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第14項 深淵は引き寄せる

 ファルメア王国に《虚空の魔女》が発生したのは、今からちょうどふた月ほど前のこと。

 同王国がオースロン公国への侵攻を開始してから、約4ヶ月後の事だった。


 《魔女》は圧倒的な力でもって、王都の約半分を文字通りに“消滅”させ、忽然と姿を消した。

 そんな事があったものだから、侵攻中であったファルメア正規軍もその歩みを止め、国境に近いオースロン領内に築いた前線砦を守れるだけの兵力を残して、一時後退を余儀なくされていた。

 戦争よりは、国内の大勢を整えるのが最優先である。

 流石にそれをはき違えるほど、若きファルメア新王は無能ではなかった。

 

 オースロンも大国を相手どっての前哨戦で損害は少なくなく、ファルメア軍の撤退は願ってもないことである。

 これ以上の侵攻を抑制する意味も込めて、前線砦付近で小競り合いは続いているものの決め手は投じず、事実上の停戦に近い状態であった。


 一方のファルメアにとっては出鼻をくじかれた形となり、新王の面目は丸つぶれである。

 そこで原因である《虚空の魔女》の撃滅は王の威信と国内の士気回復のためにも急務であるとされ、ファルメア国教会を通して法王庁の審問院にお鉢が回って来たのだ。

 それに対してアルバートは、自ら担当官に立候補した。


 ――《虚空の魔女》ベルナデット・オールドウィンは、アルバートの師匠だ。

 

 師の不始末は弟子が対処する。

 その心意気を依頼者であるファルメア新王にも買われ、アルバートは単独この任務につく事となった。

 そもそも、アルバート自身が事件の現場に居合わせた事もあり、《魔女》追撃の手がかりを手に入れていた。

 それもあり、アルバートの着任に意を唱える者はそういなかった。

 そして王都を出発したのが、1ヶ月前のことである。

 

 それが、押し切られるようにしてついてきたリーリアと、どうして好き好んで夜の険しい山道を全力疾走しなければならないのか。

 アルバートは、神の架したこの試練に頭を悩ませていた。


「我らの母たる主フィーネは仰りました。『争いを生まぬ最良の方法は、寛大な心を持つことである』と。衝突するからこそ、お互いを傷つけあう。寛大な心でもって相手を受け入れることこそ、真の平穏につながるのです……!」


 泥まみれで不安定なでこぼこ道を危なげなく駆け抜けながら、聖書を片手に声を張り上げるアルバート。

 聖書なんて既にまるっと暗記しているし、この暗闇の中で本の文字なんて見えていやしない。

 だけど雰囲気は大切だし、万が一にでも神のお言葉を間違えて伝えることがあってはならない。

 そう思って、教義を説く時は必ず聖書は手元に開くようにしている。


「御大層な教義はありがたいけれど――」


 アルバートの先を掛けるリーリアは、息を弾ませながらアルバート含む後方を振り返る。

 その額には、ハッキリと青筋が浮かんでいた。


「――野犬に神の教えを説いたって、仕方ないでしょう!?」


 アルバートが走る遥か後方、がさがさと背の低い草木を掻きわけながら迫る幾重もの獣の足音。

 時折あがる獰猛なうめき声と、月の灯りに照らされて光る血走って真っ赤な瞳の輝きが、今彼らがアルバート達を『生きの良い餌』としか認識していないことを物語っていた。


「人間相手はしょうがないけど、野犬くらい追っ払えないの!?」

「彼らだって、この大地に住まう命だ。命は、等しく価値がる。それに、何度も言ってるだろう? 《剣》は“実体を斬るようにできていない”んだ」

「ほんっと役に立たないんだから……っ!」


 しぶしぶと聖書を背負い袋に仕舞ったアルバートに、リーリアは喝を一発。

 結局、逃げる以外に2人にこの場を凌ぐ方法はなく、いつまで続くか分からないこのエンドレスな鬼ごっこに興じるほかなかった。


「全部、通り雨のせいよ! 獣除けの火も、晩御飯も、全部雨がダメにしたんだから!」

「天気はどうしようもないじゃないか」

「だから余計に頭にくるんじゃない!」


 今や雲ひとつなくなった星空を睨みつけながら、悪態をつくリーリア。

 その一瞬の油断が、事態を急変させた。


「――きゃっ!?」


 リーリアの身体が、不意に大きく揺らいだ。

 雨に濡れた岩肌で足を滑らせたのだ。


「リリー!」


 慌ててその身体を抱き留めるアルバート。

 しかし、全力疾走しているところで急に飛びついたものだから、その勢いで2人は雑草生い茂る山道の斜面へと転がり出てしまっていた。


「――っ!」


 咄嗟に、リーリアを胸の内にきつく抱きかかえると、そのまま身体を丸めて勢いに身を任せた。

 雨のおかげで摩擦の少ない斜面は、瞬く間に2人の姿を深い木々の底へと引きずり込んでいった。

 

