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第25項 10年

 意識したのはほんの一瞬の事。

 それよりも早く、リーリアの認識は風景の変化を捉えていた。

 ほんのひとつまばたきをした瞬間に、真っ暗な闇は先ほどアルバートが打ち払ったはずの屋敷の一室へと戻っていた。

 ただ、幻想の世界で燃えたはずの家具も、壁も、天井も、絵画も、すべて元のまま。

 まるで時間がそっくり巻き戻ったかのように、彼女はもう見たくもない景色がそこには広がっていた。

 

 先ほどと違うところがあるとすれば、あの炎の《魔女》の代わりに白い花の《魔女》が、2人を傍観するようにふわふわと浮いていることくらいだった。


 景色を見て、リーリアはずきりと頭に痛みを感じる。

 だが、一度タネが割れれば後は耐えるだけの事で、極力アルバート以外を視界に入れないようにしながら彼の身体を揺すり続けた。


「いい加減に覚めなさいってばっ! あんな、幻覚見せる以外に大したことできなさそうな《魔女》相手になに手こずってるのよっっ!!」


 いくら叫んでも声が届いているような気配はない。

 それどころか、景色が一変してからというもの、アルバートの苦しみは一層増したように、リーリアの腕の中で激しくのたうち回る。

 その度に大粒の汗が彼の額から落ち、赤いみみずばれが根っこのように体中に広がっていく。

 

 やっぱり、何かもっと強い刺激が――

 

 そう思って探して見つかるくらいなら、とっくにそれを実行している。

 魔法に掛かったお姫様を助けるには、どうすれば良いんだっけ。

 おとぎ話なら、王子様のキス?

 でも、これじゃまるっきり立場が逆じゃないの!

 そんなくだらない事すら考えてしまう程度に、リーリアの頭の中もいっぱいいっぱいだった。

 むしゃくしゃしながら前髪を掻きむしって、雑念を振り払うように頭を大きく振る。

 そんな様子を《魔女》がまた音もなく笑いながら見ているものだから、彼女の琥珀色の瞳がキッとその姿を射抜いた。


「アンタみたいなのが一番嫌いなのよ! 人の記憶を好き勝手にほじくり返してさ!!」


 それからもう万策尽きたという様子で、小さな拳がアルバートの胸板を叩いた。


「アルもアルよっ! こんなのに簡単に引っかかっちゃって! 確かにあなたの師匠なら無鉄砲に突っ込んでも勝てる勝算はあるでしょうよ! でも、あなたは違うでしょ!? 歳不相応に落ち着きだけあってさ、そのくせ思慮も配慮も足りない、ただのガキじゃないのっ! こんな《剣》1つ手に入れたところで、何も変わりはしないのよっっ!!!」


 涙はさっき枯れ果てた。

 代わりに言葉に精いっぱいの恨みつらみを込めて、傍らに転がったアルバートの《剣》をその胸元に放る。

 それは彼が過去と決別した証であり、同時に今を生きる証。

 そして、彼がリーリアという存在を再び受け入れてくれた証でもあった。


 だから、というのもあったのかもしれない。

 リーリアにとっては、もしもアルバートが目を覚ますとしたら、あとはもうこれしかない。

 そんな気がしていたのだ。

 

 そのせいもあって、胸元に押し付けたその《剣》の柄を彼の手が取った時、リーリアの瞳は、めいいっぱいの嬉しさと、僅かな隙間に詰まった恥ずかしさで大きく見開かれた。




 彼の意識は、灼熱の炎の中に包まれていた。

 その熱さは、焼けた木材の爆ぜる音は、そしてこのいぶ臭い香りは、ああ間違いない、彼にとっては10年前のあの日のものと瓜二つだった。

 だが、それは《魔女》の見せた幻想だったはずでは?

 そんな気もする。

 でも、今もこうして熱いじゃないか。

 だったら、やっぱりこの熱さこそが“本当”なのだろうか。

 

 彼はぼうっとする頭で思案する。

 他に、考える事がなかったからだ。

 右も左も、上も下も、身体は炎に包まれる。

 熱い、全身が焼ける。

 人が焼ける匂いがする。

 

 これも、嗅いだことがある。

 父さんが、母さんが、妹が――あの日、みんなこの匂いを発していた。

 油の乗った青魚が焼ける匂いと言えば聞こえはいい。

 だがそれに限りなく近い、甘いような、生臭いような、そんな人間が焼ける匂い。

 この匂いは“リアル”だ。

 

 じゃあ、やっぱりこれが“本当”なのだろうか。

 だとしたら、自分の記憶は10年前のあの時のままで――いや、そもそも10年たったという認識の方が“偽物”なのだとしたら。

 今もまだ“あの日”のままで、10年にも感じられる膨大な時間を走馬燈のように感じているのだとしたら――

 

