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第23項 幻想は崩壊する

 あの時、師がそうしたように。

 目に焼き付いた記憶をなぞるように。

 白銀の刃は半円の軌跡を描きながら、ねっとりとした笑みを浮かべる《魔女》の肩口へ迫る。

 しかし、彼女の姿はゆらりと揺らめいて、蝋燭の火が消える時のようにふっとアルバートの目の前から姿を消した。

 そして次の瞬間には、彼の背後で同じように嘲笑いながら、あの弦楽器をめちゃくちゃに弾き鳴らしたような声をあげていた。

 

 アルバートは間髪入れずに、振り向きざまに刃を一閃。

 炎の中に、青白い下弦の月が浮かび上がる。

 その一撃は、確かに炎の肩口から胴をざっくりと切り裂いた。

 しかし再びその姿はふっと掻き消えると、また別の場所で同じような奇笑が響く。

 

 果たしてその刃は届いているのか。

 捉えどころのない敵を前にしながらも、アルバートの瞳に宿った鈍い輝きは消えはしない。

 それは尽きることのない闘志の表れであり、それが尽きるということは《魔女》の命が尽きるということにほかならない。


「おおおおおぁぁぁぁぁぁあああああああ!!!!!」


 もはや発音にもなっていない雄たけびをあげながら、アルバートは肖像画を背に現れた《魔女》に飛び掛かる。

 しかし、何度やっても結果は同じ。

 振るった刃は空を切り、その風圧で吹き消えるように《魔女》は姿を消す。

 代わりに、敵が背にしていた肖像画の腰から下がざっくりと斜めに切り裂かれ、僅かに繋ぎ残った額の縁でブランと垂れ下がった。

 

 目標を見失って、アルバートの赤銅の瞳が再び標的を探す。

 ごうごうといたる所で火の手が上がる部屋の中で、炎そのものである相手を探すことは、一見容易な事には思えない。

 しかし、彼にはそれができた。

 長年夢に見続けて来たその姿を、彼は寸分も他の炎と見間違えるようなことはしない。

 

 開けた空間で優雅にゆらめく灼熱の《魔女》は、スカートを模った不定形の烈火を翻らせながらくるりと回ってみせると、片手を天上、そしてもう片手をアルバートの方へ向け、まるでダンスにでも誘うように、挑発的に手のひらを返してみせた。


「馬鹿にするなぁぁぁぁああああああああ!!!!」


 安い挑発と分かっていても、今のアルバートにそれを抑制するだけの余裕はない。

 身を低くして、床を滑るように最直線で《魔女》との距離を詰める。

 そして、彼女の眼前で身を起こしざまに大きく飛び上がって、《剣》を天上に突き刺さるかというほど掲げあげた。


「断罪だッ! 滅してやるッッ!! 報いをうけろぉぉぉぉおおおおおお!!!!」


 魂を込めた渾身のひと振り。

 それは部屋をビリビリと震わす怒号と共に、なおも笑みを絶やさぬ《魔女》の脳天目がけて振り下ろされた。

 すべての恨みと、怒りと、憎しみを込めた一刀。


 しかし、その切っ先は憎き《魔女》の額すれすれでピタリと押しとどまった。

 その不可解な光景は、端から見れば《魔女》の呪いによるものにも見えたかもしれない。

 しかしその実は、アルバート自身が意図的に、その手を止めたのだ。

 彼女の頭をかち割るその寸前で、柄を握る拳を強く握りしめ、全身の筋肉に鞭を撃って、無理やり、圧しとどめた。

 

 それは決して、目の前の仇が憎くなくなったからではない。

 断罪してやる。

 滅してやる。

 殺してやる。

 その燻った想いは、どんな冷や水を掛けられても決して消えることは無い。

 

 ただ、その燃えに燃え上がった憎悪から、一時でも冷静を取り戻せるほど痛烈な少女の叫び声を、その耳に聞いたからだ。



 ――やめてええええぇぇぇぇぇぇぇええええええええええ!!!