 

 

 やがて、比較的平らな地面に投げ出されて、滑降の勢いはようやくやんだ。

 アルバートが身を起こして辺りを確かめようとすると、だいぶ良くなりかけていた体中の骨肉がギシギシと悲鳴をあげるのを感じていた。


「いたた……リリー、怪我はない?」

「え、ええ……なんとか」


 アルバートの胸倉にしがみ付いたままのリーリアは、いまだ興奮冷めぬ様子で息を切らせながら、彼のローブの襟元に顔をうずめていた。

 月の光が照らす彼女の身体は、パッと見たところ大きな外傷は無い。

 ひとまずはほっと胸を撫でおろし、アルバートはリーリアを起き上がらせようと肩に手を置く。


「ま、まって! せ、せっかくだから、もう少しだけこのまんまで……」

「え……いや、それは構わないけれど」


 珍しく素っ頓狂な声で、早口で懇願したリーリア。

 特に邪険にすることでもないと、アルバートは手持無沙汰に辺りを見渡した。

 随分と下って来たのだろうか、少なくとももう野犬の足音や声は聞こえない。

 諦めたのだろうか。

 だとすると有難いと願う。


「……ん?」


 不意に、その視線が深い木々間の、ある一点で止まった。

 光だ。

 真っ暗な山森の中に、煌々と輝く灯りがついていた。


「リリー、あれを見て」

「ふぇ……な、なに!?」


 声を掛けられて、リーリアは完全に虚を突かれたようにビクリと身体を揺らしてキョロキョロと辺りを見渡す。

 アルバートが指先で光の方を示すと、リーリアはようやくその存在を見つけて、遠巻きに目をこらした。


「こんなところで灯り……誰かが野営しているのかしら?」

「分からない。けれど、もしそうだとしたらありがたい」


 アルバートは改めて自分達の身体を見渡す。

 突然の雨はもとより斜面を身一つで下って来たせいで、ローブはもちろん服もみんなぐちゃぐちゃだ。

 秋の夜で身体も冷え切っているし、火にあたらせて貰えれば、これほど嬉しいことはない。


「リリー、立てるかい?」

「え、ええ。ちょっと待っ――痛っ!」


 立ち上がろうとして、リーリアは不意にその場にうずくまった。

 アルバートが慌てて寄ると、彼女の右の足首がぷっくりと赤く腫れているのが目に付いた。


「これはひどい……なおさら、休める場所へ行って手当てしないと」


 そう言って、アルバートは何のためらいもなくリーリアに背を向けてしゃがみ込んだ。


「泥まみれで乗り心地は悪いけど、我慢して貰えるかな」

「え、ええ……他に方法も無いし、その……仕方ないわね。うん」


 リーリアは口を尖らせながらしどろもどろとした口調で答えると、右足を庇うようにしながらおずおずとアルバートの背に身を預ける。

 アルバートは彼女の身体を造作もなく背負って立ち上がると、そのまま光を目指して深い闇の中へと足を踏み入れて行った。

 

 

 

 少し歩くと、光の正体はすぐに見つかった。

 同時に、それを見たアルバートは開いた口が塞がらない様子で、光の正体を“見上げて”いた。


「どういうことだ……これ」


 眼前に、大きな洋館が佇んでいた。

 大きいと言っても、王都の貴族の屋敷なんかに比べれば小さいもの。

 それでも、こんな山奥の、こんな道もないようにある建物としてはあまりに大きく、あまりに不釣り合いな立派な佇まいの館だった。

 いくつかの窓から、暖かい炎の揺らめきが目に入る。

 目にした灯りの正体は、間違いなくこの館なのだろう。

 

 あまりに異質な光景に、流石のアルバートもその足がすくんだ。

 呆然として、行くにも引くにもできず、門の前で高い屋根を見つめるだけ。

 そんな時、背中のリーリアが小さく身震いをした。

 身体を冷やしたのだろうか、アルバートは慌てて肩口から彼女の様子を伺った。


「ご、ごめんリリー。流石に動揺してしまって……寒いだろう? 何はともあれ、中に入れて貰おう」


 心を決めて、玄関扉についた獅子型のノッカーに手を掛けるアルバート。

 だが、それを制するかのようにリーリアがアルバートの首に回した腕に、ぐっと力を込めた。

 その細く冷たい腕は、絶えず小刻みに震えていた。


「アル……気を付けて」

「……どうしたんだ。リリー?」


 その並々ならぬ様子に、アルバートは問い返しながらも彼女がこれから発するであろう言葉を察していた。

 ノッカーに伸びかけた手が、そっと腰の《剣》の柄に触れる。


「この屋敷、《魔女》の気配を感じるわ――それも、ものすごく強烈に」


 アルバートの耳元で囁くように、リーリアの瞳と唇は、《魔女》へのシンパシーで確かに震えていた。

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