第18項 不可解
扉の先は厨房だった。
決して狭くはない区画の中に、調理台、竈、窯、乾物棚等がところ狭しと並んでいる。
それだけならば一般的な屋敷の厨房と大差はないのだが、この館の厨房は、どうしたことか真っ赤な絨毯が敷き詰められていた。
エントランスにもあったような、それはもう見事な赤暗色の絨毯。
だが、そんなものよりも圧倒的に場違いな光景が、真っ先に目に入って来て、アルバートはそちらの方に意識が裂かれていた。
「これはいったい……」
思わず口から言葉が漏れるほどの異質な光景。
厨房のど真ん中、調理台のその頭上に、大きな大きな牡鹿が吊るされていたのだ。
後ろ足を縛られて、逆さ釣りにされた牡鹿。
足先から首までずるりと皮が剥かれ、その新鮮な桃色の肉が宝石のように輝く。
その喉元にはぱっくりと、鋭利な刃物で開けられたのであろう深い切り口があり、そこからごぽごぽと、ボトルから注ぐ真っ赤な葡萄酒のような液体が零れ落ちる。
その液体は、調理台の脚を伝って床へと流れ出ていた。
そして、その液溜まりが自分の足元の方まで広がっているのを見て、アルバートはようやく絨毯の正体を認識する。
台の端の方からも、雫になった液体が、ぴちゃん、ぽちゃんと音を立てながら、絨毯に小さな波紋を浮かばせる。
同時に、ツンと鼻の奥をくすぐる鉄の匂い。
それに交じって、どこか野性的な獣の匂い。
山や森の中なんかでは、それほど珍しい光景ではないし、アルバート自身も耐性が無いわけじゃない。
だが、こんな立派な館の、立派な厨房の中で、何故こうして牡鹿が吊るされているのか、ただただ不可解で仕方がなかった。
「――これはアルバートさん。どうなされましたか?」
吊るされた巨体の影から、ラフなシャツ姿にキャップを被ったリドルが顔を覗かせる。
手には剣と言っても良いほどに大きな牛刀を握り締め、そこから滴る液体が、白いシャツの腕からじっとり胸のほうまで、ひたひたと真っ赤に染め上げていた。
「いえ……その、エミリちゃんとおにごっこをしておりまして」
「それはそれは、娘と遊んでいただきありがとうございます」
言いながら、リドルは巨大な刃についた汚れを、布きんでギュッとひと撫でに拭き上げる。
「リドルさんこそ、ここでその、何を……?」
何をしているのかなんて、見ればわかる。
ただ、アルバートにはそれ以外に聞きようがなかった。
「血抜きですよ。新鮮なうちにやらないと、すぐに固まってしまいますから。血の残った肉は、それはそれで愛好家がいますが、私は臭くてかないません」
言いながら牛刀を牡鹿の首に突き入れ、ごりっごりっと傷口を広げている。
その度に、どくんどくんと波打つように、鮮血が調理台の上に零れ落ちる。
「そういうのは、狩りをしたその場でやるものと思っていましたが……」
「ええ、ですから、その場でやっているわけじゃありませんか」
またまた御冗談を、とでも言いたげにリドルはニッコリと笑い、手は休まずにごりっごりっ、どくんどくん。
胸元までしか染まっていなかったシャツも、いつしか全身真っ赤に染まって、その表情もいつしか艶やかな赤に濡れていた。
「そういえば、エミリをお探しでしたね。アレでしたら、こちらにはいらしておりませんよ」
「そ……うですか」
その光景に圧倒されて、アルバートは言われるがままに頷き返し、厨房を後にする。
扉を出る際に「よい晩を」を掛けられたリドルの声が、どこか果てしなく遠くから聞こえているような錯覚すら覚えていた。
こんな夜中に狩り……?
それも、夕食を終えてそう時間が経っていない中、いつの間に……?
疑問はぐるぐると頭の中を駆け巡るが、自問して答えが出るものではない。
これも《魔女》の仕業なのだろうか?
だとしたら、リドル氏に一体何が?