 その答えは今の彼にとってはやけに現実味があって、「それでいいかな」などという消極的な肯定がそれを優しく後押ししていた。

 その方が、どれだけ幸せな事か。

 悲しい事件の記憶は消えはしない。

 だが、事件によって独り家族から取り残された少年もまた、この世に存在はしないのだ。

 

 この10年という月日は、独りになった少年が生涯の最後に視た長い長い、未来の走馬燈。

 それは決して幸せな日々ではなかったかもしれない。

 多くの痛みと、苦しみと、憎しみで満ちていた。

 

 不意に、アルバートは胸元に固い感触を受けて意識が引き戻される。

 どこから転がって来たのか、彼の《剣》が、胸の上で炎に照らされて赤く輝いていた。

 

 その輝きを目にして、彼は思い出す。

 そうだ、これを手にするようになって世界は変わったんじゃないか。

 相変わらずの痛みや苦しみはあったが、それを打ち消すほどの「愛」を彼は学んだ。

 それは教義として、時に《魔女》を打ち倒すという代替手段によって。

 悲しみに暮れた少年は、自ら暗闇を歩くためのたいまつを手にしたのだ。

 その10年も幻想だったというのだろうか。


 ――いや、違う。


 確かに口にしながら、彼女――アルバートの脳裏に、妙に自分を慕ってくれる空色の髪の少女を思い浮かべる。

 この10年が幻想なのだとしたら、自分は彼女に憎しみを抱かなければならない。

 だが違う。

 自分は今、確かに彼女と共にいる。

 それは、彼女を赦したからだ。

 彼女が赦されていることを、理解したからだ。

 

 アルバートの身体に力が戻る。

 それと同時に、身を包み込んでいた炎から、ふっと熱が消えたような気がした。

 相変わらずゴウゴウパチパチと音を立てて燃え盛る炎。

 しかしその熱さだけが、完全に消え去っていた。

 

 彼は、もう一度強く認識する。

 “あれは終わった”のだと。

 すると、ふいにぱぁっと思考が開けたような気がした。

 今まで幻想のように思えていた10年の記憶が、確かなものとして自分の中に流れ込んでくる。


「――2回も、同じ手に掛かるなんて」


 あまりに馬鹿らしくて、思わずその口から笑みが零れる。

 師匠に知られたら、どれだけ怒られることだろうか。

 

 力の戻った手が、胸に触れる《剣》へ伸びる。

 炎に照らされて輝くそれは、まさに空を流れる流れ星のようで、どんな望みや願いでも叶えてくれそうな気がした。

 

 怒られる前にまずは、その彼女の姿を探さなければ。

 それが、自分の旅の目的。

 そのために、自分はこの《剣》を手に取ったのだから――




 柄を確かに握り締め、アルバートは目を覚ます。

 同時に、彼の見ていた幻想が反映されたかのように、屋敷の中が炎の嵐に包まれた。

 リーリアの屋敷の記憶。

 アルバートの炎の記憶。

 それが交じり合って、あの日の光景が再び彼らの前に再現される。


「アル……大丈夫?」


 口にして、なんて馬鹿げた質問だろうとリーリアは思ったが、アルバートはとても落ち着いた表情で頷いてみせた。


「もちろん。生半可な覚悟で、この《剣》を手にしたつもりはないよ」


 それは、先ほどのリーリアの叫びに答えるように――だが、彼はそんな事は知る由もなく、彼女の腕の中からゆっくりと身を起こし、立ち上がった。

 燃え盛る炎の中では、《魔女》がゆらゆらと3つの花を揺らす。

 甘い匂いが部屋の中をいっぱいに包み込んだが、アルバートはそれを、記憶の中の生臭さでかき消した。


 それからゆっくりと、火の壁をすり抜けるように《魔女》のもとへと歩んでいく。

 ひどく冷めきった、いや、どこか達観しきったようなその横顔を、リーリアの視線がどぎまぎしながら追いかける。


「あ、あのっ……心臓はその、花の付け根に見えるわ」


 なぜかおっかなびっくり出て来たその言葉に、アルバートは優しく笑顔を浮かべながら頷いた。

 

 眼前の《魔女》はひたすらに、その幻想の素を振りまく。

 しかし、確かな意志と覚悟、そして現在を受け入れたアルバートに、3度それが効くことはなかった。


「もう……終わりにしよう」


 優しく語り掛けるように口にして、彼は《剣》をその眼前に掲げる。

 そうして、過去への最大限の慈しみを込めて己の使命を全うした。


「“異端審問官”アルバート・ロイドの名において、お前を断罪する――」


 それは確かな決別の一閃。

 自分が今ここにいる事を受け入れ、そしてもうあの炎の夜には戻らないという、決意の一刀。

 

 青白く燃える地上の流星が、《魔女》の心臓を確かに引き裂いていた。

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