 その一声で、アルバートの中の感情が弾けた。

 燻っていた憎悪の火種が、まるでその芯から破裂したかのように、砕け散ったのだ。

 

 一時でも我に返った瞳で、眼前を見下ろす。

 自分が今、断罪しようとしていた存在を、視界に捉える。

 そして、自分が今しでかそうとした事の恐ろしさが、ざぁっと全身を駆け巡った。

 

 アルバートが経った今振るった刃の寸分先に、あと数センチその先に、身を屈めて泣きじゃくるリーリアの姿があった。

 

「やめて……お願い、アル……」

「リリー……」


 小さくなって、涙と鼻水と涎とでぐしゃぐしゃになった顔を隠しもせず、ただひたすらに嗚咽を漏らし続けるリーリア。

 それを目の当たりにして、自分が今しようとしたことが、脳内でぐるぐると目まぐるしく“正しい光景”となって駆け巡る。

 

 この場所は何なのか分からない。

 あの《魔女》も分からない。

 だが、今まさにしでかそうとしたことは、“この《剣》を、目の前のリーリアに振り下ろす”こと。

 

 《剣》は実体を斬るようにはできていない。

 それは、刃のついていない「なまくら」のようなものだ。

 しかし、たとえ「なまくら」であっても、金属の塊――鈍器であることに変わりはない。

 その渾身の一振りを生身の人間に繰り出せば、両断はあたわずとも骨折――頭蓋に打ちつければ、見事にぱっくり割ることくらいは不可能ではない。

 

 そうなった時の感触が手に伝わったような気がして、なんとも言えない感触――まるで腐った瓜に刃を突き立てた時のような――が手のひらを駆け巡り、そのおぞましさに身体からはすっと力が抜け去っていた。

 柄を握ったまま震える手も抜けて、取り落とした《剣》がガランと床に転がる。


「お願いアル……“あれ”は私じゃない……ね? そうでしょ……?」


 縋るように、リーリアの真っ赤に充血した瞳がアルバートを見上げる。


「私はもう、断罪されたんでしょ……? もう、赦されたんでしょ……? だから、“あれ”は私じゃない……ねぇ……アル、お願いよ……」


 その大きな瞳から、ボロボロと大粒の涙が零れる。

 震える唇は、言葉を紡ぐのもやっとのよう。

 だが、それでも彼女は喉を震わせて、そして力を振り絞って、叫んだ。


「お願いだから――『そうだ』って言ってよッ! アルッッッッ!!!!」




 ――そうだ。

 

 リーリアは《魔女》じゃない。

 そして、リーリアを触媒に顕現した《魔女》は、あの日、師の刃によって断罪されたのだ。


 アルバートは、リーリアの問いに答える事ができなかった。

 力の抜けた口は、言葉を発する事ができなかった。

 だけど、その代わりに『思い出す』。

 そして、心の中で確かに口にする。

 その“記憶”は、抜けきったアルバートの身体に、再び力を与えるものだった。

 “記憶”という名の力が戻るたび、目の前に広がっていた部屋の光景が、うっすらと揺らいだ。



 あの日、屋敷は《魔女》によって全焼した。その跡地には、何度も足を運んでいる。


 ――燃え盛る家具が、炎ごと真っ黒い粒子になって消えていく。


 師が、すべてを終わらせてくれた。そして、アルバート自身に生きる道を与えてくれた。


 ――机も、ソファーも、棚も暖炉も、肖像画も、みんなみんな、消えていく。


 あれは終わったことだ。だから自分は今、ここにいる。そのことを、アルバートは強く“認識”する。

 

 ――何も無くなった光景から“部屋”すらも消えた。深い闇が、ただ2人の周りに広がっている。


 終わったのだ。あの《魔女》は、師が“断罪”した。《魔女》はもういない。


 ――真っ暗な闇の中に、ぼうっと炎の《魔女》の姿が浮かび上がる。絶やさぬ笑み。燃え盛る炎。しかし、その熱はもう感じはしない。


 アルバートは、リーリアの姿を見つめると、それを脳裏に刻み込むようにぐっと瞼を閉じる。

 彼女はもう赦された。

 《魔女》ではない、“彼女”が今ここにいる。

 それを、強く“認識”するために。

 

 《魔女》の笑い声が、それを妨げるかのように背後から響く。

 だが、それよりも強くリーリアという存在を刻み込んだアルバートは、ただ目の前の“真実”だけを求めて振り返り、《魔女》を睨みつけた。

 

「お前は――“誰”だッ!?」


 そうして、僅かに残った憎しみを振り払うように、アルバートはその言葉を口にする。

 その存在を否定され、炎の《魔女》の姿が大きく揺らめいた。

 それは、彼女の炎によるゆらめきではない。

 

 アルバートという“認識”の暴風に当てられて、今度こそ、文字通り吹き消されるかのような、そんな強く、激しい風前の灯のゆらめきだった。

 “記憶”を取り戻したアルバートに、もはやその幻影は通じない。

 魔女はその奇笑を浮かべたまま、それでも確かに瘴気の粒子となって、闇の中へと消え去っていく。

 

 そしてその後には――この幻影を生み出した、“真実”の《魔女》の姿が残されていた。

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