いや、そもそも――
再び自問の渦に巻き込まれそうになった時、パタパタ響いた足音が、アルバートの意識を一気に現実へ引っ張った。
いつの間にか、エントランスの蝋燭は燃え尽きて、いたるところに開いた小さな窓から淡い夜空の光が差し込むだけとなっていた。
足音はやがて、どたどたと階段を駆け上がり、2階のどこかでバタンと扉が閉まる音がする。
暗い闇の中で、ただその音だけが、水面に広がる波紋のようにじんわりとした反響となって耳に残った。
今見たものはひとまず置いておいて、アルバートは息を殺しながら足音を追って階段を昇っていく。
まだ《魔女》の事を何も分かっていない段階で、可能性を疑うのは早計だ。
やっぱりリーリアを連れてくるべきだっただろうかと、自分の判断を少し後悔したが、あの足で無理をさせるわけにもいかないと、すぐに考えを改める。
今はもう少し館を見て回らせて貰うことにして、そのためにはエミリとのゲームを続けるほかない。
再び2階へと上がって来て、だだっ広い廊下を左右に見渡す。
すると、またうっすらと光の漏れている部屋がアルバートの目に留まった。
光は左右から1つずつ。
うち、左側は自分達の泊まるゲストルームのため、向かうなら右側のだとして、アルバートは歩き出した。
こちらの側の廊下は、予想としてはアーケン一家の私室があるはず。
ゲストルーム側と造りは同じようで、扉は廊下沿いに2つと、突き当りに1つ。
うち、問題の部屋は廊下沿いの方のひと部屋だ。
アルバートは厨房でそうしたように、そっと扉越しに中の様子を伺う。
中からは、またもやぴちゃぴちゃバシャバシャという水音が響いてきた。
先ほど見た場違いな光景が脳裏にフラッシュバックしながらも、アルバートは丁寧にドアをノックする。
仮にも家人の部屋であろう場所を訪れるのだ。
先ほど以上に、失礼があってはならない。
しかしながら、やはりノックに対する返事はなく、もう何度か繰り返すように、念を押すようにドアを鳴らす。
それでも反応はないうえに、水音はなおもドアの先から響いている。
家人の部屋と分かっていて、返事もないのに入るのもどうかと、良心がアルバートを躊躇させたが、それでもこの館に《魔女》の気配があるということを考えれば、仮に追い出されることになったとしても――そう、自分に言い聞かせながら、彼は思い切ってドアノブを捻った。
厨房と違い、この部屋はとても煌びやかな輝きに包まれていた。
単純に灯りとなる燭台の数が違ったのもあるが、精巧な装飾のほどこされた家具や調度品の数々が、明かりに揺られてきらきらと照り輝いていたのだ。
ひと目見て、気品のある部屋だと分かる。
だが、その趣味は男性ものではない。
天の川のようにきらめくシルクの天蓋も。
曲線を描く足のついた揃え家具の机や棚も。
そしてなによりも、部屋の奥に鎮座する、大きな三面鏡が、この部屋の主が女性であることを物語っている。
その主であるハンナ夫人は部屋の中央で、陶器の桶に向かってしゃがみ込み“洗濯”をしていた。
格式高い人間がそんな汚れ仕事をしているだけでも場違いであるにも関わらず、その“洗濯”しているモノを見て、アルバートは弾かれたように部屋の中へ駆け込んでいた。
「何をしているんですか……!?」
「何って、お顔を洗ってあげているんですよ。ほら、夕食の時に汚してしまっていたでしょう?」
そう何食わぬ顔で言いながら、ハンナはエミリの首根っこをひっつかんで水の張った桶に沈めながら、ばしゃばしゃ、ばしゃばしゃと、繰り返し、繰り返し、その顔を擦っていた。
「やめてください、死んでしまいます!」
アルバートは咄嗟にハンナの肩を小突くと、彼女はいとも簡単に倒れ、しりもちをついた。
そうしてエミリから離れたのをよしとして、急いでその小さな身体を抱え上げる。
「エミリちゃん、しっかりするんだ! どうしてこんな事を……!?」
水と涙と鼻水でどろどろになった表情でぐったりとするエミリを抱きかかえながら、アルバートはハンナを睨みつける。
彼女はゆったりと上品に身を起こしながら、乱れた髪を整えて静かに言い放った。
「親ですから、当然のことでしょう」
「何を言って――」
アルバートが食って掛かろうとした時、不意にケラケラとした笑みが、部屋の中に響いた。
だから、そこまで言いかけて、思わず声のした方向を見下ろしていた。
「捕まっちゃった……じゃあ、今度はエミリが“オニ”」
エミリの表情は、変わらずぐちゃぐちゃどろどろのままだった。
しかし、些細な悪戯が見つかってしまった時のような、どこか無邪気な笑みを浮かべてそう、遊びの続きをねだっていた。




