第19項 人を憎めず
その笑みに対して、アルバートは思わず息を飲む。
言葉が出なかった。
目の前の不可解な情景に、少女に、どんな言葉を掛ければよいのか、自分でも分からなかった。
が、そんな心配はすぐに杞憂となる。
「……えっ?」
それは一瞬だった。
目の前に居たはずの親子が、忽然として消えたのだ。
ほんの数度、瞬きをしている間に。
まるで、もとからそこになんていなかったかのように。
不穏な笑みを浮かべる母親も、ぐしゃぐしゃの笑みを浮かべる娘も、水桶も、すべてすべて、瞬きの間に消えてしまった。
閑散とした部屋に、アルバートの戸惑いの声だけがこだまする。
慌てて辺りを見渡すが、そこには変わらず気品あふれる婦人の寝室が広がるだけ。
だが、消えた。
――けらけらけらけらけら。
部屋の中にどこからともなく、エミリの笑い声が響く。
右から、左から、上から、下から。
まるで部屋中を走り回っているかのように、笑い声が移動する。
が、もちろんその姿は見えない。
アルバートは、《剣》を覆っていたシーツを解き捨てその身を露にすると、左手でしっかり鯉口を握り締め、寝室を飛び出した。
もはや客だとか、他人の家だとか、外聞は捨て去って、床の上を滑るようにゲストルームまでの直線を駆ける。
今になって、リーリアの言葉が理解できた気がする。
館の人間全員が《魔女》のよう?
いや、まるでこの館そのものが《魔女》のよう!
1人部屋に置いて来たリーリアが危ないと思い至るのは、なんら不思議なことではない。
足を痛めている彼女は、何かあっても逃げることができない。
今、このまま無防備にこの館にいてはいけない。
そんな警鐘が、アルバートの頭の中でガンガン鳴り響いていた。
「リリー……ッ!!」
ノックをするのもおっくうで、ぶち破るようにゲストルームの扉を開け放つ。
が、その先に、名前を呼んだ少女の姿は無かった。
彼女が乗っていたベッドも、まるで初めから使われていなかったかのようにメイキングがほどこされ、先ほど寝室に捨てて来たシーツも、皺の無いようにきれいに伸ばしてベッドに掛けてあった。
アルバートはどかどかと部屋の中に入り込み、忙しなく辺りを見渡す。
どこにもいない。
隠れられそうな場所も無い。
リーリアが――消えた。
歯を食いしばって、ゲストルームを飛び出す。
「リリー! 返事をしてくれッ!!」
叫びながら、廊下を走る。
隣の部屋に入ったか?
乱暴に押し開いては、声を掛ける。
隣の部屋――物置。いない。
突き当りの部屋――書庫。いない。
誰かが階段を下りたような気配はなかった。
いや、そもそも彼女の足で階段を下りようとするとは思えない。
それとも――それくらい緊迫した状況に陥っているのか?
考えれば考えるだけ、妄想は悪い方へと広がっていく。
アルバートは頭を振って、誇張された想像を振り払うと、ただひたすらに彼女の姿を探して館を駆け巡った。
再び婦人の寝室――いない。
その隣の部屋――子供部屋。いない。
そして突き当りの部屋へ――
これまで順調に捜索をつづけていたアルバートの行く手を、ガチャンと鳴り響いた硬い鉄の感触が遮った。
鍵がかかっている。
今までどの部屋も不用心なくらい簡単に押し開いたのに、この部屋に限って、南京錠が掛けられているかのように硬く、閉ざされていた。
ノブ周辺を見渡しても、それらしいものはない。
内側から鍵が掛けられているようだ。
何度か乱暴にガチャガチャと扉を押し引きするが、びくともしない。
内側から鍵――という事は、中に誰かが閉じこもっているということ。
アルバートは、ドンドンと殴りつけるように扉をノックする。
「リリー、ここにいるのか!? リリーッ!!」
その声に反応する様に、中からドタドタと誰かが駆け回るような音がする。
それを聞いて、アルバートは弾かれたように扉から離れた。
リーリアは走れない……なら、誰だ?
