第22項 業火の記憶
「えっ……ちょっ……」
一番近かったリーリアが、咄嗟に振り向いて扉へと駆け寄る。
そして両のノブを握りしめて開こうと試みるが、硬い扉は圧で軋みすらしなかった。
「ちょっと……誰なの!? 開けなさいッ!!」
最後は平手をバンバンと扉に打ちつけて、姿の見えない犯人へと訴えかけるが、反応はなかった。
「リリー、ちょっと下がって」
アルバートが《剣》を握り締めながら歩み寄ると、リーリアは道を開ける。
そうして真正面に立つと、光に満ちた切っ先を扉の合わせ目に向けて押し当てた。
「……ダメだ。鍵があちら側だからか、《剣》が機能しない」
「そんな……!」
静かに首を横に振ったアルバートを前に、リーリアの顔からさぁっと血の気が引く。
そして、先ほどと同じようにバンバンと何度か、扉を激しく打ち鳴らした。
当然ながら新しく反応があるわけもなく、密閉された室内にこだまする必死のノック音は、いっそう虚しいものに感じられた。
どうしたものか。
リーリアほど目に見えて取り乱してはいないものの、アルバートも内心で焦りを覚える。
鍵が開けられないならば、壊すしかないのか?
だけど、《剣》は物を壊すのには向いていない。
かと言って、若造と少女でこの堅牢な扉を力任せに破るのも、まず不可能だろう。
途方に暮れて視線を周囲に巡らせると、今まで気づかなかった室内の異常が彼の目に映し出された。
「こ……れは……リリー!」
アルバートは慌ててリーリアの肩を叩き、振り向かせる。
それによって、扉しか見えていなかった彼女の瞳にも、確かにその異常が見て取れた。
「何よこれ……霧?」
花弁で包まれた部屋の中に、白い靄のようなものが立ち込めていた。
窓もない、出口も封鎖されたこの部屋で、いったいどこから入り込んで来たのか。
だが、その靄は少しずつ、だが確かに濃さを増していき、徐々に部屋全体を埋め尽くし始める。
アルバートが慌てて口元を手で覆い、リーリアもそれに続く。
が、その程度で粒子状の霧を遮ることができるはずなどなく、次第にほんのりとした甘い香りが、2人の鼻孔の奥をくすぐった。
「何この匂い……甘ったるくて、ヘドが出るわ」
年頃の女の子として、その発言はいろんな意味でどうなのだろうか。
だが、アルバートもまた、花の粘膜に張り付くようなねっとりとした香りに顔をしかめる。
それはまるで頭蓋を突き抜けて、脳に直接まとわりついて来るような、そんな感覚を与えていた。
同時に、ふっと脚の力が抜けて2人はその場にへたり込む。
脚だけではない。
腰も、腹も胸も、肩も腕も、操り人形の糸が切られたかのように全身の力が抜けていく。
身体がいう事をきかない。
「く……そ……」
やがて頭までぼーっとし始めて、アルバートは《魔女》の心臓に易々と入り込んてしまった不覚を痛感する。
だが、その心の痛みを感じる前に、意識は真っ白な霧の世界へとフェードアウトしていった。
どれくらい眠っていたのか。
アルバートは、ふと目を覚ました。
飛び起きて、手を握り締める。
身体は動く。
それを確認して、近くにリーリアの姿を探した。
彼女は彼のすぐ後ろで、猫のように丸くなりながら安らかな寝息を立てていた。
「リリー、起きて」
あまりに気持ちよさそうに寝ているものだから起こすのを少し躊躇ったが、状況が状況であったため、優しくその肩をゆするアルバート。
リーリアはぼーっとした瞳をゆっくりと開くと、焦点の定まっていない瞳でアルバートを見上げた。
それから徐々に瞳に生気が戻っていくと、ばっと跳ね上がるようにして身体を起こした。
「あ、アルっ! ここは……?」
リーリアに尋ねられて、アルバートは初めて、自分が寝ていた場所の光景に意識を移した。
