第20項 霧の捕まえ方
「お嬢様と、遊んでくださっていたのですか?」
ぼーっとしていたところに声を掛けられて、アルバートはハッと顔をあげた。
「あ、ああ。いつの間にか、いなくなってしまったけれど」
「それは、ありがとうございます。こんな場所で、なかなか遊び相手もいらっしゃらないものですから」
アニーはどこか嬉しそうに、クスリと笑みを浮かべる。
「普段は私のお役目なのですが、最近は忙しくてなかなか……」
そう言って、どこか表情に影が差したアニーだったが、厨房の扉を前にすると変わらぬ笑顔で振り向いた。
「どうぞ、こちらです」
「あっ……今そこは――」
不用意に扉を開けようとしたアニーを、アルバートは慌てて止めようとする。
つい先ほどまで、そこではリドルが解体ショーを演じていたのだ。
仮に終わっていたとしても、今はまだ真っ赤な絨毯が広がっているハズ――
「……え?」
しかし、開け放たれた扉の先にそんなものは広がっておらず、ただ静かな厨房の風景が広がっているだけだった。
確かに感じた鉄のむせ返るようなにおいも、目に焼き付いた鮮血の色も、何ひとつ残ってはいない。
アルバートは目を、記憶を疑い、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
視線を左右に振り、穴が開くほどに厨房を見渡す。
どんなに目を凝らしても、リドルの血抜きの痕跡ひとつ見当たらなかった。
「そんなバカな……“消えた”……? いや、確かにここで――」
誰かに言い訳するように、思わず言いかけたアルバート。
しかし、それに続く言葉は息と一緒に飲み込まれていた。
「……アニー?」
言い訳をする?
誰に?
厨房は、ひたすらに静寂が広がっていた。
アルバートは独り、その冷たい空気の中で立ちすくむ。
先にアニーが入ったはずなのに、間も置かずに入ったはずなのに。
アルバートはただ“独り”だった。
また“消えた”。
何度目だ。
《剣》を握り締め、厨房から飛び出す。
腰を落とし、臨戦態勢のままで、蝋燭が燃え尽きたエントランスの闇を睨みつける。
どこにいるのか分からない。
何を望んでいるのかもわからない。
ただしかし、自分が《魔女》にイニシアティブをとられていることだけは、そう宣言されるでもなく肌で理解できた。
「……アル、どうしたの?」
そんな時に背後から声を掛けられて、アルバートの背中にゾクリと悪寒が走る。
が、振り返ってその相手を確認した途端、すぐに安堵の息を漏らした。
「はぁ……リリーか」
「なによ、その言いぐさは」
だいぶ体調も戻って来たのか、いつものふてくされ顔で悪態をつくリーリア。
アルバートは、そんな彼女の顔やら肩やら背中やらをペタペタと撫でまわした。
「なっ、なに……!?」
「……うん。リリーまでいきなり消えるなんてことは、流石に無さそうだな」
ぎょっとして顔を真っ赤に染めたリーリアに対して、アルバートはもう一度胸を撫でおろす。
「足の具合が悪いって、アニーに聞いたけれど」
「あら、そうなの? 水で冷やしてから包帯貰ってしっかり固定したら、だいぶマシになったところよ」
そう言って、白い布でぐるぐる巻きにされた足をちょんと上げてみせるリーリア。
「それは良かった。だけど、あまり不用心に出歩かない方が良い」
「《魔女》のことね。私もそれは、心配しているのだけれど……」
「……何か気になることが?」
歯切れの悪い返事に、アルバートは僅かに眉をひそめる。
「なんだか、気配がすごく散漫なのよ。いるのは確かなのだけれど……こう、霧の中にいるみたいな。確かに存在は感じるんだけれど、腕を振っても、手を握っても、決して掴めない。こんな感覚、初めてよ」
そう言って、リーリアは下唇を噛みしめる。
「歩くのは平気?」
「ええ。ゆっくりなら……」
「じゃあ、これからは俺と一緒にいておこう。文字通り煙に巻くような相手なら、別々にいるほうが危険だ」
「ええ……」
アルバートが強い口調で言うと、リーリアは小さく頷き返した。
それからアルバートは、館を目撃したものをすべてリーリアへと話した。
リーリアははじめ、怪訝な表情で馬鹿真面目に語るアルバートをみつめていたが、少しずつその話に聞き入っていると、やがて腕を組んで視線を落とす。
「なるほど。目的の分からない《魔女》ね」
直接そうは言っていないにも関わらず、リーリアはアルバートの気持ちをさらりと代弁する。
ただ、アルバートほど重く考えている様子はなく、すぐにケロリとした表情で視線を上げた。
「じゃあ、逆に考えてみましょ。こうして“呪い”が存在しているということは、既に《彼女》はその役割を果たしているということになるわ」
「既に果たしている……か」
《魔女》は、その媒体となった人間の望みや願いを最も的確な方法で叶える。
であるからこそ、《魔女》によって成された事件の結果からその目的や《魔女》そのものを割り出すのは、異端審問官の基本的な事件の調査方法だ。
「だが、望みが不透明すぎないか?」
「そうね……でも、この霧みたいな気配から考えれば、あまり『これだ』と断定できる“呪い”ではないはずよ」
そう言われて、改めてアルバートは今夜の出来事を思い返す。
思い出せば思い出すだけ、不可解が募る。
理解しがたい、不審だ。
だが……ありえないわけじゃない。
人が目の前から消えたのはやりすぎだが、調理場での解体も、虐待めいた躾けも、それを受けてケロっとしている少女も、決してあり得ないとはいえない。
広い目で見れば“日常”。
やり過ぎであったとしても、それは人の営みだ。
それ自体に、《魔女》の関与があるだろうか。
そんな人道的なものではなく、もっと大きなところ。
霧のようにこの館を包みこんで、もっと大きな枠で“呪い”を生み出しているのだとしたら――
「――この館自体が……“呪い”?」
その可能性に至って、アルバートは半信半疑で自問する。
しかし、そうであればそもそもなぜこんな場所に館があるのか、という問題も含めて、すべてに説明がつく。
「だとしたら、誰がどうしてそれを望んでいるのか……やっと、振り出しに立てたわね」
少し困ったように、リーリアは溜息をつく。
そんな彼女に、アルバートは静かに首を横に振った。
「いや、この可能性が正しいなら答えはもっと単純だ」
「……それ、どういうこと?」
「この館がなければならない“理由”を探せばいい。それは“弱点”と言っても良いかもしれない……そしておそらく僕は、それを知っている」
そうして、目を丸くしてキョトンとするリーリアにアルバートは力強く答えた。
「――この霧は捕まえる事ができるよ、リリー」