右手がそっと、《剣》の柄に触れる。
鍵は確かに掛かっている。
だけど、そんなもの関係なくにょっきりと、《魔女》が扉越しに顔を覗かせそうな……そんな緊張が、アルバートの背中を伝っていた。
「――どうかなされましたか?」
張り詰めていたからこそ、咄嗟に後ろから声を掛けられたアルバートは、半身身体を回転させて、振り返りざまに《剣》を抜いていた。
が、声の主の姿を捉えると、抜きかけた右手を抑えて、慌てて刃を鞘へと戻した。
「アニー……! いや……すみません」
大きく何度も息をつきながら体裁を整えて、心配そうに手を宙に泳がせているメイドに向き直る。
「その、連れを探しておりまして……」
「ああ……リーリア様なら、足の状況が芳しくないということで、冷やすものを取りに1階にいらっしゃいましたが……」
アニーはそう言いながら、視線は泳ぐようにアルバートが持つ《剣》に吸い寄せられる。
アルバートは慌ててそれを背中に隠すと、取り繕うように笑みを浮かべて見せた。
「こんな時世ですから外で護身具は肌身離せず……それが変なクセになってしまいまして」
「え……ええ、お気になさらず。旅をしていれば、いろいろな事があるでしょう」
アニーもまた気を使ったように笑みを浮かべると、「こちらです」と、リーリアの場所を案内するように手を向けた。
アルバートもそれに続いて、2人で静かに館の1階を目指す。
「……アニーは、この館は長いんですか?」
「普段通り話して頂いて結構ですよ。ええ、かれこれもう何年になるでしょう……」
言いながら、アルバートの数歩先を行く彼女は指折り年月を数える。
が、それを遮るようにアルバートは言葉を続ける。
「この館は……昔から『こう』で?」
「『こう』……とは?」
一概に説明がしずらくぼかしたアルバートだったが、やはりそれでは伝わらなかったらしく、振り向いたアニーは小さく首をかしげる。
「何と言ったら良いかな……不可解な出来事がよく起こったり」
「不可解……ですか?」
その言葉を吟味するように、アニーは喉を鳴らす。
それに合わせるように、ギッギッと、階段を下りる音がこだました。
「私が知る限りでは、それほど」
結局、首を横に振った彼女に、アルバートは「申し訳ない」と小さく頭を下げた。
普通に会話ができる。
それだけで、アルバートの中にどこか温かな安心感が沸きおこった。
いろいろと不可解なことは続いたが、彼女の口ぶりからすればそれほど気に留めることではない……?
では、あの寝室で消えた2人はどう説明すればいいのか。
やはり《魔女》の仕業だと考えるのが妥当だ。
なら、その目的は何なのだろう。
何のために、彼――もしくは彼女は《魔女》という罪を犯しているのだろう。
人が抱いた強い想いや願いが、人の理から“裏返った”時、その願いは《魔女》へと姿を変える。
《魔女》は最も的確な方法で願いを成就し、“呪い”という形で結果を示す。
それが《魔女》という現象だと、一般的には言われている。
だから、誰が――というのももちろんだが、この館の《魔女》の目的がなんら見えないというのは、アルバートに焦りを抱かせるのに十分すぎた。
目的が見えれば、おのずと《魔女》の正体は見える。
国境の村でリーリアがミザリーを疑ったように。
最終的に、グレオ司祭へと行き着いたように。
だから、この状態でアルバートに《魔女》を見極めろというのは、他のいかなる拷問に比べてもなお酷なことだった。
本来であれば、先ほどのリーリアの言葉を重く受け止めて館の人間全員を疑わなければならない。
不可解な解体を行っていたリドルも。
不可解な失踪を遂げたハンナやエミリも。
そして、目の前のアニーも……
――しかし、彼は人を憎めない。
“罪を憎んで、人を憎まず”は、異端審問官が最も大事とする唯一絶対の教義である。
が、もちろん、万人がそれを体現しているわけではない。
それは一種のスローガンのようなもので、“裁いた後にも、《魔女》であった人を責めてはいけないよ。その人の罪はもう神に赦されたのだから”ということなのだ。
だが、アルバートは違う。
彼は、その教義に救いを求めて異端審問官の門戸を叩いた。
彼にとって、その教義こそが生きるための導であった。
彼は人を憎めない。
それはすなわち――彼は人を疑えない、ということに他ならない。