というのも、「寝て」「起きた」わけだから、自然とこの場所はあの《魔女》の館の閉ざされた部屋の中だと思い込んでいたのだ。
だが、改めて周囲を見渡して、その考えは易々と打ち砕かれる。
それは、どこかの屋敷の一室だった。
凝った彫り細工が施された机や椅子、棚といった家具の数々は、ひと目見ただけでこの屋敷の持ち主の格式の高さを伺える。
いや、格式が高いのだ。
幾何学模様の絨毯は、東の国から取り寄せた特注品。
見上げるほどに高い天井は、そこで過ごす人間の心に余裕を与える。
「なんで……ここは……」
その光景を目の当たりにして、アルバートは雷に撃たれたように惚けた顔でただそれらを眺めることしかできなかった。
微かに顎が震え、顔に、背中に、じっとりと粘っこい汗を浮かべる。
膝立ちの状態で、床についた指先で触れる絨毯の感覚には覚えがあった。
それだけじゃない。
家具の数々も、その配置も、何もかも見覚えがあった。
そして、一度見た者の記憶にはっきりと刻み込まれる、壁にかけられた女性の大きな肖像画――
「あ、アル……なんで。どうして私たち、“ここ”にいるの……?」
同じように、震える声でリーリアがアルバートに尋ねる。
その震えは、いつもの《魔女》への共鳴によるものではない。
それは、人間としての心の内から溢れる確かな感情――不安や恐怖、そして悲しみや怒りによるもの。
だから、それらを振り払うようにリーリアは声を荒げた。
「ねぇ……なんで、“ここ”にいるの……? なんで、この場所が“残ってる”のよ……ッッッッッ!!!!」
その叫びに呼応したように、世界が一変した。
まるで、なにか大きな火種が爆ぜたかのように、部屋中を一瞬にして炎の嵐が包み込んだのだ。
床が、壁が、家具が、絨毯が、まるでそうあることが当たり前のように、ごうごうと、音を立てて燃え盛る。
その炎に照らされて、2人の表情は真っ赤に染まっていた。
夢?
幻?
だが、彼らの頬に感じる熱は、確かな現実の炎によるものだ。
アルバートの瞳の中に、激しく揺れる炎が映る。
部屋の中央で火柱のように立ち上る、ひときわ大きな炎だ。
まるで、この部屋を燃やしている数多の業火の根源であるかのように――いや、まさしく根源であるその炎が、ゆったりと揺れながら人の形を成して、アルバートの瞳の中でにやりと笑みを浮かべていた。
「いや……どうして……なんで……?」
零れるのはリーリアのすすり泣くような声。
自問しても答えは出ない。
でも、“記憶”はその答えをありありと彼女に見せつける。
そうして、真実の重みに耐えられなくなって、リーリアは大きく、高く、そして激情に任せた叫びをあげていた。
「いやぁぁぁぁぁぁあああああああああああ!!! やめて……!! どうして……!? なんで……!? “あれ”はもう終わったでしょ!? 片付いたのよ!! 私じゃない!! 違うの!!! あれは私じゃないの……!!! 私じゃないって言ってよぉぉぉおおお……ッッッッッッ!!!」
そんな彼女をあざ笑うように、炎は笑みを浮かべ――
――そしてケタケタと、愉快そうに確かな“笑い声”を上げた。
その声で、アルバートの意識がプッツリと途絶えた。
足元に転がっていた《剣》を握り締めると、地面を蹴って炎へと翔ける。
それはまるで、標的を定めて飛び掛かった獅子のように。
ただし、その赤銅色の瞳に宿った輝きは、食物連鎖の頂点に立つ王者のそれではない。
絶望と、憎しみと、ただひたすらに募った憤りで、鈍く、暗く、輝いていた。
「赦さない……ッッ!! 殺してやる……ッッッッ!!!! 俺が……、僕が……、この手で……、確実に……ッッッッッッ!!!!!!」
そうして両の手で握りしめ、振りかぶった《剣》が、蒼白の軌跡を描いて炎の中を閃いた。




