かっていても薄汚れた簡易テントの並ぶ、王都の薄暗い路地裏のような光景を思い浮かべていた。
だがその実は、見てくれこそ粗雑で乱暴だが、活気と希望に満ち溢れた街である。
そんな、いい意味で想像を裏切られて、彼の気分も上向かないはずはなかった。
「リリー、とりあえずどこか宿を貸してくれる場所を探して、それから街を見て回ろう。ここなら、いろんな地方から来た人達がいる。きっと、何かしらの情報が得られるはずだ」
「ずいぶん上機嫌ね。ま、いいけど」
2人は旅路を案内してくれた商人にお礼と別れを告げて、賑わう広場へと身を投じる。
この状況からすれば奇妙な取り合わせの2人に、道行く傭兵達の視線はおのずと集まった。
しかし、その奇異の視線に耐えながら道端の露店の主人に尋ねると、その日の宿はすぐに見つかった。
どうやら、この大きな要塞内の建物を、傭兵や商人たちの宿泊施設として開放しているそうなのだ。
手続きはファルメアの管理所へ行って身分の申告さえすればすぐにできるらしく、ふかふかのベッドとまでは言わないものの、屋根のある場所でシーツに包まって眠るくらいはできるという。
「これだけ広大な敷地と建物だ。無駄にする理由はない、か」
城壁の中に無造作に詰め込まれたようにも思える土色の建物群を、アルバートはどこか感慨深く眺める。
この要塞は、元々ファルメア側との国境を監視するためにオースロンが建てたものだ。
それを今はファルメアが奪取して、逆にオースロンの動向を探るために使われている。
どんな因果がそんな運命を作り出したのかは分からないが、少なくとも今この街は、望まざる役目を強いられている。
そんな状況に、アルバートは僅かばかりの感傷をおぼえたが、すぐに視線を街の中へと戻すと、人々の垣根の中からファルメア軍の管理所という建物を探す。
三角屋根の、少し背の高い建物だというので探しやすいと思ったが――視線を少し上にあげて、建物の大きさから探し出そうとした時、その視線の端になんだか見覚えのあるものが靡いたような気がした。
「……えっ?」
上げかけた視線を、再び人混みへと戻す。
食い入るように人の波に視線を巡らせると、リーリアが不思議そうにその様子を眺めていた。
「アル、どうかした?」
アルバートは答えず、確かに目にしたその「色」を、必死になって探す。
そして、大柄な男の陰からひらりと赤い筋が靡いて――ゾクリと背筋が冷たく凍るのを感じていた。
男の陰から、彼に比べれば随分小柄な人影が、ふらりと雑踏に躍り出る。
小柄なのは無理もない。
その身体のラインを見ただけで、彼女が女性であることは明白だったのだから。
紺色の飾り気の無い細身のドレスに身を包んだその女性は、長い髪をゆらめかせながら、この無骨な街の中へ堂々とした仕草で足を踏み出す。
その異質な存在は目を引き、すれ違う男達は、訝しむとも惚けるとも言い難い、アホ面を晒してその靡く赤髪の行方を追う。
それは遠目に視認したアルバートもまた同じこと、
身体の動きに合わせてふわり、ゆらりと揺れる赤髪は、まるで重力を持っていないかのように軽やかに、しかしながら一定のまとまりを持って、彼女の歩んだ軌跡を残す。
そんな赤いゆらめきの切れ目から、僅かに覗いた白い顎。
そこに刻まれた、艶やかな唇がほんのわずかに挑発的な笑みを浮かべたのを見た時、アルバートの鼓動は己の身体に鞭を打つべく、ドクンと大きく高鳴った。
「――リリー、ここから動かないで待つんだッ!!」
「えっ、あ、アル……っ!?」
露店に目が行って、状況を掴み切れていなかったリーリアは素っ頓狂な声を上げるが、彼女が了承するとしないとに関わらず、アルバートは人混みの中へと滑り込む。
賑わう広場の賑わいで、大勢の男達にぶつかりながらもアルバートはその“色”を見失わないよう、人込みの切れ間に揺れる赤を追い続ける。
情報が得られるかも?
そんなことを言った、さっきの浮かれた自分の頬をひっぱたきたい。
ぶつかった傭兵達に頭を下げながら、アルバートは心の中でそんな悪態をついた。
近くも遠ざかる背中を懸命に追うその背中。
揺れる赤い髪も、決して忘れはしない。
命を救い、生きる道を教えてくれた生涯の師。
ベルナデット・オールドウィン。
――いや、《虚空の魔女》。
旅の目的でもあり、終着点でもあるその姿を前にして、冷静な判断を下すことができるほどアルバートは実経験を積んではいない。
まるでそれを分かっているかのように、離れ行く背中は時に立ち止まり、時に早め、一度も振り向かないながらも、決して捕まりはしない距離をこの人波の中で保ち続けている。
まるで、勝ち目のない大人と子供のおにごっこのよう。
だが、今を逃せば次がいつになるか分からない。
だからこそ、彼はその背中を追い続ける。
「……ったく、いったいどうしたって言うのよ」
あっという間に人の波に飲まれていったアルバートの行く先へと視線を向けながら、リーリアは大きくため息をついた。
これから追いかけるにも、もうどこへ行ったか分かったものじゃない。
だから、癪ではあったがこうして彼の言いつけ通り、その場を動かず待っていることにしたのだ。
とは言え、2人でもそうだったのだから、年頃の女の子であるリーリアが、こんな街のど真ん中で1人でいれば、それはもう目をひくものだ。
どこかねっとりとした、値踏みをするような視線にうんざりしながら、早くアルバートが帰って来ないかと穴が開くほど人混みを睨みつける。
その時、ふと見知った影が自分の真横をすれ違って行ったような気がして、リーリアは弾かれたように振り返る。
いや、本当はその存在に気付いたからではない。
“彼女”がすれ違いにこそりと呟いた、その言葉に引き寄せられるように、リーリアの視線がその声の主の姿を追っていた。
そして、その姿が見知ったような、そんな人物であったというだけのことだった。
数メートル距離を置いて、“彼女”もリーリアのことを見つめていた。
ゴシックカラーの特徴的な修道衣に身を包んだ女性は、黒いベールから覗く顔でにっこりと優しい笑みを浮かべて見せる。
そうして、呆気に取られるリーリアへ両の人差し指を重ねると、深く、うやうやしく、ゆっくりと頭を下げた。
「ま、待ちなさいよ……今の、どういう――」
ようやく口を動かせて、リーリアが戸惑いながらも一歩、彼女へと近づいたその瞬間、街行く人の影が彼女の姿を遮った。
そうして影が掃けた次の瞬間には、彼女の姿は跡形もなく消え去っていた。
後には、戸惑いに表情を暗くするリーリアが取り残されるだけ。
その唇は、得体のしれない恐怖を前に、僅かばかりだが震えていた。




